剣の高嶺

ぶっくばぐ

第1話

 ヤルは乱世の雄であった。


 始めに勇名をせたのは環号戦役二年目、甲坊山中腹の山岳戦だとされている。尾根伝いに行軍中のギョウ軍は、敵国ハイの精鋭部隊に背後から奇襲を受けるも、これを撃退したのが後の獏将、当時は屯長であった備羅ビンラ率いるたい二十六番隊。その一兵卒であり、先陣を切った䤳玖は敵軍近衛このえを次々に切り倒し、将の首級しゅきゅうを挙げたという。


 もっともこの逸話には、早くから疑問符がついている。そもそも灯帯の灯とは卑、すなわち素性の知れぬ侠客や罪人たちで構成される部隊であり、主な務めは荷役や炊事だったはずなのだ。英雄がもてはやされるのは劣勢側と相場が決まっており、負け戦で撤退の最中さなか、置き去りにされたゴロツキ連中のやけっぱちの反撃が効を奏した、というのが真相なのかもしれない。


 本来、兵部護省の耳をはばかるこの説が、今日こんにちここまで流布しているのは、話の出どころが兵部護省そのものであるに他ならない。恥ずかしげもなく吹聴した「我ら暁軍、飯炊きまでも一騎当千の猛者もさなり」の言が、華拝将兵に対する威嚇いかくとして効果があったのかは不明である。しかし同時に広く伝えられた恩賞のろくが、自軍の士気高揚につながったのは確かであり、この頃から戦況は暁の優勢に傾いていく。


 備羅ビンラの部隊は中央の主力に再編され、ヤルのちに幾たびの戦場で名のある高手を手にかけている。そのため䤳玖と呼ばれた剣達けんたつが実在したのは間違いない。員数名簿によれば初年度のよわいは十八。西方出身者特有の浅黒い肌。長身痩躯ちょうしんそうくと記されているが、戦時徴用の、しかも灯帯の名簿など当てになるものでもない。係の役人に銅銭一束もまいないを渡せば、いかようにも書き換えてくれることなど、貧民街の鼻たれ小僧でも知っている。辻芝居を打つ一座は抱えの役者の容姿に合わせて好き勝手に脚色し、〝回刃の䤳玖″の来歴は今では十はくだらない。一番人気を争ったのはみん王朝の落としだねとされる紅顔の美剣士。もう一方は斎都片隅かたすみの兵法道場で秘伝絶技を極めたのち、一門を皆殺しにしたという雲突く巨漢。後者が初めて演じられた翌年には、斎都のそこかしこで傷痍しょうい軍人が師範として道場を構えた。「我こそが、かの回刃の䤳玖が修めた武門の生き残り。この隻腕が動かぬ証拠よ」という訳だ。実際、口上に乗せられて少なからぬ人間が入門したというのだから笑えない。


 とはいえ、それもこれも遠い昔の話である。


 環号の戦以降、くにざかいの小競り合いを除けばギョウ国は大きな戦乱に見舞われていない。英雄豪傑が主役の演目は、手垢の付いた台本と一緒に市井しせいの記憶からも擦り切れていった。とりわけ直近の合戦物など、流行はやすたれを通り越し、投げ銭どころか石を頂戴できるかもわからない。立身出世の祈りとともに名をあやかった赤子も、今では堅実に家業を継いで、初孫の名前に頭を悩ませていることだろう。幼い頃の野心を引きずったあげく、ついには軍に入営した者にいたっては、国境の見張り番をしながら一兵卒のまま退役する我が身の不遇を呪っているかもしれない。ヤルの名を口に出すのは、往年の戦働いくさばたらきを壁に向かっていつまでも自慢し続ける耄碌爺もうろくじじいり言を除けば、路地裏で兵隊ごっこを興じる悪童たちと、ちゃんばら遊びを卒業できずに道場に通う無頼者くらいか。


 だから、その色黒の老人を注視する者など酒家の客の誰ひとりとしていなかったし、卓の注文を取った女給も、老人が大叔父の名の由来になった人物だとは、まさか夢にも思わない。


 かしらあご霜雪そうせつをたくわえ、無地の略衣で身を包んだ䤳玖は、一見ひなびた商家のご隠居といったところだ。多少はしの利くものがいれば、ひじ掛けに立てかけられた長剣と驚くほど伸びた背筋の確かさから、兵部護省の役人だと推察するだろう。指し向かいに座る稽古けいこ姿の若者は孫ほど年の離れた部下か用心棒、護衛あたりに見える。


「――随分と、早い時間に混みだすな」


 ヤルのつぶやきに、酉萬トルマンは来たばかりの青菜ときのこの炒めを口にして、


「師範の言うように早めに来て正解でしたね」


 青菜の繊維をかみ砕きながら続ける。


「人気の店なんでしょう。――うん、実際旨いし」


 酒家の名は福江庵といい、斎都は外塔門にある船着き場から天水江を水行八日、洛都から駅馬車に乗り換えて陸行五日、そこからさらに小運河をどんじりまで遡ったオウリョウ稿コウという町にある。夕刻とはいえ斜陽に照らされた店内は提灯ちょうちんが不用な程度には明るく、仕事を終えたばかりで足元泥だらけにした運河掘りの荒くれ人足が次々と入ってくる。店は飯場とまかない契約を結んでいるらしく、人足たちが帳場ちょうばに放り込んでいくのは配糧符はいりょうふ、別名まかなふだと呼ばれる御札おふだだ。飯も食わずに給金を残らず酒、くるわの花代、賭場の返済に溶かしたすえに現場でぶっ倒れる人足を防ぐため、三代前の暁室王が整備した制度だが、もちろんやみで換金する者は後をたたない。


 この手の契約酒家で出すのは材料費をぎりぎりまで切り詰めた犬の餌と相場が決まっているが、この店の店主はなかなか良心的な人物らしい。安価で美味とくれば繁盛するのも当然で、人足はもちろん地元の客も多い店内はなかなかに騒がしい。


「――師範は来たことあるんですか? この店」


「いや、初めてだ。前にはなかったからな」


 前、とは一体いつのことなのか。


 十四の秋にヤルの元に転がりこみ、およそ六年になる酉萬トルマンだが、䤳玖のことをほとんど何も知らない。一番弟子を名乗り師範と呼んでいるが、䤳玖も道場を預かっているわけでもないので弟子といっても酉萬ひとり。至楼門はずれにある、通いの女中が一人で事足りる小さめの屋敷で暮らしている、昔の戦争で活躍した恐ろしく強い退役軍人。知っているのはせいぜいその程度で、実を言えば、かの〝回刃″だと知ったのもつい二年前のことだ。出会った頃の䤳玖は別の名を名乗っていたし、屋敷を時折ときおり訪ねてくる四十前後の役人は、䤳玖をかつての階級名で呼ぶ。䤳玖の前では平身低頭しているくせに帰り際には「あんなくたばりぞこないに、いつまで恩給を」とこぼしていく面従腹背めんじゅうふくはいを絵に描いたような小人物で、一度師の素性を聞いてみても下男風情ぶぜいに聞く口はないとあしらわれてしまった。気の毒に思って声をかけてきたお付きの護衛と雑談を交わすようになり、たまに一緒に安酒を呑みに行くようになり、夜鷹よたかを買う金を貸してやったその夜。かび臭い酒家の片隅かたすみで酒臭いげっぷと共に師の正体を知ったのだった。


 もっとも、酉萬トルマンに特に驚きはなかった。


 日ごと木剣で転がされる身からすれば、師の剣力は疑うまでもなく、例え〝神技″風歿フォブツや〝六牙の馬史利バシリ″の名が出ても、静かな納得を飲み込んだだけだろう。


「――じゃあ、なんでこんな時間からメシなんです?」


「そりゃあお前、明日は早いからだ。お前も早く寝るように」


「知らない町についたら色々遊んでみたいんですがね」


「女なら明日紹介してやる。絶世の美女だ」


 へえ、と酉萬トルマンは目を丸くする。ヤルが女がらみの冗談を言うのは珍しい。


 思えば、この旅路は出だしから妙だった。本人は面倒がっているが役人に懇願され、䤳玖が貴人の子女の武術指南役として斎都を離れることはしばしある。もっとも道中の足宿の手配から、実際の指南役、別名を名乗る䤳玖をあなどる雇いの私兵への教育・・まで、すべて酉萬の仕事である。䤳玖は与えられた豪華な部屋で船を漕ぎ、最後に短い講釈を垂れるだけで、持ちきれないほどの土産と信じられないほどの謝礼をもらって帰路に就く。づかいの相伴しょうばんにあずかる酉萬も旅に出るのは嫌いではない。


 ところが今回、先導する䤳玖の後をついていくばかりで、酉萬はどこに向かっているのかも知らない。


「――そいつは楽しみですがね。そろそろ、どこのお大尽だいじんに会いに行くのか教えてもらえませんか?」


 䤳玖はしばし無言。答えたくないというより、どう話すべきか迷っているようにも見える。やがて考えがまとまったのか、口を開き、

「―――、」

 入り口近くの異変を察知して、再び口を閉じた。


 もめ事の気配は波紋のように店内へ広がり、酔客の喧騒けんそうを弱めていく。耳を澄ますまでもなく、否応なく周囲が静まっていくなか、声を荒げる人足の言葉に事情は知れた。


 どうやら別の飯場から流れてきた新入り人足数人が、まかないに酒をつけろと駄々をこねているらしい。応秋おうしゅうの日にはどこの飯場でもやっているというのが連中の言い分だが、普段から荒くれ人足を相手にしている女給は、よそはよそ酒が欲しければ給金で払えともっともな道理を説いて一歩も引かない。別の卓ではお気に入りの店にケチをつけられた古参こさん連中の怒気が膨れ上がり、追い詰められた新入りも女給風情ぶぜいに舐められまいと一層凄み、一瞬即発の水位が目に見えて上がっていく。


 答えを聞きそびれた酉萬トルマンも舌打ちして腰を浮かしかけ、

「みっともねえ野郎だ。ちょっと黙らせてきますよ」


 ヤルが止める。


「よせ。店に迷惑がかかる。――そのうち地回り連中が片をつけるだろう」


「こんな辺鄙へんぴなところを根城にしてるはんなんてあるんですかね?」


「どこの町にもいるもんだ。十二年前に半数斬り殺したが、頭目が混じっていなければ再建してるはずだ」


 好々爺然とした容貌のまま、䤳玖はひどく物騒なことをさらりと口にする。


 地元名物という淡水魚の煮物は、あんにとろみがかかっていて一向に冷める気配がないらしい。何度かさじを口に運び、そのたびに火傷やけどしそうになって茶を飲む䤳玖を見ながら、酉萬は十二年前、という単語を心に留め置く。同時に普段押さえつけている悪癖が首をもたげた。そういうもんですか、と気のない返事をしながら、稽古着の襟元に手を突っ込んでぽりぽりと胸を掻く。仕込んであるひょうは四本。


 その時、一際大きな怒声が店を震わせた。


 すわ乱闘開始かと、店内のどの目も入口の方へ集中し、䤳玖も匙を手にしたまま視線が横に流れた。


 その隙を狙った。


 狙うは首筋に二本、目と胴体へ一本ずつ。避けられでもすれば後ろの酔客を刺し殺す投擲とうてきに、酉萬には微塵みじん躊躇ちゅうちょもない。一息につかんだひょうを、生涯最高の速度で抜、

 足元に熱。

 ――‼


 内息の巡りを散らされ、暴発したけいが派手な音をたてて椅子をきしませる。抜き打ちで放とうとした鏢を握ったまま、襟元に手を突っ込んで中腰で固まる酉萬に向けて、


「――よせ。店に迷惑がかかる」


 䤳玖の口調は先ほどと全く変わらない。


「――鏢か。いつ練習していたんだ?」


 酉萬は答えない。鏢から放した手を抜いて、椅子にどっかと座りなおす。先ほどの物音に驚いて、今度は何事かと振り返った後ろの客に、なんでもないよと手を振って適当になだめた。


 卓の死角から、匙で煮汁をぶっかけられた足の甲を見つめてぽつりと、


「――色に出てましたか?」


 「色」とは視線の動き、筋のこわばり、重心の移動から生じる予備動作のことである。


「いや。見事に消しておったよ」


 再び入口近くから、今度はやんややんやの大歓声。


 もめ事は、遅れてやってきた飯場頭の一喝で収まったらしい。現場を仕切る頭には逆らえず、新入りたちも不承不承ふしょうぶしょう席に着いた。このままでは遺恨を残すと考えた頭は、店への謝罪と普段からの慰労を込めて人足たち全員に酒をおごると言い放ち喝采かっさいを浴びている。まこと見事な人心掌握と言えるが、今まで応秋の日の酒代をふところにちょろまかしていた可能性もある。


「しかし消しすぎだな。万華色彩花図の屏風びょうぶすみを垂らしたように目立っておったぞ」


 䤳玖はかかかと笑う。


 うつむいたままの酉萬はため息も出ない。屋敷では数限りなく行ってきた不意打ちだったが、余人のいるところでは初めてである。しかも隠れて修練を積んだひょうを避けられるでなし防がれるでなし、放つ前に潰されたというのだからバツの悪いことこの上ない。


「初見の武器を周囲をかえりみず放とうとする気構えは大いに結構。今後も創意工夫せよ。――しかしやはり流れ矢の危険もあるのでな。今後屋敷以外では――」


 言いかけたヤルの言葉が唐突に止まる。下を向いたまま返事をしかけた酉萬トルマンも思わず顔を上げると、䤳玖は過去を懐かしむ視線を宙に彷徨さまよわせ、やがて酉萬に焦点を合わせて、


「――酉萬。お前弟子になって何年になる?」


 なんだいきなり、と酉萬は思う。師範が耄碌もうろくしたら最強の徘徊爺ですね誰が止めるんですかと即切り殺されそうな台詞を口にしかけ、答えられるはずの年月がすぐには思い浮かばず、目を白黒させながら、


「――はい。えー、そう。この秋で六年になります」


「そうか。――あれも不意打ちが縁だったな」


 そうだった、と酉萬は苦笑する。


 相手は䤳玖ではなく、そう、昔通っていた兵法道場の総師範で確か〝炎王″識波ジルバと名乗る似非えせ達人であった。幼い頃から棒きれを振っていた酉萬は十には町道場へ通うようになり、斎都三番手の道場へ移ってからも人一倍稽古に打ち込んだ。十四にはそれなりの功夫クンフーを積んだと自負するようになるが、総師範はもちろん、道場の序列上位は一度も手合わせに応じてくれず、ごうを煮やした酉萬はある日、総師範を後ろから殴り倒したのだった。よもや当たるとは思っておらず、その後も呑気に別の道場を捜し歩いていた自分もおめでたい。帰りの夜道で兄弟子たちと雇われたやくざ連中の待ち伏せに遭い、袋叩きに遭っていたところを䤳玖に助けられたのがそもそもの始まりである。


 識波には何の恨みもない。道場の金の流れと序列の関係も把握していなかった無知ゆえの当然の帰結であり、十人程度も返り討ちにできなかった自分の未熟さが全てである。おかげで本物に師事できたことを思えば、掛値かけねなしで感謝すらしている。


 とはいえ、


 あれから六年。本物の剣達であるヤルから教わった剣術の型、套路とうろを何千何万と繰り返してもその足元に届く気配すらない。木剣試合でも一撃としてまともに当てたことはなく、不意打ちで斬りかかっても結果は変わらず、今回の鏢打ちはいわば苦し紛れの策だったのにこの始末。自分に武才はないのだろうか。


 再び沈んでいく酉萬トルマンのつむじを見つめ、仕方ないやつだ、と䤳玖は孫に向けるような笑みを浮かべて、


「そう落ち込むな。お前は二十の頃の私より強い」


「師範のように、時を超越した化物になる自信はありません」


 時を超越か、とおかしそうに笑いながら䤳玖は続ける。


「お前には才がある。目がいい」


 またそれか、と酉萬は思う。自分を袋にした連中を一人で叩きのめした䤳玖。当初、剣筋はおろか、何が起きているのかもわからなかったが、半死半生のまま見た光景をひと月繰り返し脳裏に思い浮かべ、誰をどう斬ったのか言い当てたのが弟子入りを許されるきっかけだった。しかしそれが、実戦で役に立ったためしがない。見えていても反応できない、なら救いもあるが、見えている自覚もないのだ。要するに自分は目が良いのではなく、思い出すのが上手いだけだと酉萬は思う。


「必ず私より強くなれる」


 言葉を重ねる䤳玖に、酉萬もさすがに居心地が悪くなってきた。弱音を吐いたことが恥ずかしくなってくる。そもそも、師に気を使われる弟子というのはどうだろう。武才以前の問題ではないか。


 顔を上げる。辿り着くべき頂をまっすぐに見つめる。


「つまらないことを言いました。――今後も精進します」


 䤳玖は首を振り、


「つまらないことはない。誰しも迷うことはある。――しかし私程度の壁に落ち込んでいてどうする? 世の中には私など足元にも及ばない剣仙もいるのだぞ」


 ――なに言ってやがる。このじじい。


 酉萬は思わず吹き出した。大真面目な顔で告げる䤳玖の言葉がおかしくてたまらない。そんな神仙がいるならいっそ見てみたく、䤳玖なら本気で死神を斬り殺し、あと百年生きるつもりなのかもしれない。自分の迷いを絶つための言葉なら、なるほどさすが剣達、見事な一閃。口の端をひくつかせながら、必死に笑いをかみ殺して返事をする。


「そ、そりゃあ確かに、思い悩んでる暇もありませんね」


 䤳玖は満足げに頷いている。


 気を取り直して二人して残りの料理をがつがつと平らげ、通りがかった女給に手ぬぐいを借りて煮汁のかかった足をぬぐっていると、ふと足元に置いたままの行李こうりが意識された。行李の中身は稽古着である。なにか花の図案で細かいしゅうほどこされ、酉萬トルマンが着ているものより遥かに上等な生地で仕立てられた女もの。行李の横の細長い布袋には、そばにむき出しで転がしている酉萬の木剣百本以上もの値がつく恵佗えだ古木の木剣が収められている。いつも武具は相手方に用意させるので、これも妙だと思った記憶がある。先ほどの問いを思い出し、


「そういえば結局、誰に会いに行くんです?」


 䤳玖は女給に入れなおしてもらった茶をすすりながら、


「――うん。昔から私が焦がれているお方だ」


 予想外の答えに、酉萬は天を仰いだ。


 絶世の美女発言に加え、今しがたの褒め殺し。天涯孤独の身の上と勝手に思っていたが、まさか孫娘を嫁にと紹介されるのでは。そんなわずかな心配も消し飛んでしまった。どんな修練にも耐え抜くと決意を新たにしたばかりだが、老人と老婆の逢瀬に付き合うというのは随分と厳しい修行だ。


 油じみた天井を見つめながら、口からは乾いた声がもれる。


「師範。――お若いですねー」


「お前の知っての通り、若くはないさ。――しかし、」


 皮肉にも動じず、䤳玖は頬の皺を笑みで緩ませて、


「いくつになっても楽しみは尽きないものだ」


 天井を見るのにも飽きて、そういうものですか、と呆れた視線を向ける酉萬を前に、䤳玖はいつまでも笑っている。


「――お前にも、いつかわかる日がくる」





 ――行先いきさき問うなんて野暮やぼな真似はしませんがね。タル山の奥にだけは近づいちゃいけませんよ。運河が通って以来ほとんどいませんがね、あっしが餓鬼の時分にはたまにいたんでさ。船賃ケチって山越えでゼンに向かう奴が。その頃、町じゃロクな仕事がないてなもんで、跳ねっかえりの地回りが通行料だって身ぐるみ剥ごうと勝手に関所こさえてましてね。まあ野盗と変わりませんが。――いや違いまさ。その地回りが死霊だかものだかに一夜でぶっ殺されちまったんでさ。逃げ出した連中も流行はややまいにかかったり、仲間割れで殺しあったりで、山には大昔のいくさ跡もあるし呪われたんすよ。お客さん、格好見るに腕に覚えがあるかもしれませんがね。年寄り連れて無茶はいけません。ゼン行きなら船使ってくださいよ。


 というのが宿屋の主人の忠告だった。


 下手人げしゅにんがその年寄りだとも言えず、もごもごとと約束する酉萬トルマンの様子はさぞ怪しかったに違いなく、なおも心配する主人の見送りを断って日の出前に宿をたった。素知らぬ顔でやりとりを聞いていたヤルの背中を追って、船着き場までの道を一刻ほど。唐突にそれた䤳玖の足は、案の定、言われねばそれと気づかない脇道からさくさくと山へと登っていく。


 人通りの絶え果てた旧道は獣道のそれと変わらず、日が昇る頃合いになっても枝葉にさえぎられて一向に明るくならない。しかし生い茂る草木をかき分け、木の根のすきをぬうように歩いていくと、思いがけなく人の痕跡を見つけることもある。半ばほど炭になった木切れ。風化しすぎて元が何かもわからないボロ切れ。石をのせた土饅頭つちまんじゅうは行き倒れを埋めた跡だと見受けられ、道中を守護する路神の石像が、苔むした身を横たえておのちから不足を嘆いている。斬り殺された地回りの亡骸なきがらはどうなったのか。獣の腹におさまったのか山の肥やしになったのか、あるいはその両方なのかもしれない。


 いや亡骸の末路はどうでもいい。


 酉萬の心を占めるのは、これから会うという䤳玖の相手についてだ。


 このあたりに貴人の別宅などない。これも宿屋の主人の言である。


 高価な衣や道具を手土産にしているからには、人知れず隠者の生活をしている山姥やまんばたぐいとも考えにくい。


 とすれば、この山はたんに相見の場ということになるが、卦選なり洛都となりで落ち合えばすむ話ではないか。一目を避けるならば、どちらかの屋敷に招けばよいだけだと酉萬は思う。


 昼を過ぎても、䤳玖は険しい山路を息も切らさずに登っていき、道に迷う様子もなく無言で進み続けるその背中は、問いを拒むようにも感じられる。うじ素性すじょうも知らぬ相手への疑念を持て余し、知る限りの古今東西の女傑にょけつ、女武達者の出自を思い返していると、唐突に視界が開けた。


 彼方に連なる山々と、その頭上を覆う秋雲の群れと、中天から傾き始めたお日様が、なぜか視界の下の方にも見える。


 それは大きな湖だった。


 河道から取り残されたのか。人から忘れられた山の奥深く。本流からも忘れられた三日月型の湖は、今なお、なみなみと水をたたえている。水鳥が走らせる波紋が水面みなもの景色を揺らし、湖畔を渡る風が涼気を運んで、山歩きで汗ばんだ身体に心地よく、酉萬トルマンは束の間息をついた。


 先を行くヤルも心なしか歩調を緩め、丘から水辺までゆっくりと下っていった。丈の低い下草から地面が顔をのぞかせる、やや開けた場所で立ち止まり、適当な石に腰かけておよそ半日ぶりに口を開く。ひと言。


「――ここだ」


 ここだと言われても。


 風光明媚な場所だと言えなくもないし、落ち合う場所なのはわかったが、人の気配はない。


「師範。――誰もいないようですが」


「じきお見えになる。お前も好きに過ごせば良い」


 そう言われても酉萬は困る。草っぱらで横になって昼寝でもしたいところだが、客人を迎えるにあたり、さすがにまずかろう。稽古をつけてもらうことも考えたが、いつものように生傷痣なまきずあざだらけで終わるのは必至ひっしであり、これも同様に問題である。やむなく一人套路とうろを打つことにする。


 行李こうりに吊るしてあった自分の木剣を手に取り、行李と布袋は䤳玖のそばに下ろした。数歩離れたところで、気を整え、套路を開始する。


 起勢、酔調振月から第壱式。跳歩掃刃、反身輪剣へ。


 弐式、参式と剣を走らせていると、横目で見ている䤳玖が時折「振りの抜けが甘い」「型を意識しすぎている。それでは立ち合いでは使えん」と指摘してきた。一通り套路を習い覚えて以来、「創意工夫せよ」と言うばかりで久しくなかったことである。動きにも俄然がぜん熱が入り、酉萬は時を忘れて剣を振り回す。


 西空に朱が混じり始める頃、いつしか黙り込んでいた䤳玖が不意に立ち上がるのを感じた。


 動きを止めた酉萬もそちらへ視線を転じ、

「――は?」


 思わず声が出た。


 湖のほとりに女が立っていた。


 今の今まで、何の気配もなかった。二十歩もない距離である。目を閉じて耳をふさいで剣を振っていたわけでもなく、当然聞こえるはずの草をる音、土を踏む足音を耳にした覚えはない。船で対岸から渡るにしろ、水音や鳥が騒ぐ声くらいはしそうなもので、そもそも船の影形かげかたちもない。突如現れた女の存在は、まるで宙から降ってきたように思えた。


 年回りは、自分とそう変わらぬように見える。美人には違いないが、紅もささず、屈託のない眼差しをこちらに向けていた様はまるで童女のようである。高価そうな稽古着に、一振りの長剣を携えている姿には色気もなにもあったものではない。


 ――代理の者?


 驚き冷めやらぬまま、まず思ったのはそれだった。


 ヤルの古い知己ちきというからには、相手もやはり相当な年寄りだろう。いつお迎えが来るかもわからず、息災であっても足腰が弱れば、かごも入れない山中まで出向くのは厳しい。女の着ている稽古着は行李の中のものと同じに見え、相手の縁者なのは間違いなく、言伝ことづてを預かってきたか、あるいは黄泉路よみじに出たむねを伝えに来たのかは聞いてみないとわからない。


 ところがヤルは戸惑った様子もなく、布で包んだ行李の中身を取り出して、木剣の入った袋とともに、女の方へ歩いて行った。女の足元へ手土産を置き、三歩後ずさり、およそ酉萬トルマンが見たこともないほど敬意のこもった仕草で拱手きょうしゅ三揖さんはいの礼を行う。女はわらべのせっかちさで包みをほどいて顔をほころばせ、新たな稽古着に施された精緻な刺繍を嬉しそうに確かめている。しばらくすると我に返った様子で、不器用に稽古着を仕舞いながら、䤳玖ににっこりと笑いかけた。


 立ち上がった䤳玖も幾分柔らかくなった態度で、親しみのこもった頷きを返す。


 ふと、女の視線が立ちすくんだままの酉萬に当てられた。女の意図を察した䤳玖の声。


「――はい。弟子になります。まだ若いが、見所のあるやつで」


 女が小首をかしげる。続ける䤳玖の声。


「はい、私めは本日で最後になります。――どうかご存分に」


 それを聞いた女は破顔する。喜色満面の輝くような笑みであり、酉萬も一時女に見惚れた。


 呼ばれれば挨拶しなければ、と汗をぬぐい、襟元を正すが、紹介というのはそれで終わりらしかった。きびすを返した䤳玖は、再びこちらに帰ってくる。


 それにしても。


 ――おしか?


 女の声をまだ一言も聞いていない。子供じみた立ち振る舞いは、世間ずれしていない良家の子女にまれにあることである。身分いやしからぬ身ともなれば、下々の者と直接会話しないともいうことも知っている。しかしそれは側仕そばづかえがいればこその話で、供も連れずに単身その身をさらす女は、依然として正体不明のままだ。


 今度こそ、根ほり葉ほり問い詰めてやる。そんな心づもりで䤳玖を待ち受け、


「――師範、」


 それきり酉萬は絶句する。


 もろもろの疑問を吹き飛ばしたのは、䤳玖の懐から差し出された一通の書状であった。表面にまじない文字が記され、受け取り人以外が破ると災いが降り注ぐとされる紙縒こよりの封印。


 略式ではあるが、正式な手順にのっとって書かれたそれは、まごうことない遺文のこしぶみである。


 意味がわからない。


 とうとう本当に耄碌してしまったのかと正直思った。無論、神仏の類でなし、䤳玖もまたいつかは死ぬだろう。これが病に倒れた枕元で差し出されたなら、自分も涙ながらに受け取ったことだろう。しかし見も知らぬ山の奥へと連れ出し、謎の女と会話ともいえぬ会話を交え、前触れもなし遺文を突き出すというのは出鱈目でたらめが過ぎる。どこぞのやぶに余命でも宣告されたか、下手な占術師に山中で唐突に行うべしと占われたのか。


 吹き飛ばされた疑問は、勢いを増して舞い戻ってきた。もはや自分が何から聞きたいのかもわからず、問いが口からあふれるにまかせて、


「何を、」

「――黙れ」


 喉元に突き付けられた剣にせき止められた。


「これ以降、声を出すことは許さん。――動くこともまかりならん。全てを見届けたあとに、文の封を切れ」


 黙ったのは言葉を理解したからではなく、抜く手も見せないその動きに、ヤルの本気を感じ取ったからである。不意をつかれたとはいえ一瞬たりとも目を切っていないはずなのに、色もなく、奇術のように出現した切っ先をまるで意識できなかった。半眼の䤳玖は、ここで迂闊うかつな動きを見せるなら弟子の資格なしと無言で告げており、酉萬トルマンは問いの残りを慎重と呑み下す。下手に動いたら切られる。


 書状を懐に押し込められるが、身動きも取れない。


 䤳玖は地蔵と化した弟子に背を向け、それきり一顧いっこだにしない。抜き身の長剣を手に、先ほどとは違い、弧を描く足取りでゆっくり女へ近づいて行った。凶器の接近に女は何の動揺も怯えた様子もなく、同じく長剣の鞘を払い、足元の土産と共に、間合いの外へ乱暴に投げ捨てる。


 なんだこれは。


 混乱しきった酉萬の心境を、半ば無理やり言葉にすればこうなる。出口を防がれた疑問は身の内を荒れ狂い、吐き気すら感じた。


 これはつまり、真剣での立ち合いなのだろうか。日が沈みつつある山中の湖畔で、二人は一足一刀からやや離れた遠間、五歩ほどの距離で向き合っている。茜色に染まった水面を背に、剣を手に対峙する老人と女の姿はおよそ現実感というものがなく、芝居の演目を見ている気すら覚えるが、西日に照らされた刀身のぎらつきには一切の嘘がない。女はやはり䤳玖の孫娘で、間抜けな弟子を担ぐために一芝居打っているのではないか。そんなありえない想像にすがりついた。


 二人が動き出す。


 剣の切っ先は下に向けたまま、体軸をふらふらと揺らし始めた。規則的な振り子の動きではなく、酒に酔っているようにも、眠気を我慢しているようにも見える。


 起勢だ。


 ――同門?


 䤳玖は当然としても、鏡映しの女の動作も、見知った套路のものだった。酔漢を真似た拳法や、所作を隠すために身体を揺らす門派はいくつかあるが、酉萬の教わったそれは、軸の傾け方に独特の癖があるため間違いないように思えた。


 となると、これはよく聞く宗家分家の争いなのだろうか。尾ひれが付きすぎた䤳玖の武歴。まさか一門皆殺しの生き残りではないにせよ、恨みを買うことは山ほどあったろう。仮にこちらが分家なのだとしたら、宗家にも面子めんつというものがある。女児だろうが直系唯一の子を、刺客として鍛え上げた。そういうことなのか。


 思いついたその考えに、酉萬は一も二もなく飛びついた。だとすれば䤳玖のかしこまった態度にも説明がつくし、真剣でのはたし合いも断れまい。遺文を用意したのも、ある種の礼儀と言える。いかに修練を重ねていようと彼我ひがの力量差は明らかで、女の怪我だけが心配だったが、剣を弾き飛ばすなり、叩き折るなりうまくやるのだろう。それにしても人が悪い。言っておいてくれたなら、自分もちゃんと固唾かたずを吞んでたたずむ弟子の姿をうまく演じるのに。


 酉萬がつか安堵しかけたその瞬間、闘いが始まった。




 闘いは終始、酉萬トルマンの目で追いきれぬ速さで行われた。


 だからこれから先は、酉萬の記憶の中の光景だ。


 酉萬はこの後、何年も何年も繰り返しこの光景を脳裏に思い浮かべた。思い返すたびに新たな発見と驚きがあり、驚きは新たな疑問を引き連れて、再び酉萬を回想へと誘った。


 仕掛けたのはヤルの方だった。


 物が真横に落ちるような速さで女に近づき、両足まとめて叩き斬る勢いで横薙よこなぎに剣を払う。しかし女は跳躍と同時に旋転、䤳玖の首筋を切り裂こうと袈裟懸けさがけに斬撃を見舞う。しかしすでに地に伏せている䤳玖は、返しのやいばを女の心臓めがけて突き入れる。女は避けざまに䤳玖の腕を落としにかかる。かわした䤳玖の逆袈裟。それをかわした女が狙うは䤳玖の目元への刺突。旋転しつつ女の胴を抜こうとする䤳玖。


 手順が決まった剣舞でも、到底ありえない速度だった。


 わけがわからなかった。驚きも度を過ぎると何かが麻痺するらしい。酉萬は息を止め、顔中をまなこに変えて、ただ見つめることしかできなかった。


 二人の速度はさらに増す。䤳玖は手が八つあるような速さで〝回刃″の由来となった、円を描くような斬撃を無数に繰り出す。女はその刃圏はけんを潜り抜け、さらに多い手数で䤳玖を切りつける。刃は互いの身体を捉えはじめ、䤳玖の身体に数度血色の線が走り、女の頬にも薄い傷ができた。


 そのとき、両者は申し合せたように一旦間合いを離した。女は頬の血をぬぐって歯を見せて笑い、䤳玖も息を乱しながら、やはり笑顔で応える。


 再び間合いが詰まり、入るものを即座に切り殺す暴風圏が形成される。


 二人の速度はさらに増す。そのはやさは人のものとは思えず、天地のことわりから解き放たれた武仙同士の闘いに他ならなかった。もはや身のこなしだけでは躱しきれず、受け止められた互いの斬撃が夕日に火花を溶かし、剣戟けんげきの音を響かせる。


 二人の速度はさらに増す。


 女は笑う。相方不在で踊れなかった舞踏に、待ちわびた相手が来てくれたような歓喜の笑みであり、自分だけの秘密の場所へ友を招いてはしゃぐ子供のそれだ。ヤルも笑っている。頬を紅潮させ、二十も若くなったような顔で喜々として剣を振るうその姿に、酉萬トルマンは環号のいくさを駆け抜けた若き剣達けんたつを確かに見た。


 女の打ち込みを防ぐ瞬間、䤳玖の剣がより甲高い音を響かせ、体軸にわずかなぶれが生じることに、酉萬はしばらくの間気づかなかった。


 けいを化かしきれていない。


 瞠目どうもくすべき事態だった。䤳玖の化剄かけいの巧みさについては、身をもって知っている。酉萬渾身こんしんの打ち下ろしを金箸かなばしを卓に転がす程度の音で受け止められたこともある。それを遥かに上回る女の剣は、䤳玖の腕をもってしてもその勢いを殺せないのだ。互いの剣をはじき、受け止め、そらしている攻防の中で、軸のぶれはそのまま攻撃の遅れにもつながり、劣勢なのはどちら側なのか次第に明らかになっていく。


 女は䤳玖より強い。


 理解を拒むその事実を、酉萬もようやく受け入れつつあった。武辺のいただきにいる䤳玖を圧倒していく若い女。その光景はまさに天変の前触れであり、明日にでも世界は滅ぶのだと真剣に思う。女もいくつか手傷を負っているが、肩で息する䤳玖の方はすでに満身創痍まんしんそういさまで、夕焼けよりもなお赤い血で全身を濡らしている。


 決着は、日が落ちる前についた。


 ついに受けきれなかった一刀に䤳玖の剣が跳ね上がる。がら空きになった身体に、女の返す刀が容赦なく滑り込み、逆袈裟の形で斬り開く。まず即死だと思われたその傷で、いかな執念のたまものか、䤳玖は血を吐きながらその日一番の突きを放った。躱しきれない女の首を裂くも、刺突はわずかにくだに届かない。再び剣を走らせた女は、䤳玖の水月を貫いて今度こそ息の根を止めた。


 女は満足げに息をもらした。地に伏した䤳玖へ、生前向けたのと変わらない笑みを浮かべる。放り出した土産を血が付かないように袋の木剣で引っ掛け、現れた時とは違い、すたすたと水辺を歩いて去って行った。途中酉萬へも目をやり、頷くような会釈を送るが、茫然自失の酉萬はまるで気づいていない。


 最後まで、わけがわからなかった。


 すでに思考は停止していた。





 亡骸なきがらは山の目立たない場所に埋めること。家屋敷を含む財産は、もうゆずる手続きが済んでいること。詳しくは入室を禁じていたヤルの書斎に文が置いてあること。


 遺文に書かれていたのは、この三つだけだった。


 翌日の昼も過ぎた頃にようやく正気をとり戻し、紙縒こよりの封を切った酉萬トルマンである。答えの先延ばしに気が狂いそうになり、䤳玖の亡骸を埋めたあとは駆け降りるように山を下りて船に乗った。有り金をはたいて船頭を急かし、馬を乗り捨て、行きの半分の日数で斎都へ戻る。道行く人を跳ね飛ばし、䤳玖の血と泥に汚れたまま単身帰ってきた酉萬に仰天する女中を押しのける。書斎の扉を蹴破って、机に置かれた草紙そうしの束を見つける。


 これだ。


 壊した扉を閉めもせず、寝食を忘れて読みふける。


 記録に残っていないので定かではないが、おそらく自分は六人目だと思う。書の始まりには、誰とも知れない筆跡でこう書かれていた。


 それは剣の頂に手を伸ばさんと、挑み続けた登攀者とうはんしゃたちの記録だった。記された名前は、誰もが知っているいにしえの英雄もいれば、聞いたことのない無名の人物もいた。


 女の正体については、確とした答えは得られなかった。


 遥か昔、まだこの国がケイと呼ばれ、あの湖がハクの一部であった頃、近隣の俗伝に剣を持つ若い女の話が伝わっていたそうだ。武神零黄レイオウの系譜に連なる仙女であり、真の武人を鍛えるために降り立ったのだ。そう言うものもいたらしい。武の狂気に憑りつかれた女怪にょかいであり、自分以外の剣人が目障めざわりで仕方ないのだ。そう言うものもいたらしい。


 人ではない。それだけは確かだ。師が手傷を負わせたとしても、十二年に一度、獣歴が一回りして弟子の前に再び現れた姿には、傷跡一つ残っていなかったという。もっとも着ているものはその限りではなく。いつしか、女に挑むものは衣類を手土産にするのが習いになったそうだ。女の出自についてそれ以上の洞察はなく、以降複数に渡る筆者も、どう斬るか、どう倒すかの試行のみ語られている。


 その理由は、武人の端くれである酉萬にもわかる。


 女は不死なのかもしれない。しかし䤳玖との立ち会いの最中、確かに傷を負って血を流し、癒えるということはなかった。例え一合限りの比武であっても、あの女に刃が届いたなら、武の極北に至ったと胸を張って言うことができる。


 さらに読み進める。女を同門かと疑った自分の推察は、ある意味では正しかったことを酉萬は知る。


 むしろ、女の剣が、おのが門派の原型ともいうべきものだった。獣の力を借りるため、その闘い方を真似る拳法がある。女に勝つために、女の剣を知り、いつしか倒すべき相手に似通っていった剣術。それが自分の学んできた剣であった。無論、真似るだけでは勝つことはできない。創意工夫せよ、師の口癖はこの書にも記されており、歴代の門人は各々のやり方で技を磨き、套路に組み込んでいった。䤳玖の軍歴も、もとは異国の剣と斬りあい、その要訣を学ぶための参戦だったそうだ。


 しょうの乱における英雄〝悪鬼″亜擦土アズレトが同門高祖の一人だったのにも驚いたが、とりわけ印象的だったのが、ないと思っていた門派の名を知った時だ。射戦故いせごというらしい。十三代目が付けたというその名は、当初意味がわからなかったが、不意に理解が訪れたときには我を忘れて笑い転げた。


 伊仙弧いせごの言い換えだ。別名、にせ雪門冬という。


 雪門冬せつもんとうという花がある。秋に咲く多年草で白い花弁も美しく、根は漢方にもなるのだが、険しい高山のごく一部にしか生息していないため非常に高価で希少である。女の稽古着の刺繍はこれを図案にしたものだろう。


 伊仙弧はその別名通り、雪門冬に似た白い花なのだが、小高い丘でもよく見つかる。間違って持ち込まれる漢方屋の不興を買っているが、問題は別にある。その姿から、伊仙弧は高嶺の花にしつこく迫り続ける、未練がましい男の蔑称になっているのだ。


 これほど相応しい名前もないし、䤳玖が教えなかったのも無理はない。思い出し笑いの発作が幾度も襲い掛かり、そのたびに酉萬は机に突っ伏して肩を震わせた。壊れた扉から部屋を覗き込む女中は顔を青くしている。尋常でない様子で屋敷に帰り、食事もとらず書斎に閉じこもり、あげく馬鹿笑いする酉萬は気が触れたようにしか見えず、あの時はおいとまを願おうと思ったと後に女中は語っている。


 木剣は、䤳玖の四代前から贈るようになったらしい。こちらは真剣、相手は木剣。言わば手加減を乞うているわけで、普通に考えればこれほど屈辱的な話もないのだが、彼我の力量差は明らかである。酉萬とて十二年後に女と立ち合ったとしても、何もできずに瞬殺される情けない自信がある。当初不満げだった女も、じきに新しい遊びのやり方がわかったようだ。未熟な者には木剣で、腕を認めたものには真剣で、なるべく怪我をさせないように相手する。それなりの腕に仕上がった相手が後継を連れてきたとき、互いに本気で殺しあう。


 書の最後には、ヤルの記述が並んでいた。十四のときに弟子として初めて女を見たこと。意外にも䤳玖は本人がいうところの「目」、見た光景を焼き付けて思い返すことができなかったらしい。酉萬トルマンの大師範にあたる人物の最後を「なにが起きたのかもわからず、ただ師父が死んだ」と短く語っている。二十六で初めて挑んたこと。その後、三度にわたる闘いの顛末。今になって䤳玖の実年齢を酉萬は知った。


 弟子をとったこと。その酉萬に向けての言葉も書かれていた。自分には何の未練もないし、受け継ぐべき大層な剣でもない。ただ剣に命を懸ける愚者の系譜が、偶然長々と続いただけであり、放り出しても何の支障もない。家屋敷を処分して商売を始めてもよいし、自分の門派を立ち上げて道場を構えてもよい。軍に入営して出世に邁進するも悪くない。最後にひと言。


 ――酉萬、自分の剣は何回届いた?


 結局これだよ、と酉萬は思う。


 自分への心遣いを疑う気持ちはない。しかし最後の言葉に䤳玖の本音が詰まっているのは明らかである。一番の関心事は生涯を通じて積み上げた功夫クンフーの成果であり、門派の行く末も、弟子の将来も、同列に二の次なのだろう。未練はないと書かれてあった。そりゃあないだろう。最後の一瞬とはいえ、あの女を相打ち寸前まで追い詰めたのだ。今頃、地獄でおお威張いばりしているに違いない。


 剣に命を懸ける愚者の系譜、とも書かれていた。全てがに落ち、何一つ混乱のない澄み切った了見で考えてみる。自分は愚者か。賢者か。


 答えは決まっていた。


 忘れようとしても、あの女の剣を、あの闘いを自分は何度でも夢に見るだろう。辿り着くべき真の頂。奇しくも闘いの前夜に、酒家で口にした己が言葉を思い出す。


 ――そう、思い悩む暇もない。


 しかしまずは、䤳玖の問いに答えるのが先だ。酉萬は目を閉じ、未だ速すぎて追いきれない、記憶の中の光景を思い浮かる。なんとか䤳玖の剣撃を数えようと試みているうち、知らずに眠りに落ちた。




 ふと、目を覚ました。


 どうやら机の前でうたた寝をしていたらしい。酉萬トルマンはこきこきと首を鳴らし、開いたままの草紙に目を落とし、書きかけだった文を確かめる。胸元まで垂れた自分の髭に、妙な違和感を覚えて苦笑した。


 まだ寝ぼけているらしい。


 随分と遠い昔の夢だった。まだ若かった自分が、女と出会い、同時に師であるヤルを失ったあの頃の夢だ。


 あれから、もうすぐ六十年になる。


 その間、暁国は二つの内乱と一つの戦を経験し、斎都の大火で首都を洛都に移したが、かろうじて国として命脈を保っている。酉萬はしわだらけの手で、草紙についたすす跡をなでた。屋敷は全焼したが、これを持ち出せたのは行幸ぎょうこうだったと今でも思う。


 そういえば、䤳玖の名で師を思い出すのも久しぶりだった。今では兵部護省や軍の間では、酉萬自身が䤳玖として知られている。


不死しなずの䤳玖″だ。


 屋敷の再建費用を稼ぐためという身も蓋もない理由で、二つ目の内乱鎮圧に参加した。ヤルの名を借りたのは深い考えがあった訳ではない。面倒になったら抜けるつもりでいたので本名は避け、しかしすぐには変名も思いつかず、どうせ誰も覚えていないとたかをくくったのが運の尽きだった。幾度かの戦闘で名が広まり、父や祖父から聞いた古い戦話いくさばなしささやくものが増えていった。当時の将官には弟子であるとしぶしぶ白状したはずなのに、いつしか䤳玖の再来、そして不老不死の当人へと話がすり替わり、噂は戦より恐ろしいと、酉萬は自身の軽率さを深く反省したのだった。もうすぐ会える䤳玖本人に、彼岸で謝らなければいけない。


 最後の問いにも答える必要がある。


 ――六度です。師範。


 酉萬は胸のうちで呟く。もはや昨日の夕餉ゆうげもろくに覚えていないのに、あの光景、䤳玖と女の闘いは鮮明に思い出すことができる。今では䤳玖はもちろん、女の振るった剣も数えることができた。䤳玖の言った通り、自分は強くなったのだろう。


 その強さ、自分の生涯が、頂に手が届くのか。


 それは、もうすぐわかることだ。


 女との二度の立ち合いでは、木剣で為すすべもなく打ち負かされた。女の動きに、なんとかついていけるようになった三度目。木剣を断ち切ることができたが、自身の腕というよりも、数度の立ち合いに木剣が耐えきれなかっただけ、というのが正しい。その証拠に、真剣に持ち替えた女に自分はあっさり負けた。そして四度目。新たな木剣も用意したが、女が最初から真剣で立ち会ってくれたのを思い出すと今でも嬉しくなる。しかし最後には、長剣を叩き折られて負けた。あれこそ腕の問題である。


 次が五度目。老い先短い我が身には、これが最後になるとわかっていた。


 弟子もいる。


「――師範、起きてますか?」


 酉萬トルマンの思いに応えたのか、扉の外からためらいがちな声がかかった。自分を師範と呼ぶ弟子が、酉萬という本名を知っているのか尋ねたことはない。


「――ああ、起きている。――入ってきなさい」


 入室を禁じたことはないのに、草紙を置いているこの部屋が、酉萬にとって大切なのを察しているのだろう。稽古着の姿の弟子は、開いた扉からおずおずと顔だけ覗かせ、足を踏み入れることはなかった。


 酉萬は笑みを浮かべて、弟子に問いかける。


「どうした流詩リュシー?」


 弟子の名は流詩といい、今年十八になる娘だった。軽業を仕込んだ大道芸師の親は、流行り病で死んだらしい。天涯孤独となった流詩は、りの浮浪児として洛都で暮らしていた。たまたま出向いていた酉萬の財布を狙って取り押さえられ、流詩の身のこなしに感心した酉萬が、弟子として育てることにしたのだ。


「――あの、もうすぐ夕飯なんですが、――ここで召しあがるなら持ってきますけど、――」


「いや、いつも通り居間でいただくよ。先に行ってくれ」


 そう応えたが、流詩は姿勢を正し、酉萬が立ち上がるのを待っている。


 相変わらず融通の利かない娘だ。


 そう思いつつ、酉萬の顔はゆるむ。格別優しくした覚えはないのに、流詩は自分を随分と敬ってくれているようだ。厳しい修行にも素直についてきてくれる。不意打ちで襲い掛かってくることもない。流詩を見ていると、自分の若い頃を思い出して赤面してしまう。目を細めて、弟子の姿を見つめた。


 小首を傾げる稽古着姿の若い娘は、否応なく、あの女を彷彿ほうふつとさせる。


 そう。この娘が自分の最後の、創意工夫になるだろう。


 記録に残っている限り、歴代の門人に女人にょにんはいなかった。しかしそもそも、この剣はあの女に近づき、真似から始まったのではないのか。娘が、かの女の剣を知ったならば、自分では気づかなった要訣を見抜き、遥かな高みまでの道筋を見つけるかもしれない。流詩を弟子に取ったのは、そんな思惑おもわくも確かにあった。実際、身体の柔軟さから繰り出す流詩の発剄はっけいは、末恐ろしいものがあり、少なくとも十八の頃の自分より強い。


 流詩なら、あの女と対等な遊び相手になれるのかもしれない。


 が、無理強いするつもりは更々なかった。師のひいき目かもしれないが、流詩は美人に育ったと思う。行き遅れたが家屋敷は残してやれるし、紅でもさして綺麗な衣装で町を歩けば、嫁にという男はまだ現れるだろう。


 もっとも、本人にその気があるのかは少々怪しい。女中の真似事までさせてしまっているので、給金代わりにかなり多めの小遣いを渡しているが、この前はまた新しい木剣を買っていた。何本目になるか。


「――あの、師範?」


 無言で見つめられ、落ち着きをなくした流詩の声。


「あー、いやすまん。夕飯だったな」


 立ち上がった酉萬に、流詩はほっとしたような表情を見せて、部屋の前から歩き始めた。


 その後を付いて、酉萬もゆっくり廊下を歩きはじめる。中庭に面した廊下は思いのほか肌寒く、秋の到来を感じさせた。もう一月もすれば応秋の日だ。


 時折こちらを振り返る流詩に、頷き返して思う。


 弟子は可愛い。その将来は楽しみではある。自分が死ねば流詩は泣くだろう。しかし、ろくでもない師を持つ流詩は不憫だと他人事のように感じ、あの湖畔へ行く日がなにより待ち遠しい。正直いつお迎えが来るかもわからない身なのだから、好きにやらせろとすら思う。まさしく愚者の系譜だ。この歳になって亡き師、䤳玖の言葉に心から共感している。未練はない。思うのは女との立ち合いのことだ。自分はあの女に勝てるのか。


 破れるとしても、何太刀あびせることができるのか。


 いや、もう一つあった。自分を祖父のように慕ってくれる弟子は、焦がれる女に会いに行くと伝えたら、どんな顔をするだろう。


 䤳玖はいつでも正しかった。


 いくつになっても楽しみは尽きない。

 

 酉萬は屋敷の居間に向かって、ゆっくりと歩いていく。






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剣の高嶺 ぶっくばぐ @1804285

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