『胡蝶の宿⑤』


 翌朝、目を覚まし朝食を取る為に大広間へと向かった。食事はすでに用意されていた。メニューはご飯に味噌汁、しそ巻梅漬にお漬物、ニンニク漬けに海苔にホッケの干物を焼いたものだった。


「御影君、ご飯食べたら仕事始めるよ。食べ終わったら声かけてー」ご飯を装いながら朗らかな声で瑞樹が言った。

「うん、わかった。頂きます」


 俺はまったりと朝食を食べ始めた。北の料理は塩分多めと聞いていたがここの料理はそんなことは無い様だ。料理人の腕が良い、どれも絶妙な味加減に仕上がっている。

 大変美味しく頂きました。ごちそうさま。


「食べ終わったら、自分で片づけてね」その時、近くを通りがかった瑞樹が声を掛ける。


 俺は膳を持って大広間の端にある調理室へと向かった。調理場の中には割烹着をきたごつい男性と割烹着を着たおばさんと女将が忙しそうに後片付けをやっていた。


「すみませんこれ」俺は女将に声を掛けた。

「あら、ありがとう一条君。もういいの」

「はい」

「だったら紹介するわね。こちらがここの板長の中島厳吾さんとその妻の和子さん」


 厳吾さんは作業をしながらこちらをジロリと見ただけだった。奥さんの方は「よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げた。


「今日からしばらくお世話になります。一条御影と申します。よろしくお願いします」そう言って俺は深々と頭を下げた。


「それでは早速仕事に入ってもらいましょうか。先ずこれを上に羽織って」


 そう言って女将は格子柄の紺の半纏を手渡した。背中には大きく輝の文字が入っている。俺は浴衣を脱ぎそれをシャツの上に羽織った。


「瑞樹ちゃーん」女将は大広間の瑞樹を大声で呼んだ。

「はーーい……何?」瑞樹がとことこと寄って来る。

「もうここは良いから、二人でお風呂の掃除をしてらっしゃい」

「うん、わかった。行くよ御影君」


 俺と瑞樹は風呂場と洗濯室の間にある準備室に入り、道具を持って風呂場の方へと移動した。


「えーと、先ずは浴室ね。お風呂のお湯を抜いて……次に磨き粉を撒いてブラシで擦る」そう言いながら瑞樹はバルブを開けて湯船のお湯を排水し、磨き粉を床にぶちまけた。「……浴槽も床も壁も磨いてね。終わったらシャワーで汚れを流して、風呂桶と座椅子をタワシで擦ってあっちの端へ積んでおく。後、鏡とカランは雑巾で磨いてちょうだい」身振り手振りを交えながら教えてくれた。

「わかった」

「じゃ、私、女湯の方やるから、何かわからない事があったら聞いてね」

「うん」


 そう言い残すと瑞樹はそそくさと男湯を出て行った。


「さて、やりますか……」そう言いながら俺は袖をまくり上げ掃除を始めた。

 基本的にこう言う作業は嫌いではない。やった成果がすぐに表れるからだ。俺は力を込めて床を磨き出した――。



「あら、綺麗になってるじゃない」ニ十分ほどして仕上げのカランを拭いている所で瑞樹が戻ってきた。そして、小姑の様に浴室をチェックして言った。「ふむふむ、これはこれは、うーん。うん、合格ね」

「合格って何だよ……」

「こういう作業って人間の性格が現れるのよ。真面目にしない人はどこかで必ず手を抜くし、きちんとした人はしっかり仕上げる。だから、これなら、大丈夫そうね……」

「ああ、そう、それは良かった」

「よし、じゃ次は脱衣所ね」


 床をモップで拭いて棚を雑巾で拭きとる。マットやタオルを回収して袋に詰めて置く。そして、立派な男根は軽く埃だけ落としておいた。あまり擦ってご利益が出ても困るだろう。


「終わった?」作業を終えた瑞樹がやって来た。

「ああ」

「うん、ちゃんと出来てる。タオルとマットは業者に出すから作業室に置いといてね」

「わかった」

「よし、そろそろお客も帰り始める頃だし、客室の掃除も始めましょうか。――でも、御影君は部屋を移ってもらうから先に自分の荷物を纏めて頂戴」

「わかった」そうだった、昨日女将に聞いたのに忘れてた……。


 俺は急いで自分の部屋へと戻り、自分の荷物をバッグに納めた。元々ツーリング中だったので荷物は少ない。あっという間に作業は終わった。そこへ掃除道具を満載した大きなワゴンを押して瑞樹が現れた。


「あら、もう準備日出来てるの、早いね。早速部屋に案内するね」


 そして案内されたのは北館二階、大広間の丁度上にある遊戯室と書かれた部屋だった。扉を開けると居酒屋の個室の様に通路の左右に四畳の和室が計六つ並んでいる部屋だった。一番手前の和室を見ると将棋盤と碁盤が置かれている。成る程、遊戯室か……。


「昔は風呂上がりの休憩室に使ってたんだけど、今はお客が少なくて大広間しか使わないから好きに使って。あっ、奥の方に布団もあるからね」

「わかった」そう言いながら俺は一番奥の和室に行き窓のあるスペースに荷物を置いた。


「それじゃ、客室の掃除にいきましょう」

「うん」


 客室は南館の二階に八室、一階に大部屋が四室がある。


 先ずは部屋にある物を全て入口に出す。そして掃除機を掛けて、除菌洗剤を付けた雑巾でテーブルや椅子を拭いて行く。ついでに、部屋の隅の埃や手の触る柱なども拭いておく。布団カバーと浴衣は袋に詰めて布団は台車に積んでいく。灰皿や湯呑やゴミはワゴンに乗せる。

 客室の準備は宿泊予定表を見ながらするのでそこは瑞樹に全て任せた。最後に布団を一階の端にある布団部屋から外に出てハンガーにかけて干して置く。

 それらがすべて終了する頃には、もうお昼前になっていた。


「いやー、御影君がいて助かったわー」

「いつもはどうしてたんだよ」

「一人で頑張ってたんだよ。まあ、本当に忙しい時は別の旅館にヘルプ出してもらってたけどね」

「あ、そう」

「さて、ちょっと早いけどお昼にしましょうか」


 俺達は一旦作業を終了させて大広間へと向かった。

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