第八の月――神殿の長の女

 部下からの報告は、良いとも呼べるし悪いとも呼べた。しかしどちらにしろ、来てしまったというなら上手く活用してみせよう。

「分かった。ふたりはどこに?」

 手にしていた東来の呪具――扇子を閉じて神官服の長い裾を払い、私は椅子から立ち上がった。



 港町オプセリオンは、東の島々との交易における一大拠点だ。ひとも物も、文化も伝統も渡り来る街であり、他所から来たなら物珍しいものも多数あるだろう。そんな場所柄だからこそ、この神殿にも独自に取り入れた品が多く置かれていた。

 客人を招く部屋にノックをひとつ、返事は女性のぞんざいなものだった。

「待たせたな。なにせ多忙なもので」

「相変わらずみたいで何よりだよ」

 色鮮やかな織物を敷いたソファに座ったままで、ゼータ嬢が肩を竦める。そして隣の男の肩を叩いた。

「おい、来たぞ」

「……あ、すみません」

 呼ばれ、この部屋に置いてあった異国の本から顔を上げた男は私を見て、

「どうも久しぶりです、イオタ」

 外面の良さが変わっていないことを窺わせる笑い方をした。

「色々と噂は聞いていたが、当人に訊ける機会があるとはな」

 対面のソファに座った私と客人の前に、紅茶と茶菓子が並べられる。余計な物音ひとつ立てずにそれをこなしたのは、私の良く出来た部下である巨漢だ。

「ガンマさんも、お元気そうで何よりです」

「…………おふたりも」

 声をかけたタウに小さく礼を返した後は、無音のまま壁際に控えた。浅黒い肌に反して薄い水色を持つ刈り込まれた頭髪、それに加えて感情の表れ方も希薄な藍色の瞳とくれば立っているだけで相手を圧することも出来る。とはいえ、今はこの場の誰に対してもそのような威圧感は必要ないのだが。

 早速茶菓子のクッキーを囓るゼータ嬢の隣で、タウは紅茶に角砂糖をひとつ落としてかき混ぜ、口に含む。それを飲み下してから、

「どうやら貴女のところにも話が伝わってるみたいですね」

 結んだ髪の先が首もとをくすぐっていたのを払って苦笑した顔に、当然だと鼻で笑って返す。

「その分だと本当なのだな。……全く、よりにもよってこの時期に」

「だからまっすぐここに来たんだよ」

 ゼータ嬢がティカップをあおった。一息で飲み干され空になったカップをソーサーの上に戻し、どさりとソファに背を預ける。

「アレはここにもあるし、俺らはもうここに着いちまった。ならもう仕方ねぇだろ」

 がしがしと頭を掻いてから、髪紐を一度解いて新芽色の長い髪を結わき直した。私と同じ背の半ばほどの長さの髪を簡素な一本結びにまとめ、手慰みに左耳のイヤリングに触る。

「そういうわけです。なるべく街に被害を出さないためにも協力してもらえませんか」

 言った男を見据えたまま、閉じた扇子を口元に当てて少し思考を巡らせる。

「……よかろう。他ならぬ従兄弟の頼み、応じる他あるまいよ」

 口角を上げた私に対し、しかし対面のふたりの顔は逆に曇る。どうやら続く言葉も分かっているらしいので、遠慮なく口にした。

「その代わり、私にも協力してくれるな?」

「……ですよねぇ」

 人手が必要な時期に自ら飛び込んできた以上、これを使わない手はない。指を鳴らして、ガンマに用意させた資料が机に積まれる。

「なに、どうせ街を巡らねばならんのだろう。そのついでのお使いとでも思え」

「ついでで済ませられる量じゃねぇんだろどうせ」

 嫌そうな顔でゼータ嬢がぺらぺらと資料をめくった。

「では、お互い打ち合わせといこうか」

 扇子を広げて背筋を正せば、紫水晶の髪をまとめ上げた髪飾りがしゃらり揺れた。迫る非常事態に備えるための時間は、おそらくそう多くはない。



 通りは多くのひとでごった返していた。常に活気に溢れている主要地区ではあるが、今はそれだけではない理由があった。

「順調か?」

 責任者に声をかけると、私より年嵩の男が振り返る。

「神官長! 概ね予定通りですが、荷物がひとつ遅れていて」

「どれだ」

 見せられたリストを辿り、後ろのガンマを呼ぶ。その場の誰よりも大きな背を屈めて文字を眺め、

「……第三地区に余剰が」

 ぼそりと呟かれた名前から今日の進行予定を思い起こした。

「誰か手の空いている者を三人ほど使いにやれ。運河に交わるルートは使うなよ、大型資材の運搬で今日一日通行止めだ」

「し、承知しました」

 すぐさま作業の場に戻っていく責任者を見送り、次の現場に足を向ける。と、遠目に派手に動く影が見えた。

 およそ脚力のみでは到底届かない高さの壁に設えられた台座、その上に鎮座する羽根持つ乙女の祈りの像の首へ、

「よっと」

 かけ声とは裏腹の繊細な手つきで六芒星の銀飾りをかけて、ふわふわと宙を漂うゼータ嬢は大きく息を吐いた。ぐっと背を反らしたタイミングで、下を通過しようとしていた私に気がついたようで。

「おいイオタ」

 すたりと着地した、その顔はいつもに輪をかけたしかめっ面だった。彼女が腕にかけていたカゴを見れば、聖印飾りはまだいくつか残っている。

「なんだ、終わっていないのか」

「押しつけといて文句言ってんじゃねぇよ」

 じゃなくてだな、とゼータ嬢は自分が飛んでいた高さを見上げる。

「これ、毎年いちいちやってんのか」

 これ、とはこの飾り付けのことか。ならばもちろん、

「そんなわけなかろう」

 当然やっていないに決まっている。答えれば、ゼータ嬢はぽかんと間抜けな顔をして。

「はぁ!?」

 叫んだ。

「じゃなんでわざわざ俺にやらせてんだよ!」

「貴殿だからさ、ゼータ嬢」

 手にした扇子で自分を仰ぐ。今日も快晴で気温は高い。

「そもそもは像の首から下げるのが正式なのだがな、例年は像の下に台を立てて聖印飾りをぶら下げている」

 何を考えたのだか、肝心の像の高さが常人には高すぎる。等間隔に配置された像にいちいち足場を組んで登って、というのは効率が悪い上に作業に危険が伴う。

「だが今年はお前がいる。風聖霊ウィンディアルの加護を持ち、聖霊術によって飛べるお前がな」

 飛行の聖霊術が使えるものは、風聖霊の神官でもそう多くない。ましてや護衛官なぞ聖霊術の訓練より肉弾戦の特訓に傾倒するものがほとんどだ。幼き頃から神殿の者と縁深く、聖霊術にも熱心だったゼータ嬢だからこそ習得しているのだということを、おそらく自覚はしていまい。

「略式ではなく正式な、六柱教神殿主催の、伝統ある祝祭が行える。であれば当然護衛官殿は協力してくれるだろう?」

 数日の後に待っているのは、街を挙げての大規模な祝祭だ。過ぎた一年への感謝とこれからの一年への祈りを込めたこの行事がどれほど大切なものか、理解出来ない相手ではない。

 返す言葉もなく黙り込んでいたゼータ嬢が、大きな舌打ちと共に背を向けた。

「……やりゃいいんだろ」

「理解が早くて何よりだ」

 いらだたしげにタタン、と石畳をブーツが叩き、

「――空に道を」

 低く唱え、地を蹴ったゼータ嬢の足下に風が緩く渦巻いて、その体を押し上げた。振り返りもしないまま、次の像に向かう姿がふと視界から消える。

「……日が、高くなってきましたので」

 私に日傘を差し掛けたガンマ自身は、訓練着の短い袖から伸びる逞しい腕から顔まで、海辺の強い日差しに無防備に晒されていた。左耳で、深い青の輝石のイヤリングが輝く。

「そうだな。急ぐか」

 リストをめくり、次の地域へ足を向ける。向かう方向で銀の六芒星が太陽を反射して眩しく光っていた。



 海に映っていた夕日も去り、宵闇が満ち始める。通りの街灯には徐々に火が灯されはじめ、今日の仕事は終わりと皆が帰路に着く。

「……待ち伏せですか?」

 神殿の廊下も静まり返っていた。ここに住むものも多くいるが、彼らのほとんどは昼間の作業の疲れを癒やそうと個々に休息を取っていることだろう。

「人聞きの悪い言い回しを選ぶものだな」

 肩を竦めれば、タウは私の後ろに目をやった。

「わざわざ人けのないところで、ガンマさん連れて立ってるだけでどう見えるか分かってますよね」

「当たり前だろう?」

 わざとらしいため息を吐いて、白いコートの男は眼鏡を押さえた。数歩近づいた、その距離でギリギリ届く大きさで呟く。

「クライスムートの封印に関する責任は僕にあります」

「しかし守り切れなかったというのなら、護衛官も無関係ではあるまい」

 窓から入る月の光が、睨みつけるタウの瞳を金色に見せていた。私の紫の瞳は、果たしてどう見えていたのだろうか。

「ゼータは僕を助けてくれました。今も守ってくれています」

「結果的にそうなっただけではないのか?」

 私が知るのは、報告書として提出されたことだけだ。そしてそれが事実通りかどうかは、本人に訊かねば分からないことだった。

「お前たちには不可能と断ずるわけではないさ。あの女の判断だ、疑う余地もあるまい」

 このふたりに責任を負わせた女。贖罪の機会を与えた女が出来ると言ったなら、それは確かにそうなのだろう。だが、

「……分かって、います」

 言葉を押し出したタウの顔は歪んでいた。私と、おそらく気遣わしげな様子であっただろう私の護衛官とに、それでも笑ってみせる。

「アレを、封印からこぼれたカケラを生み出してしまったのは、僕です。だから」

「俺らだろ」

 タウが目を見開いた。後ろからの足音には気がついていなかったらしい。振り返ろうとし、その前に追い越されて庇われる。

「俺らふたりがしくじって、あのカケラが飛び散った。自分たちの尻拭いくらいは自分たちでやってやるよ」

 だから、とゼータ嬢が唸った。

「いらねえ心配ありがとな」

 庇った男ひとりだけを責めることは許さないと。

「お前たちの心配など、初めからしていない」

 心配するべきは力なき民であり、それらを守るための責務をこのふたりが放棄しないことだ。あのカケラの危険性がごく限定的であることは、もう既に分かっている。

「途中で餌を食われないよう用心することだな」

 ゼータ嬢に向かって言った台詞に悪意は無いが、神経を逆撫でするのだろうなと分かってはいた。案の定もともと吊り気味の目がさらに鋭くなって眉間にしわが寄り、暴言を吐き出そうとその口が開いて、

「――っ!?」

「ゼータ!」

 異様な気配に寒気が走った。タウが血相を変えてゼータ嬢の腕を掴み、その様子に察したのかゼータ嬢は素早くタウへ振り返る。

「何処だ!」

「方角は東、……港の方向です!」

「そうか」

 割って入った私に、タウは頷く。

「ガンマ」

「……承知しました」

 部下が屈み、私を軽々と片腕で持ち上げた。港の方角なら正門でいいだろう。

「先導してやろう。さっさと行くぞ」

「偉そうにすんな」

 ゼータ嬢がぐいとタウの腕を引いた。大丈夫です、いいから、の問答の後、ゼータ嬢がたん、とタイル張りの床を踏み鳴らした。

「わっ」

 タウの足が地面から浮き上がり、それをゼータ嬢の腕が拾い上げる。タウの体を両腕で抱えて追いかけてくるのを見ながら、

「偉そうではなく偉いのでな、仕方あるまい?」

 言って、ガンマが扉を蹴破る衝撃に備えた。



 具体性のない不安が勝手に湧いて出るようなこの感覚は、どうにも気持ちの悪いものだ。夜の黒々とした海が近づくにつれ、その気持ち悪さは増していく。

「明かりを」

「いや」

 タウの提案に否定を返し、代わりに唱える。

「――見通す瞳を」

 夜において闇聖霊の加護がいかに頼れるか、光に守られたものには分からないのかも知れない。私の唱えた暗視の術は、四人全てに昼と変わらぬ視野をもたらした。

「……あっちか!」

 ゼータ嬢が叫び、波止場の切っ先で黒い影が蠢く。無人の港、出迎えた船の向こうに見えたのは海面を脚で叩く、怪物じみた大きさの黒いモノ。

「今度はタコですか」

 着地したタウが短杖を手にする。その隣に私を下ろしたガンマへ、

「行け」

 伝える言葉はそれだけでいい。頷いたガンマと、先に駆け出したゼータ嬢が共に身につけていた片耳だけのイヤリングを外した。

 ゼータ嬢が高く放り投げたイヤリングには風が集い、封印が解かれて落ちてきた大鎌を見もせず両手が受け止める。そのまま地を蹴り飛び上がっていく背中で、突風のごとく長い髪がなびいた。

 ガンマがイヤリングを握り込んだ拳を手のひらに打ち付ける。パキッという硬質な音を伴って涼やかな空気が漂い、滑らかな質感の手甲が両の拳を覆う。そのまま身を屈め、大型の獣のように地を駆けた。

「そ、らッ」

 振るわれた鎌の一閃で、持ち上げられた脚が一本切り落とされる。その体を横から狙った別の一本は光の盾に阻まれた。

「まずいですね、船が」

 再びの詠唱の合間に聞こえた呟きには、首を横に振るだけで返した。

 水面から覗いた真っ黒なタコの頭の半分だけでもひとひとりの身長に等しい。ソイツが振り回す脚が停泊している船にぶつかれば確かにひとたまりもなかろうが。

 波止場の端からガンマが飛び降りた。その後に続くはずの水音はなく、代わりに視界に映るのは氷色の壁。海の水を凍らせ高く大きくそびえ広がっていくそれが、タコと港との間に立ち塞がる。

 それに合わせ、持ち手に輝石を仕込んだ扇子で氷の巨壁を指した。

「――止まれ」

 動きを止める術を応用し、強化を施す。唱えた術を維持するため口は開かず、目だけを向けたタウに肩を竦めた。

「協力しろと言ったのはお前だろう」

 それに、この街を守るのが我らの仕事だ。タウが薄く笑い、次いで瞼を押さえる動作をした。……なるほど。前衛ふたりはまあ、対応出来ると信じよう。

 タウが短杖を掲げるのと同時に目を閉じる。声だけが隣から響いた。

「光よ!」

 初級も初級、ただ明かりを生み出すだけの術。ただその明かりは、まぶた越しでも眩しいほどの光量だった。

 激しい水音はタコが暴れ狂う音だろう。もともと蛸は夜行性だ、油断していたところで視覚を潰されパニックに陥ったか。

 光が収まり目を開ければ、氷の巨壁の上に立つ人影が見えた。あれはゼータ嬢か。振り向かないままひらりと片手を振った様子から、どうやら無事だと判断する。そのまま大鎌をくるりと回して構えた、その周りを風が取り巻いているのが見える。

「やれやれ」

 大がかりなことを企んでいるらしい。タウが再び防御の術を用意しているのを横で聞きつつ、私は停止強化の術を維持する。崩れかけていた氷の塊は、今ほぼ私の術で保っていた。

 ゼータ嬢が狙いを定めるように鎌の切っ先をソレに向けた。術の結びが叫ばれる。

「――嵐を!」

 ごう、と風が強く吹き抜ける。海の水をも巻き上げ文字通りの嵐を巻き起こした突風の中心で、タコがその巨体を吊り上げられていた。

「ガンマ!」

 呼ばれたのは部下の名だった。巨壁の維持を私に任せて機を窺っていたらしい男が、吹き荒れる風をものともせずに海を凍らせ走り、水面を殴りつけた。

 その一点から、嵐を氷が駆け上り固体へ変える。風が止んだその後には、タコ入り氷柱が海にそびえ立っていた。

「――我が身、我が声を以て請い願う」

 タウの詠唱が変わる。よりいっそう厳かに、捧げ持つ短杖に宿る光へ祈る。

「希望の体現、照らし導く光の聖霊。汝が慈悲にて、彼の者に安息を」

 光聖霊への請願は黒い怪物を包み込み、カケラと取り込まれた死骸とに分離する。ガンマが持ち帰ったそれのうち、死骸には祈りを捧げて自然に帰した。

「……被害は」

「明るくならんと分からんな」

 暗視を維持する余力はなく、かけたとしても把握は難しいだろう。それは分かっているらしい、タウは手の上のカケラを見て思案している。

「なら引き上げようぜ」

 その隣に並んだゼータ嬢がイヤリングを付け直していた。同じく武装を解いたガンマが私の前に跪く。行きと同じようにその腕に乗って、タウとゼータ嬢とを見下ろした。

「そう、ですね」

 頷いたタウは、帰りは自分の足で歩く気らしい。私は欠伸をかみ殺し、静けさを取り戻した夜の空を見上げた。


 翌日。太陽は空の真上にあり、気温も順調に上昇したごく普通の一日だ。

「お前がぐーすか寝てっからこんなくそ暑い時間によ……」

 文句を垂れつつゼータ嬢が私を睨む。

「イオタは昔から朝弱かったですからね」

 タウが苦笑しガンマが頷く。自分たちとて昨晩遅かったぶん他の者より寝ていたのだから、少しばかり私が遅かったからといってうるさく言うこともあるまいに。

「ガンマ」

 ほんのわずかに口元を上げていたガンマを呼びつけると、日傘を維持したまま書類を渡してきた。一度確認した内容から変更がないのを確認し、そのままタウへ渡す。

「どうだ」

「……難しいですね」

 書類の中身は今朝、港で働くものたちに頼んで調査させた被害報告だった。港のほとんどの施設及び船舶についてはほとんど無傷で済んだが、

「養殖用の生け簀ですよね……」

 船舶の通り道から離れたところに、実験的に設置していた生け簀。かなり大規模であったそれの一部が、あのタコに襲われたらしく壊れていたという。その衝撃で死んだ魚も付近に浮いていた。

「やるだけやってみるか」

 ゼータ嬢が背中のバックパックから袋を取り出す。そのついでに水筒も取り出して、一口飲んでタウへ渡した。

「ありがとうございます」

 へらへら嬉しそうに受け取って飲んだタウに顔をしかめつつ、ゼータ嬢が袋から例のカケラを取り出して。

「ほらよ」

「……私か?」

 突き出されたそれを受け取ると、ゼータ嬢は当然のような顔をした。

「ガンマでもいいっちゃいいけどよ。どっちにしろ俺ら以外だ」

 隣を見やり、氷色の目に首を振る。

「分かった。私でいいだろう」

 小舟を借り、四人で乗り込む。漕ぎ手はガンマに任せた。近くに寄ってみれば、そのままにしておくようにとの言いつけが伝わっていたのだろう、木々や網のかけらと共に目の濁った魚が波間に浮いていた。

「よし」

 膝立ちになり、カケラを握り込む。タウが隣で短杖を構えたのが見えた。

 ふと思う。願いが叶う、というのは副作用なのだと聞いた。ひとの些細な願いを叶えることなど容易いほどの力が、このカケラを浄化するというただそれだけで発生するのだという。

 まぶたを伏せる。タウの声が聞こえ、カケラが光を発する。どの聖霊の術とも違う、無色の力。

 それほどに、おぞましいほどの力であるというのに。

「……やっぱり、なんだな」

 ゼータ嬢の落胆した声に目を開ける。壊れた生け簀のかけらは無くなり元の枠組みが出来上がっていたが、死んだ魚はそのままだった。

 生き物の失われた命は、この願いの力をもってしても元には戻らない。

「この力は」

 神に及ぶほどではないのだな、と感じたのだ。

「……イオタ様?」

 部下の案じる声に、首を振って口角を上げる。

「何、私は大事ない。それより港に戻って、ここの後始末の手配をせねばな」

「…………承知しました」

 小舟が動き出す。ふと握っていたカケラを見れば、真っ黒だったそれは透明な結晶に変わっていた。

「ゼータ嬢」

「あ?」

 振り返った女性に、それを手渡す。結晶が太陽を反射したのか、一瞬眩しそうに目を細めた。私には不運にしか見えない彼女だが、それでも選ぶというのだから趣味が悪いとしか思えない。

「……んだよ」

「いや、戻ったらまだやってもらわねばならんことがあるな、とな」

「まだこき使う気かよお前」

 私より、お前の隣にいる男の方がよほど面倒だと思うがな、とは口にせず。

「イオタ、僕たち旅の途中なんですが」

「どうせここまでの報告もまとめていないのだろう、そろそろ出さないと上がうるさいぞ。滞在を許してやるから、そのついでに手伝っていけ」

 ゼータ嬢には祝祭の片付けまで残ってもらわねば困るのだしと、スケジュールを組み上げる。黙ったふたりにガンマが眉を下げていたが、私の采配に口を差し挟むことはなかった。


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