19. 途切れる音楽

 そこは、晴れた日の野原みたいに穏やかだった。

 位置情報を辿って向かった先にあった霊園。そして、門からしばらく歩いて行った先で、1人ぽつんと座っていた。あの、黒い機械頭が。


 秋の風に乗って、鍵盤の音が聞こえる。ユウヒは、墓石の前に腰かけて、小さな鍵盤を弾いているみたい。


「ユウヒ」

「この名前に見覚えは?」


 そう言われて、ユウヒの前に埋め込まれた、白い墓石に視線を落とす。


『コガネ・エンバー・クロフォード』


 その人生は、8年前の年号で幕を閉じた。私たちが、あの事件に巻き込まれた日。


「……あなたの、お兄さん?」

「そうだよ。腹違いだけどね」


 ユウヒは本物の機械の鍵盤を演奏してた。肩幅ぐらいの大きさで、鍵盤の上には、いくつもつまみが付いている。

 隣に座っても、ユウヒは私を避けない。まるで普通の友達みたい。


「どうして僕の兄だとわかったの?」

「新聞記事見たの。それから、あなたが言ってたこと」

「僕が?」

「私は“警察”って話したのに、あなたは“特殊部隊”って言ったから。そんなにちゃんと覚えてるなんて、家族くらいじゃないかって」


 指が止まり、黒い頭がこちらを向く。それから肩を落とす。小さく、乾いた笑い声がした。


「ああ……。そういうことか」

「うん」

「顔を見た?」

「写真で、1枚だけ」

「その顔に、正義感を詰め込めるだけ詰め込んだら、コガネの出来上がりさ」

「昨日のユウヒも、少しだけ似てたよ。1人になんてしないって、言ってくれたでしょ」

「僕が似てたら、こんなことにはならなかったよ」


 “こんなこと”がなんなのかを言わないまま、細長い指が、鍵盤を静かになぞる。


「クリストファーが言ってた、コガネがくれた機材だよ。ずっと直して使ってるんだ」

「もしかして、公園で聞いた曲の」

「そう。今も音楽をやれるのは、コガネのおかげさ。この頭で出来ることは、そんなに多くないからね」


 鍵盤が沈む。音が1つだけ鳴って、弱々しく伸びていく。秋風が吹けば消えてしまいそうな音。

 花の香りがしたのは、多分、どこかの墓石に飾られた花のせい。


「コガネはいい人だったよ。強くても威張らなかったし、誰に対しても優しかった。勉強も出来たけど、正しいと信じたことのために自分で動く方が得意でね。早々に警察学校に進学して、特殊部隊に進んだ。天職だと思ったよ」


 古ぼけた鍵盤に、その表面に、つまみにそっと触れる。面影をなぞるみたいに。昼寝をしている大きな背中を、起こさないように触るみたいに。


「手が届く範囲の人は、全員助けようとする人だったんだよ。だから、自分が担当した事件の人質なんて尚更そうだ。きっと、犯人のことだって、助けたいと思ってたんじゃないかな。……その代わり、僕は置いて行かれたけど」


 ひとりぼっちだった。この墓石の前に、2人でいたとしても。ユウヒは、ひとりぼっちだ。

 ここに、本当にコガネが眠っているかもわからない。私が最後に聞いたのは、あの低い音だけ。ただこの石に、コガネの名前が刻んであるから。ユウヒはここに座り、1人鍵盤に指を置く。


「ずっと、探してたんだよ。コガネが命をかけて救った、をさ。会えたら、恨み節を言ってやろうと思ってね。

『やあ、無傷の君。僕は機械の頭だよ、不気味だろ? 君はコガネより素晴らしい人間なの? どうしてコガネは君のために死んだの? そのせいで、僕はひとりぼっちだ。君は僕のこと知らないだろうけど、僕はずっと、君が嫌いだったんだ』

 酷い言葉を毎晩毎晩考えてた。名前も顔も知らない、どこかの誰かに」


 そうやって言うくせに、ユウヒは肩をすくめると、手のひらを広げてひらひら揺らした。夜の海で私と繋いだ、あの優しい手。


「あれこれ調べすぎて、何度かシャットダウンしたこともある。そのせいで、調査は行ったり来たり。酷いもんさ」


 私の手の感覚を、まだユウヒは覚えてるのかな。長い指は、ゆっくりとユウヒの手のひらに触れる。そこには誰もいない。空っぽの手のひら。

 どんなに強く握っても、誰もその手を握り返さない。暖めない。


「だから君を見つけて、パーティーで声をかけた時は、嬉しかったんだ。やっと叶えられる。願掛けもついに終わる。ずっと聞きたかった話を聞ける、罵詈雑言をぶつけてやる。散々優しくしてから、たっぷり傷つけてやる」


 花の香りはもう消えた。秋風で、吹き飛ばされたのかもしれない。1人で地べたを転がって、知らない誰かの墓石にたどり着いたのかもしれない。


 ユウヒの声が、なんの香りもしない墓石に沈んで行く。


「……でもさ、君の話を聞いて、よくわかったよ。全部間違ってたんだ。僕はコガネと8年も一緒にいたのに、その思い出を全部無視して、顔も知らないベランダの子どもを憎み続けてた。どうして1人にしたんだって、コガネのことも恨んでた。……僕はコガネを裏切った」


 もっと私が器用だったら。話すのが上手だったら。メイリやビアンカみたいに、手を伸ばす勇気があったら。ユウヒの手を握って抱きしめて、「そんなことないよ」って言えたのかもしれない。

 でも、私は怖かった。手を振り解かれることも、「お前になにがわかる」って言われるのも、なにもかも。


「僕も君みたいに、コガネと生きればよかった。そしたら今頃、君の隣に相応しい人間に、なれてたかもしれないのに」


 相応しい。

 相応しい。

 そんなの、私だって違う。


 コガネに助けてもらうに相応しくて、ユウヒの隣にいるのに相応しくて、メイリやビアンカ、クララの友達に相応しい。そんなはず、ない。


「……私、ユウヒに会えて、嬉しかったよ」

「僕が、優しくて話しやすいからだろ?」

「え?」

「じゃなきゃ、あんな話、会って1週間の機械頭にするわけがない。君にとって、僕が理想の友達に見えたからだ。違う?」


 聞いてるくせに、ユウヒはもう、答えなんかいらないみたいだった。だって、なにもかも全部、諦めたみたいにうつむいたから。


「理想の友達なんて、まぼろしさ。こんなに早く打ち解けるなんて、不自然だよ。君はお人好しすぎる。気をつけた方がいい」

「……じゃあ、ユウヒがこれまで話してくれたことは、全部、嘘だった?」


 久しぶりに、ユウヒがこちらを見た。黒い頭にはなんの表情も浮かばない。ほんのわずかに揺れた頭が、なにも考えていないフリをして言った。


「僕は冗談を言うけど、嘘はつかない。今も、今までも、それは変わらない」

「私のことは、嫌い? 今も憎い? 友達ではいたくない?」


 ユウヒは、また私から顔を逸らした。コガネの名前を見ているのかもしれない。どこでもない、誰かの墓石を眺めているのかもしれない。


「もしそうだったら、こんなに思い詰めたりはしないさ。もし僕に顔があったら、君にキスしたいよ。手の甲だけじゃなくってね。がっかりしただろ、僕はそんな男さ」


 またなにも言えなくなる。「本当に誰も愛せないの?」って聞けたらいいのに。「私のことは嫌い?」って。

 そうじゃない、嫌いじゃなくて、そうじゃなくて……。


 なにか言わなきゃ。なにか言わなきゃいけない。それなのに言葉が出てこない。頭の中ではこんなに、ぐるぐると想いが駆け巡るのに。

 どうして? 誰でもいいの? 言葉を飲み込まないで。お願いだから言って。私は、私は。


 でも、あなたに顔があったら。

 私、こんなに近くで、あなたの顔を見つめられない。



 ユウヒは両手をぱっと広げると、あっさりと言った。


「まぁいいや。せっかくだから、新曲を聴いていく? 新曲が出来ると、いつも最初にここで演奏するんだ。僕は、信頼出来る人の前でしか、新曲を弾かないからね」


 鍵盤の上を、指が滑り出す。それは、クラブ・ジャックで聴いた音楽とは違う。公園で聞いた曲とも違う。ピアノの音がゆっくり紡ぐ、もの悲しい曲だった。


「まだ歌詞がないんだよ。どうしようかな」


 何度か同じメロディを弾いて、ユウヒは所々口ずさむ。


「君はそのままで …………

 ………… また会いに行くよ

 ………… 今言うべきじゃない

 ずっとそばにいて …………


 ………… その声や音色を

 ………… 塗り替えられない

 考えたくないな …………

 ずっとそばにいて …………」


 独り言みたいな曲だった。乾いた木製の窓枠が、ガタガタと震えているような。川の流れに、昔の思い出を千切りながら捨てていくような。

 最後の音は、落ち葉みたいにぽとりと落ちた。


 曲が終わった細長い指は、所在なさげに鍵盤の上でぼんやりしてる。どこへ行けばいいのかわからないまま、居場所なんて探してないようなふりをして、そこにいる。


 だから私は、ユウヒの右手を取った。秋風で冷えた手は、私の手よりも大きいのに、ずっと弱々しく見える。

 冷たい肌が、私の温度に気付いて揺れた。けれど、ユウヒはそれを拒まなかった。


 地面から体を上げて、ユウヒの方へ身を乗り出す。こっちを見ない機械頭の右側に、私は、唇を寄せた。それはひんやりとしていて、なんの熱も帯びない。


 誰も愛せない機械頭。

 でも、私のことを、ずっと憎んでた機械頭。


 冷たい手を鍵盤の上に戻して、急いで立ち上がる。黒い頭が、座ったままでこっちを見てる。

 もう、ユウヒの顔は見られない。なにを考えてるのかなんて、知りたくもない。知るのが怖い。


「……曲、聞かせてくれてありがとう」


 逃げるように走り出す。ユウヒがこっちを見てるかなんて知らない。ただ、もうあの場所にはいられないってわかってた。


 お別れの曲、最後の曲。私がユウヒを追い詰めた。


 それならもう、ここから走って逃げなくちゃ。


「野菊!」


 後ろから大声が聞こえる。振り向いちゃだめ、このまま走らなきゃ。

 それなのに足が止まって、私は振り返った。ユウヒが、あの場所に立っている。


 ありったけの声で。秋風を消すように。

 この世でたったひとつの音楽のように、ユウヒの声が聞こえた。


「僕は君が好きだ! 愛してるんだ! 本当だよ、嘘じゃない! だから」


 ガシャン。

 乾いた音がする。


 糸が切れた人形のように、機械頭はその場に倒れた。

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