第50話  自分のため

「侵入者だ!」

「くそ! 西の部屋に向かったぞ! 早く捕まえろ!」


 アマンダに手を引かれながら廊下を走るフィンの耳に、そこかしこから人々の叫び声が聞こえ、遠くで金属同士がぶつかる音が響いている。

 未だに慣れない裾の長いドレスが脚に絡まり、何度も転びそうになるが、その度にアマンダが力任せに引っ張るものだから、フィンの肩は捻りあげられたように酷く痛んだ。

 痛いと蹲ることも許されず、フィンはただただ彼女の後ろ姿を見ながら足を動かし続けるしかない。


「おのれ、アマンダ! 貴様裏切ったな!」


 しかし階段で二階に下りた途端、アマンダの足が止まった。フィンが上がった息を整えながら彼女の背中越しに向こう側を覗くと、抜身の剣を手にしたジョルジュが険しい表情で立ちはだかり、アマンダに切っ先を向けて怒号をぶつけていた。


「これまで散々! 散々遇してやった恩も忘れ、ならず者どもを引き入れるとはどういうことだ!」


 犬歯を剥き出し、口の端から唾を飛ばして怒鳴るジョルジュは、紳士然としたいつもの彼とは違い髭も髪もぼさぼさで、紅茶色の目は血走っている。

 すでに交戦してきたのか、腕や頬には切り傷があり、流れる鮮血が上等な衣服を所どころ汚していた。


「あら、裏切ったのはあなたが先ではありませんか。わたくしは、トランティオ公爵に弄ばれて身も心もボロボロになったこの子が見たいからあなたに紹介しましたのに。わたくしから隠して薬作りをさせるなんて。酷いわ」

「なにを言う! 孤児院に金を払ったのは私だ! そいつを買ったのは私なんだ! 私のものなのだから、より利益を生むよう利用して何が悪い!」


 怒りに任せて振り抜いた剣先が壁に当たり、ガリガリッと嫌な音を立てたが、今のジョルジュにはどうでもいいらしい。


「…本当、殿方ってみんな自分勝手ですのね。わたくし、あなたにフィンを隠されてしまったから、仕方なくトランティオ公爵に直接お話に行ったのよ。ヴァラの刻印を持った、利用価値の高い少女をご用意したのに、ケーマス子爵に横取りされてしまったって。なのに公爵ったら協力してくれるどころか、『姉様に叱られるから駄目だ』の一点張りで、ちっとも話に乗ってくれなかったわ」


 アマンダはその時のことを思い出しているのか、頬に手を当てて嘆息した。


「なにッ⁈ トランティオ公爵の姉だと? では既に王族が動き出しているということではないか! ちくしょう! 貴様の言葉に惑わされたばかりにこんなことになって…っ」


 フィンはもちろん知らないが、先々代の王の妹でありトランティオの姉であるラミアは、若かりし頃に隣国へと嫁いでおり、御年八十一となる今でも大変健勝で、講和を結ぶために尽力したヴォルターを甚く気に入っているため、何かにつけて連絡を取り合うほど親しい間柄らしい。

 王族に知られた以上もうお終いだと絶望するジョルジュに、アマンダは追い打ちをかけるように嘲笑した。


「ほほほほ。いやですわ。わたくしはあなたにご相談しただけ。話に乗ったのはご自分でしょう?」


 責任を擦り付けるなと嗤われたジョルジュは、ゆらりと顔を上げると剣を構えてアマンダへと走り出した。


「お前のせいだ! お前のせいだ! お前の! お前のぉぉぉっ‼」


 正気を失った焦点の合わない目でアマンダを睨み、ジョルジュは滅茶苦茶に剣を振り回す。さすがにアマンダも危険だと察したらしく、フィンの腕を掴んだまま、元来た階段をジリジリと戻り始めた。


「所詮あなたは小物なのよ。力のある者にへつらって、利用されるのがお似合いだわ」

「うるさい!うるさいうるさいうるさいぃ! 黙れぇぇぇ!」


 一気に距離を詰めたジョルジュが、頭上に振り上げた剣をアマンダに向かって一直線に振り下ろす。びゅぅっと空を切る音に恐怖したフィンが思わず目を瞑ると、次にはガツンッと鈍い音がしただけで、痛みは襲ってこなかった。


「くっ…、クソッ!」


 そろりと薄目を開けたフィンの目に飛び込んだ光景は、アマンダのすぐ隣で手摺に食い込んだ剣を引き抜こうと足掻くジョルジュの姿と、そんな彼の隙をついたアマンダが、持っていたナイフをジョルジュの顔めがけて突き出した瞬間でもあった。


「ぎゃあああああああっ!」


 耳を劈く男の悲鳴が内壁に反響したのと同時に、ジョルジュは顔を押さえてよろめいた。


「ぐあぁぁぁぁぁっ、痛いぃ! 目が! 目がぁぁぁぁっ」


 前屈みになり手で顔を覆うその指の間からは、夥しい血がぼたぼたと零れ落ちている。

 耐え難い痛みから逃れたいジョルジュは、闇の中をふらりふらりと歩き出し、そのまま二人の横を通り過ぎて———―――階段を踏み外した。

 ドドドッと重たいものが転がり落ちる音がした後、周囲は静かになり、階下の踊り場には動かなくなったジョルジュが横たわっていた。


「あ、あ…」

「報いね。わたくしの人生を台無しにした上、剣を向けるなんて。なんて愚かなのかしら」


 神から罰が与えられたのだと、嗤って見下ろしているアマンダ。ジョルジュに気を取られているその隙をつき、フィンは咄嗟に彼女の手を振り払った。


「フィン!」


 アマンダの叫び声が聞こえたが、フィンは後ろを振り向くことなく只管に階段を駆け上った。元の三階に戻った少女は廊下を駆け抜け、僅かに隙間の空いている飾り気のないドアを開け、中に飛び込んだ。


「はあっ、はあっ…」


 急いでドアを閉めたが、鍵がない。部屋の中を見回したフィンは、非力な自分でもなんとか動かせそうな古い長持を見つけ、満身の力でそれを引き摺り、ドアの前に移動させた。


(これで少しでも時間が稼げればいいけど…)


 袖口で額に浮かんだ汗を拭い、改めて周囲を確認する。薄暗い室内には、埃をかぶった古いタンスに古い長椅子。所狭しと同じような木箱が積み重ねられて置かれていることから推測するに、ここは物置のようだ。

 一つしかない窓には分厚いカーテンが掛けられており、そっと隙間から外を覗いてみたけれど、チャペルの屋根に取り付けられていると思われる、教会ならどこにも掲げられている太陽を模した標章の先端がかろうじて見えるだけで、他に掴まれそうなものは見つからなかった。


(どうしよう。どうしたらここから…アマンダさんから逃げられる?)


 三階に逃げたことはわかっているのだから、すぐにアマンダはここを探し当てるだろう。いや、もしかしたらその前に、アマンダが邸に引き入れたというならず者たちに見つかる可能性だってある。どちらにしろ、待っているのは『死』だ。

 フィンは自分の考えに絶望し、ずるずると床に座り込んで膝に顔を埋めた。

 どうしてこんなにも苦しめられるのだろう。

 どうしてこんなにもつらいのだろう。

 ただ静かに過ごしたいだけなのに。


「薬師になりたかったな…」


 たった一つの夢。いつかジューンの弟子になって学び、病気や怪我で苦しむ人を助けられると思っていた。

 ジューンはいつもかっこよかった。あんなにお婆さんでも、ちょっと(?)太っててもかっこよかった。だから自分もかっこよくなりたかった。薬師になればいつも無様だと蔑まれていたフィンでもかっこよくなれると思った。そして人々に必要とされると思った。


(あれ? わたしが薬師になりたい理由って、全部自分のため?)





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