幸せな時間

陽野 静舟

幸せな時間


 彼は花を生けるのが得意だ。

 厳密に言えば、生ける花を選ぶセンスが良いという意味だ。


 普段よく人家などを彩る、店で売られているような草花ではないが、彼は駐車場の脇や、はたまた空き地のフェンス越しなどに咲くものを見つけ、なるべく傷つけずに摘んできては、私の部屋に飾ってくれる。


 春にはいつも、私の大好きな胡瓜草を窓辺に飾ってくれた。瑞々しい水色の小さな花を咲かせる雑草だが、花びらの青とそれを束ねる中央の黄がとても鮮やかで、私はその色使いに心を奪われた。勿忘草と似ているとよく言われがちだが、私は断然、胡瓜草派だ。私が胡瓜の漬け物が大好物だから、葉を揉むと胡瓜の匂いがするという名の由来から摘んできたのだと、彼が得意気に言うものだから、私はその時思わず笑ってしまった。子供の時から知っていた花だったが、今になってもっと好きになった。


 花を生けてくれる彼の横顔に、

 「ありがとう」

 と、私は言った。




 彼は私を愉快な気持ちにさせるのが上手い。


 今日一日の出来事を創意工夫しながら面白可笑しくしようと一生懸命話すのだが、その姿勢や手振り口振りがとても微笑ましく、彼には内緒だが、話の内容よりも、話し手である彼自身を見ることが私の楽しみだった。

 私に話しかけている最中、彼が左薬指にしている指輪が、夕日に反射してよく目に染みた。


 毎日、話を終えた彼の作り笑いに向かって私は、

 「いつも、ごめんね?」

 と呟いた。




 ある大雨の日のことだ。

 昨日聞いた話だと、どうやら、台風十四号が近付いているらしく、遠くから雷鳴が轟いている。

 彼は窓に片手を置き、外で雨粒が強風に煽られ、そこかしこに叩きつけられる様を眺めていた。

 「泣いているの?」

 私が訪ねると、彼は振り向かずに視線を外に向けたまま黙っていたが、やがて口を開いた。


 「わかっているんだ。僕がしていることは、きっと何も意味がない」

 「そんなこと――」

 「でも、君が許してくれるのなら、もう少しだけ……側にいていいかな」


 相手の厚意に甘えて胡座をかいていたのは私の方なのに、悲しい声で嘆願する彼。

 「お願いします」

 それでも、私はまた甘えてしまうのだ。そう、それでも――。




 息が苦しい。

 いつもの様に、彼は病室を訪ねていたので、容態が急変した私を見て、酷く狼狽していた。

 ――午後五時半、夕暮れ時。

 数日前から口に押し当てられた人工呼吸器が、非常に邪魔くさく感じられた。けれど、自分でそれを振りほどく力すら、私にはもとよりない。

 ベッドの手すりを握りしめ、横たわる私に向かって訴えかけるように彼が声をかけているのがわかったが、何を言っているかまでは、私にはわからなかった。もう、言葉すら耳には届かない。周辺の音は鈍く響いてふわふわしている。まるで夢心地だ。

 意識が薄く、遠くなる。

 朦朧としながらも、私は彼の顔を見つめ直した。

 ――あぁ、泣かないで。

 どうか、私の為に涙を流さないで。そんな必要は全くないのだから。

 私は卑怯者だ。

 彼が家庭を築いてることを知りながら、彼の厚意を受け続けた。

 私が好意を捨てきれなかったから。


 幼い頃からの友人が病床に臥したと聞き、彼が初めて病室を訪れた時には、既に私は口も利けなかった。


 誰にも聞こえる筈がない、

 「ありがとう」も、

 「ごめんね」も、

 私は馬鹿みたい言った。

 私の呼びかけに彼が笑いかけてくれるから、もしかしたら届いているんじゃないかって、気付いてくれてるんじゃないかって。

 そんなことを思って。


 だから最後にもう一度、ちゃんと彼に伝えよう。

 私があなたにどれだけ感謝しているのかを。


 せめて、あなたが私に費やした時間を悲しみだけで終わらせないように。


 「あり……が……」

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幸せな時間 陽野 静舟 @hinoseisyu-56

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