教育についての社会的認識

「最近の学校は」を鵜呑みにしないで ~30年前から定番「最近の運動会は手を繋いでゴール」~

 「最近の小学生は、運動会の徒競走で手を繋いでゴールする」聞いたことある人もいるかもしれませんが、この話は間違いです。正確に言うと、レアケースは否定できないが、少なくとも"最近"に限った話でもなければ"小学校一般"の話ではない、となります。

 実はこの話、学校批判の定番として1990~2000年代によく使われました。30年前に批判された小学校を卒業した人は今や40代、未だに同じ話が使われているのは滑稽に思えるかもしれません。

 こうした「最近の学校は」という話が独り歩きすることは珍しくありません。実際とかけ離れた印象で「最近の子どもは」と括られるのは、子どもの立場からするとムカつくものです。世代間の断絶を起こさないためにも、よくある誤解・ステレオタイプは取り払う必要があります。

 今回は代表的な「最近の学校は」言説である「最近の運動会は手を繋いでゴール」が、昔から言われていることと、なぜ言われ続けているのかを解説します。今回を通して、「最近の学校は」という話を鵜呑みにしてはいけないということが伝われば幸いです。


1.90年代 不確かなまま国の議論で使われる


 手を繋いでゴールの起源は明確ではありませんが、90年代運動会から競争が失われているという論調が強まったのは確かです。特に1996年6月11日放送のNHKクローズアップ現代「競争のない運動会 ~順位をつけない教育改革の波紋~」は社会に認識を広めました。徒競走や棒倒しがなくなり、勝負や順位をつけないゲームが増えていることを報じた内容だそうです。

 そして、1997年「徒競走で手を繋いでゴール」発言が公的な記録に残ります。旧文部省の教育課程審議会で、委員が以下の発言を行いました。


例えば、小学生を徒競走をさせて、順位をつけない。もうゴールのそばになると、みんな手をつないで入るといったことを保護者がエンカレッジ(encollage:励まし)している。私は、そういうことがあるのかどうか知りませんが、こんなことをやっているからだめなんだと。

出典:教育課程審議会第15回議事録1997年6月11日(文献③)。括弧は筆者が補った


 要するに、できない子が頑張ることばかり注力しできる子を評価しないのはおかしい、という主張です。この主張自体は妥当ですが、 徒競走で手を繋いでゴールの例は「そういうことがあるのかどうか知らない」と言いつつ、「こんなことをやっているからだめ」と批判の対象にしています。国レベルの議論にもかかわらずないかもしれないことを槍玉にしてどうする、確かめてから発言してくれと思いますが、恐らく「手を繋いでゴール」の独り歩きは既に始まっていたのでしょう。


 「手を繋いでゴール」話は、結局実態調査などは行われないまま、国会でも使われるようになります。


2.極端な平等主義批判として


 「手を繋いでゴール」話が国会に出たのは1998年です。当時広島県では政治団体や組合と教育委員会の癒着、教育の中立性が脅かされていることが問題となっていました。そのことを指摘する発言の中で「手を繋いでゴール」が行われているという話が出てきます。


運動会なんですけれども、これは三次、庄原、福山といった市の小学校。徒競走、駆けっこというのがありますよね。あれでは一等、二等と順番をつけるのは差別だ、みんなが一緒に手をつないでゴールしましょう。こんなばかばかしいことが大まじめで行われているんです。

 林紀子議員、出典:第143回国会 参議院文教・科学委員会1998年9月24日


 ここでは「ある」と明言しています。ただし、 80-90年代広島県教職員組合に関わった当時の教員3名に尋ねた研究では、「広島県の教育問題としてよく取り上げられた、徒競走での順位をつけないことについて、現場の教員はごく少数の学校でしか行われなかったと証言した」と記されています。順位をつけないことすら一部であるとすると、「手を繋いでゴール」は、少なくとも広くは行われていないようです。


 2001年には当時の文部科学大臣から「手を繋いでゴール」の例がでます。以下、習熟度別学習を競争原理の導入として批判した議員に対する反論の答弁で出てきました。


いたずらに競争をあおることは、それはよくないかもしれません。しかし、よく漫画的に言われているように、運動会で、徒競走でゴール前三メートルでみんな手をつないで一斉にゴールインする。(中略)そういう結果の平等までを追い求めることが余りにも学校現場で多過ぎるんです。

町村文部科学大臣、出典:第151回国会文部科学委員会2001年3月9日


 こちらは98年の例より学校一般の話として、 極端な平等主義を批判する上で挙げています。しかし、あくまで「漫画的に言われているように」と、どちらかと言えば実在しないと捉えられる表現を用いています。

 その後も「手を繋いでゴール」は実態が確かめられることのないまま、極端な平等主義の象徴として度々用いられていきます。


3.2006年国会「この例の使用をやめるべき」


 誰も実態を確かめない例を公的な議論で用いるのは不適切では、という指摘が2006年国会でなされます。最終的には当時の文部科学大臣が例示として不適切であると認める形になりました。

 教育基本法の議論の中で当時の総理が「手を繋いでゴール」の例を出しました。


・安倍総理:よく結果平等の典型的な例として、例えば徒競走をして、最後は全員が手をつないでゴールするということが実際に行われていたということでございますが、人にはそれぞれ得意な分野があって、自分はどうも算数は苦手だけれども、駆けっこなら負けないという子供もいると思います。


 これに対して、良く用いられる例だが存在しないのではないかと指摘します。


・佐藤泰介議員:よく徒競走の例を出されるんですけれども、現場を見られたんでしょうか、書物で読まれたんでしょうか。

 四人の大臣の方にお伺いしますが、現場を見られてそう言われたのか。とりわけ徒競走、最後手をつないで入ろうなんて、僕はやったことがありませんし見たこともありませんし、多分それをやれば保護者から相当な異論が出ると私は思っていますよ。

 結果平等か何とかかんとかって出てくる例が毎回手をつないでゴールですよ。そのほかに例はないんですかね。


 それに対する返答は実際に見たことはないというものでした。


・安倍総理:私はたしか新聞等で読んだ記憶がありますが、現場でそれを目撃したということではございません。

・伊吹文部大臣:私が見に行った学校の運動会ではそういう例はありませんでした。私も新聞でそういうことがあるということを読んで、面白いものだなということを感じた記憶はございます。

・塩崎官房長官:私も現場で手をつないでゴールインしたというのは見たことはございませんが、話はいろいろなところで聞いたことがございます。

・高市内閣府特命担当大臣:私が見た徒競走は、手をつなぐ形式ではなくて、ゴールの直前まで当然速さに差は付いているんですが、結局、順番を付けなかったといったものでしたら見たことがございます。


 最終的には文部科学大臣が例示として不適切であると認める形になりました。


・佐藤泰介議員:我々が新聞情報しか知り得ぬ部分を、それを基に質問すると、政府が、それはあくまで情報であって違うんだということが、答弁が返ってくることが多いです。これから、その結果平等、手をつないでゴールインというのはやめていただけませんか。どうですか。

・伊吹文部大臣:例として適切ではなければ、私が見たことを正確にこの次はお伝えしたいと思います。

出典:第165回国会 参議院教育基本法に関する特別委員会第1号 2006年11月22日


 これ以降、公的な議論で「手を繋いでゴール」の例が用いられることは少なくなります。


4.ゆとり教育批判に変わり、その後も消えずに


 1990年代まで「手を繋いでゴール」話は上述97年の例のように、政治団体・組合による極端な平等主義に対する批判が主でした。ところが、2003年の国際学力調査の順位低迷"PISAショック"以降、1998年の授業時数削減(俗に言う"ゆとり教育")に対する批判が高まりました。

 多くの教育批判や子ども批判が"ゆとり”の語に単純化されてしまう中、古くからある「手を繋いでゴール」話が"ゆとり"の例としても使われるようになりました。


 ゆとり教育ということで、ゴールするときにみんなが手をつないでゴールするという、大分前の話だったと思いますが。そのときに私もいろんなところからインタビューを受けて、どう思いますかと。ばかやろうと、それこそどなったことを思い出しますが。逆に今度は、今は百メートルをどうやって走るかという、速く走れるかみたいな塾までできたという。本当に教師も大変だと思います、何かあればすぐマスコミが取り上げて。

アントニオ猪木議員、出典:第189回国会 参議院予算委員会閉会後第1号 2015年11月11日


 2008年の授業時数増加、また2018年には授業時数が元の水準に戻ったことで"ゆとり"は現在の子どもを指す語ではなくなりましたが、一方で「手を繋いでゴール」話は未だに"最近の子どもたち"を示す例として使われることがあります。


5.遠い世界ほどステレオタイプで判断

 理解できない事象に直面した際、人は原因を探しがちです。誰もが受け人格形成に影響する義務教育は格好の批判の的"原因"です。そして、自分と遠い世界の人を理解する上で、"子どもはこう"、"高齢者はこう"といった単純化した印象ステレオタイプを用いがちです。もちろん、子ども当事者や保護者、教育関係者など実際の小学生に接する人は自然と変な話だと気付きます。しかし、遠い世界の人は子どもの実態を知るためのコストが大きいのでちゃんと調べようとはせず、疑念が不信感から始まっているので「手を繋いでゴール」のような批判しやすい話に飛びつく、といったことが生じます。


おわりに.そもそも非合理的すぎる 

 そもそも競争させたくないなら徒競走自体をしない判断をするでしょう。「手を繋いでゴール」は徒競走という形態をあえて取り、並ぶことで批判を強調すればインパクトは大きいでしょうが、見せしめしたいならもっと大々的に発信が行われているはずです。個別事例でそれくらい非合理的なことが行われる可能性は決してゼロではありませんが、少なくとも今の学校教育全般を指す例としては甚だ不適切です。 今回は学校教育における競争や運動会の種目のあり方は扱いません。ただ「最近の小学生は、運動会の徒競走で手を繋いでゴールする」という話が、何となくで30年も使われていることを、「最近の○○は」という話を簡単に鵜呑みにすべきではない、これらを伝えたいと思い解説しました。


(本文おわり。参考文献の詳細は以下URLに記載)

https://note.com/gakumarui/n/nd2797926d942

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