おかえり/さよなら/我が愛しの

 ずるっと音をたてて引きずる狼は何か唸っているようだが、蠅の羽音に人がいちいち気を遣ったりしないようにユキサキは無視を決め込んだ。本当はこの狼を放置してもよかったが、ここまで必死に噛みついてくる理由は明白だった。この先に彼女がいるのだ。自分のところで足止めを頼まれたのか、それとも――きっと後者だ。なぁ、イクソス。お前はそんな甘い考えのやつじゃないだろう。心のなかで問い返す。

 へし折っておいた腕をひきずられるのはさぞや激痛が走るだろうが、このあとの絶望に比べたらきっと安いはずだ。

 悪戯心。

 見せてやりたい、希望が打ち砕かれる瞬間を。そのとき本当の獣となって襲い掛かってくるだろう。それは少しばかりそそる。


 そうしてたどり着いた最地下の入り口の前に彼女が一人で立っていた。

 会いたかった、会いたくなった。どちらも自分の気持ちだ。


「私の大切な狼を離しなさい、いたずら坊や(ベベ)」

 甘ったるい声にユキサキは目を細める。

 待っていてくれたのか、とため息のように言葉を吐き出す。彼女は黒いワンピースタイプのドレスを身に着けて立っていた。

 静寂。沈黙のなかで言葉を交わす。

 違う、イクソス。たとえ亡霊でも構わない。追いかけてここまできた。追いついてきた死者の甘い囁きは高ぶった肉体に蜜のようにしみこむ。

「いやだといったらどうする?」

「そのときは私がこの場で死ぬわよ」

 イクソスは何のためらいもなく自分の首筋にナイフを押し当てる。たかだかナイフ。それ程度でオーヴァードは死なない。が

「自殺をするということがなんなのかわかるでしょ」

 もう生き返らない、ということだ。

 オーヴァードにとって生き返ることはまだこの世にある未練、望み、切実さ、すべて。

 オーヴァードにとっての最大の禁じ手は自らの意思による自殺。そうすることで自分自身の生に決着をつける。

 オーヴァードであることに絶望した者たちが何人この手法で死んだか。

「私の大切な狼を殺したら私も死ぬ。どうする?」

「……やれやれ、こんな脅しにのると思ってるのか」

「思うわよ」

 断言。迷いのない瞳。

「お前は私との遊びに飢えている。だって退屈だったでしょ? ほら、ゲームよ、最後にラスボスがいるんだ。楽しいだろう? 最高だろう? なぁ、ユキサキ」

 悪食の微笑みで

「俺を殺せる最大のチャンス、お前が自分から捨てるとは思わないね!」

 楽しくて、楽しくて仕方がないといいたげに笑いながらイクソスが声をあげる。空気を震わせ、肌を通して、心を揺さぶる。

「ああ、ああ……まったく! あんたには勝てないなぁ」

 頭を抱えてユキサキは無邪気に笑う。

 衝動が刺激されたのがわかった。目の前にいるイクソスのあからさまな誘いは罠だ――だからなんだというのだろう。退屈だ、退屈だ、たまらなく退屈だ。

 自分の手にある狼の死体を放り投げてユキサキは前に進み出る。まるで貴婦人をダンスに誘うようにとびっきりの品よく、礼儀正しく。

「さぁ、遊ぼう、イクソス」

「ユキサキ、お前のせいでみんな人殺しだ」

 あのときの、あのセリフをここで口にするのはずるい。高ぶりが抑えられなくなる。

 殺してやる、イクソス。


 前に進み出たのに片手を振う。それをイクソスの手が弾いた。手に持つ赤い銃剣。扱いが難しいのにそれを自分の肉体の一部のように操る。刃で弾き、さらに向かってくる一撃をぎりぎりのところで避けて前に躍り出る。

「はぁ!」

 切迫の声。叩くように差し出す手に持つ刃が届く。イクソスの赤い剣がユキサキの腕を貫く。ああ、生きている。痛みよりもずっと確かな熱を覚える。アドレナリンが走る。

 今はもう目の前の相手しか見えない。


 白/ブランカ/命/色


 斬る/刺す/逃る/啜る/血/吠る/叫ぶ/振動する/応じる/同調/蹴る/砕ける/殴る/弾け/滴る血/血/血/命/再生/追いつかない/斬る/刺す/噛みつく/啜る/貪る/狼め/――/笑う/笑う/笑う、


 どこまでも/

 ああ/

 ああ/


 これをまっていた!


「イクソス!」

 もう一度叫ぶ。まだ、まだ終わらせない。このゲームを。まだ。もっともっとだ。衝動のままに。

 互いの血で染まった紅色の舞台で、血肉だって捨てて、骨も砕けて。黒は白に染まって。それでも踊ることをやめない。やめてたまるか。こんな楽しいゲームだ。そうだろう、イクソス、あのときああしたように。


 向き合う/銃口/火花/イクソスの下腹部/命中/

 向き合う/銃口/紅の弾丸/ユキサキの横を掠れた/はずれ


「へたくそ」

 高揚

「楽しいねぇ、イクソス」

 冷静

「お前の趣味に合わせる気はないんでね」

 誘惑

「そういうな」

 拒絶

「お前を殺す」

 再びの誘惑

「そういうなよ、僕がみんな殺したんだから」

 拒絶

「だからだよ」

 微笑

「だからだ、ユキサキ。おいでお前を殺してやる」

 人殺しには不似合いな笑みで誘惑される。ああ、堕ちる。そんなものはイクソスじゃない。


 ユキサキは足を止め、再び身を低くする。踏み込むそれに彼女は動じなかった。まっすぐに刺さる。刃を彼女は受け止める。


「殺しちゃったよ、君のことを、もうちょっと遊べると、」

 にぃと彼女は笑う。

 その瞬間に理解した。胸を貫く痛み――赤い、血の弾丸が自分を撃ち殺している。

 どこから? そう思ったが、ああと血を流しながら理解する。はじめから壁に自分の血の弾丸を仕込んで、こうしてがらあきになった隙をついて打ち込むと決めていたのか。これじゃあまるで

「あのときと同じじゃないか、イクソス」

「……そうね。あのとき、あなたがイクソスを裏切ってみんな殺して、イクソスがあなたを殺したときと同じ」

 互いに血を溢れさせ、見つめあう。あのときのイクソスが歪んで消えて――彼女になる。

 燃えるような赤髪にカルタゴの空の瞳を持つ女性に。

「あらかさまに罠なのにあなたは飛び込んできた。だって、あのときと同じだから、私がこんなあらさまなことしないと思ったでしょう? あなたのそういうところ、変わらないわね」

「ずるいなぁ」

「女はね、騙すものなの」

 ふふっと彼女は笑って腹を貫く刃を抜き取る。それにユキサキは両膝をついた。ああ、血が失われていく。命が消えていこうとしている。もう再生もできない。

 まだ熱い鼓動を、肉体を、横にされて、されるがままになる。彼女は自分のことを膝の上に抱える。

「嘘もつくし、裏切るのよ」

「……イクソス」

「私はヴラスターリよ」

 優しく訂正される。

「そろそろネタバレをしましょうか。あなたについて」

「……どんなことを?」

「あなたはオーヴァードとしてのシンドロームを一切使用しないのは、しないんじゃない。できないのよ」

「……」

 じっと聞き入る。

「再生以外の力をあなたは使用できない。半端なオーヴァード……バケモノなのにそのバケモノですらない。ただあなたには才能があった人を殺す才能が、生まれ持っての瞬間記憶能力。敵の能力を使うそのタイミングを見切って攻撃していたのね。まぁ、それでも並みいるオーヴァード相手によくやりあったわよ」

「死んでも生き返れるからねぇ」

 笑う。

「ばれちゃったかー」

「そりゃあ、あんな隠し玉を使えばね。あなたがイクソスのとき裏切りものだったのも、国の実験による出来損ないのオーヴァードだったからね」

「そ。僕、国の作った出来損ないなわけ。精神崩壊してないけど、能力がねー。けど生き返る能力はあるから君たちの部隊に叩き込まれたわけ。あーやっぱり、ヨルムンガンドを使ったせいか」

「あなたがそれをぎりぎりまで使わなかったのは面白いゲームが出来なくなるのもそうだけど、使うことでのデメリットが大きかったから……殺されかけて、二十四時間後にウィルスの活動を確認されたって聞いたとき、思いついたのよ。

 あのヨルムンガンドは、レネゲイドウィルスを無効化するけど、それは使用者の能力を一時的に奪うものだってね」

 満足する回答を得たようにユキサキは声を出して笑った。血を吹き出して、咳き込んでも笑うことをやめない。

「あはは、けど、あれは使用者の能力の一つだけを使用不能とするものだ。使用不能とする能力が大きければ大きいだけその効果も期待できるってわけさ。いくつもの能力を使用する者が使ってもちょっとしたワーディングみたいな効果しない」

「再生以外の能力のないあなただからこそあれだけの効果がある」

「同時に、一番の切り札を奪われちゃうんだけどねぇ。そっか。あの狼がしつこく攻撃してきたのはこのためか」

「正解」

 二人で満足する回答を出し合い、笑い合う。戯れの言葉がいくつも重なり合う。

「このまま死ぬのか、あっけないなぁ」

「あれだけ大暴れして何言ってるの」

「ジャームをばら撒いて、日本が崩壊するのちょっと見たくないかい?」

「私は私の日常を愛してる」

 そっけない言葉だ。戦場も、痛みも、血も、あんなに楽しかったのに未練など一つもないという。

 ああ、愛していたコバルトブルー。あの戦場で見た命を刈り取ってもかわらない白と空の青。

「よく見ると、君はいい女だなぁ」

「今更ね」

「なぁキスしてくれないのかい? 僕の血をすすって、自分のものしたいって衝動はないのかい?」

「生憎、私は一途なの」

「ほんと、つれないなぁ。ああ、しゃべりすぎる男は嫌いかな……気が向いたら、胸ポケットのあれ、見てよ」

「……」

「ヴラスターリ」

「なに」

「君はイクソスじゃないな。彼はあんなまんまな再現しない」

「そうね」

「僕は骨に帰る。命を砕いて、すりつぶした、色だ。ブランカ。途方もない白の砂に帰る。なにもない。生み出しもしない。なあ、ブランカ」

 腕を伸ばして、彼女の髪の毛を引っ張る。痛みに彼女が悲鳴をあげるのを無視して口づけを交わす。命をすすれ、何も残さない。骨は砕け砂になる。どこまでも白。命の終わりの色。自分たちが生きてきた戦地の色。

 血の味のキスは冷たい。

「おやすみ、ヴラスターリ、さようならだ」

 停止。

 失う/熱。

 停止。

 喪う/音。

 停止。

 失う/生。

 停止。

 死。


 胸ポケットのそれを引きずり出す。

 古い手紙


 君の瞳はカルタゴの空


 繰り返し、繰り返し、書いた文字。教えた思い出は――それは彼のものだ。そっと戻す。

 もっと早く渡せばよかったのに。


 ヴラスターリは黙ってユキサキの唇に血にそまった唇を押し当てる。命の味がいる。すべてを失った味だ。啜って飲み込む。ああ、おいしい。

 とてもとてもおいしい。喪失の味がたまらなく心を侵して染み込んでゆく。自分を白く染めていくのがわかる。

 命の色。骨の砕け、なにもかもが帰る色。天国なんてない、地獄もない。ただ骨に帰り、砂になり、大地を染める白になる。

 いつか自分も。いいや、いずれは自分も。オリジナルも、クローンも、人間も、オーヴァードも関係などない。命があるものは等しく帰るのだ。

 そこへと。


「ヴラスターリっ!」

 沈んだ思考を引き戻すヴァシリオスの声にヴラスターリはどきりとした。

 顔をあげるとヴァシリオスが厳しい顔をしている。遺産の所有者であるユキサキがいなくなって再生能力が復活したらしいが、怒っているようだ。どうして、と声をあげようとした瞬間、両腕をとってひきずりあげられた。切り傷が痛む。

「い、いたた、ヴァシリオス、ちょ、ん」

 乱暴な口づけにヴラスターリは目を見開いた。まさか、こんなところでこんな情熱的で強引なキスをされるとは思わなかった。

 キスが終わり、見つめあうとすぐに猫の子のように懐にしまわれてしまう。

「え、えっと」

 続いて唇をぬぐわれたのに混乱する。

「もしかして怒ってる?」

「わかっているなら反省しろっ!」

 本気で怒っているヴァシリオスの言葉にヴラスターリは素直に反省した。撫でるように頭に触れられる。

「ヴァシリオス」

「ん?」

「ただいま。ちゃんと生きてるよ」

「……おかえり」

 ここは地獄でも、天国でもない、自分の生きる場所だ。


 ただいま、おかえり。愛しい私の日常。ちゃんとあなたを取り戻した。

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