長く垂れ下がった枝が青々とした若葉を揺らす。春の淡い色はなりを潜め、初夏の瑞々しい色へと移り変わってしまった。さて、枝を切らずに葉を全部落とすにはどのくらいの手間がかかるものやら。薄紅の絨毯は雨と風に剥がされてどこかへ行ってしまい、剥き出しの地面の上に、赤い持ち手の高枝切り鋏が転がっている。

 秋田先生と私は相変わらず視線も合わさぬまま、桜の園のベンチに腰掛けている。一人分のスペースを空けて。


「最近授業に身が入ってないんじゃないか?」


「いえ、別に」


 私はスマートフォンを叩いて夏岡さんへのメッセージを書きながら、適当に相槌を打つ。『そうなんだ、練習がんばってね』と。

 夏岡にのさん。入学してから初めてできた友達。わざわざ隣の県から通学している私に、他の知り合いがいる訳もなく。園芸部は籍を置いているだけの状態。正真正銘、この学校で気を許せる唯一の女の子という事になる。


「担任だからな。まぁ事情は察してるけど。夏岡と昼飯食べたらいいのに。あと、たまに担いで来るセピア色の高枝切り鋏は邪魔じゃない?」


「——。それができたら、やってますよ」


 夏岡さんは野球部のエースだ。お昼は部室で摂って、すぐに昼練に行ってしまう。ただでさえ、誰にでも優しくて隔てない彼女の周囲には、友達ならぬ取り巻きがたくさんいる。

 それでも彼女は、後ろの席の私に頻繁に話しかけてくれる。


「んじゃ、マネージャーとか」


「——なるほど」


 それは一考の余地がありそうだ。別に、思い余ってしくじった自己紹介を引き摺って、いつまでも一人でいる理由なんかない。空気を読むのはあまり得意ではないけれど、女の子と普通にコミュニケーションを取れないほどじゃないし。


「そうやって、少しずつアピールするのが大事だぞ」


「んな——っ」


 ——事、あるかもしれない。


 振り上げかけた拳を膝の上に下ろす。彼女との物理的かつ心理的距離は今の私にとって超重要課題だ。

 悔しいけど、秋田先生の言う事はいちいち正鵠を射ている。

 

「まぁ、よくある事だし」


 それは、女子校ならでは、という意味だろうか。何気ない言い草だけど、そうやってカテゴリーに括られるのは、何となく不快に感じた。

 私が拳を握りしめて押し黙っていると。


「ああ、でも交際するってんなら一つ忠告があるぞ」


「何ですか」


「この桜の樹の下で告白をするべからず」


 突然オカルトじみた発言が飛んできたので反応に困る。


「はい……? ってか、せんせが噂を真に受けるとか、まじウケるんですけど」


「どうだろうなぁ。三十年近く語り継がれてるらしいから、案外本当かもしれないぞ」


 そうやってまた、細長い双眸はどこか遠くを見ている。

 途轍もなく、気に入らない。


「だから、このセピアの下で告白するのはやめとけよ」


 気に入らない、気に入らない。

 繰り返し心の中で唱えていたのに。


「やっぱ無理だよ」


 ついに、気持ちが溢れてしまう。

 先生は母と同じ景色を見ていると、確信してしまったから。


 さっき秋田先生は、赤い持ち手の高枝切り鋏をセピアだと言い放った。

 そして、この人は授業中、絶対に赤いチョークを使わない。


 セピア——。先天性の赤色系色覚異常。

 それが秋田先生の見ている世界の色だ。だから枝垂れ桜の花弁はセピア色に、少し薄いソメイヨシノの花弁はきっと白色に見える。それは、母の見ている世界と一緒。

 だから、つい口をついた。この人ならと——、


「私分かんないんだよね。女の子をそういう意味で好きになったの、初めてなの」


「誰だって最初は戸惑うさ」


「開き直れるほど、私は私のことを知らないよ。恋愛のことも。だって、子供だもん。本当は男が嫌いなだけかもしれないじゃん。もし、せんせが嫌い過ぎてそうなったんだったら、夏岡さんに迷惑じゃん……」


 秋田先生との間の距離を詰める。もし、男性に慣れて風化してしまうような想いなら、最初から育てない方が、形にしない方がお互いのためだ。

 秋田先生の肩に自分の肩をぴったりと密着させる。いつもの気持ち悪さは襲ってこない。先生の眼は相変わらず細められているけれど、その奥の瞳は磨かれた七宝焼のように煌めいていた。


「せんせに近づけたら、何か変わるかもしれない」


 ——ああ、気に入らない。


 それはひどく悲しい事に感じられて、胃の奥底らへんがざらつく。

 今この瞬間だけかもしれない。でも、こんな時に限って、不思議と気持ち悪くならない。

 秋田先生から漂ってくるのは、いつも嗅いでいるデオドラントスプレー——母と同じ、爽やかさの中につんとするコリアンダーの香りだ。

 その広い胸に頬を寄せる。頭のてっぺんが隆起した喉仏に触れる。


「————うそ」


 てっきり、硬い感触に迎え入れられるものと思っていたのに。

 呆然とする私の身体を支えて立たせ、秋田先生は言い含めるように告げる。


「遅刻はしない、授業はしっかり受ける、夏岡の事は自分で考える。あと、君子きみこさん——お母さんを困らせない」


 私を見下ろす先生の表情は、初めて優しいと思った。

 だから、喉元まで出かかっていた質問を頑張って飲み込んだ。秋田先生の手を払って、校舎に向かって一目散に駆ける。




 ——ねぇ、どうしてそんなに胸が柔らかいの、せんせ?




   *




 それから数日後、唐突に担任が変わり。

 唐突に、秋田先生は学校を辞めてしまった。




   *

   *

   *




 マフラーの中に息を吹き込むと、口許が少し暖かくなってくる。

 タイツまで穿いて防寒している私に対して、桜の園の木々は肌を晒している。

 あの葉桜の日からもう半年。この場所に毎日一人で通い詰めるようになって初めて、ベンチに腰掛けているその人に出会った。


「どんどん君子さんに似てくるね、春川は」


 髪は伸びてミディアムショートに近づいており、黒のロングコートに身を包み、高いヒールのブーツを履いている。銀縁の真面目そうな眼鏡ではなく、大ぶりの黒いサングラスをかけていた。全体的にモノトーンでまとめたコーディネイト。声を聞かなければ、誰が見ても、あのテンプレ男性教師だとは思うまい。その人は吸っていた煙草を携帯灰皿に押し付けて、胸ポケットにしまう。


「本気で高枝切り鋏を持ち出すとこなんか、あの人そっくりだったよ。真っ正直でとびきり大胆だ」


 私は以前と同じように、一人分のスペースを空けてベンチに腰掛ける。お尻にひんやりとした温度が伝わってくる。


「今なにやってんの?」


「大学で研究してるよ。元々声が掛かってたんだけどな。春川が入学するって知ったから先延ばしにしてもらって、担任になった」


「迷惑な」


 私たちはやっぱりお互い眼を合わさず、葉の落ちきった枝垂れ桜の方を見つめて会話する。世間話でもするように。


「俺、春川の父親なんだわ」


「やっぱりね。ママにはとっくにお星様になったって聞いたけど」


 そんな嘘、この歳にもなって無邪気に信じている訳がない。だって、お墓参りに行ったことが一度もないんだ。母はそいつの身勝手な事情の犠牲になったに違いないと、小学生の頃から気付いていた。


「君子さんと春川にはもう謝るしかないんだけど。あん時は、両家両親に結婚を猛反対されてさ。俺のジェンダーはあやふやだったしさ。詮索されないために、角の立たない作り話を信じさせるしか無かったんだろうね」


 だから、私の極端な女尊男卑は、父への不信感が発端なんだ。

 生理的にどうしようもなく気に入らなかった秋田先生が、母と私を裏切った父。その父が男じゃなかったという事実。それらを知ってもなお変わらずあの子が好きで男は苦手なんだから、これはもう間違いないと認めていいのだ。

 野球部のマネージャーになって、夏岡さん——にのとの距離は一気に縮まった。私が意識しているのは多分もう伝わってしまっていて、それでも彼女は二人で過ごす時間を大事にしてくれる。


「それ、ママに無断で喋って大丈夫なの?」


「まずいかもしれん」


「……まさか帰ってくる気なの?」


「いや、無理無理。もう日本じゃ正式に婚姻もできないし」


「ウチ、試しに寄ってみたらいいじゃん」


 私は素っ気なく口にする。正直気に入らないし、親だとも思ってないけれど。母と同じ色彩と香りを持ち続けている人だから、きっと母もこの人の事を想っているんだろうと思った。


「うーん。そうだな。君子さんと春川が許してくれるなら、俺は——」




   *

   *

   *




 ——そこは、一面の桜。

 長く垂れ下がった枝が揺れると、一房一房が擦れ合って、淡く花弁を散らしていく。柔らかな朝日に包み込まれるように照らされた花弁は、そよ風の中を舞って、やがて湿った土の上に落ちる。

 中央に生えている枝垂れ桜の巨樹を二人で見上げる。樹齢はあの頃から七つ増えた。その枝垂れ桜を守るかのように、何本ものソメイヨシノが園内を取り囲んでいて、枝垂れ桜は散り始めの半分葉桜に、ソメイヨシノは満開になっている。


「へぇ——。あの頃、さくと葉子さん、そんな事になってたんだ」


「うん。変な話でしょ」


「っていうか、まさかあの美人な葉子さんが葉太先生だなんてねー」


 にのと私はベンチに寄り添って座っている。お互い大学を卒業して、就職して、今年から二人で生活している。

 今日は陽気に誘われて散歩だ。この桜の園には公道側からも細い道が通っていて、そこから入ってきた。学校の敷地だけど、何か言われたら卒業生だからとお目溢しをもらおう。

 共有しているあのコリアンダーの香りが鼻腔を通り抜けると、少しだけセンチメンタルな気分になる。


 あの時秋田先生に迫るフリをしながら、どこか無性に気に入らなくて辟易した。まかり間違ってにのへの感情が偽りになってしまうのは、例えどんな事情があれ、耐えられなかったから。その事に、ちゃんと気付けた。もしかして、あの人は全部見抜いた上で、私のアクションを看過していたんだろうか。だって、まごう事なく私はあの人の教え子で、娘だから。


 もう色褪せて思い出せないあの日々を、この桜たちは見たままに覚えているのかもしれない。葉っぱを切ろうとしてごめんね。私と一緒の名前をした君たち。

 春色のワンピースの裾が風で膨らんで、花弁が化粧をするように張り付いた。


「にのっ」


「うい、どうした?」


「素敵ね、ウェディングドレスに包まれている気分だよっ」


「さくにとっても似合ってるよ」


「にのだって」


 にのと私は頬を寄せて笑い合う。

 母と葉子さん——あの二人もどこかで桜を見ているのかな。私達とはちょっと違う景色を見ている人たち。私たちより野暮ったい母と葉子さんの仲を取り持つのは結構骨が折れる。


「……趣味は桜の葉を見守ることです」


「ん?」


「何でもなーいっ」


 ——なんて、ね。ちょっと偉そうかな。

 



   ***おしまい***

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葉桜の君に 白湊ユキ @yuki_1117

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