#3-4



 南西からの風を受けて王宮の旗が流れる。


 朝から水汲みに浄水と水ばかり相手にしていた少女は厨房を後にしてしばらく空ばかり眺めていた。柔らかい風が少女の頬を撫でると、これが決して夢ではないのだと思い知らされる。


 目を閉じれば、別の世界で生きていた自分の記憶が確かに蘇ってくる。しかし、目を開ければそこには小さな体と見たこともない世界が広がるばかり。そして何より、この世界では奴隷身分なのだとか細い腕に巻く黒い腕輪が語り掛けてきた。


 渡り廊下から見えた小さな庭には黄色や紫といった色とりどりの花が円を描くように咲いていた。花の品種で言えばパンジーに近いが、全体的に白っぽく、頭を揺らすような強い香りが辺り一面に立ち込めている。

 

 ―よく似ているけど、少し違うわね。それにとってもいい香り。


 繰り出した少女は、その中心にあった小さな木製のベンチに腰掛け、拾った木の枝で地面に〇や×を描いていく。その隣には、この世界にはない元居た世界の文字が並ぶ。

 

 「質問、×。意見、×。名前を呼ぶ、×。王宮の絨毯を踏む、×。水汲み、〇。厨房に入る、×。性行為、〇。子どもを産む、〇。…すごいわ、できることなんてほとんどない。これじゃあまるで、よくできない奴隷ね」


 口にしながら地面に文字と記号を描いていくと、それまで明るかった太陽の光が遮られ、少女は顔を上げた。見知らぬ男の子が一人、少女の前に立っている。

 

 柔らかい艶のある髪が風に揺れ、その大きな瞳で少女をまっすぐ見ている。真っ白な顔をしたその子は目が合っても表情一つ変えることがない。


 「何か?」

 

 少女が声をかける。男の子は少女の足元を指差す。


 「かわいそう、やめて」


 指をさした先には先ほど少女が地面にまとめた"奴隷にできること"がある。


 「誰がかわいそうなの?あなたは誰?」

 「僕は僕だ。君と同じ」

 「私と同じというのはどういうことかしら?」

 

 少女はベンチから立ち上がり男の子の前まで歩み寄る。少女より少し小さい身長、おそらく10歳くらいなのであろう。

 

 ―この子が着ている上着…カフタンね。


 少し艶のある生地の衣服は粗悪な布で出来た服を着ている自分と比較して、少女は少しも同じだとは思えなかった。

 

 「かわいそうというのは誰?私のこと?」

 「違うよ」

 「では誰の事?」

 「土だよ。そんなに引っ掻いたら土も痛いよ」

 「土は痛がらないと思うわ」

 「痛がるよ」

 

 男の子は指していた指を下ろして少女に歩み寄る。そして、少女が書いていた文字や記号を手で撫でるようにならして消した。その様子を少女は観察するように見ている。


 「一般的に子どもの思考様式はアニミズム的*思考に基づいていると言われているわ。心理学者のジャン・ピアジェという人が言っているのだけれど、だいたい7歳前後までの子どもが当てはまるの。あなた年はいくつなのかしら」

 「…」

 「しかしこの場合注意しないといけないのは、このアニミズムという言葉はもともと宗教観と切り離すことができない、地霊信仰を指していたという点ね。物に魂が宿るという考え方自体が既に宗教的だわ。エルドリの太陽信仰と併せても、土を傷つけてはいけないというのは、一般的なものなのかしら?それは誰から教わったの?」

 「…」

 「あなたは誰なの?」

 「君は?」

 「私は奴隷。あなたは…奴隷ではなさそうね」


 *アニミズム…擬人化・生命化

 

 少女が答えると、男の子は天を見上げた。つられて少女も空を見る。

 

 「僕は僕だよ。他の誰でもない。君もそうでしょ?」

 「ええ、それはそうね。この世に同一の存在が二人いることはないわ、少なくとも私の常識ではね。でもそういうことを聞いているんじゃないのよ、あなたの名前や階級が知りたいの。おそらく私よりは上の身分であることは間違いないわね。あなた王族?バルディエールという男を知ってる?ここの王子なのよ」

 

 矢継ぎ早に少女が質問を並べると少年は黙ってしまう。10歳には少し質問が難しかったのかもしれないと少女は改めて問いかける。


 「あなた、自分の名前は言える?」

 

 男の子は少女の目を見つめなおし、逆に質問をした。


 「君は?」


 なかなか噛み合わない会話に少女の苛立ちが募る。


 「私は奴隷、だから名前はないの。ここへ来る前は奴隷商のところで奴隷番号07と呼ばれていたわ」

 「そう、僕も名前はないよ」

 

 男の子はまっすぐな目でそう言った。少女をからかっているような様子には見えない。


 「それはあなたも奴隷だから、ということ?」

 「違うよ、君もそうでしょ?」

 「いいえ、さっきも言ったけれど私はこの世界では奴隷なのよ」

 「でも違うでしょ?」

 

 少女はハッとする。そして男の子を睨んだ。

 

 「…どういうこと?あなた、何か知っているの?」


 男の子はまっすぐ少女の右を指差す。

 

 「向こうは行った?ここは広いから、きっと迷子になるよ」

 「あなた、さっきから何の話をしているの?」

 

 男の子は2、3歩後ずさり、それから少女を見て少し笑った。笑顔と呼べるほどではない微かな笑み。すると突然、強い風が吹いて花びらが舞い上がる。

 少女がその風に一瞬顔を背け、再び顔を上げたときにはもう男の子の姿はなかった。

 

 「あれ、どこへ行ったのかしら」

 

 辺りを見渡したが、どこかに隠れた様子はない。まるで風に飛ばされたように消えた男の子を少女は探してみたが、そのうち太陽が陰り湿った風が出てきた。少女は諦めて王宮内に戻る。少女が無意識に歩いた先は、男の子が「向こう」と言った方向だった。

 まるで誘われるように、少女は王宮の奥へと足を進めていく。誰の姿も見なくなった庭には、風に揺れる花と、かすかな香りだけが残っていた。 

 

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