序章 凪編 忘れな草

--少し休憩にするか。


淡く積もった雪の中から早目の忘れな草の花が顔を出す。

一面が雪化粧をまとった世界へいつもより少しだけ柔らかくなった陽が注ぐ。


なぎは手元の筆を置き一呼吸をした。

朝から書き物勤めが山積みで、同じ姿勢でいたせいか背中のあたりが痛い。

戦が終わって国に戻るとすぐに凪は内政の仕事に関わるようになった。

それは、将来、凪がこの国を継ぐためにも経験を積ませようという父親のはからいだった。


凪はゆっくりと立ち上がると家臣たちへ目配せをする。

そして「外の空気を吸ってくる」と伝えると部屋の戸を開けて出ていく。

庭に面した廊下に出ると一層新鮮な空気が肺を満たした。

春めいてきたとはいえ、未だ空気は肌寒い。


忘れな草の花と一緒に溶けた雪が「私を忘れないで」と、ささやくように光にきらめいた。


 --歩くか。


肺を満たしていた息を一度吐く。

家臣の一人に履物を用意させ、縁側から庭へと降りる。


「少し庭を歩いてくる。そう時間はかからず戻ってくるよ。」


「承知」とばかりに家臣はこうべを垂れた。


手入れの行き届いた庭は淡い雪化粧に包まれて、一層のはかない美しさをまとっていた。

凪は広い館の庭の中で黙々と歩みを進める。

昼下がりの柔らかな日差しが雪を優しく溶かし、そこへ浮かび上がった飛び石の上を慎重に歩いていく。

足元に注意を払い、自分の歩みに集中していると不思議と心が落ち着いていく。

余計なことを考えずに、ただ自分の歩みだけに意識を向ける。

そうしているうちに段々と雑音が遠くなっていく気がした。


どのくらい歩いただろうか。気づけば館の外れに来ていた。

空をあおげば、まだ陽は正午の位置から西へわずかに移動しただけだった。

そんなに長い時間を歩いてはいないはずだったが、意識を集中させていたせいか随分ずいぶん遠くまできてしまったような錯覚におちいった。


--戻ろう。


そう思ってきびすを返した時だった。

ふわりと風がそよぎ目の前を何かが過たような気がした。

・・と、微かに笛のが流れていることに気がつく。


--笛・・・?このような外れた場所で笛など吹く者がいるだろうか?


凪はあたりに目をやってみるが、人がいそうな気配も場所もない。

ただ整然と手入れの行き届いた庭園が淡雪とともに広がっているだけだった。

雪に埋もれた花の芽や木々や置かれた岩、苔さえも、庭師によって計算され尽くした庭が人工美を保っている。


「やはり引き返そう」と来た道へ歩みを進めようとしたその瞬間、また笛の音が聞こえてくる。

凪は振り返り音のする方へ目を凝らす。


--あちらの木立の間から音がする・・・?


白く美しい木々の間を歩き進む。

笛の音色はさっきより僅かに大きくなっていく。

凪はなぜかその音色に胸が締め付けられる感覚を覚え、一体誰が奏でているのかと惹きつけられている自分に気がついた。


木立の間、その先を見据える。

・・と、視線の奥のほうにぼんやりと建物がある。


--こんなところに屋敷?


凪は館の見取り図を思い返してみたが、心当たりになるような記憶は全く思い出せなかった。その代わりに、父親から館の外れには近寄ってはいけないとよく言われていたことを思い出す。


--おかしいな。このような場所に屋敷などなかったはず。

--かといってこのまま引き返しても不審者を捨て置くことになるし・・。

--面倒だけど、この不可解な屋敷に何者が住むのかを探るべきか。

--場合によっては・・。


凪は溜息をつくと腰に帯同した刀のつかに手をえる。

何かあればその時は--。


屋敷は無防備に開けられていた。

笛の音は庭園に面した一室から聞こえてくるようだった。

不思議なことにそれ以外の人の気配が全くしない。


凪は屋敷の端の縁側へ近づき中へ上がる、笛の奏者に気付かれないように。

音を立てないようにそっと部屋へ近づく、刀の柄に手をかけたまま。


「誰?」


はたと音が止むと女の声がした。


--女?このような場所に?


意外な声の主に驚くと同時に柄にかけていた自分の手がじっとりと汗ばんでいることに気がついた。もう一度、敷地の見取り図に思いを巡らせてみるがやはり思い当たる場所も人も記憶から出てこない。

一体誰が?しばらく頭を巡らせる。


「・・・誰かいるの?」


もう一度女の声がする、今度は震えたような声が。


凪は意を決める。


「庭を歩いていた折に美しい笛の音が聞こえたもので・・つい興味を惹かれこちらに。」


「笛の音が?」


少し驚いた女の声が聞こえ、女はそのまま思惑に伏せるように言葉をつぐんだ。


「もし、こちらにはお一人で?よろしければ御目通り願えませんか?」

「それは--」


女の返答も待たずに、それが無礼であると承知の上で凪は部屋に近づく。


--返事がどうであれ何者が住んでいるのか確認しなければならない。それが俺の義務だ。


--義務?


歩みを進めながら、それが少し言い訳めいた様に胸をざわつかせた。

否、半分は義務感かもしれない。

それでも、あの笛の音色に心が惹かれたことも事実だった。


女の部屋はまるで客人など来ないことが当たり前の様に無防備に開けられていた。調度品は派手さはないにしろ凝った細工がほどこされ質の良いものでしつらえられたものだと一目でわかる。


部屋の奥へ踏み入ろうとしたその時、一人の女がえんの柱の前に座っていた。

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