哀愁の夕暮れと約束の丘

ラク

哀愁の夕暮れと約束の丘

『ほら、頑張って!あと少しだよ!』


 白いワンピースに麦わら帽子をかぶった少女がこちらに手を振って大きな声で呼んでいる。いつも夢に見るこの情景は何だろうか。夕日のオレンジ色が山々の山頂を照らし、空と山の境目が分からなくなるくらいのオレンジ色一面に包まれながら、どこか小高い丘の頂上を目指して歩いている夢をよく見る。

 息を切らしながら上り、頂上に着くと、大きな木の下に立っている少女がきまってこの言葉を叫ぶ。


『ゲーンナ!』


 大きな声で丘の頂上から叫ぶ少女。ゲンナとはどういう意味なのだろう。僕はずっとこの言葉の意味が分からずにいた。その後、夢の中の幼い僕は膝に手をついて、息を切らしていた。そんな僕に優しく少女は手を差し伸べる。息を整え、僕が少女の手を取ると、真っ暗になってしまい夢はいつもそこで終わってしまう。


 「良一りょういち!早く起きなさい!もういつもの起きる時間よ!」


 一階から、母さんの声が聞こえる。何やらドタバタと忙しそうに動き回っている音が聞こえる。今日は、毎年恒例のお盆帰省の日だ。僕は大学三年生になった今でも、この恒例行事は欠かさなかった。

 毎年八月のお盆期間は、祖父母の家で過ごすことになっている。いつからこのお盆帰省が通例となったのかは覚えていない。少なくとも、僕が覚えている時から行なわれていたので、たぶん僕が生まれた時からそうなんだろう。

 毎年の事なので、すっかり準備は出来ている。あとは洗面台に行って、身なりを整えるだけだ。そう思いながら下へ降りていくと、相変わらず母さんはまだ仕事の準備が出来ていないのか、バタバタしている。


「ごめんね。毎年毎年。私の仕事は夏が繁忙期だから、なにかと家に帰れる時間が取れなくて」


 慌てながらも平謝りしてくる母さん。母さんの仕事は、貿易関係の仕事らしく、夏場が毎年大忙しになるそうで、毎年祖父母の家から帰ると、死んだようにぐったりしている。そして秋ごろに次第に回復していくといういつもの流れ。


「大丈夫だよ。毎年の事だからもう慣れたし」


 友人たちと遊びに行ったり、夏だ!みたいなイベントを謳歌したいという気持ちはあるものの、出来ないことはできないから仕方ないと諦めるしかなかった。別に祖父母の家が嫌とかそういうわけではない。


「ほんとありがとうね」


 改めて母からお礼を言われると、なんだか全身がむずがゆくなる。別にお礼を言われることはしていないから、余計に違和感があった。

 そうこうしているうちに、母が仕事に出かけた。毎年祖父母の家には電車で向かうため、机の上には電車賃といくらかのお金が置いてあった。祖父母の家は、かなり自然がのどかな場所にあり、お店も少し離れた場所にポツポツとあるくらいなので、そんなにお金をもらっても使える場所が無い。だからおのずと毎年必ず余ってくる。そのため、母には過去に、そんなにいらない、と告げたことがあったのだが、母曰く、せめてもの罪滅ぼし、だそうな。そんなに気負うことはないのに。

 荷物を確認し、僕も駅に向かった。外は夏特有の、ジリジリとした暑さとセミの声が聞こえた。僕はいつもこの駅に向かうまでの道のりが好きだった。学校や普段の日常から離れた場所に向かうような、そんな気になれるからだ。この“始まりの香り”を堪能しながら、駅につくと、駅は早朝にもかかわらず、仕事へ向かう大人が何人かいた。

 僕は不慣れな手つきで、改札を通り、ホームで電車を待っていた。退屈だなと電車を待っていると、ふと隣に若い女の子が立っているのが見えた。十五、六歳くらいだろうか。どこか懐かしい雰囲気を感じる…。横目でちらちら見ていると不意に声をかけられた。


「ずいぶんと荷物を持ってるけど、どこか旅行へ行くの?」


 バッとこちらに体を向け、僕の荷物をまじまじと見ながら言った。ずいぶん馴れ馴れしく話すものだから、僕の後ろに人がいて、その人に話しかけているのではないかと思い、念のため後ろを確認する。


「君に言ってるんだぞ~」


 目の前の女の子は人差し指で僕の肩をチョンとつついた。いきなり触られたもんだから慌てて前を向きなおす。改めて見ると、スラっとしたきれいな髪の女の子だった。絶対僕よりも若いはずなのに、ずいぶんと馴れ馴れしい。僕は見知らぬ人の為、一応敬語を使う。


「すいません。急に馴れ馴れしく話しかけられたので、別の人に話しているのかと思いまして…」


 何か気に障ったのか、どこか不満そうな表情をして、むすっとしている。よく知らない人にこんなにルーズに接することが出来るな。


「フフフ。相変わらず面白いね。まぁいっか。それでどこに行くの?」


 右手で口元を覆いながら笑っていた。相変わらずという言い方が妙に気になったが、ひとまず無視して行き先をこたえた。


「毎年行っている祖父母の家に行きます」


 一応知らない人なので、警戒しながら、簡潔に答える。見た目は華奢な女の子だが、どんな人か分からない以上、地名をこたえるのは控えた。


「ふ~ん。そっか。私はね、十五年ぶりに、安郷あんきょうまで行くんだ」


 体を真正面に向きなおし、少し上を見上げて嬉しそうに言った。驚いたことに、この女の子の行き先と僕の行き先が同じだった。僕の祖父母も安郷に住んでいる。それにしても十五年ぶりとはどういった事情で行くのだろうか。目の前の女の子は、にこにこしながらただただ上を見つめていた。



 目的の電車に乗ると、なぜかその子は僕の隣に座ってきた。まるで僕の行き先が自分の行き先と同じだと知っているかのように。どことなく嬉しそうにニコニコしているので、隣に座ることに関しては特に言及しなかった。


「私ね、あの土地の香りが好きなんだ。特に夕暮れになると、夏はひぐらしの鳴き声と静かな川のせせらぎ、1日の終わりをつげるようなそよ風、本当に何もかも忘れさせてくれるような気持ちにさせてくれるあの香りが」


 どことなく僕も共感できた。祖父母の家に行くと、この年齢ながらノスタルジックな思いになり、悲しくなってくるが、不思議と悪い気はしない。そんな不思議な気持ちにさせてくれるあの土地の雰囲気が好きなのだ。


「僕がこれから向かうところも同じような雰囲気がするので、その感覚分かりますよ。小さい頃から、なぜかその感覚が好きでしたね」


 女の子ばかり話し続けて僕が聞き手に徹すると、なんとなくかわいそうになってくるので、僕も自分の意見を述べた。それを聞くと、自分の感覚に共感してもらい嬉しかったのか、笑顔がより一層強くなった。


「ほんとに!?わぁ~嬉しいな~。これを話してもみんな不思議そうな顔するからちょっぴり悲しかったけど、こうして共有できる人がいるとすごく嬉しくなるんだね」


 心の底から嬉しいと感じているのだろう。その嬉しさを表現しようと身振り手振りをつけていた。

 僕もこの感覚を共有できる人は少なかった。母に話しても、無理して祖父母の家に行っていると勘違いされたのか、なぜか毎年ごめんねと謝られてしまうし。友達に話しても、そんな田舎に行ったことが無い、と一蹴されてしまうばかりだったから、僕もちょっぴり嬉しくなる。


「もしかして、私たち同じ所へ行ったりして!」


 僕の向かう場所は、今の発言で大方ばれてしまったに違いない。大体この電車に乗っている時点で、ばれているような気もするが。


「はい。僕も同じく安郷に向かいますよ。奇遇ですね」


 もうすでにバレているだろうから、もういいやという感じで行き先を伝えた。


「知ってるよ…」


 表情は笑顔なのに、どこか悲しげにぽつりとつぶやく。しばらく僕はこの女の子が、どうしてこんなに悲しそうにつぶやくのか理解できなかった。だけど、何か引っかかっているような、そんな違和感は心の中にあった。


「じゃあさ、安郷についたら私と一緒に出掛けようよ!いろんな自然を感じてさ、いろんなことしてさ!ほら、なんだか私たち気が合いそうだし!」


 まだ名前も知らないというのに、無理難題をふっかけてきた。こんな年になってアレだけども、女の子とどこかへ出かけるなんて僕は初めての経験だから、返答に少し困った。


「お互いまだ名前も知らないのに、よくそんな提案が出来ますね」


 とりあえずお互いまず自己紹介が先だろうと思い、自分から名乗り上げて女の子の名前を教えてもらおうとした。というより、このどこかで見たことのある感じが気になっていたので、知りたいという思いが強く心の中に沸き上がってきたからだ。


「僕は、小沢良一おざわりょういちと言います。色々あって、八月のお盆期間に祖父母の家で過ごす予定です」


 僕の名前を聞いた途端、お姉さんは驚いた表情を見せ、一瞬硬直した。その後、再び笑顔になり、嬉しそうに名前を告げた。


「私は白井夏菜しらいなつな。私もこのお盆休みに安郷に滞在予定です」


 白井…夏菜…。名前を聞いてもピンとこなかった。にもかかわらず、どうしてこう、懐かしい感じがするのだろうか。


「良一君とは一週間くらい遊べるってことだね!よろしく!」


 そう言うと手を差し伸べてきて、握手を求めてきた。ちょっと待ってよ、出かけるのは今日だけの話じゃなくて、これから帰るまでずっとなの!?と心の中でつっこんだ。少し照れ臭いが握手を返す。しかし、ここで彼女の手に触れた途端、強烈な眠気が僕を襲った。


「うっ…」


 瞼が重い。目が閉じていく。意識が混濁する中、必死に白井さんが僕を呼び掛けている。ごめん、少し眠気が、と口に発したのか、心の中で言ったのか分からないが、そこで僕の意識は途絶えた。



 気が付くと、どこかの野原に寝そべっていた。隣には、いつも夢に出てくる少女も一緒に横になっている。どうやらここは夢の中のようだが、いつも見る夢とは違う夢だ。

 少女に目をやると、静かに目を閉じて自然の心地よさを堪能しているようだった。


「私ね。この香りが好きなんだ。特に夏はひぐらしの鳴き声と静かな川のせせらぎ、野原を吹き抜けるそよ風、全てが私の周りにいるようで、いい気持ちになるの」


 どこかで聞いたセリフだ。この少女もまた、自然が大好きなようだ。僕も空を見上げながら、少女に告げた。


「俺も、その感覚分かるよ。とっても落ち着く香りだよね」


 僕の意識では口は動かせなかったが、今の僕が言いたいことを言ってくれてホッとした。

 そう告げると、少女は僕の右手をぎゅっと握ってきた。包み込むようにやさしく握って、嬉しそうにしている。彼女の笑顔を見ると、なんとなく落ち着く。それになんだか、この笑顔はどこかで見たことあるような気がしていたが、どうやらそれは、さっき会ったばかりの白井さんの笑顔だった。


「良一は優しいね。私のこの感覚をみんなに言っても、みんな悲しそうな顔をするんだ。だからね、良一に共感してもらえて本当にうれしい」


 どこかさみしげな笑みになった。彼女のその表情を見た途端、僕の中で何か嫌な感情が出てきた。言葉には表せないが、なんだか胸がズキズキと痛む。


「俺が柚葉ゆずはを笑顔にしてあげる。二人でいろんな場所に行って、もっとこの香りを感じようよ!」


 そういうと、勢いよく起き上がり、僕が柚葉と呼んだ少女をグイグイと引っ張って走り出す。突然の出来事に驚いた柚葉だったが、すぐに体勢を整え、僕を追い越し、今度は僕が手を引っ張られる。


「ほら、急いで!良一!一緒に行きたい場所なんてたくさんあるんだから。モタモタしてたら時間なくなっちゃうよ!」


 元気を取り戻したのか、大きな声で僕に向かって叫ぶ柚葉。その姿を見た僕は、嬉しいながらにもどこか悲しい気持ちもあった。どうして柚葉が元気になったのに、僕は悲しいのか分からない。もしかしたら、この先、何か嫌なことが待っているかもしれないという不安なのか。

 何かは分からないが、僕は決して柚葉がどこへ行こうとも、繋いだ手だけは離さないと決意していた。


(そうか、君は柚葉という名前なんだね。)

 今までずっと夢の中で出てきていた少女の名前を知って、スッキリしたと同時にまた新たな疑問が湧き出た。

(どうして君を見るとこんなに悲しい気持ちになるんだろうか。)



 ゆっくりと目を開けると、まだ電車の中だった。電車は僕らの体を左右に揺らしながら目的地へと向かっていた。気が付くと周囲に人はほとんどおらず、車内に響くのはただただ電車の車輪の音だけだった。

 横に目をやると、白井さんが僕の方にもたれながら静かに眠っていた。スヤスヤと静かに寝息を立てているその顔は、傾いてきた太陽に照らされて、より一層綺麗に見える。

 無心になって見つめていると、白井さんの目が急に開く。


「おはよう。ずいぶん長い間眠っていたね。女の子の寝姿をそんなにまじまじと見つめて何をする気だったのかな~?」


 開いた白井さんの目と、ちょうど合ってしまい、慌ててそらす。僕の心臓の鼓動がいつもより速くなっている。どうしてこんなに昂っているのか。


「べ、別に何もしようとしてませんよ。ただ、寝てるな~って思っていただけです」


 寝起きの目をこすりながらも、顔はニヤニヤしているのが分かった。僕は、咄嗟にそらした目線の先を暮れていく日に照らされた窓の外に移した。僕の目線につられて、白井さんも窓の外に目をやると、初めて電車に乗った三歳児かのように窓に顔を近づけて、目を凝らしていた。


「わぁ~綺麗だね!やっぱり夕暮れが一番好きだな。風景一体がオレンジ色に染まって、違う世界みたい!」


 確かに僕が目を覚ました時よりも一層オレンジ色が濃くなっていた。こんなにきれいな夕日を見たのは久しぶりかもしれない。僕も窓の外を見ようと体を乗り出すが、どうしても白井さんに視線を奪われてしまう。


「もうすぐ到着だね。眠っていた時間が長くてなんだかあっという間だったな」


 電車の窓からは都会のビルはもう一軒も見えなくなっており、見えるのは田んぼや畑、山や森など多くの自然が目に入る。窓の外がこうなってくるともう少しで到着ということは、毎年行っているせいか、なんとなくわかった。


「白井さんは十五年ぶりなのにもうすぐ到着ってよく分かりますね」


 毎年行っている僕ならまだしも、十五年ぶりでそんなに感覚的に分かるのだろうか。何か目印みたいなものを覚えているのかもしれないが、自然の情景だって時間と共に変わっていく。白井さんの中にある十五年前の記憶と同じ場所はそう多くはないはずだ。


「うん。なんとなく…ね。感覚的にそう思ったんだ」


 寂しげに言う姿から、何か事情があるのだろうと悟った。それに、自分の思い出が詰まった場所ならば、覚えている部分も多いだろうし、よく考えてみれば何ら不思議なことはなかった。


「それと…、その白井さんっていうのやめてよ。夏菜って呼んでくれていいし、たぶんあなたのほうが年上だから、敬語もいらないわ」


 人間関係の距離を詰めることが苦手な僕にとって、敬語をやめ、ましてや女の子の名前で呼ぶなんてかなりハードルが高かったが、本当に嫌そうにしているので僕なりに頑張ってみよう。

 そして、分かったと言おうとした時、電車内に終点を知らせる、駅員さんの声が響いた。僕らは荷物の準備を行い、すぐに降りられるようにした。



 電車から降りると、毎年感じるあの感覚が僕を襲った。どこか懐かしくどこか哀しいこの感覚だ。夏の一日の終わりを知らせるひぐらしの鳴く声も聞こえる。僕は電車から降りた時の今までの日常から離れたんだという感覚をホームで堪能するのが毎年恒例となっていた。

 すっかり堪能することに集中していたので、夏菜の事を忘れていた。慌ててあたりを見回したが、どこにもいない。僕は急いでホームから出る。すると、駅の改札出口で一人たたずむ影があった。

 近づくと、夏菜が目を閉じて静かに耳を澄ませていた。


「綺麗だよね。ここのひぐらし。鳴き声が澄み切っててさ」


 僕と同じで夏菜もこの安郷の自然を全身で感じ、堪能していた。僕も隣に立ち、ひぐらしの声に耳を傾ける。確かに今日のひぐらしはいつもよりきれいに聞こえるような気がした。みんなで食べるご飯はおいしいという話と同じで、共有できる人がいるとこんなにも違うのだろうか。

 そして突然、夏菜がぽつりとつぶやく。


「ただいま」


 夏菜の顔を見ると笑いながら、涙を浮かべていた。十五年という歳月が、彼女にどれほどの感動を与えたのだろうか。毎年来ている僕にはわからなかったが、僕も十五年という歳月が流れた後に、ここを訪れるとこんな風に涙を流すのだろうか。


「ごめんね、行こっか」


 感動をひとしきり味わったのか、また笑顔に戻る夏菜。しかし、夏菜の頬に一筋の輝きが夕日に照らされて、目立っていた。僕に手を差し伸べる夏菜。僕は普通だったら気恥ずかしさが勝って、手は取らないだろうが、今日は違った。なぜだか分からないが、今は夏菜の手をギュッと握ってあげないといけない気がしたので、僕は彼女の手を取った。

 自分の手を取ってくれて嬉しかったのか、夏菜は僕の手を引きながら勢いよく駆け出して行った。

 こういった地域は町というべきなのか村というべきなのかいつも困っていたが、とりあえず夏菜に手を引かれながら、目的地近くの町に到着した。夏菜は握っていた手を放し、僕の祖父母の家の方向と反対の方を指した。


「私、こっちだから」


 夏菜の指したほうを見ると、かすかに人工的な電灯の光が見えた。何件か家屋があるのが見える。そういえば、夏菜も親戚の家に宿泊するのだろうか?


「夏菜もだれか親戚の家に行くの?」

「ううん。私は、あそこの旅館に宿泊するよ」


 首を横に振り、答える夏菜。こんなところに旅館なんてあっただろうか。まぁ最近は民泊や町おこしという名目で、昔の家に泊まれる制度なんかもあると聞く。そういった類のものかもしれない。

 十五年前にいたときは親戚のうちに泊まっていたのだろうか。今はその親戚はどうしているんだろうか。


「じゃあ、明日の朝、この田んぼの前で待ってるから」


 そういうとまた勢いよく駆け出して行った。僕の了承も聞かずに行ってしまうとは。もし僕が断ったとしたらどうするつもりだったのだろうか。まぁ、特にやることもないし、断るつもりは毛頭なかったが。

 走っていく夏菜の姿が見えなくなるまで見送った後、僕も祖父母の家に向かった。あたりはすでに日も沈んでおり、真っ暗な闇夜に包まれていた。街灯もほとんどないため、懐中電灯が必須であろう田舎道を電灯なしで歩いていた。スマホの懐中電灯をつければ明るくなるが、ここ周辺では明るくすると困ったことに、蛾などの虫が群がってくる。毎年来ているため、道を確認せずとも大体把握しているため、わざわざそういった招かれざる客を自分から呼ぶ必要はない。

 無事に到着すると祖父母が出迎えてくれた。最初、僕の姿を見たときはどこか驚いているようだった。暗くてよく見えなかったのか、しばらくしてから僕だと認識してくれた。


「よく来たね、長い道のりで疲れたろう。ご飯できてるよ」


 毎年恒例のセリフだ。祖父母のこういった温かい感じも僕は好きだった。

 靴を脱いで、昔の家屋の風流を感じる引き戸を閉め、靴を脱いだ。この祖父母の家屋の香りも懐かしさを際立たせる。


「道は分かったかい?暗かったろう?」


 手を洗いに行こうとしたとき、祖母から声をかけられた。道が分かるも何も、毎年来ているから分からないはずがない。まぁ暗かったから、心配をしてくれているのだろう。


「大丈夫だよ。毎年来てるんだから」


 居間にいる祖父母に向かって言いながら、洗面台へ向かった。

 手を洗いながら今日の事を振り返る。

 どこか懐かしく、放っておけない女の子の夏菜、夢の中でいつも出てくる少女の柚葉。今日はなんだかとても濃い一日だった。それにしても、僕と柚葉はどういった関係なんだろうか。なぜ幼いころの僕が、知らない少女と一緒にいるのだろう。どうして毎回夢に出てくるのだろうか。

 柚葉という少女が夢に出始めたのは今年になってからだった。毎回決まって同じシーンから始まり、同じタイミングで目覚める。ずっと僕は少女と丘の頂上を目指して走っていた。いったい何のために走っているのか。その丘はどこなのか。疑問ばかりが頭に浮かび一向に解決しなかった。ところが今日、祖父母の家に来る途中でまったく違う夢を見た。そこで、やっと少女の名前が柚葉ということが分かった。白いワンピースがそよ風にあてられ、髪をなびかせながらいつも丘の頂上で手を差し伸べてくれる少女。確証はなかったが、今年のお盆帰省は何かいつもとは違う。


(そういえば、あの夢を見る前に夏菜と握手して眠気がきたんだよな…。)



 祖父母と食卓を囲み、晩御飯を食べた。今年は、お昼ご飯も食べずにいたもんだから余計に箸が進んだ。祖母の作る料理はどれもウチの畑から取れた野菜を使っている。真心こめて作る野菜はおいしいとよく言うが、それは事実だと思う。この優しい味付けも相まって、一層野菜のうまみを感じさせる。今日僕が感じ取った自然の情景や最近の学校の出来事を話すと、嬉しそうに祖父母は僕の話を聞いてくれた。今日の祖父母は僕の話を聞くのが待ち遠しかったように、相槌も入れず、静かにうなずきながら話を聞いてくれた。夏菜のことはあえて祖父母には話さなかった。まだ詳しく夏菜の事を知らないため、話しにくかったし、女の子の話をするのがなんだか恥ずかしかったからだ。最初に夏菜に出会ったときは警戒していたものの、あの景色、香り、情景を共有した途端、すごく心の距離が縮まった気がする。



 晩御飯の後、お風呂に入り敷布団を出して、寝る準備を始めた。僕は最近の子がよくやっているゲームというものはほとんどやらない珍しい子に属していた。しかし、動画サイトで色々な動画を見たり、ネットサーフィンをしたりはよく行う。これらは、僕に知らない世界を教えてくれるので大好きだった。

 電灯のひもを引っ張り、淡いオレンジ色に変え、布団にもぐりこんだ。僕が毎年、祖父母の家で過ごす際に使わせてもらう部屋はきまっていつもこの和室だった。和室特有の香りや、雰囲気もまた僕は好きだった。

 布団にもぐるや否や、疲れていたのか強い眠気が襲ってきた。僕は明日の朝に集合する予定のあの大きな田んぼの前の道を思い出しながら、静かに目を閉じた。



 深い深い闇の中。ぽつりぽつりと声が頭に響く。


 ――どうしてそんなにここが好きなの?何もなくて退屈じゃんか――

(何もなくないだろ。何言ってんだよ僕。)

 ――良一はまだこの良さを知らないだけだよ。ほら行こう!――



 ――良一はなんでここにいるの?――

 ――親の都合で勝手にここに連れてこられるんだよ。最初は嫌だったけど、今はもう慣れたけどね――

(違う。嫌なんかじゃない。最初から僕は行くのが楽しみだった。)



 ――ほら、早く行こう!急いで!急いで!――

 ――もういいよ。昨日も行っただろ。もう行かないよ!――

(やめろ。柚葉にそんなひどいことを言うな)

 ……。

 ――な、なんで泣くんだよ。…分かったよ。あー柚葉とまたどこかへ行けるの楽しみだな!――


 ――あのね、私実は……だけ……ないんだ――

(え?なんて言ったんだ柚葉。よく聞こえなかった。)

 ――私実は……だけ……れないから、……ないんだ――

(もう一度言ってくれ。なんて言ったんだ。)

 ――私実は――――――――



 勢いよく掛布団を押しのけ飛び起きた。額には汗が流れている。はぁはぁと少し息も切れていた。


(今のはなんだったんだ。いつもなら僕や柚葉の姿が見られるのに声だけしか聞こえなかった。)


 しかも、最後の柚葉は何て言ったんだ。何度か聞いたがどうしても聞き取れなかった。それに、途中の僕のあの言葉はなんだ?まるで、僕じゃないやつが僕の声で話しているようだった。柚葉を僕が泣かせてしまったのが、僕の声で僕のカタチをした何かのせいだと思うと、すごく胸が苦しくなった。

 どうしてここまで、知らない少女に肩入れできるのか。僕と柚葉はどういう関係なのか。夢にしてはあまりにも現実的すぎて、色々な事が頭をよぎる。一度にたくさんの事を考えすぎて頭がパンクしそうになった。顔でも洗って落ち着こうと部屋の外へ出た。

 すでに朝日が昇っており、鳥の囀りや、セミの鳴き声が朝の澄んだ空気を伝ってよく聞こえてくる。今年の帰省でまさかこんなにも自分が疑問に思っていた夢について知れるなんて思いもしなかった。ひとまず落ち着いて疑問に思っている事、分からない事を整頓しようと、顔を洗いながら落ち着きを取り戻す。


「良一、朝ご飯できてるよ」


 背後から祖母の声が聞こえる。しっかり顔を拭き、冷静さを取り戻す。

 居間へ向かうと、祖父も食卓の座についていた。畑帰りなのか、タオルを額に巻いているにもかかわらず、顔の輪郭に沿って汗が流れている。


「良一、今日は川釣りでも行くか?」


 釣り道具を指さして、笑顔で語りかけてくる祖父。

 僕は、祖父との魚釣りが大好きだった。毎年、祖父母の家に行くと必ず、週四回は一緒に行くほどだった。僕の祖父、健司けんじは僕が飽きないように毎年、選りすぐりの釣りスポットを見つけておいてくれて、僕に案内してくれる。祖父が連れて行ってくれる場所は、僕の好みをはっきりとわかっているかのように、まさにドンピシャだった。いつも山奥の自然に囲まれた釣り場まで案内してくれる。

 行きたい!そう言おうとしたが、一つの約束を思い出した。


『じゃあ、明日の朝、この田んぼの前で待ってるから』


 そうだ。昨夜は夏菜と半強制的ながらも今日の朝に会う約束をしていたんだ。あまりにも夢の内容が気になりすぎてすっかり忘れていた。そういえば、朝とだけしか言われてないので何時に向かえばいいのだろうか。ひとまず、先に約束したのは夏菜だから、ここは悪いけど爺ちゃんの提案を断ろうと思った。その時だった。


「ごめんくださーい」


 誰かが訪ねてきたようだ。声は明らかに女性の声だった。しかもどこかで聞いたことのあるような声だ。


(まさかな…。)


 自分が考えていることは当たっているはずがない。しかし、声はどう聞いても夏菜の声だった。しかし、夏菜には僕の祖父母の家の場所を教えていないので、来ることは不可能だ。可能性があるならば、祖父母の知り合いということだろう。

 祖母が玄関へ向かい、引き戸を開けた。室内は静かだったので、居間まで話し声が聞こえてきた。


「あら、珍しい。ずいぶん若い子が来たね。どうしたんだい?」


 祖父母の知り合いという唯一の可能性が崩れ去った。では、僕の聞き間違えで別の人だろうか?


「小沢良一くんいますか?」


 ああ、もう間違いなく夏菜だ、あとでどうやってこの家を突き止めたのか聞かないと。そう思いながら、僕は玄関へ向かった。


「はい、ここにいますよ」

「はい、じゃないよ。もう!どれだけ待たせるのよ!」


 昨日の様子とは考えられないくらい、怒っていた。待て待て。時間も言われてないのに、どうやって君を待たせずに行くというんだ。夜明け前から、あの場所で僕が待っていないといけないということか?


「待ったも何も、昨日、待ち合わせる時間言われてないんだけど…」


 こっちにだって反論はある。時間さえ言われていれば、きちんと遅れないように向かうさ。ただ、今日は夢の内容に気に取られすぎて、言われても遅れた可能性があることは否定できないが。


「……」


 夏菜は少しうつむいたまま、黙ってしまった。これは僕が間違っているんだろうか。


「良一はこの女の子と何か約束をしていたのかい?」


 祖母が僕らの間を取り持つ。あれを約束というのか微妙だが、確かによく考えてみれば、僕も時間を聞かなかったという落ち度もある。これは認めざるを得ないか。


「実は昨日ここへ来る途中に、出発する駅のホームでこの子、夏菜と出会ったんだ。それで、別れ際に明日の朝、また会おうってことになってたんだけど…」

「それじゃ、行っておいで。女の子を待たせるなんて、男失格だよ!」


 勢いよく僕の背中を押す祖母のとみ子。靴も履いていない状態で、玄関の土間に降りた僕は、危うくその勢いで夏菜にぶつかりそうになる。なんとか踏みとどまり、後ろを振り返ると、とてもうれしそうな祖母の姿と、いつからいたのか祖父の姿があった。


「晩御飯までには帰ってくるんだよ!」

「晩御飯までには帰ってこいよ!」


 二人して息を合わせたかのように、にこにこしながら言った。昨日、僕が話していた時よりも嬉しそうな顔だった。夏菜のことがばれてしまったことがなんだか気恥ずかしく、そそくさと靴を履いて、夏菜の手を取り外に出た。

 ひとまず、祖父母二人から見えないところまで歩いてくると、夏菜が立ち止まった。僕が夏菜の手を引いて歩いていたため、僕も一緒になって止まった。夏菜は気まずそうに下を向いている。


「……」


 まだ、何も言おうとしない。僕が完全に悪いわけではないが、これ以上夏菜が悲しそうにしているのはなぜだか、耐えられなかったので僕のほうから謝ることにした。


「ごめんね。昨日、僕が時間を聞いてなかったのが悪かったね」


 夏菜の顔色をうかがう。この謝罪で、また昨日のような笑顔を見せてくれるようになるだろうか。次の夏菜の反応を待っていると、夏菜は首を横に振り、口を開いた。


「ううん。私が悪かったの。時間を言ってなかったから。でも時間を言わなくても…」


 そこで、口ごもってしまった。時間を言わなくてもだいたい伝わると思っていたのだろうか。さすがに、朝という単語だけでは時間まで把握することは難しい。


「言わなくても、何?」


 夏菜の言い方がいかにも、言わなくても伝わったでしょ、というような雰囲気ではなかったため、続きを聞いた。


「いや、なんでもない。それより、今日はこれを一緒にしようと思うんだ!」


 また首を横に振ったが、その後に昨日の夏菜に戻ったかのように笑顔になり、手に持っていたものを見せた。夏菜の手には、釣り糸があった。まさか夏菜も僕と同じで釣りが好きなんだろうか。自分との共通点を見つけて、つい嬉しくなってしまった。


「もしかして、釣り?」


 今度は嬉しそうに首を縦に振る夏菜。まさか爺ちゃんとじゃなくて、夏菜と釣りに行くことになるとは。今日の予定は、人が変わっただけで内容が変わらなかったということに滑稽さを感じてしまい笑いがこみあげてきた。

 今度は夏菜が僕の手を引っ張り、昨日待ち合わせた大きな田んぼがある方向へ向かって行く。夏菜に手を引かれながら走ることに、どことなく懐かしさを感じてしまった。どうしてこんな気持ちになるんだろう。

 約束した場所に到着すると、そこにはたくさんの釣り具が置いてあった。よく一人で持ってきたな、と感心しつつも、荷物を二人で分けて釣り場へ向かう。


「僕、ここらへんでいい釣り場をたくさん知ってるんだ。よかったら、そこへ行かない?」


 爺ちゃんから教わった、とっておきの場所だ。爺ちゃんからは二人だけの秘密だぞ、と言われたが、夏菜になら教えてしまってもいいような気がした。


「いや、今日は私が案内したい」


 そういうと、こっちだよ、と言いながら僕を先導する夏菜。ふと抱いた違和感は昨日と同じだ。


(どうして十五年も前なのにこんなにはっきりと案内できるのだろうか。)


 いくら田舎といえども、十五年の歳月は重い。かならず細かい部分は違ってくるはずだ。なのに…。


 ズキン!

 突然鈍器で殴られたような鈍重な痛みが僕の頭の中をはしった。思わぬ痛みで立ち止まる。


 ――じゃあ、明日もここで会おうね!――

 ――またかよ、まぁやることなくて退屈だからいいけどさ――

 ――絶対だよ!忘れちゃ嫌だよ!――


 夢と同じだ。今朝見た夢と同じような感覚で、声が僕の頭の中でこだました。姿は分からないがはっきりと分かった。僕の声と、柚葉の声だ。


「どうしたの?具合でも悪い?」


 夏菜の声でハッと我に返った。何が起こったのか分からず、あたりを見回した。これが白昼夢というものなのだろうか。初めて経験することに驚きを隠せない。


「いや、大丈夫。ちょっとつまずいちゃってさ」


 まだ痛みが少し残っているが、必死に今の出来事を悟られないように笑顔で答えた。不自然な笑顔だったのか、僕の顔色をうかがうようにのぞき込んでくる夏菜。


「熱とかない?具合悪そうだよ?」


 突然ひんやりとした夏菜の手が僕のおでこに触れる。僕は思わず後方へ飛びのいた。一瞬だけど、夏菜の顔もすごく近くなり、驚いてしまった。


「本当に大丈夫だから。それよりも早く案内してよ。夏菜が案内してくれる場所がどんな場所なのか楽しみなんだ」


 夏菜は心配しながらも、僕を先導するように手を引き、今度は僕の体調を気にかけてくれているのか走らずにゆっくりと歩いてくれた。夏菜の手がおでこに触れた余韻がまだ残っており、心臓の鼓動がいつもより少し速くなっているのが分かる。


「そういえば、どうして夏菜は僕の祖父母の家が分かったの?」

「う~ん、なんでだろう」


 少し上を向きながら考える夏菜。まさか、偶然訪問した家が僕の祖父母の家だったのか?

 何か僕の知らない重要なことを隠している気がする。


「分かんないけど、昨日別れ際に良一がさした指の方向へ向かって行ったら偶然見つけたって感じかな」


 夏菜の表情は見えないが、どうも言い方に少し違和感があった。もしかしたら、夏菜は僕のことを知っているかもしれない。しかし、僕の中には夏菜に出会った記憶もなく、今朝の夢の内容に続き、もやもやが僕の中に溜まっていった。

 整備されていない土道の田舎道から逸れて、草木が生い茂る小道へと進んでいく。さきほど、どうして僕の所在地を知っていたのかという質問をした会話を終えた後から、お互い無言で進んでいた。気まずさは特になかったものの、急に手をつないで歩いていることに意識し始めてしまい、僕はなんて声をかければよいのか考えていた。しばらく歩いていると、綺麗な清流が姿を現した。


「到着!どう?綺麗でしょ?」


 えへへと自信ありげに笑いながらこちらを振り返る夏菜。ずっと一緒に歩いてきたのに、久しぶりに夏菜の笑顔を見た気がする。やっぱり夏菜は笑っている姿が一番よく似合う。僕まで元気が出てくる。


「すごいね。木々が生い茂っていて、それでいて日光が差し込んでいて、とてもきれいな場所だね」


 木々の隙間からのぞき込む太陽は、清流の水面に反射して、より一層キラキラと輝いていた。森の香り、木の香り、川の香り、様々な香りが混ざり合い、またどこか懐かしいあの感覚が甦ってきた。

 釣りの準備を黙々と進めていた夏菜に、手を貸そうかと尋ねると、大丈夫と言われたのでこの自然を堪能していた。ずっとずっと前から好きだったこの感覚。ずっと……前…。


 すると突然僕の視界がグラっと揺れた。さっきの頭痛ほどではないが、眩暈のような感覚が僕を襲い、また頭の中で声が響く。


 ――どうして、柚葉はこんなに自然が好きなんだよ――

 ――だって、自分の目で見て、感じて、感動できるんだよ。そうすると生きてる!って感じがしない?――

 ――ふーん。俺にはその感覚が分かんないな~――


 まただ。このやり取りは一体何なんだ。僕の記憶にはないやり取りが頭の中で響いている。さっきの頭痛よりも長い視界のぐらつきに、立っていられずその場でしゃがみ込む。


 ――着いた。今日はここで魚を捕まえるぞ!――

 ――どこに連れて行くのかと思ったけど、こんなに綺麗な川があったんだね。すごいね!――

 ――すごいだろ?俺も頑張って見つけたんだ。そして俺が誰よりもこの辺について詳しくなるんだ――



 今度は突然視界が明るくなり、目の前に色鮮やかな光景が広がる。夢を見ているかのようだ。見るとそこには幼かった僕の姿と、いつも夢に出てくる柚葉の姿だった。僕は釣りの準備をしていた。柚葉は目を閉じながら、自然を全身で感じているかのようだった。まるで今の僕と夏菜の立場が逆転しているようだった。


 ――ねぇ良一。また来年も…、一緒に遊んでくれる?――

 ――またって、いつも一緒にいるだろ?8月は毎年ここに来ることになってるから、来年もまた一緒にいるよ――

 ――うん。そっか。よかった!やっぱり良一は優しいね!そういうところ好きだな、私――


 好きという言葉に反応した幼い僕は、顔を真っ赤にして、ごまかそうとしていた。自分の姿を第三者の視点で見るのは、なんだか新鮮だ。柚葉に好きと言われたとき、この光景を見ている僕も照れ臭くなる。


 ――ほら、もう準備できたぞ。魚、取るんでしょ――


 幼い僕が、柚葉のもとへ準備ができた釣竿を渡しに近づいていく。目を閉じていた柚葉は、肩をとんとんと叩かれると、目を開き、釣竿を受け取った後釣り糸を垂らした。

 良一も自分の釣竿を取り、釣り糸を垂らそうとした瞬間。


 ――良一りょういち――


 柚葉が良一の肩をたたく。良一が柚葉のほうへ顔を向けると、突然柚葉が良一に急接近する。


 ――ありがとう――


 柚葉の唇と良一の唇が触れ合う。見ている光景が、スローモーションになったかのように、ゆっくりと流れ始める。驚いている良一は、幼いながらに何が起こっているのか分かっているのか顔が真っ赤になる。見ている僕もなんだか体の芯が熱くなってくる。

 そこで、また視界が真っ暗になった。



「……一!…良一!」


 気が付くと僕は川のそばで横になっていた。どうやら気を失ったらしい。一体僕の身体はどうしてしまったんだろう。体調は良いはずなのだが、頭痛といい、眩暈といい突然やってくるこの現象に戸惑っていた。


「大丈夫?やっぱり、どこか具合が悪いんじゃ…」


何が起こっているか分からないが、夏菜に心配をかけたくないという思いが強く、夢のことは話す気になれなかった。


「ほんとに大丈夫だから。あまりにもここがのどかでさ。なんだか眠くなっちゃって」


 なんとか必死に誤魔化す。起き上がり、夏菜の顔を見ると、完全に信用しきっていない表情だった。

 よく見ると、どことなくやはり夢に出てくる柚葉の面影があるような気がする。もしかして姉妹なんじゃ、と思ったが、柚葉の苗字が分からない。それに自分があの分からない少女を強引に夏菜に結び付けようとしている気がしてならなかった。ここで夏菜に聞いてもいいが、余計に心配されるのでは、と思い、話すのをためらってしまう。


「良一さ、何か私に隠してることない?」


 真っ直ぐに見つめてくる夏菜。彼女の顔を見ると、先ほどの柚葉との光景を思い出し、顔が熱くなる。聞いてみようか。いや、でも、と心の中でぐるぐると考える。柚葉という名前は伏せて、彼女に伝えたほうが心配させないのではないかという結論に到達し、僕は重い口を開く。


「実は、今日の朝起きる前に不思議な夢を見ていたんだ。それから、今日も突然その夢の続きなのか分からないけど、歩いてる途中とか、さっきもそうだけど夢を見ちゃってさ」


 勇気を持って開いた口。変な風に思われないか、余計に心配させてしまうのではないかと不安になる。夏菜はそれを聞くと、ただ黙って僕を見つめる。どう思っているのだろう、何を考えているのだろう。とにかく、彼女に悪い印象を与えたくなくて、彼女の考えが気になって仕方がなかった。この時間がとても長く感じる。


「そっか。よかった。別に病気とかそういうのじゃないんだよね?」


 何か考えていた様子だったが、彼女なりに考えを整頓できたのか、また笑顔になって僕に問いかける。よかった。不審には思われていないようだ。きちんと伝えて正解だったな。


「病気ではないと思う。僕自身もよくわかってないけど、たぶん大丈夫だから」


 きちんと夏菜の不安を払拭してあげるために、立ち上がり、夏菜が準備してくれたであろう釣竿を手に取り、夏菜にも釣竿を渡した。


「ほら、せっかくここまで来たんだし。一緒にやろう」


 川に近づき、釣り糸を垂らした。そういえばこの場所、なんだかさっき見た夢の光景に似ているような気がする。辺りを見回すと、若干木々の背丈や草の生え具合などは違うものの、はっきりと同じ場所だと確信した。


(どういうことだ。どうして夏菜がこの場所を…)


 不思議に思いながらも、ひとまず今は釣りを楽しむことにした。

 大量とまではいかないもののたくさんの川魚が釣れた。小さいものは放してあげて、大きいものだけを夏菜が用意したバケツに入れた。釣りの最中は、他愛もない会話をしていた。ここで取れる魚のこと、僕の祖父母のこと、夏菜が宿泊している旅館のこと。

 夢中になっていると、すでに太陽は南中し終えており、徐々に西へ傾いているようだった。


「もうそろそろお昼御飯にしよっか!」


 夏菜がちょうど大きな川魚を釣り上げると、バケツを手に取りこちらに向かってきた。僕も垂らしている糸を引き上げ、バケツをのぞき込むと魚が4匹泳いでいた。

 夏菜がリュックから小さなガス式のコンロと網を取り出した。ずいぶん用意がいいなと感心していると、手際よく調理に差し掛かった。

 夏菜の手際は素人をはるかに凌駕している。まるで今までにもたくさんこういう経験をしているかのようだった。内臓などをきちんと処理し、頭から串を刺して金網に乗せる。僕も爺ちゃんから教わっているがここまで綺麗にはまだ出来ない。


「すごい手際の良さだね。普段からこういうことしてるの?」


 向かい合うように座ると、塩を取り出し魚にまぶしていく夏菜。どう見ても素人ではない。


「うん。昔、魚の処理とか釣りの仕方とか教わってね、そこから家で練習してるんだ」

「へぇ~。僕も爺ちゃんに教わったけど、ここまで上手に出来ないな。きっと夏菜に教えてくれた人はとっても上手なんだろうね」


 おそらく、かなりの練習量を積み重ねているのだろうが、それにしても上手すぎる。その教わった人はおそらくウチの爺ちゃん以上だ。

 調理が完了したのか、二匹の串にささっている魚をこちらに渡してきた。


「私に教えてくれた人は、そりゃまぁ危なっかしい手つきでさ。こんなこと言うのもあれだけど、そこまで上手とは言えなかったかなぁ」


 夏菜は懐かしそうに微笑んでいた。空を見上げ、まるで遠い遠い思い出を振り返っているかのように。


「そうなの?それでよくこんなに上手になったね。夏菜がきっとすごく頑張ったからだろうね」


 あまりこう思うのは差別的になるかもしれないが、ここまで釣りの準備といい、釣った魚の処理といい、女の子があまり興味を持ちそうなジャンルではないため、夏菜の中で何か、とても大きなことがあったんだろう。


「うん。いつか教わった人に見せてあげて、自慢しようと頑張ってきたからね」


 教わった人、いったい誰なんだろう。夏菜がその人のために頑張ったという事実が、僕にとってズキズキと胸に突き刺さった。なんでこんな気持ちになるんだろうか。別に夏菜とは何もないはずなのに。


 昼食を食べ終わり、一緒になって片づけを行う。片付けも手際がよかったため、僕は夏菜の補助的な役回りになってしまった。なんだか悔しい。毎年祖父と行っている川釣り。本当ならば、ここは僕のほうが出来なきゃいけない。夏菜の前で、出来るというところをアピールしたい。そんな欲望に駆られた。


「そういえば、こんな場所よく知ってたね。十五年ぶりにしてはすごく鮮明に覚えているようだったけど…」


 自分の欲望を紛らわすように、疑問に思っていたことをぶつけた。それを聞いた夏菜は、ピタッと片付ける手を止める。しばらく両者が黙り込み、僕らの間には、そよ風でなびく草の音と、セミの声しか聞こえない。


「うん。その教わった人にね、この場所も教えてもらったんだ。私にとってすごく大事な思い出だから。多分、何があっても忘れないと思う」


 再び胸に痛みが走った。まただ。なんだろう、夏菜に教えた人を想像するだけで、胸が痛む。この場所は、僕も昔、祖父に教えてもらった場所だ。出来ることなら僕が教えたかった。


(なんで張り合っているんだろう、その人がどんな人かも分からないのに。)


 夏菜の一言で、激しく浮き沈みする僕の気持ちが嫌になった。その人とどんな関係なのか、なぜだか分からないが、そこだけはなんとしてもはっきりさせておきたかった。


「その教えてくれた人ってさ。どんな人だったの?」


 勇気を振り絞り聞いてみた。夏菜の返答によっては、胸の中がまた痛み出しそうなので、聞くのが怖かった。

 すると、夏菜は嬉しそうに笑顔で話し出した。


「その人はね、私と一緒にいてくれて、私の知らないことをたくさん教えてくれた。私にとって、かけがえのない人だよ」


 今度は、まっすぐと僕を見てそう答えた。ちくちくと胸が痛みだす。


(そうか、僕は夏菜の事が……)


 自分の今抱いている感情、そして痛みの原因が分かった。だから、こんなにも、僕が知らないその人の事を嬉しそうに話す夏菜を見て、嫌な気持ちになっているんだ。夏菜にとって大切な人なのだろうが、その人の粗捜しをしたい。そんな黒い気持ちに押し潰されそうになったが、こらえる。


「そ、そうなんだ。その人の名前は何て言うの?」


 とにかくその人に近づこう。いろいろなことを知って、真似しようと思った。名前などどうでもよかったが、その人について詳しく知ることで、何か気づく部分があるかもしれないので念のため聞いてみた。


「んー…それは、秘密かな」


 とても複雑な気持ちになる。夏菜には、その人と僕が知らない思い出を知っていて、でもそれを僕は知ることが出来ない。心の中がぐちゃぐちゃとして、冷静さを失う。しかし、なぜこんなにも夏菜の事を思っているのだろう。言ってみれば、会ってまだ間もない。男性の恋愛はよく“一目惚れからの減点方式”といったものだが、これが一目ぼれというものだろうか。


「今度はさ、ちょっと距離があるんだけど行きたい場所があるんだ。一緒に来てもらってもいいかな?」

「いいよ、今日は夏菜と一緒にいるって約束したし」


 二つ返事で即答した。本当は約束などなくても今の僕の気持ちならば、夏菜とならどこへでも行きたい、そんな気分だった。


 再び夏菜に手を引かれながら先導される僕。そういえばどうして夏菜は必ず手をつなぐのだろうか。例のその人とも、こんな感じでこの辺りを歩いたのだろうか。もしかして今から行くところは、その人とも既に行っていて、僕とは別の思い出があるのだろうか。色んなことを頭の中で考えてしまう。今、目の前にいない人となぜこんなにも競いたくなってしまうのか。これが恋の力なのか。

 気づくと再び、田舎道へと戻っていた。両脇には田んぼの用水路が通っている。清流へ行く際もそうだったが、夏菜は歩いているときは、滅多に口を開かなかった。僕の前を歩いているため、表情が見えない。普通、こういう時は男が前に出るものじゃないのかと思い、咄嗟に夏菜と横並びになるように大きく一歩踏み出した。

 すると、一瞬だけ夏菜の顔が見えたような気がしたが、困っているような、どことなく悲しい表情をしていた。僕が隣に来るのを見た途端、笑顔に切り替わった。なんだか慌てているような気がした。


「ど、どうしたの?何かあった?」


 突然僕が横に現れたことに対して、驚いているのか少し戸惑っているように見えた。


「いや、なんか手をつなぎながら前後で歩いてるのって変だなって思ってさ」

「そ、そうだよね。ごめんね。いつもの癖でついつい手を引っ張るように歩いちゃって」


 いつもの癖?いつも夏菜はこうやって歩いているのだろうか。誰と歩いているのだろう。また、少し胸が痛む。

 しばらく歩いていると、再び田舎道からそれた道を通ろうとする夏菜。日はもう既に西へと傾いていた。日光も若干オレンジ色になってきている。通ろうとしている道は、今度は先程とは違い、草が生い茂っている。しかし、なんとなく草の背丈が低いところがあった。


「やっぱり、この道はこうなってるよね…」


 道になっていなくても強引に通ろうとする夏菜。空を少し見上げた夏菜は、少し焦っているような感じだった。


「いいよ、無理して行かなくても。今日はこの草を刈り取って、明日一緒に行こうよ」


 女の子にこんな草むらを歩かせるわけにはいかない。もし行くとしても、こういう状況は僕が先導するべきだ。


「ダメなの!今日じゃなきゃ…ダメなの!」


 急に声を張り上げる夏菜。初めて夏菜のこんな声を聞いた僕は、驚きのあまり一瞬何が起こったのか分からなくなる。なぜ必死にこんな道にもかかわらず連れていこうとしているのか。今日でないとダメな理由が全く分からなかったが、夏菜の必死の訴えに驚いた僕は、進むという選択肢しかないと思った。


「分かったよ。その代わり、今度は僕が先頭に行って草をかき分けていくから、夏菜はその後をついてきて」


 夏菜が僕にどこへ連れていきたいのかということは分からないが、多分この若干背丈の低い草が生えたところをかき分けて進めばよいのだろう。念のため、夏菜に道案内を口頭でしてもらうようにお願いし、突き進んでいった。

 かき分けて進んでいくと、次第に地面が上り坂になっていった。しかも結構急な斜面だ。僕はこけないように、また夏菜の手を絶対に離さないように強く手を握った。

 あたりのオレンジ色が濃くなる。目の前には草しか見えなかった道が、しばらくすると、一本の木が見え始めた。


「あの木に向かって進んで!」


 後方からの夏菜の指示に従い、突き進む僕たち。目印となる木へ徐々に近づいていく。あともう少し。

 ただがむしゃらに進んでいくと、草の生えていない少し開いた場所に出てきた。目の前にはまだ上り坂は続いているものの、目印の木まではもう草は生えていないようだった。どうやら到着したようだ。

 木に向かって慌てて駆け出していく夏菜。僕も後を追うように走りだそうとすると、ここでまた、あの眩暈が襲ってきた。視界がゆがんで、頭の中で声がこだまする。


 ――ほら、頑張って!あと少しだよ!――

 ――分かってるよ、そんなに焦らなくてもいいだろ?――

 ――ゲーンナ!――


 視界が元に戻る。今の声は何度も聞いたことがある。情景は見えなかったが、見えずとも、はっきりと思い出せる。間違いない。僕が毎回夢で見ていたあの場所だ。白いワンピースに麦わら帽子をかぶった少女が、叫ぶゲンナという言葉。僕の鼓動が高まる。ドクンドクンと跳ねる鼓動。間違いない。この先に僕にとっての大切な何かが待っている。そんな気がした。

 あたりはすっかり夕暮れ時。そういえば夢の中でもきれいなオレンジ色に染まっていた。僕は夢の中と現実との共通点を探しながら、最後の斜面を登る。


「ほら、頑張って!あと少しだよ!」


 笑顔で手を差し伸べる夏菜。視界が淀み、霞み、夢なのか現実なのか分からなくなる。何が待っているか分からない恐怖感とそれでも行かなければならないという義務感が僕の心にはあった。意図していないのに、勝手に僕の口が開く。


「分かってるよ、そんなに焦らなくてもいいだろ?」


 はぁはぁと息を切らしながら、最後の力を振り絞り夏菜の手を取る。前方を見渡すと、夕日のオレンジ色が山々の山頂を照らし、空と山の境目が分からなくなるくらいのオレンジ色一面に包まれた絶景があった。下の方は、用水路や池の水面が夕日を反射して煌めいている。なんとも言葉では表せないような絶景だった。すると、隣に立っていた夏菜が、スーッと大きく息を吸い込み叫んだ。


「ゲーーーンナ!」


 夢の中の少女よりも大きな声で、そして今までで一番大きな声で叫んだ。僕は、夏菜の姿を見て、柚葉の姿を重ねる。どうして夏菜がこの言葉を知っているのか。聞きたいことが山ほどあった。途中で見えたあの清流での光景、頭の中で響いたあのやり取り、そしていつも夢に見ていたこの光景。色々考えていると、突然夏菜が僕の肩をトントンと叩いた。


「ここから見るこの景色。とっても綺麗じゃない?私、ずっとずっとこの景色を見たいなって思ってたんだ」


 僕の真横に立ち、前を向きながらそう告げた。夏菜の顔を見ると、彼女は泣いていた。表情は笑顔にもかかわらず、とめどなく涙があふれている。


「夏菜、そのゲンナって言葉の意味って…」


 僕がゲンナの意味を聞こうとすると、それを遮るように夏菜が僕の腕にしがみついてきた。まだ涙は止まっていない。


「元気になれっていう意味だよ。まぁ、私の場合は元気になるよって意味だけどね」


 ゲンナという言葉の意味を聞いた瞬間、視界が真っ暗になる。その場で立っていられずに倒れこんでしまう。かすかに夏菜の声が聞こえた。


 ――お願い!良一!戻ってきて!――




 真っ暗な空間に沈む。落ちる。


(戻ってくる?誰が?僕が?俺が?)


 あれ、僕ってなんだ。俺ってなんだ。何が起こっているのか頭で理解が追い付いていない。


(僕は誰だ?)


 夏菜の声、柚葉の声。柚葉の姿、夏菜の…姿。

 その瞬間全てを悟った。どう考えてもおかしい。どうして気づかなかったのだろう。夏菜の年齢は分からないが、十五年前に来たと彼女は言っていたが、彼女の十五年前は恐らく産まれたばかりの頃ではないか?

 そんな赤ん坊に近い子が、あんな清流の場所やこの絶景が見られる丘のことを知っているはずがない。どういう関係があるか分からないが、間違いなく夏菜と柚葉は繋がっている。しかし、仮に姉妹だとしても、柚葉との記憶が説明できない。僕にはそんな記憶は…。

 真っ暗な心の奥底へと落ちていく際に、走馬灯のように思い出がよみがえり、僕が僕に問いかける。


(お前は俺じゃない。)

 君は誰なんだ、僕は僕じゃないのか?

(今までお前が閉ざしていたもの、逃げていたこと全部知りたいか?)

 一人称が俺なんて言葉を僕は使わない。なぜかは忘れてしまったが、僕は僕と呼ぶようになったのは……いつからだっただろう。

(本当にお前が生まれた時を覚えていないのか?いつまで逃げているつもりなんだ?)

 僕が逃げる?いったい何から逃げているというのか

(いいんだな、覚悟はあるんだな?)

 このまま分からないほうが嫌だ、全てを知りたい。夏菜は、そして柚葉は僕にとって何なのか。

(分かった。全てをお前に見せよう。)

 真っ暗な心の中から一筋の光が見えたかと思うと、次第に光に包まれ、夢を見ているような感覚になった。


 ――ねぇねぇ、何してるの?――

 ――…。野菜を取ってるんだよ――

 ――へぇー面白そう!私にもやらせてよ!――

 ――おい、勝手に触ったら爺ちゃんに怒られちゃうぞ!取りたいなら、あそこにいる爺ちゃんに聞いてくれよ!――


 柚葉とはじめて出会ったのは、俺が祖父母の家に来て、初めての年、俺が六歳、柚葉が十歳の頃だった。爺ちゃんに畑仕事を一緒にやろうと誘われ、特にやることもなかったし、爺ちゃんの野菜は好きだったし手伝っていたんだ。その時出会ったのが柚葉だ。


(そうだ。なんで忘れていたんだろう僕は。)


 初めて六歳になって、お盆の時期に母さんが送ってくれて祖父母の家に行った。母さんの仕事の関係もあったが、それよりも同学年の友達と馴染めずにいた俺を心配した母さんは、少しでも社交的になれるようにと思って、送り出していたことを知ったのはもっとずっと後のことだったが。それでも半ば強引に連れていかれたので、最初は嫌だった。

(そうだ。僕は毎回好きで帰省していたんじゃない。初めの頃は嫌々で行っていたんだ。)


 そんな中、出会った柚葉はどんなことでも無邪気に笑って、いつも元気で…。そんな姿に俺はどんどん惹かれて、日を追うごとに彼女に好意を寄せていくんだ。


 ――こっちだよ!ほら!一緒に行こう!――

 ――待ってよ。そんなに走れないよ――

 ――到着!見てみて、ここの雰囲気なんだかとっても良くない?――

 ――まぁ、良いのは分かるけどさ、そんなに焦らなくても…――

 ――私ね。この香りが好きなんだ。特に夏はひぐらしの鳴き声と静かな川のせせらぎ、野原を吹き抜けるそよ風、全てが私の周りにいるようで、いい気持ちになるの――

 ――俺も、その感覚分かるよ。とっても落ち着く香りだよね――

 ――良一は優しいね。私のこの感覚をみんなに言っても、みんな悲しそうな顔をするんだ。だからね、良一に共感してもらえて本当にうれしい――

 ――俺が柚葉を笑顔にしてあげる。二人でいろんな場所に行って、もっとこの香りを感じようよ!――

 ――ほら、急いで!良一!一緒に行きたい場所なんてたくさんあるんだから、モタモタしてたら時間なくなっちゃうよ!――


 柚葉は毎日自分のお気に入りの場所を俺に案内してくれた。彼女が言うには、自然と触れ合っていると生きている感じがして好きなんだそうだ。みんな柚葉がこう言うと悲しがるのは後に分かるが、俺はそんなことにも気づかず、ただただ彼女のそういう純真なところに惹かれていった。

(そうだったね。僕は昔、母子家庭ということを気にしていて、幼稚園で馬鹿にされたんだ。そこから人が嫌いになったんだよね。そんな中で現れた柚葉。まるで僕の救世主かのように、僕の心に光を与えてくれたんだ。)


 そこから、今度は俺が柚葉の知らない場所へ連れていこうと思い、爺ちゃんに必死になって自然を体感できる場所はないかと聞いた。そしてあの清流に連れて行ってもらったんだ。そこで爺ちゃんと釣りをして、釣りの技術やさばき方なども教わった。絶対柚葉をここに連れてきて、今度は俺が柚葉を笑顔にするぞ!そんな風に考えていたんだ。


 ――着いた。今日はここで魚を捕まえるぞ!――

 ――どこに連れて行くのかと思ったけど、こんなに綺麗な川があったんだね。すごいね!――

 ――すごいだろ?俺も頑張って見つけたんだ。そして俺が誰よりもこの辺について詳しくなるんだ――


 柚葉に褒められてすごく嬉しかったんだ。だからもっといいところを見せようと柚葉に釣りの仕方や準備の仕方、さばき方、爺ちゃんに習ったこと全部教えたんだ。柚葉はこの清流が気に入って、たびたび俺をこの川へ誘うようになった。

(たしかその時一生懸命に教えてたんだけど、爺ちゃんのようにうまくいかず苦戦したんだよね)


 ――じゃあ、明日もここで会おうね!――

 ――またかよ、まぁやることなくて退屈だからいいけどさ――

 ――絶対だよ!忘れちゃ嫌だよ!――


 決まって別れるのは例の田んぼの前だった。いつからかここが僕らの待ち合わせ場所になって、決まって朝の七時に集合することになっていた。だから、わざわざ時間を伝えなくても自然と集まれるくらいの仲になったんだ。


 そうして、日を重ねるごとに柚葉は毎回活き活きと準備して、釣りをすることが日課になっていた。するとだんだん俺のほうが飽きてきたんだ。


 ――どうしてそんなにここが好きなの?何もなくて退屈じゃんか――

 ――良一はまだこの良さを知らないだけだよ。ほら行こう!――


 柚葉にとってお気に入りの場所となってしまったあの清流。俺の中では、まだ柚葉の感覚が分からず、どうして俺が案内したその日から毎回この清流に行く意味が理解できなかった。でも、柚葉の中では何か理由があったんだろうがそこは俺も聞けていない。

(今の僕ならわかる。きっとこの時点で柚葉は僕の事を…)


 そんなある日、あの清流で大きな出来事が起こったんだ。


 ――ねぇ良一。また来年も…、一緒に遊んでくれる?――

 ――またって、いつも一緒にいるだろ?八月は毎年ここに来ることになってるから、来年もまた一緒にいるよ――

 ――うん。そっか。よかった!やっぱり良一は優しいね!そういうところ好きだな、私――

 ――ほら、もう準備できたぞ。魚、取るんでしょ――

 ――良一りょういち――

 ――ありがとう――


 この時、柚葉が俺にキスをしてきた。俺は何が起こったのか分からず、でもこの行為が恥ずかしいことだという感覚だけはあったんだ。そんな幼かった俺は気恥ずかしさから、この日以来、柚葉に会うことに少し抵抗感が出始めた。

(この光景は僕もみたよ。当事者じゃない僕でも見ててドキドキしてた。今改めて見ると、たぶん柚葉はすごい勇気を振り絞ったんだろうね。)


 ――ほら、早く行こう!急いで!急いで!――

 ――もういいよ。昨日も行っただろ。もう行かないよ!――

 ……。

 ――な、なんで泣くんだよ。…分かったよ。あー柚葉とまたどこかへ行けるの楽しみだな!――


 勇気を出して、言葉ではないにしても行動で気持ちを表してくれた柚葉に対して、俺はなかなか気持ちを伝えられなかった。それで、一緒にいることが恥ずかしくなってしまい、柚葉の誘いをつい断ってしまったんだ。その時、柚葉が泣いてしまった。声を上げることなく静かに涙を流した柚葉を見て、俺は大きな罪悪感を抱いた。それからは絶対に柚葉を泣かせないと誓った。

 

 そして、元気づけようとある日爺ちゃんに教えてもらった、とっておきの場所に案内したんだ。


 ――どこに連れてくの?草で前が見えなくて怖いよ――

 ――いいから、俺について来てよ。柚葉に見せたいとっておきのものがあるんだ――

 ――ほら!着いたよ!見てごらん!――


 涙目になっていた柚葉は、この丘から見る夕焼けを見て、途端に笑顔になった。きれいだね!すごいね!って喜んでくれて、俺もすごく嬉しくなったんだ。そんな時、突然柚葉の口から衝撃の言葉が出たんだ。

(ヤ、ヤメロ。ソノサキヲボクハミタクナイ。)


 ――私、実はあと一年だけしか生きられないから、もしかしたら今年で最後かもしれないんだ――


 そう。お前がここにきて最初の夜に見た夢で、どうしても聞けなかった柚葉の言葉だ。実は柚葉は重篤な難病にかかっていて、余命はあと一年しかないかもしれないとの事だった。俺はそれを聞いたときは、大丈夫。こんなに元気な女の子が一年しか生きられないわけがないと思い、柚葉を励ましていったんだ。


 ――だ、大丈夫だって。柚葉はこんなに元気だし。それにまた来年、一緒に遊ぼうって言ったじゃんか――

 ――そうだよね…。私もまだ実感がないんだけど。でも、大丈夫って思ってるよ!それに後悔しないように、こうして今色んな所を見て回って思い出を作ってるしね!――


 今の俺にはわかるが、自分が死ぬときは何となく分かるとよく言われているように、この時柚葉は、たぶん自分の寿命がそんなに長くないことを悟っていたんだろう。思い出を作るなんて悲しい言葉を聞いたもんだから、この瞬間に俺もその現実を考えてしまって涙が出そうになった。俺が泣くと柚葉も悲しむだろうから、それをごまかすために柚葉にあのおまじないをかけたんだ。


 ――じゃあ、俺が柚葉におまじないをかけてあげるよ――

 ――ゲーンナ!――

 ――ゲンナ?何その言葉?――

 ――“げん”きに“な”れよって意味だよ――

 ――あはは。何それ。でも、ありがとう――


 そう。お前が夢に見ていたあの言葉は、咄嗟に俺の涙がばれないように作った造語。くだらないなとは思うが、柚葉はこの言葉を気に入ってしまったんだ。そして、俺が安郷から帰る日のこと。


 ――ほら、頑張って!あと少しだよ!――

 ――分かってるよ、そんなに焦らなくてもいいだろ?――

 ――ゲーンナ!――

 ――おいおい。柚葉が使うと俺に元気になれよって言ってることになるんだけど…――

 ――違うよ。“げん”きに“な”るよってことだよ!――


 道をばっちり覚えた柚葉は、俺が帰る最終日に、またあの丘に行こうと誘ってくれた。

 ぐんぐんと走っていく柚葉に追いつけず、息を切らしながら登っていた。そして、柚葉は俺がつくったおまじないを大きな声で叫ぶんだ。絶対に元気になるよ。だから来年また遊ぼうねって。


 ――私にも来年どうなってるか分からないけど、良一に会うために頑張るね!絶対、元気になるから!――

 ――うん。俺も安郷から帰ってもずっと柚葉の事を応援しているよ。また、必ず来年遊ぼう――

 ――うん。絶対だよ!――


 ここで、約束として僕と柚葉はゆびきりげんまんを行うんだ。夕日が照らすあの丘の上で。この先、五年後も十年後も十五年後もずっと一緒だよって。そして柚葉がまだ幼かった僕の体を両手で引き寄せた。そしてギュッと強く抱きしめてくれてこう言ったんだ。


 ――ありがとう。良一。ほんとに楽しかった。いっぱい思い出ができた――


 柚葉の表情は見えなかったが、涙声のように聞こえた。真実は分からないが俺は間違いなく、柚葉は泣いていたように思う。

 そして、帰った俺は人柄が変わったように生活を送り、学校でも友達が出来て楽しく生活が送れるようになったんだ。柚葉には本当に感謝していた。そんな時だった。


(ヤメロ、ソレイジョウハモウキキタクナイ!)


 祖父母と柚葉からそれぞれ一通ずつ手紙が届いたんだ。母さんが悲しそうな表情で渡してきたもんだから、何となく悪い予感はしていた。祖父母の手紙は短くこう書いてあった。


 ――良一へ 柚葉ちゃんから手紙を一通預かっていました。読んでください。――


 何度も柚葉と一緒にいるもんだから、俺の祖父母と柚葉はいつの間にか仲良くなっていた。

 祖父母の手紙には柚葉について何も書かれておらず、簡潔な文章だけだったから心底読みたくないと思ったが、柚葉の何かが知れるかもしれないと思い、俺は勇気を出して読んだんだ。


(ヤメロ。ヤメロ。ヤメロ。ヤメロ。ヤメロ。ヤメロ。ミタクナイ。ミタクナイ。ミタクナイ。ミタクナイ。ミタクナイ。)



 ――良一へ とつぜんのお手紙ごめんなさい。初めて手紙なんて書くから読みづらかったらごめんね。あの夏に一緒にあそんでくれてありがとう。わたし、とってもうれしかった。わたしの両親も遊んでくれてたんだけど、なんだか本気で笑ってくれなくて、悲しそうであんまり楽しくなかったんだ。でも、そんな時に良一と出会えました。良一のあのむじゃきな笑顔や、私が行くところについてきてくれて、とっても楽しかったです。とくにわたしが思い出にのこっていることは、良一が連れて行ってくれたあの二つの場所!一つ目は、あのきれいな川。私も思い出を作ろうと色々な場所に行っていたけど、まだ私の知らない場所がこんなところにあるなんてってびっくりしました。私よりも小さいのに、魚釣りの仕方や、さばき方を知っているなんてすごいなって思いました。その時から、良一の事をずっと考えるようになりました。私はここにくる前は、ずっと入院していたから分からないけど、この気持ちはたぶん好きっていう感情なんだろうなって思いました。好きっていう気持ちはすごく気持ちいい感情なんだね。こんな気持ちを私にくれてありがとう。そして、最後にあの夕暮れのきれいな景色が見える丘。あの丘は本当にきれいで、思わず泣きそうになったけど、私が泣いちゃうと家族のみんながいつも悲しい顔をしていたから十歳になったら出来るだけ泣かないぞ、と入院しているときに決めていたので、我慢しました。でもそれほどきれいな場所でした。言葉で書くのはむずかしくてうまく言えないけど、良一は私にとってのヒーローであり、ずっと一緒にいたい人であり、大好きな人です。もう良一とは会えないけど、またきれいな景色が良一と見れるといいな。

 こんな手紙で最期を伝えてしまいごめんなさい。私はたとえいなくなっても、あの約束の丘で大好きな良一を待っています。           新田柚葉にったゆずはより――



 手紙を読んでいる時、涙があふれてきた。幼かった俺でも、もう柚葉はこの世にいないんだって理解出来た。最期ってなんだ。どうしてこんな手紙を送ってくるんだ。八月だけじゃなく、もっと会いに行けばよかったって後悔した。

 この手紙で印象的だったのは、手紙の一部分が滲んでいることと、文字の線がグニャグニャだったことと、何度も消しゴムで消した跡がある事だった。おそらく柚葉なりに必死に書いたのだろう。手がうまく使えない状態になっても必死になって俺に自分の思いを伝えようとする柚葉の姿を想像して涙が止まらなかった。

 そして、最後に覚えているのは母さんの言ってくれた内容だ。


『良一が仲良くしてた柚葉ちゃんの事は、母から聞いてたわ。それで、あまりこういうこと言うのは良くないかなと思ったけど、柚葉ちゃんのご両親からこれだけは良一に言ってほしいって頼まれたから伝えるわね。柚葉ちゃんが一昨日亡くなってしまったそうなの。それでね。その亡くなる直前、柚葉ちゃんが最期に言った言葉がね、五年後も十年後も十五年後もずっと一緒だよって。これを良一に伝えてって』


 そして、俺は言葉にならない悲鳴を上げて意識を失った。あんなに元気だった柚葉が、もうこの世にいないなんて、と幼かった俺にはとても受け止めきれなかったんだ。そこで、俺はしばらく部屋に引きこもってしまい、この柚葉の死を知った日から小学校には行かなくなってしまい卒業した。

 死にたい。俺も死んで柚葉に会いたい。そう思い続けていると、ついに俺という人格は死んでしまった。そこで現れたのが、俺の代わりの人格のお前だった。


(……。)


 お前は俺の代わりに俺の体を動かし、真っ当な学生生活を送るようになった。俺の性格とは真反対のお前は真面目に生活をし、中学、高校、大学と進学していき、立派に二十一歳になった。ちなみにお前は毎年、祖父母のもとへ帰省していると思っていたようだが、柚葉の死を知ってから一度も行っていない。わずかに残る俺の記憶がお前を混乱させているんだ。そして、なぜ今年になってお盆帰省を行なったのか。それは、今年であいつが亡くなってから十五年だからだ。お前は、柚葉の最期の約束である、五年後、十年後、十五年後も一緒だという約束の一部分を覚えていて勝手に自分の都合のいい理由をつくり、行かなくてはいけないと思い込んだ。そして、自分でこの安郷へやってきたんだ。

(そンナはずハナイ。僕ハカアサンにイワレテここヘキタんダ。)


 本当にそうか?振り返ってみろ。お前が出発した日に、お前の母さんは一度でも祖父母の家に行けと言ったか?

(言って……ない。)


 お前が電車賃と勘違いしていたお金は、毎年お盆休みに繁忙期がくる母さんが家に帰れないから、そのときの生活費として置いていってるものだ。お前は勘違いして、それを電車賃だと思った。

(でも…なぜ僕は電車の駅の名前とか知ってたんだ?)


 俺が一度祖父母に聞いたことがあるからだ。自分で安郷に来れるようにしておこうと思ってね。

 お前が見ていたあの夢も、白昼夢も全部俺の記憶の一部だ。お前は俺の記憶の断片をたどってこの地までやってきたんだよ。

(でもなぜこのタイミングで?十年後にでも行けたはずなのに。)


 それは俺にも分からないが、たぶんお前の中で生きていた柚葉の約束の記憶が最後の部分だけだったんだろう。

 柚葉の事はもう受け入れられるか?

(なんとか。途中取り乱したけど、やっと大切なことを取り戻した気がする。)


 それじゃあ、今度は夏菜の事だ。俺には分からないが、どう考えても夏菜はお前のことを昔から知っているぞ。

(そうだね。安郷へ向かう電車の中で僕の行き先を伝えたときに知ってるよとつぶやいたこと、僕の祖父母の家を知っていたこと、朝という言葉だけで特に時間を決めずに待ち合わせをしたこと、魚の釣り方やさばき方を教えてくれた人、そして…)

 夏菜がゲンナという言葉を知っていることだ。ゲンナという言葉は、俺と柚葉しか絶対に知らないはずだ。

(そうだね。つまり柚葉は実は生きていて、僕に会いに来たってこと?)

 いや違うな。間違いなく俺たちの事は知っているが、柚葉の面影は少しあるものの別人だ。名前も違うしな。

(じゃあ、どういうこと。夏菜はいったい誰なの?)

 それを俺に聞いてもしょうがないだろ。それはもう、お前のやるべきことだ。

(この真っ暗な世界から抜け出すにはどうしたらいいの?)

 お前が俺を受け入れる。柚葉との思い出、柚葉への俺の気持ち、そして柚葉の死、全てを受け入れることだ。

(受け入れたら君はどうなっちゃうの?僕が消えて君になる?君が消えて僕になる?)

 あんなに真面目に勉強して大学まで進学したのに、そこまで俺に聞かないと分からないのかよ。相変わらず手のかかるやつだな、俺ってもんは。

 俺はもう既に柚葉が死んだ時点で、死んでるんだ。俺が死のうと思ったあの日からな。俺にとって柚葉は人生を変えてくれた大恩人で、俺の世界のすべてだった。その柚葉がいなくなった時から、俺という時代はもう既に終わっている。


 この先の夏菜とのやり取りは、もうお前の時代だ。


(ちょ、ちょっと待ってよ!どうすればいいの?夏菜になんて言えば…。)


 ――お前の思う通りにやってみろ。もう二度と俺みたいに自分の思いを伝えられないなんてヘマするなよ――



 気が付くと、あたりはまだ夕暮れ時だった。自分の中でかなり時間が経っていたように感じたが、現実ではそれほど時間は経っていないらしい。全てを知った僕は、本当の僕になった。どうやら、俺という人格は消えたが、彼の記憶、感情、悔い、すべてが鮮明に思い出せるようになっていた。

 あたりを見回すと、丘の先端から夕暮れの絶景を眺めている夏菜がいた。僕が目を覚ましたことに気が付くと、急いで僕に駆け寄ってきた。


「もう!やっぱり体調悪いじゃない!心配……させないでよ…」


 夏菜の瞳からこぼれ落ちる涙。僕はやっぱり夏菜の笑顔が好きだ。そう、僕たちが一緒に遊んでいた時に無邪気に笑ってくれた柚葉のように。僕は夏菜を元気づけるため、立ち上がり丘から大声であのおまじないを叫んだ。


「ゲーーーーンナ!」


 改めて自分で言ってみると、ほんとなんのひねりもない言葉だな、と感じた。でも、この咄嗟に考えた僕の言葉には、あの思い出が詰まっている。もう一人の僕のとても大事な思いが入っている言葉だ。


「良一…その言葉…」


 泣きながら立ち上がった夏菜は僕の言葉に驚いていた。さっき自分で叫んでいたくせに何を驚く要素があるというのか。


「柚葉。五年後も十年後も十五年後もずっと一緒だよ」


 夏菜が柚葉かどうかは分からないが、僕はもう素直になって、あの約束を伝える。そして、夏菜の方へ歩いていき、ギュッと抱きしめる。当時は柚葉のほうが背は高かったから僕が抱きしめられたけど、十五年経った今なら僕のほうが身長は高くなっていた。


「遅いわよ、バカ…!」


 さっきよりも、涙の量が増す。それでも、今流している涙は見ていてもつらくない涙だ。夏菜も僕をギュッと抱きしめる。


「本当に柚葉なの?十五年前に亡くなったんじゃ…」


 もう勢いで柚葉の名前を出してみたものの、柚葉なわけがなかった。今の僕になら分かるが、外見は絶対に柚葉ではない。


「実は、亡くなった直後に真っ白い世界に連れていかれたの。そこで大きな川を渡ろうとしたら、どこからともなく声がしてこう言われたの。君は強い誓いに縛られているね。条件を付けるが、君が本当にその誓いを達成したいと望むなら、俺が叶えてあげよう。って」


 一人称が俺ってまさか…。確認のしようがないが、僕は今考えていることはあっていると思い込んでおくことにした。

 そうして、三途の川を引き返して生き返ったというのだろうか。しかし、もしそうならば、僕よりも年上のはずだがどう見ても僕より若かった。


「それで、どうなったの?その条件はなんだったの?」


 まずは、夏菜がどういう存在なのか確定させたかった。もう一人の僕はたぶん、今の僕にあることを託したんだ。もう一人の僕が達成できなかった“柚葉に思いを伝える”ということを。それを達成するために、まずは柚葉かどうかはっきりさせてから、思いを告げようと思った。


「また新しい生命に宿る、つまり輪廻転生したの。でもその際に、柚葉の記憶を持ったまま転生できるようにしてもらったの。でもね、その記憶が保持できるのは柚葉が亡くなった日から十五年後まで、つまり今年の夏まで保持できるという条件だったの」


 なるほど。夏菜は柚葉であって、柚葉でないということか。それにしても気になることがあった。


「待ってよ。十五年後までしか記憶が保持できないってことは、夏菜は今年の夏で全部忘れちゃうってこと?」


 今の夏菜の言い方だとそういうことになる。たとえここで、僕が気持ちを伝えたとしても、夏菜がその思いを覚えていられるのは、今年の夏までだ。こんなことってあるか…。せっかく再会できたのに。

 しかし、夏菜は涙をしっかりぬぐい笑顔で答えた。


「そんなことはないよ。最後まで聞いて。それでね、その十五年の間に約束が達成されない場合と、誰かに私が転生したと知られる。つまり、約束が達成される前に私が柚葉だってばれてしまうと記憶がなくなるんだけど、逆にその十五年の間に約束が達成されたら記憶はなくならないの!」


 この時初めて、僕が今年になって夢を見始めた意味が分かった。柚葉に対して強い悔いを残して、一人の僕が死んでしまった。それでも、どこからともなく現れた今の僕が頑張ってここまで生きた。

 その間、もう一人の僕はずっと今の僕に訴えかけていたんだ。約束を果たせって。でも、今の僕は柚葉との約束を最後の“十五年”という部分しか覚えていなかった。だから、今年になって急に君の訴えを感じられるようになったんだ。そして、君はさっき目的を果たしたから僕と一つになった。夏菜も条件付きではあるものの、柚葉として亡くなって、夏菜として柚葉と一つになり誕生した。思わず大粒の涙が目じりから零れ落ちる。もう一人の僕はどれほどこの瞬間を待ちわびていたのだろう。柚葉への思いの強さを知り、なおさら僕は、約束を果たさなければならないと感じた。


「じゃあ、もう夏菜は柚葉の記憶を失わないんだね!」


 ううんと首を横に振る夏菜。まだ他に何かあるというのだろうか。柚葉は絶対に消させない。僕の中でもう一人の僕が生きているように、夏菜の中で柚葉は生きてほしい。


「“ずっと一緒にいる”っていう部分が達成されていないから、まだだよ」


 抱きしめていた両手をゆっくりと放し、距離を開けて、僕の真正面に立つ夏菜。僕からの何かを待っているかのように、もじもじとどこか気恥ずかしそうにしている。分かりやすい嘘をついたものだ。仮にまだ約束が達成されていなければ君は今記憶をなくしているはずじゃないか、と思ったが、今はもう何も言わなかった。僕が何を言わなければならないかはもう既に分かっているからだ。


「柚葉、ずっと一緒にいよう。十五年前の君と出会ったあの日からずっとずっと好きでした!」


 たぶん僕の人生の中で一番勇気を出した瞬間かもしれない。自分の思いを打ち明けるということはこんなにも勇気がいることなのか。改めて幼き日の柚葉のすごさを痛感した。

 僕の体の熱が、気が、体温がグングン上昇しているのが分かる。


「こちらこそ。こんな私で良ければ、ずっとそばにいさせてください」


 にこっと笑うと、夏菜の目から一滴の雫が落ちる。それは頬を伝い、重力に従って下へ下へと落ちていく。そして夏菜は小指を立てて右手を差し出す。


「ほら、良一も。はやく右手を出して!」


 僕が夏菜の涙に見惚れていると、グイっと強引に僕の右手を引っ張り、前に出させる。

 そして僕らは立てた小指を合わせ、二人同時に口を開いた。


「五年後も十年後も十五年後もずっと一緒だよ!」


 二人でそういうと、結んだ右手を上下に軽く振り、ゆびきりげんまんを行う。

 その後、夏菜の身体から一粒の小さな光が上空へと昇って行った。それはたぶん、夏菜に柚葉の記憶を保持させた人物だろう。

(お疲れ様。もう一人の僕。ついにやり遂げたよ。)

 そして僕は夏菜の肩に手をのせ、そっと近づき唇を重ねる。そう。僕たちの思い出が詰まった、この““で。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

哀愁の夕暮れと約束の丘 ラク @cura0103

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ