17. 泣いたことがない人

 海からどうやって帰って来たのか、よく覚えてない。ふらふらとバイクに乗って、多分、寄り道ひとつしないで寮に戻った。


 部屋のドアを開けたら、音楽が聞こえて来た。ビアンカが好きなヒップホップと、適当な歌詞をつけて歌うメイリの声。

 短パンにTシャツ姿で、2人はメイリのベッドの上に座ってる。手元には、グミの袋。上半身だけをささやかに揺らしながら、2人はこっちに声をかけてきた。


「野菊帰って来たー。どこ行ってたのー?」

「またユウヒと2人で出かけてたんでしょ」


 宙に浮かぶ画面には、ミュージックビデオが流れてた。いつも通りの景色。よくある、金曜日の夜。

 メイリに、バイクありがとうって言わなくちゃ。それでも、私の口は動かない。ドアの前で、足を掴まれたみたいに立ち止まったまんま。

 メイリは気にせず、音楽に体を揺らしながら口をとがらせる。


「もー! せっかくだから、クララのセキュリティ姿でも見に行こうと思ったのにさー」

「憎んでたって、言われた」

「え?」


 メイリの体がぴたりと止まる。ビアンカも、画面からこっちに視線を動かす。まるで時間が止まったみたい。私たちはただ動きを止めて、次の言葉を探してた。それは私が言うべき言葉で、私は今すぐ、ドアを閉めるべき。


「ユウヒに、言われたの。君はずっと、僕が憎んでた人だって」

「はあ? なにそれ」


 ビアンカの声は、明らかに不快感で濁ってる。隣のメイリも、その様子に気づいたみたい。私とビアンカの間をきょろきょろ見渡して、それから手招きする。


「とりあえず、帰ってきなってば。おかえり、野菊」


 足が動かない。腕が上がらない。あの手の甲にされた口づけみたいなものは、なんだったんだろう。呪いだったのかな。きっとそう。

 力が抜ける。火で炙られて溶けていく、ブリキの人形みたいに。そのまま床に座り込んだら、2人がベッドから飛び跳ねた。こっちに来て、2人で私を抱きしめる。

 そうだった。この2人は、そうやって私を慰めてくれる、優しい子たちだったんだ。ごめんね。


「アンタ、なにがあったの?」

「ほら、あっち座ろうよ」


 ドアを閉めて、私の肩を抱きしめて、ベッドに座らせてくれる。どうしよう。頭の中でぐるぐる回る。

 波の音がする。ユウヒの声がする。低い音がする。音楽が聞こえる。

 あの人の声がする。

 低い音が鳴る。


「……私、人質になったことがあるの」

「人質?」

「どういうこと?」


 初めて2人に話した。自分の話を。あの日あった出来事を。

 メイリとビアンカは、ベッドの上で、私の手を握り、肩を抱いて話を聞いてくれた。

 気づいたらヒップホップは止まってて、聞こえるのは私の声だけ。時々、廊下から女の子たちの笑い声がする。私たちだって、あの子たちと変わらない。なんの変哲もない、ただのありきたりな学生。


 2人は、口をふさいで息を飲み、それから、自分の胸を押さえて大きく呼吸した。


「野菊、頑張ったんだね」

「そうだよ。アンタは立派だよ。クラスメイトも、その、警察の人も」


 私はうなづいた。多分、あの時の私は頑張っていたし、あの場にいた全員が、そうだったと思うから。

 メイリは、私の顔を覗いて、それから不思議そうに眉をひそめた。


「でも、なんでその話で、“憎んでた”って言われなきゃいけないの?」

「アイツまじで、一度ぶん殴りに行かない? 今ジャックにいるんでしょ、とっ捕まえよう」


 喧嘩っ早いビアンカの言葉に、私は首を横に振る。


「そんなことしちゃだめ。……それに今、クラブにクララいるし」

「ああ、クソっ。勝ち目がない」


 ビアンカは苛々と唇を噛んだ。普段冷静なくせに、一度火が付くとロケット花火みたいに飛んでいくんだから。

 でも、クララの名前を聞いて、いつもの調子を取り戻したみたい。大きな目をぐるりと回して、私とメイリをじっと見た。


「アイツのことは気に食わないけど、今までのアンタの話を聞いてる分には、なんの考えもなしに、そんなこと言うわけがないと思う」

「あたしも思った! だって、いいやつだよね? うちらと話した時もそうだったし」

「いいやつって言うか、全部意図的な気がするだけなんだけどさ」

「難しいことわかんない! でもさ、その場の気分だけで話すタイプじゃない気がするよ」


 だから私は、どうしてユウヒにあんなことを言われたのかが、わからなかった。

 もし、気分屋な誰かに言われたら。それこそ、人のことを平気で地味子って言ってのける、少し前のクリストファーに言われたんだったら。大したことじゃないって、忘れられたかもしれない。


 ビアンカは、大きな目をピタリと止めて、しばらく空気を眺めてた。それから、思い立ったように急にこっちを向いた。


「アンタ、自分以外の視点でー……。ニュースとか新聞とか論文とか、そういうので自分の事件について見たことある?」

「ううん。出来れば見ないようにしてる。家族も、私の目に入らないようにしてくれたし」

「現場にいなかった人間は、全員、事件の外側じゃん。アタシたちもユウヒも、雑な括りで言っちゃえば、アンタの親だってそう。そういう人間が事件について知れるルートなんて、現場にいた人に聞くか、ニュースかぐらいじゃない?」


 すると今度は、メイリが一度手を叩いてから声を弾ませた。


「そっか! それを見たら、ユウヒが野菊にあんなこと言った理由が、わかるかもしれないってことだ!」

「メイリ、珍しく冴えてるじゃん」

「珍しく、は言わなくていいの!」


 あの事件について、ほかの誰かが考えたことを読む。報道されたことを知る。そんなこと、しようと思ったことがなかった。

 だって、誰よりも私は、クラスメイトは、あの日教室でなにがあったのかを知ってる。ほかの誰にも、私たちのことはわからない。そう思ってた。


 それに、なによりも。

 そんなもの目にしたら、確実になってしまう。

 あの人が死んでしまって、もう、どんなに頑張っても、思いを伝えられないことが。


「アンタが、そういうの見るの怖いって言うなら、無理にとは言わないし、うちらが手伝っていいなら、手伝うよ。でも、アンタの目の前にいた機械頭を知ってるのは、アンタだけだからさ。自分で見たほうが、納得いくと思うんだよ」

「……そうだね。明日、図書館行ってみる」

「ねえねえ、それでどうやってもわかんなかったらさ、クララにも話して、みんなでユウヒをぶん殴りに行こ!」


 メイリが珍しく、そんなことを言う。きっと、メイリもメイリなりに、腹を立ててる。2人が私の代わりに怒ってくれるから、笑ってくれるから、悲しんでくれるから、私は私のままでいられる。


「2人とも、ありがとう」


 それが合図になったみたい。


 メイリとビアンカが一斉に私に飛びついてきて、3人で頭をぶつけて、あんまりにも痛くて声を上げた。

 それが子どもみたいでおかしくて、3人で大笑いする。笑いすぎて、目から涙が勝手にあふれてくる。拭っても拭っても止まらなくて、私は涙をこぼしながら大笑いした。


 それにつられて2人も泣いて、泣きながら笑って、夜を明かした。

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