校長

100年以上前の校長の話 今も昔も長くてつまらない?

 校長先生次第ですが、よく校長の話は長くてつまらないと言われますね。果たして、歴史的にはどうなのでしょうか。

 今から100年以上前1909年、大阪の旧制高校の校長が記した講話集の1節、福沢諭吉の話を読んでみます。表現をなるべく原文に近くしながら現代語訳しました。写真などはありません。集会で話だけ聞いて、面白いかつまらないか、長いかどうか、ぜひ当時の子どもたちの心情を想像してみてください。


福澤諭吉先生の幼時の話 

 今日は明治維新の際、慶應義塾を立て天下の英才を教育し、西洋の文明を輸入し、特に国民の実業心を盛んにし、この明治の文明開化に大いに貢献した福澤先生の幼少期の話をいたしましょう。 あなた達の保護者であるいは福澤先生の教えを受けられた方もいるでしょう。慶應義塾の卒業生は政治家や教育家にもなりましたが、多くは実業界で活動しております。今、世間は福澤先生を神様のごとく尊敬しております。記された書物もたくさんありまして皆有益なものばかりです。 

 この方は豊前国(ぶぜんのくに)中津の藩士である福澤百助(ひゃくすけ)と申す方の五番目の子です。 百助氏は大阪の中津藩蔵屋敷に勤めておられ、卑しい役の士族であったのです。けれども、 武道学問には長けた方で、書物を常に読んで、貧賤の中でも書物を買うことには金を惜しまない勉強家でありました。この時、明の国の法律規則のことを書いた『上諭条例』という書物を買いたいと思っておられ、なかなか手に入らなかったのが、天保5年の12月12日にたまたまその書物を手に入れて、非常に喜んでおられました。その日に諭吉先生が誕生しましたから、父は喜ばしいと(書物の)字を名前にして諭吉とつけました。こういうめでたい時に生まれて性質がよほど賢く良い子供でありましたから、父もこの子は後に立派な子供にしたいと思って、僧侶にしようとなさいました。この頃は上と下の区別が厳重で、下に生まれた者は賢くても容易に出世して進むことができず、父も学問があり武芸が達者でも卑しい役を勤めねばなりませんでしたが、僧侶になれば勉強次第で出世できたからです。しかし、諭吉の3歳のときに父は病気のため亡くなりました。 

 ああ、諭吉さんは3歳にして父と別れ、母と兄弟5人合わせて6人の家族ですが、家は貧しくて実に気の毒な生活です。兄が後を継ぎましたが、病気の身でありましたから思うようにならず、ついに豊前中津へ帰られました。しかし、諭吉さんは大阪で生まれ大阪の風土で育ってきましたから、言語や様子が大阪風であり、中津の風土と合いません。加えて、中津では中々所自慢で、自分の所は何でも良し、よその者はみな国者(くにもの)と言って卑しむ風潮があったので、諭吉さんも大阪者と言われて軽蔑され、遊びに出るといじめられますから、常に兄弟と家の中で遊んでおられました。こういう風でありますから、 ただ無駄に遊んでいました。しかし、外の士族の子供はみな先生に付いて書物の稽古をしていますから、諭吉さんも14歳の時に初めて「このようなこと(現状)ではならぬ、なんでも勉強して立派な者にならねばならぬ」と大いに悟って志を立てられて、白石という先生に書物を習うことになりました。しかし、 もはや14歳にもなっていますが、先に習っている子供は9歳か10歳で『四書』や『五経』などを習って諭吉さんより上であります。そこで諭吉さんは「遅れているから何でも早く勉強して追いつかねばならぬ」と一生懸命に勉強しました。その意気込みが違います。先生に教えてもらうにも注意が違います。また習ってからの復習も違います。普通の人は習ってから一度くらい読めば遊んでしまいますが、諭吉さんは素読だけでは承知せずその意味を考えます。それで4,5年の間に、他の人よりずっと進んで、一通りの経書を学び終えました。全て自主的に自ら考え自ら字を引いて勉強し『左氏伝』(さしでん)という大作の書物を11度繰り返して読んだそうです。二十歳前後には、全て独学なされたのです。学問の勉強はこんな風である上に、学問の他にも働き手であり、身を労することをなんとも思いません。世の怠け者は家の用事をすることを嫌がりますが、諭吉さんはそんなことは少しも厭わず働きますから、手先が器用にますます上手になります。井戸に物を落とすとこれを引き上げるのに工夫を凝らしてすぐに引き上げる。タンスの引き出しが開かなければ考えてすぐに開け、障子や行灯の張替えも上手にしましたから、親類からも諭吉様は障子行灯の張り替えが上手だからといって頼みに来たそうです。その他畳表の修理をする、 桶の箍(たが)を直す、戸を繕い、屋根の漏れを直し、下駄の鼻緒や雪駄の修理までこまめになされたそうです。あなた達はこのように器用にできますか。 

 しかし、その気性は淡白で、全ての事に不平を言わず快活でした。このように勉強しこのように明快な気性でありますから、考え方も自然に(他者と)異なったものであり、21歳の頃、ちょうどアメリカの軍艦が浦賀へ来た時で、砲術のことがやかましくなってきました。そこで諭吉さんが考えます。「昔のように漢籍ばかりを読んでいては役に立たない。世界を相手にしていかなければ時代に遅れてしまう」という所に気がつきました。そこで、長崎に入って西洋の学問を学ぼうと、母親に願ってついに長崎に行くことになりました。ところが家は貧乏ですから、学費がありません。そこで長崎の蘭学者の山本という先生の所へ書生として入り込んで、種々の用事を手伝いながら勉強する事にしました。 

 このようにして用事の間に一心に勉強し、なお暇あれば街中を歩いて蘭学者と交流し、通訳の人と接して、根気よく研究をしましたから、1年くらい経って2,3冊の和蘭(オランダ)書物を読むことができました。山本先生は「これは偉い人間である。なかなか見込みのある人物だ」と信用して、山本家秘伝の砲術書を保管する役にして、その書物を預けるようになりました。そこで諭吉さんは、その砲術書を他人に貸すことと、写すこと、図を示すこと等の依頼を受け料金を取って貸し与えたり、また出島というところに和蘭(オランダ)屋敷があり、そこへ案内することなどをしていました。ところが、 不意の出来事が起こってきまして、諭吉さんが長崎へ来る前に中津藩の家老の息子奥平壱岐(おくだいらいき)という人が蘭学の稽古に来ていましたが、この頃に至り諭吉さんの学問はますます進んできたのに、自分は家老の子であり(長崎に)先に来ていながら一向に学問が進まないので嫉妬心を起こして、諭吉さんがこの地に居られないようにしようとして、故郷へ諭吉さんのことを悪いように言って、諭吉を故郷へ帰らせるように申していました。 

 そのため、ついに諭吉さんの家から母が病気であるから至急帰郷するようにとの手紙が来ました。諭吉さんはこの(嫌がらせの)ことを知っていましたが、仕方のないことと(長崎滞在を)あきらめて、 頼りを求めて「東京へ向かおう」と思いました。 

 その時ちょうど、東京の医者の息子で山本先生の家で同じように勉強している人がいたので、 この事を話して、その人から添え書きをもらい、その医者の家に寄ろうと思い知人に別れを告げて、まず大阪に行くことにしました。

 翌朝船で佐賀に着き、天草灘を渡って、三日目に小倉へ着き、下関を渡って、大阪に出発することになりました。ところがこれまでも懐に金はなし、衣服は汚れている貧乏の一人旅ですから、普通の宿屋は泊めてくれません。 汚い旅籠屋(はたごや)に泊まって行く位で、大阪へ行く旅費はもちろんありません。そこで色々と頼んで、 船賃など費用は大阪へ着いた後、 中津の蔵屋敷で払うということにして船に乗りました。 

 船に乗ると同乗者がたくさんいて、物味遊山に出かける者が多いから、歌を歌う、裸になる、酒を飲む、高い声で叫び罵るなど無作法な者ばかりで、諭吉さんは仲間もいないから隅の方で小さくなって引っ込んでいる窮屈に耐えられません。所々の港へつくと他の客は皆上陸してしまいますが、諭吉さんは金が無いから出られません。まれに出ても食事時には船に帰って食事をするから、船人も(諭吉さんを)侮るようになります。このように困難をして、15日目に明石港に着きましたから、もはやここから上陸して徒歩で大阪に向かうと船人に話しますが、なかなか許してくれません。その時、一人の商人がいて、船人に話をして運賃を立て替えてくれました。いよいよ上陸しましたが、明石から15里の道を行かねばなりません。今ならば汽車で2時間ぐらいで行けますが、その時はなかなかそうはいきません。しかし、財布の中にはわずかに70文しかない中、15里の道を歩かねばなりません。 腹が空き、茶屋で休んで筍1皿と飯4,5杯を食べて、昼夜かけて歩きました。その間の苦しみはいかがでありましょう。※(あなた達はその心中を察してください)その夜の10時頃、中津の蔵屋敷に着きました。 

 兄が大阪にいましたから、会って東京行きのことを話しましたが、強くこれを止められたため、ついに止まって大阪で勉強する事とし、緒方先生の塾に入ることになりまして、またまた非常に勉強なさって、ついに緒方塾の塾長にもなりました。 緒方塾にいる内も人には親切にし、友人の病気の介抱をして自分も腸チフスにかかることもありましたが、全て労を厭わず我慢強く奮闘しました。ああ、明治の偉人も子どもの頃はこのような苦心惨憺(くしんさんたん)たる困難を経たのです。世の名誉事の成功も容易にはいかないことを覚悟して、あなた達はこれからますます奮励(ふんれい)しなくてはいけません。


出典:泉原亀蔵『講堂訓話 : 少年立志』宝文館、1909年、pp.131-141


 以上で話は終わりです。今回の他、新井白石や水戸光圀など様々な訓話が掲載された『講堂訓話:少年立志』は、国会図書館デジタルコレクションで原文が閲覧可能です。関心ある方はぜひご覧ください。

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