第五話 真実は重く? 軽く?

 「じゃあ。俺は部活に行って来るわ」

 「うん。また明日」


 放課後のHRも終わり、クラスメイトが各々教室を出ていく中、僕も席をすぐに立ち部活へと向かうため駆け出していく直谷に手早く別れの挨拶を返す。

 他の多くの人も部活に入って一ヶ月と言う、その部活の雰囲気ふんいきも理解して慣れ始めた頃であり楽しくなってくる時期のため、部活に入っている生徒はさっさと教室から消えていく。

 ものの五分もしない内に先程さきほどまで騒がしかった周りは静かになり、数人がまばらに残っている程度のようだった。

 今の残っているのは教室で用がある生徒かあせって帰る必要のない帰宅部の生徒、そして僕のように部活には入っているが、部活がゆるい生徒たちだろう。

 文化研究部ぶんかけんきゅうぶは今日はないので行く必要がない。そもそも自由参加なので、例えあったとしても行かなくても良い。将棋部しょうぎぶに関しては僕一人しかいないため、決定権が自分自身にあるため論外ろんがい

 ということで、僕はさっさと帰って寝ることを選択する。

 今日は徹夜てつやをしてしまったせいで、眠気が酷い。

 午後の授業の終わりなど、教師が何を言っているのか朧気おぼろげだ。

 ここまで学校で眠い状態になったのは高校に入ってから初めてかもしれない。

 少しだけ、部室で寝てから帰るという選択もありかもしれないという考えがよぎるが、今の状態からして一度眠ってしまったら間違いなく熟睡してしまう。

 夏も近づき日が沈む時間が遅くなっているとはいえ、そうなっては下手へたをしたら学校を出るのが、外が真っ暗になる時間になってしまう。

 ただでさえ下校には時間が掛かるため、流石にそれはまずい。なので残りの気力を振り絞り、家まで我慢してから寝ることにする。

 そうと決まればさっさと学校を出るのにかぎる。

 僕は手早てばやく必要な荷物をまとめて、教室の扉に向かう。

 そんな僕に目を向けるクラスメイトはいないため特に挨拶もせず無言で立ち去ろうとするが、


「痛っ!」


 何かにぶつかる。

 間違いなく扉は開けた気になっただけで、開けられて無かった。というドジをしたのかと思ったが、そうではなかった。

 扉はしっかりと開けられている。

 しかしぶつかったのは扉ではなく、タイミング悪く扉の先に立っていた人だった。

 扉を開けて、気を抜いていた僕はその人物に思いっきりぶつかってしまったようだ。

 そして当たったのが人であったため実際にはダメージはないけれど、ついつい痛いと言ってしまった。


「大丈夫?」

 

 ぶつかった相手は、僕の言葉に反応して心配そうに声を掛けて来る。

 僕は相手が誰であるか認識にんしきすると、すぐに謝る。


「大丈夫です。こちらこそ不注意でした。すみません、大伴おおとも先生」

「なら良かった」


 僕の言葉に美珠羽みずは先生は胸を撫で下ろした。

 生徒を心配するその姿を見て、僕は自分のクラスがこの人で良かったと思える。

 大伴美珠羽おおともみずは先生は僕のクラスの担任をしており、生徒からの人気は高い。

 最初にこのクラスで担任が入って来た時には、男子の一部は喜びがあふれており、歓声が少しばかり上がった。なお、声を上げた男子は女子から冷ややかな眼差まなざしを受けていた。

 しかし、声を上げた男子の気持ちは良く分かる。

 僕も顔にも声にも出さない様にしたが、心の中の僕は喜色満面きしょくまんめんとなっていた。

 そして、それも仕方ないことだと言える。

 美珠羽先生は性格が優しく、しっかりしていることもあり、相談しやすい相手としても人気だが、最も人気な理由がその容姿ようしだった。

 髪型はゆるふわの茶髪ちゃぱつでセミロングのボブ。身長は女性にしては大きめな165といったくらいで、豊満ほうまんむねを持ちながらも腰回りのバランスが良く、太っているというイメージも全くなく、グラビアのような体型をしている。目もでよくおだやかな表情をしている。そのため初見でも優しいイメージをあたえて来る。

 普段も生徒から相談そうだんを受けたりするときはおっとりとした雰囲気があるが、授業や校則についてなど真面目な所ではまとう空気も律儀りちぎなものへと変わり、常に大人の余裕を持った人である。そのギャップが人気の火にあぶらを注いでいる要因よういんでもあった。

 悩みごとに対して真摯しんしになってくれるので男子からだけではなく、女子かも人気が高い。前に、美珠羽先生のような大人になりたいと話しいた女子がいたくらいだ。

 それほどまでに人気の高い教師である。

 ちなみに茶色の髪の毛は染めている訳では無く地毛じげだと最初に言っていた。趣味しゅみで水泳をしてため塩素えんそで色が抜けているそうだ。

 そんな人気教師にぶつかったというのはある意味でラッキーなのではないかと考えてしまう。

 しかし、だからと言ってみんなの視線が集まっているここで会話を続ける気にはなれないため、素早く離れるとする。


「先生すみません。ここで失礼します」


 僕は美珠羽先生の脇を通り、廊下ろうかに出ようとする。


「あ。ちょっと待って」

「はい?」


 しかし出ようとしたところで美珠羽先生の腕が道を塞ぐ。


「実は手伝って貰いたいことがあるの」


 確かに、用が無ければ先程教室を出ていったばかりの担任が戻ってくる意味が無いだろう。

 しかし僕は知っている。

 大体こういう担任の頼みというのは面倒なものであり、時間を取られるというのが相場そうばで決まっている。

 申し訳ないとは思うけど、自身の安眠あんみんを守るために、ここは他の人に押し付けることとしよう。さいわいいなことに教室の中にはクラスメイトがまだ少しは残っている。

 別に僕でなくてはならないということもないし、穏便おんびんに断ろう。


「すみません。僕この後用事があるので、他の人にお願いして貰っても良いですか?」

「でも……藤原君以外もう誰もいないよ」

「えっっ!」


 先生の言葉に僕は驚き、即座に振り向いて教室内を見る。

 そこには先程まで駄弁だべっていた男子や化粧けしょうの話をしていた女子たち数人が荷物ごと消えていた。

 全員、担任の教師が教室に戻ってきた時点で僕と同じく嫌な予感を直感ちょっかんしたのだろう。

 僕が先生に絡まれているのを良いことに、静かに荷物をまとめて早急に後ろの扉から出ていったようだ。

 何てクラスメイトだろうか、僕を……人を生贄いけにえささげて逃げたのだ。薄情はくじょうぎる!

 消えたクラスメイトににくしみを抱きつつも、誰も助けてくれないことにわずかなさびしさを覚えてしまう。

 

「……用事は少し遅くなっても大丈夫?」

「……はい」


 呆然とする僕に、一応確認をしてくれる先生の優しさが今だけは心に染みた。

 そして、僕は諦めた。




「ここに置いてあるプリントの整理せいりを頼みたいの」


 先生について行くこと、辿り着いたのは物理準備室ぶつりじゅんびしつだった。

 美珠羽先生は物理の担当教師でもあるので、準備室にプリントを溜めているのは良く分かるが、その整理を生徒に頼むのはどうだろうか。


「本当は自分でやりたいのだけど、このあと職員会議しょくいんかいぎで時間が取れないの」

「分かりましたけど、僕一人だけだと時間が掛かりすぎる気が」


 周りを見てみると机の上に多くのプリントが積まれており、とてもじゃないが一人で振り分けて整理するのには手が足りない。

 その光景を見ると、失礼かもしれないが先生は実は整理整頓せいりせいとんが出来ないのかとうたがいたくなるものだ。

 一人でやった際の時間を概算がいさんしてみたが、どう考えても一人では終わるの頃には外が夕日になってしまう。

 これではいけない。

 そう思い先生に質問をすると、先生は穏やかな雰囲気を崩さずに笑顔で言って来る。


「それに関しては大丈夫」

「?」

「教室に戻る前に一人頼んであるから」

「その人はどこにいるんですか?」


 この物理実験室には先生と僕しかおらず他に人はいない。


「少し用事あるから、それを済ませたら来ると言ってたわ」

「なら良かったです」

「藤原君も、自分の用事に間に合わなくなりそうなら途中とちゅうで帰っても良いからね」

「はい。分かりました」


 咄嗟とっさについた嘘に対してもしっかりケアをしてくれる辺り、本当に人格者じんかくしゃだと感じる。

 実際は用事もないうえに、そんな優しい笑顔で頼まれたら良心の呵責もあり途中で投げ出すことは出来ない。何としてでも終わらそうと思えて来る。

 狙ってはいないのだろうが、美珠羽先生は天然型てんねんがた魔性ましょうの女なのではと考えてしまう。


「じゃあお願いね」


 僕が変なことを考えている間に先生はそそくさと扉に手を掛けて、一言残して準備室を出ていく。

 取り残された僕は、とりあえず突っ立っていても何も始まらないため近場ちかばにあったプリントへと手を伸ばした。

 プリントの内容はどうやら次の授業で使うプリントのようで、まだ習っていない方程式ほうていしき公式こうしきっている。

 これを読めば予習になるのではないかと思ったが、そんなことをしては時間がなくなるだけなので、プリントから目を離してそっと元に場所に戻す。

 そしてちょうど手からプリントが離れた瞬間、入り口の方から「ガラッ」という扉が開く音が聞こえて来る。

 最初は先生が戻って来たのかと思ったが、先程のもう一人来るという発言はつげんを思い出す。

 僕は先生に捕まったあわれな仲間を温かく迎えいれるために、笑顔で扉の方向に顔を向ける。


「あっ!」

「あっ?」

 

 だがそんな思いとは裏腹うらはらに、僕の笑顔は扉で立つ人物を認識にんしきして二秒で消え去った。

 向こうもこちらを見ながら固まっていた。

 担任の教師が頼んだ生徒なのだから、同じクラスの誰かかもしれないとは思っていたが、これは予想外だった。

 その人物は今日一日僕に疑問を与えた張本人ちょうほんにんであり、二人っきりになることをはばれていた高嶺たかねの花。


「こ、こんにちは奈代なよさん」

「こんにちは。藤原さん」


 何か反応をしなくてはならないと思い、必死の勇気を振り絞り挨拶をすると、奈代さんは優雅ゆうが所作しょさでお辞儀じぎをしながら真顔で無表情のまま僕の名前を呼ぶ。

 笑顔も何もない表情に普通ならば不愛想ぶあいそうと言われそうだが、奈代さんの場合だとクールという印象になる。


「ええと。とりあえず片付け始めようか」

「そうですね。では、わたしはこちらをやるので、藤原さんがそちらをお願いします」

「はい」


 奈代さんは表情一つ変えずに素早くお互いの仕事の領域りょういきを指定して、仕事に取り掛かる。

 僕はそれに従い、自分の指定されたところに積まれたプリントをさばいていく。

 横を見ると、奈代さんも見事な手さばきでプリントの山を処理していっている。

 しかも、その動きはあせってはげしく見苦しい動きでは無く、静かで流れる川のような動きだった。

 無言のままテキパキと仕事をこなすその様は、まるで機械のようにも思えてしまう。

 とてもではないが、教室や他の人の前でする綺麗な笑顔を浮かべている人物とは同一とは思えない。

 だけれどここで、何で表情を変えないの? 何て聞けるはずがない。

 それに、話したことがないクラスメイトとの距離感なんて普通はそんなものだろう。

 会話もしていないのに、表情を変える必要もない。

 誰にでも愛想の良い笑顔を浮かべているという話も、仲の良い人限定という暗黙あんもく前提ぜんていがあるのだろう。流石の奈代さんでも、誰にもでも表情を変える訳ではない。

 そういう意味では、今のクールな感じが素なのかもしれない。そう考えると少しだけ気持ちが軽くなる。

 いやいや何を考えているのだろうか。変な思考は止めよう。

 僕は思考を止めて、目の前の仕事に集中する。


「……」

「………」

「…………」

「……………」


 物理準備室内が静寂せいじゃくに包まれる。

 しかしそれは仕方のないことだ。

 お互いに詳しく知っている訳でもなく、共通きょうつう話題わだいもない。

 何か会話をしようにも、奈代さんの方から何か話しかけられる素振そぶりはなく、かと言ってこちらから話を振る勇気もない。

 そのためお互いに目の前のことだけに集中するのみとなる。

 更に自意識過剰じいしきかじょうかもしれないが、奈代さんが僕と一定の距離を取っている気がする。

 最初にお互いの仕事場所の範囲を指定したのもそうだが、僕が指定された範囲ギリギリの所に移動すると、それとなく奈代さんも同じ方向に動き遠ざかっているように感じる。そのため距離を近づけて会話に持っていくということも出来ない。

 こういうときに、いきな会話を出来ない自分のコミュニケーション能力の無さをのろいたくなるが、今さらそんなことを呪っても遅い。

 泣きたくなってきた。

 だけど本当に泣くわけにもいかないでの、今はひたすらにこの気まずい時間が早く終わるように仕事を進めるのみである……あっ、このプリント奈代さんが割り振っているやつだ。まぎんだのかな。


「奈代さん、これそっちのプリント……」

「っ駄目! 近づかないで下さい!」


 僕がプリントを奈代さんに渡そうと手を伸ばすと、奈代さんは今まで聞いたことないくらい声を張り上げて僕が近づくことを拒否きょひする。

 僕はその反応に不思議に思うよりも、わずかな苛立いらだちを覚えてしまった。

 何をしたか知らないが、流石に今の言い方はひどいのではないか?

 僕は奈代さんの拒絶きょぜつ無視むしして近づきその手を取ると、プリントを手渡した。

 もう恥ずかしいとか緊張きんちょうするとかなどは吹き飛んでいた。

 心にあるのは苛立ちと怒りだけとなっている。

 そのため、気恥きはずかしさなどよりも今思っていることを言いたいことをという気持ちに支配しはいされる。

 プリントを渡しながら、ひとみを揺らし体をふるわせる奈代さんの顔を真っ直ぐに見ると、つよめの語気ごきで言い放つ。


「僕が奈代さんに何をしたか分からないけど、嫌なことがあるならはっきり言ってもらわないと、流石に傷つくんだけど」

「い、いえ。藤原さんが嫌という訳ではないのだけど」

「じゃあ何が気に入らないの? 僕にだけ無表情だし態度はきついし。一体何が気にいらないの」


 自分でもめずらしいくらい声を荒立あらだてながら追及してくる僕の質問に、奈代さんは言いよどむ。

 僕はその言い淀む姿に更にムキになってしまい、追い詰めるようにたたみかける。

 奈代さんのくちびるを震え、瞳の焦点しょうてんは合っておらず、体の震えは強くなる一方だった。

 流石にその様子に違和感いわかんを覚えた僕は、一度深呼吸を入れて少しだけ落ち着く。

 しかしその間も奈代さんは表情は真っ青になっており、見るからに悪化あっかしていた。

 それでも、奈代さんは何かを言おうと唇を動かす。

 僕はそれを聞き逃さないように、耳を傾ける。


「ただ…」

「ただ?」

「藤原さんが近くにいると頭痛が……痛っ」


 奈代さんは言葉半ことばなかばでひざを折った。

 両手で頭を抱えて、痛みを押さえつけるかのようにしてその場で倒れる。

 僕はその緊急事態きんきゅうじたいに焦る。

 先程までの苛立ちや怒りは無くなり、ただただ焦燥感しょうそうかんられる。

 救急車? それとも保健室?

 目の前の事態に思考がぐるぐると周り、結論を出せなくなっている。


「奈代さん! 大丈夫?!」


 とりあえずまだ冷静さが残っている部分で奈代さんに状態の確認をする。

 僕が倒れる奈代さんに肩を貸そうとして近づくと、頭を押さえていた手をこちらに伸ばして、その場で静止するように無言で指示をしてくる。

 僕はそれに従い、奈代さんから離れて見守る。


「大丈夫……だから」


 そう言う奈代さんは見るからに苦しそうで、息はあらく、汗も多量たりょうに流していた。

 今が非常事態ひじょうじたいでなければ、その様子をなまめかしいと表現して魅入みいってしまっていたかもしれないが、そんな余裕は僕には微塵みじんも無かった。

 自分が原因なのかもしれない。

 そんな考えが頭の中を満たして、精神をかき乱してくる。


「ごめん。保健室行って来るか……あとは任せて良いかな?」

「う。うん…肩、貸そうか?」

「本当に大丈夫だから、気にしなくていいから」


 彼女は整わない呼吸のまま、保健室に行くと告げる。

 手を貸そうとして拒否されたのは傷ついたが、今はそれが良いんだと僕は納得する。

 これ以上、僕が何かしてかき乱す方がきっと問題になってしまう。

 冷静に今の状況をかんがみて、僕が出来ることは何もない。


「ごめんね」


 片手で頭を押さえながらもう片方の手で扉を開けて、肩を震わせ、髪をなびかせながら、覚束おぼつかない足取あしどりで準備室を出ていく奈代さんは仕事終わらせられないことを本当に申し訳なさそうな顔をしながら、最後に僕に謝罪を残して出ていく。

 華奢きゃしゃなその背中を見送りながら、僕は咄嗟に「僕こそごめん!」と言えない自分を恥じた。

 僕が悪い証拠しょうこなど何もない。

 ただの偶然なのかもしれない。

 それでも咄嗟に言葉を出せない自分を、僕はこの時酷く恨んだ。

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