#3-5

 

 「キャーッ!」


 指差されたままに当てもなく右や左へ歩いていた少女の耳に、空気を切り裂く鋭い悲鳴が刺さる。その声に駆け付けた少女の目には、薄暗く物静かな通路で大きな本を辺り一面に放り出し、小さく震えた女性の姿だった。艶やかに流れる山吹色の髪をハーフアップにし、青磁色の美しい衣装を着ている。少女が歩み寄り、肩に手を置くと「ひっ」と小さな悲鳴を上げる。


 「大丈夫、かしら?」

 

 少女の問いに女性は人差し指を一本突き出し、震えながら自分の前方を指示した。プルプルと定まらない指、そして何度も「魔の物、魔の物」と繰り返す。


 「魔の物?」


 少女がその指差す先を確かめると、手のひら大の蛙がこちらをじっと見ていた。緑色に迷彩模様、飛び出した目に顔いっぱいまで広がる大きな口。何ともふてぶてしい表情に見える。


 「魔の物って、蛙じゃないの」

 「近づいてはいけません!」


 蛙に近づいた少女の手を女性がぐっと引く。少女には何をそんなに怯えているのか少しもわからない。


 「どうしてそんなに怖がるの?」


 少女が尋ねると女性は蛙の方をちらちらと警戒しながら話し出した。


 「そのものはダドゥーといって、生まれたときは手足のない魚のような姿をしているのです。しかし、欲深いダドゥーは他の者を食べ、そうしてその者の手足を取り込んで自分のものにしてしまう恐ろしい魔物なのです。近づくとあなたも食べられて、ダドゥーの一部にされてしまいますよ!」


 恐ろしい!と自身の目を覆う女性と蛙の顔を交互に見比べた。この世界のことはまだよく理解できていないが、この少し大きめの蛙がそんなに恐ろしい存在だと少女はどうしても思えなかった。震える女性を背に蛙に近づくと、そのまま手に蛙を乗せて観察する。その間もじっと動かない割と大人しい蛙のようである。


 「キャーッ!」


 少女が蛙を手にしていることがわかるともう一度女性は叫んだ。そしてその声に少し驚いたように目を見開いた蛙が少女は少し可愛いとも思った。

 

 「平気よ、これは魔物なんかじゃないわ。おそらくベルツノガエル、大きさ的にその雌ね。確かに肉食だけど、この子は昆虫や節足動物なんかを食べるのよ、人は食べないわ」

 「…では、虫の手足を自分の体に?」

 

 女性が不安げに尋ねる。


 「だとすればこの子の足は6本になっているはずよ。蛙は幼体から変態してこの姿になるの。ただの成長、取り込んでいるわけじゃないわ」

 「…本当に人は食べない?」

 「ええ、蛙が食べられるのはせいぜい蛇くらいじゃないかしら。人食い蛙なんて、安いホラー映画みたいだわ」

 

 深く深呼吸を繰り返し少し落ち着きを取り戻した女性は立ち上がり、お尻をぱんぱんと叩く。少女は蛙を見つめ、

 「安心して。あなたに興味はあるけど解剖したりしないわ」と言って窓からぽいっと逃がしてやった。


 女性が散らばっていた本を拾い上げる。少女も「手伝うわ」と言って一緒に本を拾った。


 「ありがとう。私は書記官補のセネス。あなた勇気があるのね」

 「いいえ、私は知恵があるだけよ」


 高く腕の中で積みあがっていく本を支えながら少女が言う。


 「それよりセネス、書記官補って?」

 「父が書記官だから、私はその見習い。この本を書蔵庫へ運んでいるところだったの」

 「父が書記官…つまり家業を継ぐ形なのね。他の人もそうなの?」

 「ええ、大抵はそうだと思うわ。商人の子は商人に、鍛冶屋の子は鍛冶屋に。そして…」

 「奴隷の子は奴隷ってわけね」

 「ええそうよ。奴隷の場合は例外もあるけど、みんな生まれたときにそれぞれ道が決まっているものよ。さあ、本を」

 

 セネスに促されて本を渡そうとしたが、セネスの腕に積みあがった本の上には身長的にどう頑張って乗せることはできなかった。


 「このまま、書蔵庫まで運んでいくわ」

 「何から何までごめんなさいね。あなたの仕事もあるのに」

 「いいのよ、私奴隷だもの。力仕事は得意なの」


 本当は一日中飲まず食わずで働きづめでだったせいで、体のあちこちが悲鳴を上げていた。それでも王宮の書蔵庫には興味がわいた。少女はふうっと息を吐きだし気合いを入れなおすと、重い書物を手にセネスの後ろをついていった。時々振り返り微笑みかえるセネスを見て、美しい女性だと少女は思った。

 書蔵庫は物々しい扉に閉ざされた厳重な場所であると少女は思っていた。しかし実際は鍵もかかっていない質素な扉の奥に広がる小さな部屋だった。セネスにそのことを尋ねると、「書蔵庫なんて誰も興味ないわ。この部屋に来るのは私くらいなものだから」と答えた。壁一面に備え付けてある書棚に朱色の背表紙が整然と並ぶ。そこへセネスが持ってきた本を分けて書蔵していく様を見て、いくつかの種類の本がきちんと分類されて収まっていることを少女は知った。

 目の前にあった一冊の本を何気なく手に取ってみる。

 

 ーやはり読めないわ。


 少女にはそこに何が書かれているのか理解できずただパラパラとページを捲っては表面を撫でるくらいのことしかできなかった。


 「でも手書きじゃないのね。活版印刷がもうあるの?」


 「かっぱ…え?」


 セネスには少女の言う意味が伝わっていなかった。呼び名が違うのだろうか。

 

 「この本が作られている方法を知りたいのよ。どうやって記されているの?」

 

 セネスが笑う。

 

 「あなた、本に興味があるの?でもだめよ、神聖文字は書記官しか扱えないの。代々受け継がれている方法なのよ」

 

 どうやら本を記すことができるのは書記官の家に生まれたものだけだという。それほど、本というものが貴重な世界なのだろうか。


 「ということは、あなたもその神聖文字を?」


 「まだ少しよ。私はまだ見習いだもの。でもきっと、父のような立派な書記官になるわ」


 窓からの日の光に照らされて、セネスの髪がきらりと輝く。その決意に満ちた姿に少女は少し見惚れていた。彼女の姿がいつか、遠い昔の自分と重なる。


 「ねえセネス、ここはなんて書いてあるの?0と7みたいに見えるのだけれど」


 少女は適当に開いたページの一節を指差して尋ねた。


 「ここはね、光暦307年神は大聖堂に新たに嘆きの御柱を建立、と書いてあるのよ」

 「待って、もう少しゆっくり」

 「ほら、ここで光暦、ここで307年、ここがソアポル、神様の名前よ」


 少女はセネスに一語ずつ尋ね、その文章を読んでいく。言語としては元居た世界のゲルマン語派に近いように思えた。そしてこれなら語彙さえ増やせば理解できそうだと彼女は思った。


 「ここにもソアポルの名前が出てくるわね。それにここは0が二つ、そしてここがまた大聖堂だわ」


 少女は少し興奮気味に本の文字を辿っていく。それまで謎めいた少し世界が少しだけ自分に近づいてくるような感覚だった。 


 「あなた覚えるのが早いね」

 「あなたが教えてくれた単語を見つけているだけで、読めているわけじゃないわ」


 そんな少女をセネスは感心そうに眺めていた。端から見ると仲睦まじい姉妹のように見える。少女の口調は少しばかりおかしかったが。


 「ねえあなた、私に字を教えてくれない?」


 突然の提案にセネスは少し戸惑った。今しがたあったばかりの奴隷の少女に文字を教えてもいいものか、彼女の中に判断の為の前例がない。


 「ね、いいでしょ。暇な時間を見つけてでいいのよ。この部屋で少しずつでいいから」


 尚も詰め寄る少女の輝く顔にセネスはぷっと吹き出して「ええ」と言った。


 「さっきダドゥーから助けてくれたお礼に特別に教えてあげるわ」


 そんな笑顔に少女もふふっと笑顔になった。何かに満たされた気持ちになったのは久しぶりの感覚だった。


 「セネス、さっき生まれたときに生きていく道は決まるけれど、奴隷は例外もあるって言っていたわよね」

 「ええ」

 「あれはどういう意味?」

 「どうって…」


 少し困ったようにセネスは口ごもる。


 「奴隷は…奴隷の子は奴隷だけれど、別の仕事をしていて売られて奴隷になる人もいるのよ。あなたがどうかはわからないけれど、そういう不幸な道に突然放り込まれる人もいるの」


 セネスはばつが悪そうに顔を背けたが、少女は構わず続けた。


 「そうね、私もどうやらこの年で父母と話されて奴隷商人に売られたみたいなの」

 「そうなの…」

 「そんなことはどうでもいいのよ。奴隷制っていうのは絶えず労働力を求めているから、人身売買の末に奴隷になるなんてすぐにわかることだわ。問題は、奴隷は一生奴隷なのかどうか。つまり奴隷から一般市民に階級が上がる方法はないの?」


 詰め寄る少女に目を丸くしたセネスが「あるにはあるけど…」と呟く。


 「あるのね!解放奴隷制があるのね!その方法を知ってる!?」

 

 「それは…」とセネスが口を開いた時だった。少女の背にあった扉がゆっくりと開き誰かが入ってくる。少女越しに見ていたセネスはその人物がわかると膝の上で開いていた本を床に落としながらサッと立ち上がった。緊張した面持ちで固まっているセネスを見てから少女は振り返り呟く。


 「バルディエス…」


 部屋に入ってきたのはあの王子・バルディエスだった。少女の顔が曇る。


 「で、殿下、ご機嫌いかがでしょうか。こ、このような場所にど、どうして…。何かお探しものがございましたか?」

 

 泣き出しそうなセネスのほうなど一瞥することもなく、バルディエスはにたりと笑って少女を見ていた。


 「何の用?」


 昨夜の出来事が蘇ってくると少女の声は今までの興奮が嘘のように冷め切っていった。


 「いいや、面白そうな話が聞こえてきたんでな。なんだ貴様、奴隷から解放して欲しいのか」


 どうやら生意気な少女が足掻いている姿がバルディエスにはたまらなく愉快なようだった。少女は目を細めてバルディエスに返す。


 「おかしいわね、王子がこんな王宮の隅にたまたま来ていて、私たちの話を聞いていたということかしら。いえ、あなた、本当は私を捜していたんでしょう?」


 少女の言葉にわかりやすい動揺を見せるバルディエスは「バカ」だのなんだのと喚いていた。少女はそんなバルディエスを無視してセネスに尋ねる。


 「それで奴隷から解放される方法ってなんなの?」


 するとセネスではなく、少女の後ろのバルディエスから答えが返ってきた。


 「俺だ」

 

 くるりとまた少女が首を振り睨む。


 「お前は俺の奴隷なのだから、俺が自由に決定できる。つまりお前が俺に許されれば、晴れて奴隷から解放されるんだ」

 「ではどうすればあなたは私を解放するのかしら」

 「奴隷は自分の自由を金で買うもんだ。だから俺に金を払えば考えてやらないこともないな。貴様は銀貨2枚だからその100倍の金貨2枚でどうだ?」


 少女は両手を広げる。

 

 「あなたもご存じの通り、私は一銭も金品は持っていないわ。つまりその方法では無理と言うことね」

 「そうだな」


 バルディエスは満足そうだった。


 「では主人、その他の方法について交渉をしたいのだけれど」


 少女の言葉にバルディエスは「生意気に」と呟いた。


 「では俺を楽しませてみろ。3週間後に騎士たちによる森への遠征がある。そこにお前も参加しろ」

 「バルディエス様!そんな!」

 

 セネスが叫ぶとバルディエスが彼女の方を睨んだ。再び俯いた彼女はそれから口を堅く閉じる。


 「参加して、それから?」と少女が問う。

 「それだけでいい」


 バルディエスはそう答えただけだった。少し考えた後に少女は「わかったわ」と頷く。

 もちろん、それが簡単なことではないことがバルディエスの表情からわかる。もしかすると命の危険がはらんでいるのかもしれないが、今の少女にはそれ以外に道はない。大人しく奴隷としてこの世界で一生を終える気はさらさらなかった。


 「あなた、だめよ」とセネカが諭す。しかし少女はしばらくバルディエスと睨み合ったまま、目線を外さなかった。




―なるほど。つまり私は自分で自分の道を切り開かないといけないんですね。



 第4話へつづく。

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