めぐる月日のとおまわり

木下瞳子

一月 蝶々騒動

 いつもは買わないお高いお野菜を、ふんだんに盛りつけたサラダは、お花畑のように食卓を彩っている。夫が大好きなハンバーグなんて、スーパーではなく精肉店で、ちょっといい牛肉を粗く挽いてもらったものだ。結婚祝いにいただいたワイングラスと、背伸びして買ったブランドもののカトラリーが、蛍光灯の灯りにきらめいている。我ながらがんばって用意したディナーが、食卓の上の“メイン”を引き立てていた。


「ただいまー」

「おかえりなさい」


 くたびれた様子でリビングに入ってきた夫は、カバンを投げ出して、キッチンに立つわたしのところへやってきた。


「体調大丈夫? 病院行った?」

「うん。仕事休んで病院行ったけど、なんともなかった。身体ももう大丈夫」

「あーよかったあ。それならそうと返信してよ。一日中、気が気じゃなかったんだから」


 ほっとネクタイをゆるめてテーブルを見た夫が、ようやく歓声を上げる。


「うわー、すごい! なんのお祝い……? …………………はあ!?」


 “メイン”に気づいた夫があわてるのを尻目に、わたしはうすく笑んで、ワイングラスに炭酸水を注いだ。


「いや、ちょっと、何これ? 待って! 何? どういうこと?」

「とりあえずご飯食べよう。手洗ってきたら?」

「いや、無理。今雑菌にまで気をつかう余裕ない」


 スーツのジャケットすら脱がず、夫はペタンとイスに崩れ落ちた。心の安定をはかりたいのか、幼少期からの“親友”だという、ぬいぐるみのかめるんを胸に抱く。夫の腕の中で、水いろのカメはひしゃげながら、つぶらな瞳をくりくりさせていた。


「俺、なんかした?」


 怖くて触れられないとでもいうように、わたしの名前が記された離婚届をながめていう。


「わたし、あなたのこと信頼してた。はじめて会ったときからずっと、信じてたの。今朝まで」


 このひとは、とても誠実なひとだ。その根拠のない直感を、彼はこれまで裏切ったことがない。裏切るなど想像もしないことが、「信じる」ということだ。


「でもね、それが崩れちゃった。あなたが信頼を裏切る人間だったなら、わたしはもう人類そのものが信じられない」


 おろおろしていた夫は、ようやくわたしの真剣さに気づいて、かめるんをきつく抱いたまま姿勢を正した。


「理由は?」

「……浮気、してるよね?」


 はっきり口に出すと、その単語のもつ威力はつよく、目頭がビリビリと熱くなる。それをこらえたら言葉が出ず、わたしは唇を噛みしめていた。


「………………………は?」


 図星を言い当てられた人間は、こんな間抜けなツラをするのだろうか。あまりに気の抜けた夫の顔を見ていたら、込み上げた涙が一旦引き返していった。


「浮気? なんでそう思ったの?」


 わたしはチェストの上から、レターセットを持ってきた。


「これ、見覚えあるでしょ?」

「……ある、けど?」


 今朝、急遽茶封筒が必要になって、文具を入れてある引き出しを開けたが、たまたま切らしていた。夫なら、予備をカバンの中に入れているかもしれないと、勝手にのぞいたのがいけなかった。ピンク色の蝶が舞うかわいらしいレターセットは、わたしが見たことないものだった。


「結婚式で、どうして蝶結びの水引を使わないか知ってる? 蝶は浮気の象徴だからだよ」

「そうなの? 知らなかった。けど! 知らなかったんだから関係ないでしょ」

「これ、五枚入りなのに四枚しかないんだけど、いったい誰に出したの?」


 夫はポカンとわたしとレターセットを見つめた。


「え? それだけ?」

「うん」

「それだけで“浮気”?」

「だって! これ絶対仕事用じゃないもん! こんなにかわいいデザインのレターセット、男の人相手には使わないじゃない! しかも一枚使ってるんだよ。絶対女の人に渡したよね? ちなみにわたしの誕生日は先週終わったけど、手紙はもらってない!」


 バシッとレターセットを投げつけても、さほどの痛みは与えられなかった。床に落ちたそれを、夫はゆっくりと拾う。


「わかった。説明するからまず座って。それで、先に俺の質問に答えて」

「なんでよ! 先に事情説明してよ!」


 夫は余裕の笑みで、レターセットをひらひらとふる。


「知りたいんでしょ? この意味」


 形勢逆転。おもしろがるこのひとに、わたしは勝てた試しがない。悔しいけれど、知りたいなら夫の言うことに従うしかなかった。

 わたしは乱暴にイスに座って、夫をにらみつける。


「この離婚届、なんでこんな中途半端なの?」


 離婚届にはわたしの名前と住所が記されているものの、それ以外の項目も印鑑もまっさらなままだ。


「俺も最初は動揺して気づかなかったけど、君らしくないよね? 君が本当に離婚を決めたら、漏れのないように徹底して記入して、荷物まとめて家を出るよ。たぶん、俺がどんなに手を尽くしても、二度と帰ってきてくれないと思う」


 夫の顔をまともに見ていられなかった。うつむいた視界で、手を強く握る。


「俺が完璧に記入しちゃったら、困る?」


 夫の手の中で、離婚届の薄紙はピラピラとたのしげに踊っている。


「離婚なんてしたくないんでしょ? まだ俺のこと好きなんでしょ?」

「事情説明はどうなったの!」

「答えないと教えなーい」


 腹が立つ、腹が立つ、腹が立つ、腹が立つ、腹が立つ! こんな男に対して、嘘でも「離婚してやる!」と「きらいだ!」と言ってやれない自分にも腹が立つ!

 そんなわたしに、夫は一転してしずかなやさしい口調で迫った。


「怒りで引っ込みつかないのは悪い癖だよ。素直にならないと、本当に大事なものを失うことだってあるんだ。俺と、本当に離婚したい?」


 生まれたときから根が素直なこの人にはわからない。素直になることが、どれほど難しいのか。たとえ大事なものを失っても、素直になれない人間は世の中にたくさんいるのだ。

 でももし、本当に離婚されちゃったらどうしよう。こんな嫉妬深くて、怒りっぽくて、短慮で、素直じゃないわたしなんて、いつ見放されてもおかしくない。この中途半端な離婚届に、夫がきちんと記入しちゃったらどうしよう。


「離婚…………したくない」


 言葉よりも涙のほうが雄弁だった。浮気を疑ったときでさえ我慢した涙は、わたしの制止など聞かず、夫の元へと走り出す。


「すきです~~~~」


 声をあげて泣きじゃくるわたしに、夫は「情緒不安定だなあ」と、ティッシュを五枚つかんでさし出した。


「このレターセットだけどね、」


 ティッシュから目だけ上げて、涙でぼやけた夫を見る。


「間違って買ったの」

「はあ?」


 夫はレターセットから一枚だけ取り出して、それを折る。


「これね、こうやって折って、ハガキみたいにして出すやつらしいんだ。それ知らないで買っちゃって、書いてから気づいた。仕方ないから捨てたよ、それは。だから一枚足りないの。ちゃんとしたやつ、さっき買い直してきた」

「誰に出すつもりだったの?」


 夫は恥ずかしそうにかめるんに顔を埋める。


「俺が手紙書こうなんてひと、ひとりしかいないでしょ」

「……わたし?」

「『男のひとから手紙なんてもらったことない』『いいなー』って言ってたじゃない」

「言ったっけ?」

「誕生日には間に合わなかったし、もうバレちゃったから、この話はナシ! 全部忘れよう!」


 ビリビリと細かく離婚届を破いてからゴミ箱に捨て、夫はようやくスーツを着替え始めた。


「手紙、ほしい」


 夫のワイシャツをくしゃりと握ってねだる。


「ええ! いやだよ、もう恥ずかしい!」

「ほしい! 絶対ほしい!」

「やだって!」

「今日のわたしの怒りはどうしてくれるのよ! 具合悪くなって仕事は休んだし、ハンバーグなんてみっちり一時間もこねてたんだから、手紙くらい書いてよ!」

「えー、勝手に誤解しただけじゃん……」


 ・


 ・


 ・


『愛する奥さんへ

 がんばって愛の手紙を書きたいと思います。

 今日はとてもいい天気ですね。

 明日からはまた気温が下がって荒れると、天気予報で言っていました。

 今年は年明けから雪が多くて大変ですね。

 いつもご飯を作ってくれたり、洗濯してくれてありがとう。

 仕事もあるのだから、無理せず休んでください。

 さっき班長が、オンライン研修を全部有線でやると言い出しました。

 Wi-Fiがよくわからないのだそうです。

 結局失敗して、俺に丸投げです。

 ムカつきます。

 でもがんばります。

 Wi-Fiつなぎました。

 早く退職して、ふたりでゆっくり旅行に行きたいです。

 見逃した函館の夜景も、次こそ見せたいです。

 それまで元気でそばにいてください。

 あんまり泣いたり怒ったりしないで、安静にして、元気な赤ちゃんを産んでください。

 楽しみにしています。


 君が泣くほど好きで好きでたまらない世界一の旦那さまより』



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