第3章1

 足元の妙な柔らかさで綾は我に帰った。いつの間にか綾の首には大きな焔水晶のネックレスが掛けられている。焔水晶は燃えるような紅の光を強く発していた。

 地面は草むら、頭上には生い茂る木々。遠くでは獣のものらしき咆哮。振り返っても、前後左右は深い森だ。さっきまで居たはずのイベント会場はいずこにもなく、自分はただ一人で深い森の中にいる。足元には竹籠が落ちていた。採取したものらしきハーブが入っている。

 ありえないことだった。

 しばらくの間、綾は呆然と立ち尽くしていた。

 夢か。しかしあまりに実在感がある。深い森の匂いが鼻腔を刺激し、腕をつねれば確かに痛い。

 ともかくこれが悠理の仕業であることは間違いない。やられてしまったのだ。

 頭上には大きな青い星が輝いている。ティターニアは、見えないもうひとつの月、朔月テイアにあるという。そこでは青い地球が夜空に浮かんでいるそうだ。

 朔月テイアを綾は訪問してみるべきという言葉を、悠理は現実のものとしたのだった。信じようと信じまいと、目の前にそれはある。

 新たな現実を受け入れるしかないと綾が覚悟を決め始めた頃、焔水晶のネックレスは輝きを失って静かな常態に戻った。

 ゲームで語られた世界、朔月テイアのティターニアにいる。信じられないできごとだが、悠理だったらありえるという妙な確信があった。

「悠理――!」

 叫びは森に吸い込まれていく。

 しばらくして、期待とは異なる応えがあった。金属の触れ合う耳障りな音、大勢の歩く気配、月明かりに煌く甲冑。木々の間を縫って、殺気立った男共が近づいてくる。

 綾は包囲されていた。懸命に設定を思い出す。彼らの甲冑に印されているのは三つ目の蛇。無抵抗の村を虐殺した事件で知られる連合国ジャガン州鎮軍『ジャガン』だ。友好的な関係は結べそうもない。

 綾は試しにもう一度腕をつねってみた。やはり痛かった。ここで傷つけられたら、冗談ではすみそうにない。

 血走った目の男たちが包囲を狭めてくる。あまりに現実離れしていて冷静になってしまった綾は、自分一人に大げさなことだと笑いかけた。余裕たっぷりで自分を観察してみる。黒いロングワンピースにストッキング、フリルのついた白いエプロン、頭にもフリルのついたカチューシャ。この世界でこの格好は、ティターニアで妖精王に仕える奉仕の巫女、即ち月の巫女ルナルメイデンであることを意味する。

 ジャガン鎮軍は、月の巫女ルナルメイデンの残党狩りで綾を包囲したのだ。この大人数はそれほどまでに月の巫女ルナルメイデンの実戦部隊である巫女騎士メイデンナイトを恐れている証だ。彼らは全力でかかってくるだろう。

 ゲームにかけては圧倒的に強い綾も、当然ながら実戦経験などあろうはずもない。

 包囲の男たちは金属製の鎧で身を固め、大型のハンマーを主武装として、ライフル銃も担いでいる重武装だ。密集隊形で迫ってくる彼らをすり抜けて逃げることなどまず不可能。

 指揮官らしき男が一歩前に出た。降伏勧告なら受けるしかないと覚悟した綾に、

「てめえら、分かってるだろうが自分の首が惜しかったら絶対に油断するな! 月の巫女ルナルメイデンを見たら、許しません、逃がしません、生かしません。対月の巫女ルナルメイデン三原則を斉唱!」

 男たちが一斉に、

「許しません! 逃がしません! 生かしません!」

 綾は武器を探したが、持っているのはハーブの入っている籠だけ。悠理の馬鹿馬鹿馬鹿! 男たちがハンマーを振り上げる。

〈止まれ!〉

 言霊をぶつけると二、三人は止まった。しかし大型ハンマーを装備した兵士たちは、怒号を上げつつ四方から迫りくる。

〈止まれ 止まれ!〉

 しかし、あまりに数が多すぎる。

 そのとき矢のように鋭い気配が頭上を走り抜けた。

 叩きつけるような爆音がそれに続く。空気の波が衝撃となって綾を打つ。

 男たちが汚い呪詛の言葉を叫んだ。重い球のようなものが降ってきたのを綾は慌てて籠で払いのける。それは球ではなく、兵士の首だった。

「うひゃあ!」

 怒号が渦巻く中、綾も思わず叫んでしまう。

 兵士たちは、綾ではなく別の誰かを囲んでいた。

 綾とよく似た服装に腰までの赤髪、細めの足を包む紅のストッキング。目は夜闇の中でも爛々と翠色に光り、狼のように荒々しく口を開けて息をしている。右耳には焔水晶のピアスが紅の光に輝く。

 綾は既視感に襲われた。翠色の瞳を輝かせ、赤い髪の美しき少女。綾が描いてきた少女の姿そのものだった。

 その少女は身の丈に倍する大鎌を構え、返り血を浴びた顔は残酷なまでに美しい微笑を浮かべている。彼女は明らかにこの凄惨な戦いを楽しんでいた。

「ジャガン鎮軍はこの程度ですか! わたしを遊ばせてはくれませんか!」

 少女の大鎌がうなり、男の首がまたひとつ飛んだ。続けて大鎌を振り回し、男たちは腰から両断された。大鎌はやすやすと金属製の甲冑を切り裂いている。

 兵士たちがライフル銃を構え、少女を狙った。

「危ない!」

 綾が叫ぶ。しかし銃は発射され、数発の弾が少女に命中した。当たった箇所の布に赤い光のラインが走る。球は運動エネルギーを失い、布を貫通することなく弾かれて落ちた。光のラインは複雑な文様を描いてから消える。

「銃弾がこの服に無効であることは百も承知でしょうに。――気休めにもほどがあります」

 少女の大鎌が銃ごと兵士たちを切り裂いた。血が吹き出る。

 綾が立っているのは凄惨な殺戮の現場であるはずなのに、少女の戦いぶりがあまりに滑らかで美しいために、むごたらしさは感じられない。少女の長い赤髪が翼のように広がり舞うたび、犠牲者がまた倒れていく。

「撤退だ!」

 ジャガン鎮軍の指揮官が怒鳴る。

 また頭上を気配が貫いた。

 今度は二つの轟音が森の上を駆け抜ける。月に双剣を持ったシルエットが浮かび上がった。

 飛び降りてきたシルエットの主たちは、その勢いで指揮官を頭上から四つに分断、そのまま両手の剣をコマのようになって振り回す。

 回転が終わったとき、もう立っている兵士はいなかった。わずか数分で、残虐をもって知られるジャガン鎮軍の一隊は全滅していた。

 残るは、血まみれの大鎌を持つ少女と、それにかしずく二人の双剣使い。そして、立ち尽くす綾。周りにはあちこち死体が転がっている。

 血まみれ少女が、にっこりと笑った。いや、その唇だけは笑っているものの、目は怒っている。彼女は唇についた血をピンク色の舌でなめてから、綾をにらみつけて、

「どこまで足手まといになれば気がすむのです、お姉様」

 綾は左右を見回した。どうも自分に向かって言ったようだ。

「お・ね・え・さ・ま! とぼけないでください! マビノギオンも使えないくせに、一人でお屋敷を出るなんて自殺行為だとどれほど申し上げましたか! ハーブ集めに命をかけてなんとしますか!」

 二人の双剣使い少女が、左右反転コピーしたかのような動きで、猫のごとく滑らかに綾の側へと擦り寄ってきた。二人とも同じ顔で同じ服、血まみれ少女よりも背は頭ひとつ小さい。まだ十三、四歳といったところか。頭に付けているフリルの帽子は、まるで猫の耳みたいな形をしている。

 二人は綾の耳に唇を寄せて、左右から

「ここはミナカに謝ったほうがよろしくてよ、アヤ」

 ステレオで聞かされた綾は、ちょっと目まいがしてしまう。

 ミナカと呼ばれた少女が大鎌をぶんと振り下ろした。鎌から血の滴が飛び、勢い余った刃は大木を軽く断ち切る。

 綾は『ペイガン・ゴッド』の設定を思い出した。

 ティターニアの実戦部隊、巫女騎士メイデンナイトは四つの組に分かれる。もっとも突撃に長けているのは紅蓮組で、兇刃のミナカと呼ばれる歴代最年少の突撃隊長を擁していた。ミナカの逆鱗に触れて、その大鎌の洗礼を受けなかった者はいない。その鎌さばきもそうだが、なによりも一度怒れば容赦しない性格で味方にまで恐れられているのがミナカだった。

 となれば、双剣使いの少女たちはミナカに付き従う双子の巫女騎士メイデンナイト、双剣のツキミ・ホシミであろう。

「さ、頭をお下げになって」

 左右から少女たちに絡みつかれ、背中を押されて綾は頭を下げた。

「え、えっと、とにかくごめんなさい! 助けてくれてありがとう!」

 それを聞いたミナカの両目から大粒の涙があふれた。大鎌を片手に持ったまま、綾に飛びついてくる。刃が綾のすぐ側を過ぎた。

「うわ! 危ない!」

「本当に、本当に心配したんです! お姉様も失うんじゃないかって!」

 少女は胸の中で泣きじゃくっている。先ほどの狂戦士ぶりなどまるで感じさせず、もはや華奢な女の子にしか見えない。

 前からはミナカ、左右からはツキミとホシミに抱きつかれて、なんだか家族の暖かく仲むつまじい光景みたいではある。死体が転がる夜の森で、周りの子たちが白刃を煌かせていることを除けばだが。

 お姉様と呼ばれて、そう言われてみればアヤというキャラもいたことを思い出す。設定資料を読んでいたときに、自分と同じ名前のキャラがいると知って笑ったものだった。自分はどうやら、その立場らしい。

 この世界に入り込んで、初めて会ったばかりの子だというのに、この子の温もりをずっと前から知っているような気がする。綾はミナカの背中を優しくなでた。

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