猫の手も借りたい奴ら

 野良猫というのも楽ではない。


 飼い猫のように毎日決まった食事にありつけるわけでもないし、暖かな屋内で眠ることも叶わない。死に物狂いで一日一日を生きて、明日の朝日を拝めるかもわからないいまま、床につく。


「あ、こら待てクソ猫!」


 こちとら生きるために必死なのだ。

 せっかく仕入れた野菜なのにだとか、よりにもよって高価な魚を持っていきやがってだとか、人間の都合なぞ俺の知るところではない。


「魚屋んとこの。また『ブチ』かい?」

「そうだよ。あんな真ん丸なナリしてすばしっこいたらねえぜ」


 俺が獲物を咥えて去った後、尻尾の方から人間たちの声が聞こえてくる。俺がブチ模様のどら猫だから、この商店街のやつらは俺を『ブチ』と呼ぶ。この商店街を根城とする俺は、すっかり有名猫となってしまったようだ。


 俺は一目散に路地へと身を隠し、獲物にありつく。

 この商店街は、とてもいい。狭い路地は多く逃げ道には困らないし、高齢化だかなにか知らんがとにかく老人が多く、獲物を奪い取るのが容易い。


「魚屋さん。どうしたのぎゃあぎゃあと」


 俺がここに居着いた理由は、もうひとつある。

 もうひとつの理由の存在を察知した俺は、ぴくんと耳を立て、静かに路地から顔だけを出した。


「ああお嬢ちゃん、今日もありがとね。そうなんだよ、また悪猫がうちの魚を持っていっちまってよ」

「あはは。猫一匹も捕まえられないなんて、魚屋さん歳じゃない?」

「言うねえ嬢ちゃん」


 先ほど獲物を奪った魚屋の爺さんと談笑する少女を、俺はじいっと見つめる。目を細めて笑っている年端もいかぬ少女の横顔から、俺は目を逸らすことができずにいた。


 白髪か禿しかしないこの商店街に似つかわぬ、血統書付きの雌猫が如き細やかな髪。路地のアスファルトようにひび割れた肌をした老人しかいないここではひどく目立つ、脂ののった艶やかな頬。


 彼女の若々しく瑞々しいその姿は、このくたびれた商店街の衰退っぷりを浮き彫りにしているかのように見えた。


「今日もおつかいか?」

「うん。弟たちが腹空かせて待ってるからね。まったく、猫の手も借りたいくらいよ」

「ははは、やめとけ嬢ちゃん。あいつらの手は、汚ねえ盗人の手よ」


 曰く、母を早くに亡くしたというその少女は、兄妹たちのためにあくせくと毎日を過ごしているらしい。曰く、色々とサービスしてくれるこの商店街を贔屓にしているらしい。


 そんな彼女を、俺はこうして毎日路地から見つめている。


 そうなったきっかけは、なんてことはない。

 他のどら猫との縄張り争いに負け、餓死寸前になりながらこの商店街に流れ着いた時、俺は彼女と出会った。


『ほんとは私たちが食べさせるはずだったんだけどね。私たちは今食べなくても死にはしないけど、君は今にも死にそうだから』


 虚ろな目で月を仰ぎ見ながら辞世の句でも考えるかと思っていたが、商店街に来ていた彼女はそっと魚を俺の前に置いていった。俺はそれを喰らい、なんとか生きながらえることができた。


 それからというもの、俺は毎日こうして彼女を見つめる日々を送っている。


 人間なんて心底どうでもいいが、彼女は別だ。

 俺の命を救ってくれた彼女に、俺は一矢報いたい。

 『猫の手でも借りたい』と口癖のように言う彼女へ、俺の薄汚れた手でよければいくらでも差し出してやりたい。



「毎度あり、いつもありがとうね」


 そう思いながらも、何もできない日々が続いた。

 相変わらず俺は商店街から食い物を掻っ攫い、彼女は忙しなく買い物をする――そんな日々が。


「長ネギ、サービスしといたから」

「ありがとうお婆ちゃん。あはは、手提げに入りきらないや」

「ははっ、落とすんじゃないよ」

「今日は色々とサービスしてもらったから荷物が重くって。もう、ほんと猫の手でも借りたいや」


 そう言って笑う彼女の横顔を、俺はただただ見つめていた。

 路地の前を通り過ぎる彼女の横顔を眺め、通り過ぎた彼女の後姿を凝視する。やがてその姿は、小さい豆粒ようになって見えなくなった。


 今日も何もできなかったと、踵を返そうとしたその時。

 ふと、視界の隅に何かがちらついた。いつものように路地からひょっこりと顔を出してみると、先ほど彼女が歩いていた道に何かが転がっている。


 恐らく、野菜か何かだ。

 その身は細長く、白い胴体の先に緑の葉のようなものがついている。先ほど彼女が八百屋で貰っていた、『長ネギ』とやらだと思う。


 彼女が落としていったのだ。

 俺はそう確信し、商店街の連中に姿を曝け出すことも厭わず、路地を飛び出した。


『もう、ほんと猫の手でも借りたいや』


 今が、その時ではないのか。

 彼女のために何かができる、その機会ではないのか。


 俺はその長ネギとやらに飛びつき、咥える。

 だがそれは俺の身の丈ほどあって、上手く咥えて運ぶことができない。諦めてしまおうかとも思ったが、身を奮い立たせた。


 地面に引きずりながらも、俺は必死に前足を突き出していく。力を込めた歯が長ネギを穿ち、苦い汁が俺の口内を汚す。思わず吐き出してしまいそうになったが、必死にそれを飲み込んで、俺はただひたすらに走り続けた。


 顎が痛む。俺は歯を食いしばる。

 口内を苦渋が満たす。俺はそれを飲み込む。


 そうしているうちに、彼女の後姿は米粒大から豆粒大へ、豆粒大から――


「あら?」


 実寸大へと変わっていった。


「その長ネギ……」


 満身創痍で彼女の足元へと辿り着く。

 水面のように静かなその声を聞いた瞬間、俺は長ネギを離し、バタリと倒れ込んだ。


 口元から落ちた長ネギは、すっかりとボロボロとなってしまっている。歯を食いしばる度に、その身が崩れ俺の喉を通っていってしまったようだ。


 こんな崩れたネギでも、彼女は喜んでくれるだろうか。

 道端に落としてきてしまったネギを運んだ俺を、褒めてくれるだろうか。

 猫の手も借りたい彼女を、俺の手は満足させることができたのだろうか。



「あなたにあげたのに。わざわざ持ってきてくれたのね」



 俺の頭と意識は朦朧として、彼女の言葉をいまいち聞き取ることができない。


 そこで俺は、はてと思う。

 確かに身の丈ほどの野菜を咥えて走ったせいでくたびれはしたが、頭がぼやけるほどの重労働だったろうかと。


「嬢ちゃん、そっちにブチがいったろ」

「うん。なんかネギを咥えてきたわ」

「なんだって」

「どういう風の吹き回しかね」


 俺の頭上から、幾つもの声が聞こえてくる。

 そのどれにも聞き覚えがある――商店街の老人どもだ。


 だがその声も、どこか遠い。

 視界ははっきりとせず、耳は遠く、頭はぼんやりと靄がかかったように思える。



「猫には毒だっつうネギを食わせて弱らせる作戦、失敗かの」

「こいつは警戒心が強くて、人様から施しを受けようとせんからの。落としたネギを食ってもらう手筈だったんだが」

「嬢ちゃんにはどこか気を許してるフシがあったから、いけると思ったんだがねえ」

「でもなんだか弱ってるようにも見えるよ」



 老人たちの声は、もう聞こえない。



「ちょっと。作戦が成功だろうが失敗だろうが、報酬はちゃんと貰うからね。『猫の手も借りたい』ってお爺ちゃんたちは言うけど、それは私だって同じなんだから」



 いつもの口癖を言う彼女の声だけは、よく聞こえてきた。

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