空腹

夜依伯英

空腹

 今朝から何も食べていない。胃の中が空になる感覚。気持ち悪さ。何も無いのに吐き出そうというのか。愚か極まる。この感覚さえ満たせれば、実際に胃の中が満たされていなくても私は満足だ。自室で本を読みつつ空腹に耐えるが、そうしていては肝心の読書に身が入らない。集中できないのは私の嫌うところだ。窓の外、小雨が降っている。暖房によって維持されたこの部屋の温度から離れると、僅かな不快感とそれを超える爽快感。階段を一段ずつ下りていく。一階の無機質な冷気は、まるで牧場のような自室の生暖かさからの解放を感じさせてくれる。


 とはいえ、私は実際に解放を知らない。解放されたことがないからだ。束縛無くしては解放は存在し得ることのない概念。自由や解放や、それから逸脱というのは元より何かの対象からのものであり、それ自体存在するものではない。何も無いところからの自由、解放、逸脱はあり得ないのだ。私は縛られない。未だ本質的に縛られるといった経験を持たない。そして、私は同じようにして本当の空腹を知らない。私は餓えたことが無い。飢餓に晒されて生命の破壊を感じ取ったことがない。重ねて金の無い状態も知りえない。所謂金欠という短期的で解決の見込みのある金の無い状態は多くの人が経験しているであろうが、永続的で解決の見込みの無いそれは、つまり絶望は見たことが無い。私は裕福な家の生まれであり、小遣いが底をつくことはあれど世帯の所有が無に消えたことはない。


 だからといって、私は空腹でなく金があるといえるのか。当然の如く否である。両者ともに相対的に考えてはならないものであり、後者について本当に金の無い状態を理解せねばならないということは確かだとしても、それでも当事者の苦しみは本物だ。自殺しなければ、或いは鬱病の診断が下らなければ彼らは苦しんでいないのか。否である。そして、その論調で彼らに刃を向けることが彼らを死の淵に追いやることになる。思慮を持たねばならない。我々のすべきことは束縛とは何かを知ることであり、そうしなければ自由を知ることなど永遠にできない。


 諸君は何に束縛されているか。私は何に束縛されているか。見えないだろう。見えないのだから。我々は社会に束縛されている。烏合の衆による同調圧力、敵意の視線、侮辱によってでしか名誉を感じない彼らの束縛を受けている。縛られているのは諸君と私の精神だが、精神の拘束は行動の抑制へと働きかける。我々は原初的な美への憧憬を忘れてはいけない。美という概念は、完全性を父とし希望を母とする。我々の行く先に美は存在する。それは彼岸にのみ在って、綱を渡らざる者は触れることの許されていないものだ。社会という悪魔は綱を渡ろうとする者に幸せを見せるだろう。そうでない者にもそうするように、それ以上に幸せを与える。自分の正義を破壊し神に頭を垂れて惨めに膝をつきたいならそうすればいい。自分の幸福を創り上げたい者には別の道を勧めよう。嘗てフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェがそう言ったように、神は死んだ。信ずべきものは存在しない。世界に意味は無く、価値の基準は忘却の彼方へと旅路を始める。終わった人々は現状の半端な幸福に満足してしまうだろう。


 では、満足しない者たちよ。綱を渡るといい。孤独に苛まれつつその恐怖と不安との合奏に耳を貸してはならない。他人に合わせるために自分自身の大半を捧げてはならない。道徳とはキリスト教の産物であり、所詮はルサンチマンの集積にしかなり得ないものなのだ。道徳心という名の恐怖に浸されて他人に合わせる必要など無い。最高の幸福を自信の中に見つけ、孤独の諸曲に打ち勝った者こそが、人間を克服せしめたといえるだろう。永劫回帰に囚われた哀れな生き物たちよ。自分を、人間を超えなければ何も変化は生まれない。負け続けるだけなのだ。人間を超える人間、それこそが超人なのだ。


 私は何も食べていなかった。思考の果てに生き方を説いて見せても、空腹は満たされない。理解した。大衆には知恵よりも先ず食が必要で、そのためには搾取を止めなければならないと。万人が自分を超えるために生きることのできる世界は、搾取の向こう側にしか存在しない。それは確かに真だ。しかし、彼らは食を満たしたところで知識を求めるだろうか。求める人もいるだろう。無駄ではない。それでも多くの人々は怠惰に貪り食うだけだ。嘗てエリート階級が図書館と称して知識を民のものとしたが、それでも学ぶものは少なかった。強制的に学ばせる制度ができても、多くの人はそれを事務処理的に済ませ、本当に学びたい人々はその真の目的から引き離された。


 嗚呼、世界はどうしてこうも醜いのか。私は空腹でならない。

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