くだらない

石川ちゃわんむし

くだらない

 顔面をちくちくと刺すような寒さの中、日差しだけは暖かかった。

 久しぶりの里帰りを祝福するかのような天気だ。時折、思い出したように舞う雪も細やかな花吹雪のようだった。散歩をしてくる、と言って玄関から出た僕は、そのままぼんやりとそこから見える景色を眺めていた。

 地元の高校を卒業して隣県の会社に就職した僕にとって、この街に帰ってくるのは実に5年ぶりのことだった。仕事が忙しいというのもあったが、特別ここに帰ってこようと思わなかった。僕が住んでいる街の方がはるかに都会だから必要なものは揃うし、特別会いたい知り合いもいない。

 久しぶりに帰ってくるとさぞ懐かしいことだろうと思っていたが、意外にもそんなことはなかった。それどころか、見たことのない店ができていたり歩道が広がっていたりして、少しずつ違う街に変わっているようだった。うちの斜向かいにあった家も、いまでは更地になっている。おじいさんが一人暮らししていたのだが、2年前に介護施設に入居したらしく、今では売地と書かれた看板がぽつんと立っているだけだ。特に近所付き合いはなかったが、故郷のようすが徐々に変わっていくのは少しだけさみしかった。

 家の前の道を歩き、住宅地を抜けて駅の前に出た。駅といっても、大したものではない。空っぽの駅舎と線路だけの、木造の無人駅である。余計なものがない潔さと吹き抜ける潮風しか取り柄のない、廃墟同然の場所だ。いまも昔も変わらず、人は一人もいない。見慣れた景色だ。

 ここは変わらないんだな、と思いながら駅の前を通り過ぎる。よくこの道を、早足で歩いていたことを思い出す。待ち合わせに遅れるのは、いつも僕の方だった。だが今日は、遅刻する心配はない。

 足を進めるにつれて、潮の香りとともに波の音が徐々にはっきりと聞こえてくるようになった。気付けば、僕の足は無意識のうちにいつも通っていた近道へと進んでいた。海沿いの民家と民家の間にある細い道を進んだ先が、いつもの待ち合わせ場所だった。

 視界が開けた瞬間に、海から強い潮風が吹きつけてくる。丈の長いダウンジャケットのファスナーを閉めながら思い出す。待ち合わせの時はいつも風が強くて、お互いの声を聞き取るのが大変だったな。風と波の音の中で、懐かしさがこみ上げてくる。アスファルトで固められた歩道には腰くらいまでの高さの小さな防波堤があり、それが左右に長く伸びている。その向こうには海が広がっていて本当は危ないのだけれど、なぜかここが僕たちのお気に入りだった。

 太陽の下、煌めく波に目を細めてぐるりと一面を見渡してみる。海岸線の先に並ぶ民家。遠くに見える雲の筋。沖には無数のテトラポットが山になっている。あれ、こんな景色だったかなと思い、わずかな違和感の正体を探そうとしても僕にはわからなかった。

 久しぶりの潮の香りを肺いっぱいに吸い込んで、わざとらしくふーっと吐き出す。しばらく止まっていた時計が、ようやく針を進め始めた。

 視界の端で、虻の羽音のような音を立てながら漁船が海に出ていく。この時期は何が捕れるんだろうとぼんやり考えながら、船がかき分けた白いしぶきを見つめた。小さな白い波が、きれいなハの字に広がっていった。

 いい景色だ。ただの、いい景色だ。船も、海も、空気も、新調したみたいにきらきらと輝いていた。あの日の濁流も、絶望も、忘れてしまったように。

 僕は防波堤に手をついて、海と向き合ってみる。風は収まり、波の音だけが聞こえた。あいつは今でも、ここに眠っているのだろうか。ここでいろんな約束をしたはずだけど、あいつは何一つ守らなかったな。将来の話もたくさんしたけど、それもすべて茶色の波が飲み込んでいった。

 堤防の下を見ると、少し濁った水面に何かの細かいかけらが浮かんでいた。何年たっても汚いな、と思いながら水面に映る自分と目を合わせようとしてみる。細波に揺れる表情は、僕がここを離れた日と変わらなかった。

 何も変わってないんだな、僕は。世界はこんなに変わってしまったのに。いつだって僕は置いてけぼりだ。

 もう、帰ろうか。どうせ何もないし誰もいないんだ。少し散歩してから、家に帰ろう。僕は顔を上げて、穏やかな海を見つめた。潮風が音を立てて吹き抜けていく。またしばらく、ここには来ないだろう。5年も待たせて悪かったな、と心の中で語りかける。今度はいつになるだろう、と思いながら海に背を向け歩き出した。

 民家の間の細道に一つだけのびた影を見て、立ち止まる。立ち去ろうとする僕を引き留めるように、波の音が聞こえた。ねえねえ、と声が聞こえた気がした。

 僕はゆっくりと振り返った。もちろん、誰もいない。でも、波音の中に聞こえた声は、別れ際にちょっかいをかけてきたあいつの声そのものだった。

 吹き抜けた潮風を横取りするように、すうっと息を吸い込んでみる。懐かしい匂いだ。何の匂いかは知らないけれど、いつかの風と同じ匂いだ。

「また、来るよ」

 掠れた声が、潮風を揺らす。彼女は何も言わなかった。

 風が強いから、聞こえなかったのかな。

 僕は唇をきゅっと結んで、細い道を引き返した。

 吹き抜ける潮風が、強く僕の背中を押した。

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くだらない 石川ちゃわんむし @chawanmushi-ishikawa

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