『胡蝶の宿④』


 これは少し驚かされた。料理だけでも十分元の取れる。メインのマグロやお肉だけでなく野菜のゴロゴロ入ったみそ汁やうどん出汁に入った餡餅(あんびん)も美味しかった。


 食事も終わり辺りを見回すと、瑞樹は他の客のところで忙しそうに働いていた。他の従業員はいないのだろうか。暫くは彼女の手は空きそうにない。なので俺は彼女に軽く挨拶して部屋で待つことにした。


 部屋に帰り家から持って来た観光ガイドに目を通す。――成る程、先程の餡餅(あんびん)料理は『けいらん』か……。

 そう言えばいつの間にか部屋に布団が用意されている。部屋の隅にそのまま引っ張って広げればすぐに眠れる形で布団が用意されていた。布団を見ていると何だか眠くなってきた……。


 いかん、まずい。このままでは本当に眠ってしまう……。瑞樹も来そうになので先にお風呂に入ってしまおう。


 俺はタオルを持って北館の大広間の隣にあるお風呂に向かった。大広間ではまだ家族連れが食事をしていて瑞樹はその対応に追われている様子だ。俺は大広間の隣の男の字の書かれた紺の暖簾を腕で押して戸を開いた。二十畳はある脱衣室。貴重品を入れて置くロッカーや籠の入った棚が並んでいる。

 そして、その反対側大きな鏡の横にやはりあった……。全長約二メートル直径約五十センチ。多くの人に撫でられて黒々とテカる男根の木彫である。小さな鬼の彫像がその男根にしがみついている。もう驚かない。何となく想像はついていた。多分ここはそういうのが売りの温泉なのだ。


 服を脱ぎ浴場へと向かう。壁に泉質:ナトリウム硫酸塩泉・効能:皮膚病、美肌効果、疲労回復、脳卒中や動脈硬化の予防と書いてある。


「ん?」戸が開かない。よく見ると中の電気が消えている様だ。

 浴場へ入る扉は三つあり内左の二つは電気が消えている。俺は一番右の戸を開いた。


 ――狭い……。


 いや、一般家庭のお風呂に比べれば十分に広いのだが、期待していたものと比べると――。

 浴室全体の広さは六畳くらい浴槽は二畳くらいである。浴室も浴槽も全面のタイル張りで四つのカランとシャワーが設置されている。外へと通じる扉もあるが外に露天風呂がある様子も無い。黄色のケロリンの風呂桶が空しく浴室に散乱している……。立派な温泉を期待していただけに残念だ。


 俺は気を取り直し体を先に洗う事にした。ツーリング中にお風呂に入れない場合は髪を洗い体を拭くだけに留めている。なのでここではしっかりと掛け湯をし、備え付けのボディーシャンプーで体を丁寧に洗う。北海道に行けば無料の温泉も多くあるそうなのであまり心配はしていない。

 シャワーで全身の泡を落とし湯船に浸かった。お湯は僅かに乳白色で微かに硫黄の匂いが付いている。湯船が広くないのであまりのびのびとは出来ないが、湯に浸かりながら軽くストレッチをしておいた。

 バイクに乗ってずっと同じ姿勢だったので肩と腰に疲労が溜まっている。肩と腰を重点的に揉み解しておいた。十分に体を温め風呂から上がった。浴衣に着替え途中の自動販売機でビールと缶酎ハイを買い込み部屋へと戻った。


「あ、お風呂に行ってたんだ」部屋の前には瑞樹が立っていた。「ねえ、部屋に入っても良い」甘える様の声で問うてきた。

「うん」


 俺は自分の部屋へと入り缶ビールを開けた。瑞樹は押し入れから座布団を取り出しテーブルの向こうへ腰かけた。


「ねえ、一条君に相談なんだけど、君は暇はあるかな」少し上目遣いにあざとく瑞樹が聞いて来る。

「まあ、暇は有ると言えば有る」そう答えた。

「ふーん、そうなんだ。だったら五日間程バイトしてみない」


 成る程、そう言う事か……。正直言って次の仕事の宛は無い。そして自由になる時間はいくらでもある。別に急ぐ旅でも無いか……。さて、どうしよう。


「条件は?」

「三食寝床付きで勿論給料もちゃんと払うわよ」

「んで、仕事って何?」

「えーと、要はこの旅館を手伝ってほしいんだけど……どうかな」


 まあ、そうなるよな……。実は最初から気が付いていた。この旅館に着いてから従業員はこいつと女将さんの二人しか見ていない。通常ではありえない。これだけの規模の旅館ならもっと従業員がいても良いはずなのだ。


「具体的には何を手伝えばいいんだよ」

「えーとねー、客室の掃除とお風呂の掃除と館内の清掃かな。後はその他の簡単なお手伝い」

「なんで五日なんだよ」

「本当はもう一人従業員がいるんだけど、今、急用で実家に帰ちゃっててさ。その人が戻ってくるのが六日後なんだよね」

「それでも人、少なくないか」

「いやー、先週まではもう一人いたんだけど寿退社しちゃって……。それに、いつも手伝ってくれる爺ちゃん婆ちゃんも畑仕事が忙しい時期だから呼びづらくってさぁ」

「ふーん」

「それで、どうかな」瑞樹はもう一度あざとく俺を見上げた。

「まあ、良いけど……」

「本当、やった! それじゃ、ちょっと女将呼んでくるね!」



 そう言い残すと瑞樹は席を立ち慌てた様子で部屋を出て行った。

 

 まあ、今は気ままな一人旅だ。問題ない。こう言った突拍子もない事が起こるのも旅の醍醐味と言うやつだろう……。

 一人残された俺は手に持っていた缶ビールをグビリと飲んだ。



 その後、この旅館の女将である寺岡早苗さんと話をして明日の朝から仕事を始める事になった。期間は明日から五日間。バイト料は日当でそれなりの金額だ。


 俺は残った缶酎ハイを飲み歯を磨いて寝る事にした。共同トイレの前に設置されている洗面台で歯を磨く。

 そして、自分の部屋の扉を開けると缶ビールを持った瑞樹が待っていた。


「いやー、今日の仕事も終わったし、一条君のバイト採用を祝って飲もうー!」


 いや、寝かせろよ……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る