カルナバル 日下部・椿

 死ぬやつは大概、馬鹿だ。それも殺されるなんて大間抜けだ。

 それが日下部仁の持論である。

 間抜けのためにどうして自分が動かないといけないんだ。

 それも世間は夏。

 うなる暑さに心も体も辟易する。

 

 栗色の髪の毛を切り上げ、すっきりとした顔立ちの日下部は一応成人男性のマナーでスーツ姿だ。その見た目だけいえばどこかのお役所仕事をしている官僚にも見えるエリートの風貌のなかに不貞腐れた子どもがそのまま大人になったような反抗的な男らしさが滲み出ている。

 その横に学生服の椿十九が並ぶ。椿は典型的な日本人らしいのっぺりとしたこれといって特徴のない顔立ちだ。けれど墨をたらしたような黒髪は艶があり、顔そのものも整っている。いかんせん顔色がひどく悪いという点をのぞけばよい男だ。

 問題は、今着ている以外の服はないのかと聞けば、ないと答える。世間やその他常識に疎いという点だ。

 そもそも、椿は山奥に引きこもっているはずなのに、どうして出てきたのかには理由がある。

「【完璧な移動】が死んだと報告だが、俺がどうしてわざわざ出ないといけないんだ」

「あれが腐ってもマスタークラスだからだ。僕だっていやだ。けどファートゥムが出てきた」

「あいつな」

 FHのすべてを牛耳る存在――セントラルドグマ。その意向を伝えるメッセンジャーである神出鬼没のファートゥム。

 あいつなら、山奥にいる椿をこの街まで一瞬にして移動もさせられるだろう。

 海外を主な活動の拠点としている【完璧な移動】こと、ジャック・エースが死亡した報告がはいった。しかも日本で。

 彼が担っている任務を現在FHは把握していない。

 つまりはFH以外の仕事だ。

 しかし、それでストレンジャー、UGNが動いた。二つの組織に放った耳――スパイが運んできた情報によればジャックは正体不明のオーヴァードを十二名運び、彼らは日本支部長の霧谷雄吾の暗殺を目論んでいる。

 勝手に死んでしまっては問い詰めることもなにもできない。

 FHに属していても小遣い稼ぎで個人仕事を請け負うことは珍しくないが、この状況を現在UGN、ストレンジャーはFHのテロ行為の一つとして受けている。

 生憎だが、FHもそこまで馬鹿ではない。

 日下部はしかるべき犯人を見つけ出して殺すこと。そしてそれをUGNに差し出すこと。

 でなければ対立した双方の組織の殺し合いが勃発してしまう。それだけは避けなくはいけない。

 コードウェル曰く、今はそのタイミングではない、とのことだ。

 だったらお前がしろと文句を言いたいが、問答無用で仕事を押し付けられた。ちくしょう。

「ファートゥムの情報では、この街のどこぞに隠れてるのか」

「らしいな」

「また石ころを見つけろというような仕事だ」

「けれどするしかない。命令だからな」

 聞き分けの良い椿を意外そうに日下部は見ると、汗を流しながらため息をついている。

 誰よりも能力をうまく操れるというのに、肉体の病弱さゆえ――オーヴァードになっても生また時から持っている肉体の弱さをカバーは出来ない。ウィルスがするのはただの底上げだ。

 椿は生まれたときからオーヴァードで、さらには溢れんばかりの才能はあるが、そのせいで肉体が弱体化してしまった。

 なにかが秀でればそのぶんだけどこかで帳尻合わせがさせられるが、椿の場合はあまりにも奪われ過ぎたと日下部は常日頃思う。

「おい、ふらついてるぞ」

「暑い」

「そりゃ、そんな服きてたらな」

 基本的に山のなかに引きこもっている椿は世間や常識にはかなり疎いうえ体力もあまりない。一度だけ任務で高校にはいったことがあるが、それも半年も経たずに辞めている。

 きっと彼が持っている服はこれしかない――世間で通じる服はこれしかないのだ。

このチャンスに何か別の服を買い与えてやるべきかと日下部は真剣に考えていると

「敵だ。日下部」

 椿が告げる。

 今までうるさかった蝉の声が静まる。

 日下部はゆっくりと視線を向けた。

 街のなか、陽炎をたてるアスファルトに立つ一人の人物。どうして、誰もそれに注目しないのかと不思議になるくらい――顔には黒いガスマスク、猫背を白衣に覆われた、手には猫のぬいぐるみを持っている人物。

 しゅーしゅー、しゅぅ。――呼吸の音。

 じりじりと太陽の日差しが不愉快に肌を刺す。

 ガスマスクがおもむろに手をあげた。

 ぬいぐるみを引きちぎる。なかから灰色の煙が出てきた。通行人たちはそれによってようやく何かを察知し、悲鳴をあげたが、そのときにはなにもかも手遅れだった。

 煙は空気よりも重く、ガスマスクの足元へと落ちてじわり、じわりと広がっていく。そして、ひとり、またひとりと人々が倒れていく。


「催涙ガスみたいなもんか、ありゃ」

「わからない。ただ危険だ。日下部」

 日下部は舌打ちして椿を両腕のなかに抱えると高く飛ぶ。

 近くにあったビルの壁に足を、勢いよく蹴って上を目指す。いくら超人のオーヴァードいえども普通ならばできないような芸当も鍛錬を積んで鍛えているおかげでたやすくこなすことができる日下部は屋上に移動して、椿を抱いたまま視線を落とした。

 スクランブル交差点は今や倒れた人の山となっている。

 死屍累々。

「やりやがったなあいつ」

「ああ」

 一般人に出来るだけ知られないというオーヴァードの常識を敵は捨てている。FHもその点においては寛容なほうだが、ここまであからさまなことはしない。

「頭の螺子が一本、二本、緩んでるんじゃねーか、ありゃ」

「知らん。ただほっておいても面倒だ。あれを見つけてワーディングを張ったが、どこまで効果あるか」

「情報を聞き出すの大変そうだな」

 そもそも会話が成立するのか怪しいが――見ていると、そのガスマスクは倒れた人間たちの体をひきずり、千切りはじめた。

 ぶち、肉の千切れる音。

 ぼき、骨の砕ける音。

 怪訝な顔で日下部は見つめる。

 ガスマスクはいくつもの死体を繋ぎ合わせて、それを完成させる。いくつもの手、いくつもの足、いくつもの顔を持つ――バケモノ。


 うあああああああああああああああおおおおおおおおおおおおおははははははははは


「……バケモノだな」

「美意識の欠片もないな」

 二人揃って吐き捨てる。

 バケモノは確実に日下部たちに視線を向けている。――どの目で見ているかは不明だが、顔らしきもの――無数の人の顔が見ている。

「奴さん、ありゃ、ソラリスか?」

「モルフェウス、ソラリス、ブラム・ストーカーあたりだろう」

 鋭い洞察力の椿が断言する。

「モルフェウスの力で分解とつなぎ合わせと操作を、先ほどのガスなどの物質はソラリスで作ったがモルフェウスの力を使用してしか使えていない。死体を操るそのものはソラリスやモルフェイスでは出来ないが、血を活動のエネルギーとしていれば納得がいく」

 淡々と相手の能力を分析している。たった一つ、二つの技を見せてそれだけわかれば十分だ。

「たいしたことはない敵だ。血というものでソラリスの化学物質を作るが、モルフェウスの力なくてしは発動できない」

「お前、怖いな」

「なにがだ?」

 きょとんとした顔で椿が問いかけてくるのに日下部は顔をしかめた。

「いや、手の内がすぐにばれるってこえーなーって」

 椿家は代々、オーヴァードとして覚醒する運命にある。本来、レネゲイドウィルスの覚醒は血などで受け継がれることのないが、ある契約によって椿の一族に列を連なる者は常にオーヴァードとなる運命にある。

 椿の一族はオーヴァードを研究し、子にその学びを残している。一族はみなレネゲイドウィルスに精通し、さらには生まれ持ってレネゲイドウィルスに愛され、普通ではできないレベルでレネゲイドウィルスを操作すら可能としている。

 だから日下部は肉体のメンテナンスを椿と出会ったときから――覚醒して日下部がオーヴァードとなったとき、彼は幼い子供だったが、ずっと任せている。それからの付き合いだ。腐れ縁であり、離れがたい、どうしようもない存在だ。

「相手を分析するのは普通だろう」

「いやいや、普通そういう分析できねーっての」

「そういうものか」

「そういうもんだよ」

 煙草を取り出して火をつける日下部は笑う。

 納得できない顔の椿は首を軽く傾げたあと

「まぁいい、倒すぞ」

「わかった」

 幸い敵は自分たちに向かってきているのだ。


「マスターレイス、日下部仁、参るっ!」

「同じくマスターレイス、椿十九、おして参る」

 ほぼ同時

 声をあげて宙へと舞う。


 FHにおいてのマスターレイスとは世界を変えるための新しい力であり、存在。

 それは都築京香が見出した世界を変える人物に与えた称号。

 都築京香がUGNに敗れ、FHから姿を消し、ゼノスという新しい組織を立ち上げたあと、コードウェルが己の子に与えるものとしてマスターレイスの意味を変革させてしまった。

 それでも古きマスターレイスはその誇りと存在定義をなくしたわけではない。


 炎を全身に纏いながら日下部はそのバケモノ目掛けて落下する。胸に抱く椿が両腕を首にまわして、つよくしがみつく。

 それにこたえるように強く抱いてやりながら――怪物の頭部に蹴りを放つ。紅の足先が触れた瞬間に、じゅっと沸騰する音、溶けていく。柔らかな人の皮膚。

 貫くようにバケモノの血肉を弾き飛ばして地面に直地する。

 口にある煙草を強く噛む。

 空気が揺らめく。

 日下部を中心にして実態のない炎が円のように広がり、周囲にあるものを舐る。

 バケモノの皮膚が一瞬にして水膨れとなって、弾けた。

 無理もない、周囲の温度を一気に沸騰させたのだ。普通の人間なら呼吸すら出来ないほどの灼熱地獄。

 日下部は能力の発生源だが、自分の力を制御する気は一切ない。本来ならは自分もその熱のダメージを受けてもおかしくはないが、それを腕のなかにいる椿が領域を支配して調節している。

 日下部は細やかな演算などは苦手だ。だからいつも大多数を吹き飛ばす、薙ぎ払うといった攻撃をしてしまう。それが出来るのが彼の才能であり、強さのゆえなのだが、自分自身も傷を追うデメリットがある。

 が

 攻撃にすべてを集中する日下部にたいして椿が負荷演算と自分たちの周辺の領域に因子をふりまき、調整を行う役をこなしている。

 だからこそ、コンビを組まされたのだ。

「~~お前、いつもながらむちゃくちゃをするな」

「そうか?」

 涼しげな顔で日下部は言い返す。

「僕がどれだけ大変かわかっているのか? お前、下手したら三回は死んでるぞ」

「はは、自分で自分の炎にまかれて死ぬのはちょっと楽しそうだな。まぁみろ、椿、あのバケモノも限界みたいだ」

 繰り返し水膨れを――簡単なことだ。あまりの熱に血が沸騰し、皮膚を破いて流しては再生能力で取り繕うバケモノはそれだけでまともに動くこともできない。それをガスマスクはじっと見つめている。微動だにしないのは熱によって死んだのか、それとも何かを考えているのか。

 おもむろにガスマスクの手に注射針が現れる。そして躊躇もせずに自分の首筋を突いた。

「いやー、死んデしまうトコロだった! おそろし、おそろイ、マスターレイス!」

 ハスキーを通り越して、しゃがれたその声は実に嬉しそうだ。

「こんな力があるなんて、はあ、はぁあああああ、すばらしいネ! ネッ!」

 両手を広げて、天に喜びを歌う敵は今まさに讃美歌を口にしそうな勢いだ。

 日下部は顔をしかめた。

 こいつは、あれだ。馬鹿だ。大馬鹿者のクズだ。

「おい、こいつ、さっさと燃やしちまうか」

「……日下部」

 椿が静かに声をかけてくるのに視線を向けて、日下部は、はっとした。

 椿の口から血が溢れている。静かに零れ落ちる紅の血を見て日下部は自分がしてやられたのだと理解した。

「相手の毒をすべて中和した。お前は平気だな?」

「こいつ……っ!」

 目の前で椿を攻撃された、まぬけな自分に苛立ちを覚えた日下部は奥歯を噛む。

「二重毒とは恐れいったよ。ガスマスク」

 椿は淡々と言い返す。

「空気中の毒を熱することで、さらなる濃厚な毒を作り出す……安心しろ、少し、毒が濃くて負荷が思ったよりも強かっただけだ」

 椿が口から流れる血を腕の裾で乱暴に拭いながら日下部の胸をぽんぽんと叩く。

 領域形成、それにおける空気中の毒の察知、分解と負荷を自分へと集中させた――現在、椿は自分のみの領域と日下部の領域を分けて、日下部の熱した大気によってダメージがないように調節を行っている――移動する日下部の胸のなかで動かなかったとはいえそれだけを瞬時の判断で演算処理をこなして対応したのだから恐れ入る。

 椿は戦えない。

 これだけの処理を一手に引き受けているのだ。今の椿に立つ、歩く、しゃべる、それだけの行為も脳への負担になる。

「お前は動くな。俺が一気にキメてやるから」

 日下部が自分の肉体に纏う炎の出力のリミッターを外す。

 通常の人間が耐えられる熱とはどれくらいだろうか。考えたこともない。ただ熱く、燃える、すべてを塵に変えてしまう。怒りや憎悪、理不尽さすらねじ伏せるものが欲しいと望んで

 その瞬間、上から何かが落ちてきた

 日下部はとっさに後ろに避けたが、その腕から椿が奪われる。

「椿!」

 長い紐――コードだ。それがガスマスクの背中から無数に伸びている。まるでミミズのようにうねる触手が椿の腕を乱暴にとらえてアスファルトに転がす。

 やられた!

 と、日下部は再び頭上から手を伸ばしてきたバケモノを一瞥して舌打ちする。

「うるせぇ、三下!」

 睨んだ刹那、熱された炎が包み込む。

 溶ける腕も切らず、バケモノの腕が日下部を捕らえようとする。いくつもの人間の部品で出来たそれは巨大だというのに恐ろしく緻密な動きをする。

「……くそがぁ!」

 日下部は吼えて左拳に力をこめ、バケモノに叩き込んだ。どろりと溶けた、それのなかから細い糸が伸びてきた。

「!」

 首を絞めつける透明な、粘りのある糸――エグザイル!

「っ、なかに、いやがったな!」

 首を絞めつける糸を掴んで溶かす。その隙をついてバケモノの拳が頭上から叩き込められる。逃げようとしたとき、足を掴むのは死んだ人間たちのパーツだ。

 ようやくわかった。

 あのガスマスクともう一匹――肉体を自在に変化させられるエグザイル能力者が隠れていたのだ。

 それはガスマスクが作ったバケモノのなかに入りこみ、さらに自分の肉体の一部を埋め込んで操っていたのだ。

「くそっ」

 強烈な一撃が全身を襲う。



 地面に転がされた椿は小さく咳き込んだが、それ以上肉体はぴくりとも動かない。

 したたか全身を打ち、痛みが走るが椿は現在、日下部の領域、自分の領域、毒の処理と脳の処理に容量がとられているため脳が反応出来ていないのだ。

 基本的に日下部と一緒にいるのはこうして彼が無茶をしたときの対応を一手に引き受けるからだ。

 おかげさまで椿は無防備になるが、それを日下部はいつもカバーし続けてきた。

「あははは、処理で脳みそいっぱいなんだよねぇ、そりゃそうだよねぇ」

 ガスマスクは嬉しそうに笑ってちょこちょことペンギンが歩くようにゆっくりと、歩みを進め、地面に転がる椿の前に来ると、こつんとつま先で蹴った。その程度のことでも対応できずに転がるしかない椿はただ息をするだけの人形と同じだ。

「さすがー、脳への負担おっきいよねぇ。だって温度によって毒が変わってるんだもん。この罠を考えて作るの苦労したんだよぉ~

 ここに来る前からずっと薬を作りづつけてきてね、君たちのために十パターンも考えて作ったんだからぁ~」

「……たかだか十か」

 返答がきたことにガスマスクは驚いた。

 空気中の水分量と熱量によって変化していく毒は実質常に変化しているもの。

 あの日下部という男はサラマンダーシンドロームの持ち主だ。彼が能力を奮うたびに空気中の毒は変化している。それの対応はいくら化学物質を瞬時に作ることのできるソラリスシンドロームでも理解・分解・解毒・無効化の四つの段階を得なくてはいけない。それをすぐさまに広範囲で処理するのは本来不可能なはずだ。

「たいしたことないな」

 しかし、椿は平然としゃべって起き上がっている。

「まったく、あの力馬鹿め。おかげで痛い」

「ど、どうして、どうして、毒は」

「全部無効化した」

 椿は立ち上がると服の埃を払った。

「たかだか十個か。どういう形式のものかわかったから、百ほど対応の解毒を作成、噴出しておくのに時間がかかったが、あんまり手が込んでないんだな」

「はぁ!」

 ガスマスクは叫んだ。

「百個! そん、そんな、そんなの、あの時間だけで作れるはずないっ、そんなの無理だ」

「どうして無理なんだ」

「だ、だって、だって、だって……そんなの」

「お前はマスターレイスがどういうものか聞いていないのか。僕たちと戦うことを想定していたようだが本当か? 勉強不足だな」

 淡々と椿は言い返す。

 ガスマスクは後ろにさがりながら、マスターレイスの二つ名を口にする。

「狂乱の蟲使いと神に届く炎使い」

 蟲を使用し、多くを殺していったマスターレイスの椿十九。

 自分の炎を使い、神すら殺すと言い切るマスターレイスの日下部仁。

「なんだ二つ名だけか」

 白けた顔をする椿にガスマスクががたがたと小刻みに体を揺らした。

「……どういう意味だい?」

「いや、たいしたことないんだなと思っただけだ。では反撃させていただこうか、クソ野郎」

 ひっかかるものの言い方にガスマスクは大きく震えあがった。

 ああ、また自分を見下してくる。見下してくるやつばかりだ。激しい怒りに似たものがガスマスクを襲う。その目、その言い方。

 怒りは判断を鈍らせ、行動させる。

 しかし、それは今、目の前にいる椿の無防備さから勝てるという判断もある。

 間違っていない。

 この判断、計算は、だって相手は

 伸びたコードが椿に届く前に止まった。

「どうして、どうして、どうして、僕の一部なのにぃ、どうして、とまって、あ、あれ、あれ、ああああああああ、なんだなんだ、うるさい、うるさ、うるさい」

 ざわざわと脳のなかに何かの音がする。

 脳みそ

 血肉のなかを

 歩いて、うごめくそれは

「僕の蟲だ」

 ガスマスクは血と涙、吐瀉物を吐き出しながら地面に転がり発狂する。音が、音が、音が、うるさい、うるさい!

「目に見えないほどの小さな蟲は人の肉体に入り、人の体を好き勝手にいじることができる。お前の内臓の動きを停止させ、脳をいじって、そして心臓の動きをはやめ、喉を焼き切る……はやめておこう。しゃべれなくなると困るからな」

 ああ、なんてやつ――もう見えなくなった目でガスマスクはマスターレイスを見る。

 精神がおかしくなってしまいそうだ。こんなうるさい中では心が壊れてしまう。ああ、もういいや元から壊れているのだし。元から壊されているのだし。

「……元から壊れている? どういう意味だ」

「う、あ、ああああ、読むな読むな、読むなあ、ぼくのこころをよむなぁ~~!」

 こいつは敵だ。恐ろしい敵だ。体内にいる蟲を通して自分の思考をトレースしている。すべて読まれてしまう。

「……そうか、お前たち旧時代のごみか」

「あわあああああああああああああああああああああああああ!」

 悲鳴ともつかない声が溢れて、そこから血が出た。ガスマスクを引きはがす――口、眼窩をえぐって出てきたのは蟲だった。ムカデにも似たそれはガスマスクの血肉を食べつくして成長した血まみれとなってかさかさと歩いて椿の元へと戻っていく。

 その蟲は敵を食べつくすことという任務と五感共有していた蟲は、ちゃんと彼の懐のなかに収まった。

「旧時代、オーヴァードが初めて生まれたとき、発狂する者が多かった」

 正確にはオーヴァードになるというのはただいなる精神、肉体的ショックによる覚醒が必要になる。

 死なずに戻ってきてしまったものは覚醒しても精神が耐え切れず発狂する。

「発狂して死ねれば、それでよいが、たまたま生き残るやつもいた。ジャームではなく、まともなオーヴァードでもない。

 古い時代、オーヴァードが大量に現れ、それを研究した科学者たちの残したできそこないたち」

 できそこない――覚醒と同時に衝動にのまれた彼らはジャームのように常に衝動に傾き続けるうえ、人格崩壊を起こしているため人間社会での生活は極めて不可能に近いが能力は爆発的に伸びている。

 ジャームに近いゆえに本来のオーヴァードが持つリミッターともいえる倫理や理性がほぼ擦り切れてしまっている、できそこない。

「よくまぁこんな遺産並みのものがまだ生き残っていたものだ」

「あ、ぁあああああああ、ああああああ、ああああああああ」

 ただ声をあげるだけの物体となったそれを椿は見つめる。再生能力で肉体はほぼ戻りつつあるが、精神ショックから衝動に飲まれている敵は赤ん坊のように泣き続ける。

「あああああああああああああああああああああああ、ああああああああああああああああああ、ああああああああああああああああああ」

 思考すら放棄したそれは声をあげる。

「ほしい情報は手にはいった……いいぞ、食らいつくせ」

 椿が手を伸ばし、囁くと敵の肉体が指先から黒く――減っていく。小さな蟲が肉片を、血をすべて残らず食べていく。再生する速度よりもはやく、痛みはじわじわと擦り切れた脳に氷が解けるようにゆっくりと流れ込んでくる。

 激痛

「ああああああああああああああああああ」

 耐えられない

「ああああああああああああああああ」

 存在が

「ああああああああああああああああああ」

 なにもかも

「あ、あはははははははははははははははははははははははは」

 だったらもう、笑うしかないじゃないか。


「あははははははははははははははははははははははははははははははははは」

 蟲に食われながらそれは両腕を――もう肘しかなくなってしまったが高くあげ、祈るように叫ぶ。

 それに応えて、彼の肉体が赤い血で覆われ始める。

 蟲たちを払い除け、血の鎧を纏った二足歩行のバケモノ。むき出しの血肉、唯一ある口からよだれをたらした発狂状態のそれは目の前のものを殺したいという切実なる祈りによってなった姿だった。

 それはまっすぐに椿に向かう。

 伸ばして手は祈りに届くように

「止まれ」

 動かない。どうして、どうして。

「お前の脳に僕の蟲がはいっただろう」

 ああ、そうだっけ?

「卵を産んで、お前の脳を餌として成長したはずだ」

 ああ、だから


 ぐるんと世界がまわる。ああ、なんてきもちいいんだろう?

 きもちい、かさかさかと、きもちいい、ぶんぶんぶん、きもち、ぶんぶんぶん、ぶんぶんぶん、ぶんぶんぶん、ぶんぶんぶん――ぶん。


 ぐちゃりと頭が裂ける。

 真っ赤な血色の脳から飛び出した蟲――美しい羽を持ったミツバチだ。

 蟲のなかには他の蟲のなかに寄生し、そしてさなぎとなり、内側から破って成虫となることがあるのがミツバチの特徴だ。

 ぶんぶんと羽音をさせた大きなミツバチが肩にとまるのに椿は視線を向けた。

「あの馬鹿はもう終わったのか」



 バケモノはそれを叩き潰したと思っていた。確かな手ごたえから一回は確実に死んだはずだ。アスファルトにひびがはいり、へこんでいるし、血は流れている。死んでくれたらいいのに。それは思考することがほぼできない、だからガスマスクと一緒にいたのだ。あれの命令はこれを殺すこと。攻撃することを本能として行うそれはそれだけは出来る。

 力任せに潰せばいいのだ。

 しかし

 巨大な拳を日下部は両腕で防ぎきり、弾いて体を起こす。

「っ~、邪魔だぁ」

 力任せな一撃のせいで内臓と骨を折られた痛みが走るが、無視できる範囲だ。勝手に体は治っていく。それよりも口にくわえていた煙草がなくなってしまった。あーあ、ついてない。まだ吸えたっていうのに。

 そうだ。

 はじめから躊躇っている必要はなかった

「おい、バケモノ。俺に二つ名じゃなく、コードネームを名乗らせたこと、誇っていいぞ」

 それは動きを止める。


 マスターレイス。

 あなたたちにコードネームをあげましょう

 私自らがあなたたちに見合う、魂に決められた名です。それを名乗ったとき、あなたたちは必ずやその通りになるでしょう。


 都築京香の冷静な脳内に蘇る。

 なにもかもわかっているといいたげなその雰囲気は日下部の苦手とする女。

 あの女の与えたコードネームを名乗ることになるとは


 魂に刻まれた、すべての能力を出し切るためのリミッターの解除。


「【神すら塵芥と化す最強の劫火】!」


 力がほしいと願った日下部の魂に刻まれた願い。

 誰にも負けず、誰にも媚び諂うことなく、ただ最強となること、神のように振舞うこと。

 欲望に名をつけ、力の根源とする。

 炎は紅蓮、赤、焔、そして劫火となって敵を包み込む。

 光となったそれが爆発し、なにもかも飲み込んだ。


 やりすぎた。

 日下部が地面に転がって思ったのはそれだ。ついうっかりコードネームを名乗って全力を出したせいで――人間の武器でいえば核一つぶんに想定できる爆発であたり一帯塵に変えてひどく疲れたし腹が減った。脳は焼き切れていないがひどく鈍い。

「この馬鹿め、やりすぎた!」

 声が聞こえてきたのに目だけ動かして見れば唖然とした顔の椿が駆け寄ってきた。

「お、椿、悪い」

「日下部、お前っ」

「おー、悪い悪い。俺自身の防衛演算が緩いのを助けてるのお前だろう? ほんと、頭いいな」

 自分が出来ないところをすべて椿に丸投げしている日下部は言い返す。

「あと俺の力の加減もお前つけたな? 領域の力で」

「しかし、半径五キロはお前のせいで塵になった。今蟲たちにある程度のフォローはさせているが……僕はしばらく使えないからな」

 ふらりと倒れる椿を億劫げに起き上がった日下部は腕の中に抱えて肩を竦めた。

 全部吹っ飛ばそうとしたのに、それをある程度の範囲にとどめ、被害を出さない、そのうえ自分の肉体やらその他のダメージがいかないように領域と分解やらと忙しく脳を働かせすぎてとうとう容量オーバーしたようだ。

 眠るように黙ってしまった椿の髪の毛を撫でて日下部は懐から新しい煙草を出して口にくわえる。

「さてと、このあとどーするかなぁ。拷問しようにも全部塵にしちまったしな」

 面倒事ばかりだ。この世界は

 それでも腕のなかにいる椿と見上げた空は嫌いじゃない。

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