第六の月――商人の青年

「止まないな……」

 ここ連日の雨に、オイラは何度目かのため息を吐いた。

 少し足を伸ばしてみようと思ったのが裏目に出た。この地域特有の雨期に足止めされて、もう何日経っただろうか。仕入れた品物が生ものだったら大損していたところだ。

 街道沿いの宿場町は、外こそ閑散としているが建物の中は盛況だった。宿に併設された飯屋の窓際に陣取って、次々と降る雨粒に打たれる硝子をぼーっと眺めていた。ああ、また誰か不幸な連中が屋根を求めて走ってくる。

 がららん、ドアベルが鳴り響いた。

「うわ、びしょ濡れになっちゃいましたねぇ」

 入ってきたのはひょろっとした金髪の男だ。外した眼鏡に付いたしずくをハンカチで拭って、聖印の付いたコートのポケットと顔とにそれぞれ戻した。巡礼だかなんだかの帰りだろうか、また災難な。

 何とはなしに眺めながらコーヒーを啜っていると、神官の男は後ろを振り向いた。オイラからは見えない扉の陰に連れがいたらしい。

「大丈夫ですか」

「俺はそんな柔じゃねぇよ。お前こそ」

 返した声は女のものだった。カウンターへ向かう男の後について現れたその姿に、稲妻のような衝撃が駆け抜ける。

 思わず目で追ってしまうほどの美人だった。髪紐を解いた濡れた長い髪は生命力溢れた新芽の色で、切れ長の瞳は凜とした雰囲気によく合っていた。連れの男に引けを取らない身長に均整の取れた体つき、もったいないくらい野暮ったい服装とマントを身につけた姿は、話に聞く神官の護衛というやつだろうか。

「はー……」

 思わず感嘆の息を吐く。目を奪われたのはオイラだけじゃないだろうが、注目の的はそんな視線も気にする様子はなかった。

 壁際に寄りかかったその美女に、カウンターから戻ってきた男が駆け寄った。へらへら笑顔の男に対して女性は仏頂面のままだ。と、そんな様子にも怯まない男が袖にベルトでくくりつけていた木製の細工品を左手で握った。神官が使う短杖たんじょうというやつか。

 それを何度か振って、何をしたのだかまではよく見えなかった。が、女性が結わき直した髪が乾いていたから、多分精霊術を使ったんだろう。随分便利で羨ましいことだ。

 それが済んだのか短くやりとりをして、女性がぐるりと辺りを見回した。その顔がオイラの方を向いて、目が合う。美人の真顔って怖いなと固まっている間に、横の男に頷いて歩いてくる。……歩いてくる?

「すみません、相席いいですか?」

 話しかけてきたのは男の方だった。笑顔の人当たりのよさは見習いたいもんだ。

「構わないけど」

 とにかく目つきの悪さが誤魔化せるようにと全力の笑顔で対抗する。ついでに湿気で跳ねた赤髪もさりげなく整えた。

「ありがとうございます」

 お前のためではないけどなというのは口に出さず、男の後ろに立っていた女性へ目を移す。

「雨の中大変だったよね、とりあえず座ればいいよ」

「ああ」

 少し驚いた顔をした彼女に隣の椅子を引いて示す、が。

「何か温かいものでも食べたいですねぇ」

 割り込んできた男が座りやがった。思わず睨むとわざとらしく笑われる。この野郎。

「そうだな、腹減ってるし」

 そんなことしてる間に女性は自分でオイラの向かいに座ってしまった。壁のメニュー表を眺める彼女に、ここぞとばかりに制覇したメニューの情報を披露する。

「温かい料理なら、オススメはドリアかな。肉も野菜も乗ってて腹にたまるし。ただ出てくるまでに時間かかるから、そこの端に載ってるスープかシチューもいいかも、速いし」

「ドリアか」

 女性がオイラに向けてふっと笑う。

「ありがとよ」

「ゼータ」

 そこにまた割って入ってきた男が、女性の名前らしい単語を馴れ馴れしく呼んだ。折角の視線が男に向いてしまう。

「ここ、まだ乾いてないです」

 ぐいっと袖を引く男に向かってゼータちゃんが顔をしかめた。

「危ねえだろうがお前」

 まったくもってその通りだ。だが男は引き下がらず、再び短杖を彼女の肩に向けていた。近くで見れば、木材を削り出した中へはめ込んだ輝石に強い光が集った熱源が灯っている。

「風邪でも引いたらどうするんですか」

「んな大げさな」

 言いながらも、それこそ力づくで振り払うのは危ないと分かっているんだろう。おとなしくされるがままのゼータちゃんへ、

「けど確かに、体は大事にしなくちゃだよ」

 そこのと同じことを言うのは癪だが、それでもと口にした。

「お前も心配性かよ」

「油断は大敵、ってだけさ。それから」

 手を差し出し、

「オイラはダームス。商人だよ、どうぞご贔屓に」

 名乗ったオイラへ、砕けた笑顔で。

「ゼータだ、よろしく」

 左手で握手に応じてくれようとした、というのに。

「僕はタウです」

「そっちは訊いてない」

 三度割り込んできた握りたくも無い手を振りほどいて、そんなオイラたちにゼータちゃんは何してんだみたいな顔をした。



 他人が食べていると美味そうに見えるのは何故なのか。

 今日は軽くで済ませようと思っていたのだが、目の前でスープを啜るふたりを見ていたらオイラも腹が減ってきて、今テーブルにはドリアがふたつとミートソースの乗ったトーストがひとつ運ばれてきたところだった。

「それで足りんのかよ」

「僕は充分ですよ」

 トーストを囓るタウに言ったゼータちゃんは、大きなスプーンで掬ったドリアを吹き冷ましていた。オイラも自分の分を引き寄せて、表面の焦げたチーズをスプーンで割る。敷き詰めたバターライスの上に根菜と焼いた肉たっぷりのクリームソースをかけてチーズを乗せたドリアは、今日も美味い。

「ああそうだ神官さん」

「なんですかその呼び方」

 お上品にちまちま食べてるところをスプーンで指すと、嫌そうな顔をされた。

「キミって光聖霊レイティス様の神官だよね」

 ひとにはそれぞれ聖霊の加護がある。生まれ持った加護は体にも影響を及ぼして、特に力の籠もりやすい髪や目にはそれが色になって現れる。黄にも近い濃い金髪は、光の聖霊に護られたやつの特徴だった。

「そうですけど」

 答えたタウの横で、ゼータちゃんが給仕の女の子にスープのお代わりを頼んでいた。

「他の聖霊への祈祷って出来る?」

 眼鏡を直そうとして、手が汚れてんのに気がついたらしくそのままテーブルへ下ろす。

「出来ますよ。代行することも多いですから」

「なら、後で頼みたいことがあるんだけど」

 そこまで言って、再びドリアを一口。入れ替わるようにゼータちゃんが喋った。

「何の話だ?」

「僕の仕事がありそうだなって話です」

 そりゃもう分かりやすく声色の変わったタウだが、へえと興味なさそうに返されていた。

「ゼータ僕の護衛官ですよね……?」

「何を今更言ってんだ」

 見るからにしょぼくれたタウよりも目の前の食事が大事とばかりに、ゼータちゃんはスプーンを動かしている。下品じゃないのにめちゃくちゃ食べるスピードが速い。

「ああそこの、これお代わり」

 再び空のスープ椀を給仕に見せる姿に、ただ感心してしまう。

「ほんとによく食べるね」

「まあな」

 にい、と笑うのもやけに似合っていた。

「それこそ体力勝負なんだよ。食うのも仕事ってな」

 護衛官、というからには確かにそうなのだろう。それにしては、マントを外した後も武器の類いが見えないが。

「だからな」

 新しいスープを届け、空の器を片付けた給仕を見送って。

「その頼みたいこと、ってのが危ねえことなら、やらせねぇのも俺の仕事だ」

 真剣に言っているのは分かったから、オイラも真顔になった。

「危なくないのは保証出来る」

 当事者の神官も手を止めていた。オイラはズボンのポケットに入れていたロケットペンダントを取り出してテーブルに乗せた。

「もうすぐオイラの親父の命日だから、祈ってほしいんだ」



 オイラの部屋はここの二階に取ってあった。ゼータちゃんたちの部屋もいくつか隣だそうだ。

「空いててよかったですよ」

 階段を上りながら呟いたタウに、オイラはこっそり訊いてみた。

「……部屋、別だよね」

「あったりまえだろ」

 答えはその後ろ、呆れ顔のゼータちゃんがくれた。

「ゼータがどうしてもって言うので」

 露骨に残念そうな様子があまりにも俗っぽく、

「キミ神官だよね?」

 思わず訊いてしまったら、心外ですねと返された。

「きちんと日々清く正しく生きてますし、教えも守ってます。それにひとを想うことも聖霊様の教えの通りですとも」

「フレイアル様の言う愛はキミのそれほど邪じゃないと思う」

 オイラに加護くれてる聖霊様をなんだと思ってるんだ。

「僕のどこが邪なんですか」

「だって」

 オイラが指した先で、ゼータちゃんが冷ややかな目をしていた。そういうことだと思う。

 ぶつぶつ未練たらしく呟いてるのを無視して、廊下を進む。

「ゼータちゃん、部屋は?」

「二一三、だな。この辺だよな」

 空いてる部屋はほとんど無いと思っていたが、案の定部屋は離れていたらしい。ひとり鍵を開けたゼータちゃんが、

「タウ」

 背負っていたバックパックから袋をひとつ、出してタウへと投げ渡した。アンダーパスの緩やかな軌道だったが、

「ぶっ」

 顔面で受け止めていた。どんくさい奴。落ちた袋を拾ってやると、布しか入っていなさそうな軽さだ。

「それだけありゃいいだろ。俺は寝るから起こすなよ」

 ばたんと閉じた扉に茫然として、そして肩を落とすタウ。そいつに袋を押しつけると、へこんだ声のまま礼を言われた。

「護衛っていうけど、離れてもいいもんなんだね」

「……ここは治安いい方ですし」

 深々とため息を吐いて歩き出したタウの持つ鍵は、オイラの部屋の斜め向かいの部屋番号だった。さほど広くない廊下を前後に並んで歩けば、さしたる時間も掛からず目的地に着く。

「じゃあ明日の昼間ってことでいいんだね」

「ええ、こちらも準備しておきます」

 言って、タウが鍵を差し込んで。

「それと」

 用を終えた鍵を手のひらで弄びながら、オイラを見た。

「ゼータに余計なちょっかいはかけないでくださいね」

 それを笑顔で言えるこの男が、同業だったらさぞ面倒だっただろう。



 あれだけ酷かった雨は昨夜遅くから小降りになり、朝食が終わるころには日が差しはじめていた。

 宿を引き払ってそれぞれに支度を済ませ、建物の前で合流する。今日はヘアバンドで前髪をびったり留め、整った顔を惜しげも無く晒しているゼータちゃんに向かい手を振ると、かすかに笑って振り返してくれた。

「待たせたかな」

「いや、気にするほどじゃねぇよ」

と、オイラの引いてきた屋根付き荷車をタウが覗き込む。

「絨毯や工芸品が多いんですね」

「オイラもこの辺りは初めてでね。調査中なのさ」

 品物になるものの調査もそうだが、移動の経路や所要時間、ひとびとの求めるもの、調べることは山ほどある。

「それで、心当たりってのは遠いのか?」

 晴れを待ちわびていた旅人の行き交う道から宿場町を見渡して、ゼータちゃんが振り向いた。オイラはそれに首を横に振って答える。

「いいや、宿場町を出てすぐだよ」

「天気が悪くなる前に済むといいですね」

 オイラが指し示した方向へ歩き出したふたりを追って荷車を引く。ひとの喧噪を外で聞くのも久々だ。

「そういえば」

 街道に出れば、同じ方向に歩いて行くひとも減っていく。それぞれの目的地に向かっていく誰かの背中を見ながら、同じところへ向かう相手に声をかけた。

「ゼータちゃんはどうして旅してんの?」

「こいつの護衛だよ」

 こいつ、と指した相手もオイラを振り返る。

「ゼータは僕の護衛ですから当然ですよね」

「いやそういうことじゃなくて」

 自慢げな顔が非常に腹立たしい。苛立ったオイラに気づいているのかいないのか、タウはそのまま話しはじめた。

「探しているものがあるんです」

「へえ。……あ、そっち」

 聞きながら、街道を外れるように指示をする。荷車は動かしづらくなるが、予想はしていたので補強済みだ。

「ただ、はっきりした場所は分からないので。だいたいで付けられた見当をもとに、周辺を総当たりしてるんです」

「それはまた」

 面倒な。後半は口にしなかったが、伝わってはいるだろう。

「行けばすぐ見つかる代物なのかな」

「場合によりけりだな」

 ゼータちゃんが左耳につけたイヤリングを触っていた。緑のような空色のような大振りの輝石を金で飾った細工品だ。

「近くに行けば向こうから反応する、こともある」

「向こうから、って、動くの?」

「動く場合もあります」

 何だか随分面倒なことらしい。

「ゼータちゃんも頑張ってんだなぁ」

「へ、ああ、ありがとよ」

 素直に呟くと照れたようにはにかんだ。しかしその表情が陰る。

「でも足りねぇよ。まだ」

 何かを後悔したような顔が気になった。が、

「ダームスさん」

 声をかけるより先に呼ばれて、そうして見た先の顔に言葉を飲み込んだ。

「……この辺りでいいんじゃないですか?」

「あ、ああ。そうだね」

 いつの間にか随分進んでいたらしい。聞いた通りの草原は見通しよく、ちらちらと野の花が揺れていた。

 今朝タウに頼まれたものを荷車から取り出す。途中からゼータちゃんも手伝ってくれた。

「この辺りか?」

「はい」

 ごとん、と置いたのは、オイラの腰ほどの高さがある木製の簡素な台だった。タウが肩にかけていたショルダーから真っ赤な布を取り出し、台にかける。布はかなり質が良さそうな上、金の糸で複雑な刺繍がびっしりと施されていた。

「昨日のロケットを、ここの中央に」

「ああ」

 ポケットから取り出した親父の形見を、刺繍が作った円の真ん中に置く。台を挟んだ向こう側で、左手に例の短杖を持ったタウが立っていた。

「では祈りの前に、故人について伺えますか?」

 風は穏やかで、神官の声も凪いでいた。

 故人。オイラの親父は。

「親父は、師匠でもあったんだ」

 明るくて口が上手く、それでいて頭も良かった。オイラも商人になりたいと言ったらとても喜んで、けれど習う最中にはたくさん叱られた。

「自慢の親父で、今でも一番尊敬してる」

 あちこち駆け巡って、体を壊して。それでも最期まで、オイラに笑いかけていた。

「最期に、お前が跡を継いでくれるなら、大丈夫だなって言ったんだ」

 熱いものが込み上げていたが、見せたくはなかった。言葉を途切れさせたオイラが何とか顔を上げると、癪に障るくらい優しい顔でタウが笑っていた。

「……ダームスさん。共に祈ってください。六の聖霊と一の神の御許で、お父様が安らげるように」

 促されて、手を祈りの形に組む。そのまま目を伏せた暗闇の中、落ち着いていた雰囲気が。

「――タウっ!」

 ゼータちゃんが叫んだ、その瞬間に揺らいだ。

 反射的に目を開け声の方向を見れば、少し離れていたゼータちゃんが走っていた。みるみる近づいてくる彼女が見ているのはオイラたちの向こう側。

「タウ動くなよッ!」

「はいっ?」

 呼ばれた男が固まった、そこめがけてゼータちゃんが踏み切った。オイラの目線と同じ高さにあるタウの肩に片手を着いて、空中――いや、宙からオイラたちへ襲いかかろうとしていた何かへ、

「はあッ!」

 革製の固そうなブーツでハイキックをかました。獣の呻き声と共に謎の影は吹き飛んで、ゼータちゃんはオイラたちの前に着地する。

「ダームスさんこっちに」

 台から赤い布をむしり取ったタウは切羽詰まった様子で、何だか訳の分からないまま着いていく。と、

「返しておきます」

「っと」

 渡されたのはペンダントだった。頼り綱のように感じて握り締める。

 ひとまず荷車を置いた辺りまで下がって振り返り、ようやくソイツの姿を捉えた。

「……何だ、あれ」

 形だけなら四つ足の動物、犬辺りが近いだろう。ただその高さはひとを超え、全身が光を飲み込む黒に染まっている。尻尾はどういうわけか三本もあり、それぞれが大蛇のようにのたうちまわっていた。

 ひとり対するゼータちゃんは一瞬だけオイラたちを見て、すぐに化け物と睨み合う。その右手が、左耳に触れた。そのまま右手が何かを、あのイヤリングを真上へ放る。

 途端、突風が吹き抜けた。

「うわっ!?」

 草がさざめき服や髪が暴れる。けどその中でひとつだけ、清冽な光に抱かれて浮かぶ輝石だけが微動だにせず風に巻かれていた。

 ゼータちゃんが手を伸ばす。風が形を成す、そうとしか言いようのない現象が起きて、ほんの一時の嵐が止んだ。

 イヤリングの輝石を核にして出来上がったのは、ゼータちゃんの身の丈とほぼ変わらないサイズの大きな鎌だった。慣らすように両手で軽々と振り回されたそれに、挑発されたと感じたのか化け物が高く吼えた。

「ひえ」

「ダームスさん」

 腰を抜かしかけたオイラを支えたのは、隣に居たタウだった。いつの間にか短杖を握り、前線を見る目は真剣だ。

 鼓膜を暴力的に殴ってきた咆哮に怯む様子もないゼータちゃんへ、化け物が俊敏に飛びかかった。巨体が降ってくるというのに逃げ腰になることもなく、鋭い爪が体に刺さるその直前まで引きつけて。

「――っらぁあッ」

 片足を軸に、ぐるんとゼータちゃんが回った。半回転しながら前足に鎌の刃を引っかけ、降り来る体から飛びずさって回避する勢いが加わる。凄まじい切れ味らしい曲刃は、そのままいとも容易く化け物の片足を持っていった。

 グォアアアッ!

 苦痛か怒りか、化け物が叫ぶ。体勢を崩したソイツに巻き込まれないよう、さらに距離を取ろうと跳んだゼータちゃんの目の前で三本の尻尾が暴れ出した。

「ちっ」

 まだゼータちゃんはその勢いを受け止められる状況にない。防御が間に合わない。

「盾を!」

 声はオイラの隣からだった。ゼータちゃんを真っ直ぐ指し示した短杖の輝石は太陽のように目映く、それと同じ光が彼女の周りに壁となって現れる。振り回された尻尾は、その勢いそのままに弾き飛ばされた。

 ぐらつきつつも着地した化け物へゼータちゃんが向き直る。その姿に負傷した様子が無いことにほっとした。

 ウ、グァウッ

 不意にぐりんと化け物の首が回った。駆け出すゼータちゃんに構わず、ソイツはオイラたちへ跳んでくる。

「うぉわっ」

「危ない!」

 狼狽えたオイラをタウが突き飛ばし、勢い余ってふたりとも地面に転がる。すっとんできたソイツが過ぎ去っていく風圧にゾッとして、直後に聞こえた破砕音。

「あ……」

 オイラたちの代わりに化け物の体当たりを食らった荷車はひとたまりもなく大破していた。絶句したオイラを、煩わしそうに見下ろすソイツの無機質な瞳。

 その視線を、鮮やかな緑が遮った。

「せ、らぁッ」

 オイラの前で地を蹴って、ゼータちゃんが思いきり横薙ぎに大鎌を振るった。その刃先は化け物の横っ腹へ迷い無く突き刺さる。

 化け物の動きが止まった、その隙を見逃さずにゼータちゃんが呼んだ。

「タウ!」

「はい!」

 立ち上がったタウが、短杖に両手を添えて突き出し、祈る。

「――我が身、我が声を以て請い願う」

 その声は静かに歌い上げるくせに、やけに響いて聞こえた。

「希望の体現、照らし導く光の聖霊。汝が慈悲にて、彼の者に安息を」

 再び短杖の輝石に宿った光は、今度はそれに留まらず湧き出て神官の全身を、そして化け物を包み込んで広がった。光を反射する眼鏡の向こうで薄く開いた目は、茶色に光を受け取って金に輝いて見える。

 溶かされ解かれていく化け物の居たところには、光が止んだ後には小さな石と既に朽ちた犬の骨だけが転がっていた。



「……悪かった。怪我、無いか」

 茫然と見守っていたオイラに、気まずげな声が降ってきた。見上げた先にいたゼータちゃんの手には既にあの大鎌は無く、代わりに左耳でイヤリングが光っている。差し出された左手を有り難く握って立ち上がるが、まだぐらぐらと揺れるような心地がした。

「いや、オイラは平気だよ。ゼータちゃんこそ」

「俺は慣れてんだ。……けど、その」

 うろうろ視線を彷徨わせる、申し訳なさそうな様子の理由はおそらく。

「あー、荷車は……。どうするかな」

 積み荷ごと潰された荷車は非常に悲惨な状態だった。途方に暮れてはいるが、暮れたところでどうしようもないとは思うほど。

「ダームスさん」

 化け物跡地に行っていたタウも戻ってきた。その手には、男の手のひらより二回りほど小さなサイズの黒い石がある。化け物の名残、とでも言うべきだろうか。

「すみませんでした。こちらの事情に巻き込む形になってしまって」

「事情か」

 眉を下げたタウの言葉に、なんとなくの予想が当たっていたことを確信する。

「ってことは、あの化け物がキミたちの探してるものなんだね」

 驚いたゼータちゃんとは裏腹に、タウは曖昧に笑った。いくらオイラたちより神秘に近い仕事とはいえ、動じなさすぎていた自覚はあったらしい。

「そうなります。それでですね」

 タウは、オイラの荷車だったものに目をやった。

「お詫びに、あれを弁償させていただきたいんです」

「え?」

 それは確かに有り難い。が、

「言っとくけど、あれ高いよ。積み荷の損害も考えたらかなり」

 どれほどの見識が神官にあるかは知らないが、価値の見極めの前に軽々しく口にすることじゃないだろう。しかし金髪の神官は緩く首を横に振り、持ったままの石をこちらに示した。

「この石には、ひとつだけ願いを叶える力があるんです」

 おとぎ話のようだな、と思った。それだけ現実離れした話に感じたが、タウの顔は真剣だった。

「僕たちはこの力を、貴方が言うところの化け物によって被害を受けた方に使うべきと考えています。この場合、一番の被害者は貴方です」

「危険は?」

「無いと保証しましょう」

 オイラはタウの後ろをちらりと見た。目が合ったゼータちゃんは、真っ直ぐな瞳で頷いた。

「信じてくれ」

 彼女が言うなら、充分信頼出来るだろうと。容姿に惑わされたわけじゃない自信と共に、手を伸ばした。

「分かったよ。……オイラも、こんな事態に余計な貸し借りはしたくない」

 おそらく、オイラが願えば荷車どころじゃない願いも叶ってしまうのだろう。ただ、それは身の丈を超えた事態だ。自分の身の程を知らない輩は自滅する。価値の見極めを誤るような男には、なるつもりはなかった。

 渡された石を受け取ろうとして、ロケットペンダントを握ったままだったことに気がついた。しまった代わりに受け取った石はひやりと冷たく、それを握り込んで、願う。オイラの熱が移ったのかじわじわと温まっていく石が、それにつれて光り出して、開けていられなくなった目を閉じて。

「ダームス」

 呼ばれて、目を開けた。

 握っていた石は、澄んだ水晶の色味へと変じていた。タウにそれを渡して、視線を動かせば。

「……おお」

 それしか出てこなかった。オイラの荷車は、何事もなかったかのようにその場に佇んでいた。

「中も確認してみてください」

 促されて、懐から帳面を取り出す。ひとつひとつ点検したが、欠品はひとつもなかった。オイラの表情が晴れていたのだろう、ふたりの顔も明るくなる。

「では」

 こほん、と仕切り直すようにタウが咳払いした。取り出したのは赤い布。ゼータちゃんが引きずってきた台は、奇跡的に無事だったようだ。

「よければ仕切り直しませんか」

 再びペンダントを引っ張り出す。オイラの前に立つ神官にとっては、あのとんでもない事態もオイラの頼みも、等しく行うべきことらしい。


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