第三話 弟

 一体どういう風の吹き回しかと、尋ねる雰囲気になれないまま、彼はあるぼろ家まで来た。恐らくここが彼の家なのだろう。

「戻ったよ、海女うなめ。」

 扉を開けると、中は薄暗かった。戸締まりをしているからだ。中は綺麗で、生活感がなくなっていた。

「お帰りなさい、あなた。」

「○×!」

 形容しがたい人の声がして、ぎょっとして目をこらす。海女うなめと呼ばれた女―――否、少女の腕に、何か白い布が蠢いていた。世にも珍しい白い猫か犬かを抱いているのかと思ったが、その割には足や顔がない。もぞもぞ布が動いているのに、何か興味をそそられて、私は身を乗り出して手を伸ばした。

「あなた、その子が昨日話していた子?」

「ああ、そうだよ。―――さあ、挨拶をしておやり。」

 漱雪しょうせつは私を降ろし、その布の塊を受け取らせた。少女は私の腕に、近くで見ると巨大な布を抱かせ、布を取り払って中身を見せた。

「よろしくね、今日から貴方の弟よ。ひこばえと呼んであげてね。」

「ひこばえ。」

 私はそのような名前を初めて知った。イスラエルではありふれた名前なのかすら分からなかった。私はずっとエジプトにいたし、客は皆、名前では無く、『旦那様』『お兄様』『父上』『ご主人様』と呼ぶことを望んでいたから、エジプト人の名前についても明るくない。

「………。」

「………。」

 ひこばえと名付けられたという赤ん坊は、私の弟が殺された時と同じくらいか、それより少し育って見えた。太っている訳でも無いのにふくふくと頬が丸く、全体的に柔らかい。髪は清潔でこそないが、不潔でもなく、ふわふわしている。

 私が神殿で見ていた、産まれたばかりの赤子や、死んだ赤子とは全く違う。この子はいた。

「お兄ちゃん、貴方の名前は?」

「………?」

「そう、貴方の名前よ、。」

 『お兄ちゃん』が私の事だと気づき、赤子の頭を取り落としそうになった。

「え、ぼく? ぼくは…。ええと、皆は鉤鼻かぎばなと呼んでいます。ユダヤ人だから。」

「まあ、そんな名前、いやだわ。ご両親はなんと名付けてくれたの?」

「ええと…。ええと、…なんだったかな。」

 必死に頭を動かしたが、思い出せない。普段から人の名前なんて気にする生活ではなかったからだ。私が困っていると、漱雪しょうせつが助け船を出した。

「この子さえ良ければ、僕達でつけてあげよう。この子はひこばえを護る戦士として、僕達が育てるのだから。」

「せんし!?」

 何処を如何すれば、男娼の子供を戦士に宛がうなどという馬鹿げた発想が出来るのか。私は自分をじっと見つめるひこばえを放り投げて、指を突きつけて問い詰めたい衝動に駆られたが、少女は手を叩いて喜んで言った。

「まあ、それはいいわ。私はもう子供を産むつもりは無かったから、一度名付けがしたいと思っていたの。何が良いかしら、何が良いかしら。」

 楽しそうに空中に文字を書く視線を見つめながら、漱雪しょうせつは何か言いたそうにしていた。私は何を言いたいのかなんとなく分かったが、それはこの夫婦の問題なので黙っていた。

「決めたわ、瞻仰せんぎょうと呼ぶことにしましょう。殿、信心深い、神を賛美することを日常とする子なのでしょう?」

 三日月の様に微笑むその瞳に、侮蔑の眼差しは無かった。きっと彼女にとって、エジプトにある神殿もイスラエルにある神殿も、大差ない事なのだし、そこには心の聖なる者が住まうと信じているのだろう。私はなんと言って良いか分からなかったので、漱雪しょうせつを見上げた。ところが、彼が何か言う前に、腕の中のひこばえが蠢いた。

「きゃっきゃっ。」

ひこばえも賛成みたいね。よろしくね、瞻仰せんぎょうお兄ちゃん。」

「この子をよく護ってもらいたい。君なら出来ると思って、今日、迎えに行ったんだ。」

「………、はい。お父さん、お母さん。」

 お願いします、と、私は頭を下げた。よく分からないが、食べていけるのなら、生きていけるのなら問題はない。格闘技も剣も、棒すら禄に使えないし、生活の知恵は穴にしかなかったが、私はとにかく、新しい環境に置かれたのだから、そこで生きる事しか考えなかった。

 ………。………、ん?

「わああ! 漏らした! この子漏らした!」

「あらあら、さっきおむつを替えたばかりなのに…。お兄ちゃん、ちょっと…、あ、そうね、お兄ちゃんなんだから、おむつを替える事くらい出来なきゃね、いらっしゃい、教えてあげるから。」

 ………生きねばなるまい。

 私は上着を敷いただけの床に寝かされ、自分で排泄の処理も出来ない小さな生き物を護る為にここに呼ばれたのだ。これくらい大きくなった赤子が排泄するのを、私は初めて見た。ひこばえの湿った下半身が、私と同じような形をしていることがとても不思議だった。割礼の傷まで同じだ。ただ、この子の場合は、私のような使い方をしていないと言う意味では、まだ無垢と言え―――。

 ぴゅっ。

「うわっち!」

「あらあら、大丈夫? おむつを替えると、よくなるのよ。男の子だと、それが顔にかかるくらい勢いがあるの。」

「大丈夫か? 瞻仰せんぎょう。」

 …子供も大人も赤ん坊も、シモの機能は一緒なんだな、と、しみじみ思った。

こんなに可愛らしい、小さな生き物も、自分と同じように排泄する。否、自分よりも無節操に排泄すると言う意味では、自分よりも不潔と言えるだろうか。だってこの子は、大便の後に尻を拭くことは勿論、小便をした後に振る事も出来ないのだ。そうとも、その意味では、私はこの生き物よりもずっと清潔だし、自立していて、自分の足の土埃を落として、いくらでも清潔な床で眠ることが出来る。この生き物は、こんな獣にも劣るような行為をして、何の屈辱も感じない。私の弟がこれくらいだったとき、既に人の言葉を話していたような気がするのだが、この子はまだ発音がちゃんと出来ていなくて、聞き取れない。そんな生き物と私と、どちらがより、かと言えば、私の方がよっぽどのだ。

 そんな、普通の家庭を持っている子供なら考えもしないような事を考えて、少しホッとしていた。この家には、綺麗なものだけじゃなく、ちゃんと汚いものもあるのだ、と。

 私は新たな家族と共に、エジプトを発った。目指すは北、祖国イスラエルである。


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