第3話


 翌朝、外に出てみると、厩舎からは牛や鶏が減っていた。畑は荒らされていたが、作物は盗まれていなかった。奴らは肉食なのだろう。悔しくて涙が出たが、祖父がそっと僕の頭を撫でてくれた。

 あいつらをやっつけてやる、と大声で叫んで鍬を振り回した。その声を聞きつけて、おじさんがやってくる。惨状を見て苦々しい顔をした。

「こいつぁひどいな。食い物が足りるかな」

「心配するな。今日は釣りにでも行こうじゃないか。お前は釣りが上手いだろう」

 祖父の提案で、僕たちは釣りをしに行くことにした。褒められるのは好きだ。今日は魚をたくさん釣ってやろうという気持ちになる。

「言い出しっぺのくせに悪いが、わしは留守番をしておくよ。最近、無理が利かなくなってきたのでな」

 そんな風には見えないが、祖父が痩せてきたのは事実だった。筋の浮いた、皮ばかりの腕を見ると悲しくなる。僕やおじさんに比べて、生気のない肌の色をしていた。僕は努めて明るく祖父に手を振って見せた。

 いつも、僕たちは山を少し登ったところにある川で釣りをする。この川は山頂から湧き出る水が川となって、海に流れ込んでいる。夏はここで水浴びをすると、冷たくて気持ち良い。魚もほどよく泳いでいる。本当は、船に乗って海に出て釣りをしてみたいけれど、祖父に止められていた。魔物が出たら逃げられなくなるからだ。

 川に沿って、山をさらに登っていくと、とんでもない大物がいる。なぜ知っているのかというと、時折それが降りてくることがあるからだ。一メートルはあるであろうザリガニや、手足の生えた魚、七色に輝く植物などが流れてくることもある。

 祖父はああ言ったが、実は釣りが苦手だった。ある程度挑戦したが、一匹も釣れず、僕はおじさんから離れて川辺でザリガニを釣って遊んだ。

 耳をつんざくような音が、大気を震わせた。思わず耳を塞いで見上げると、大きな鳥が頭上を飛んでいった。鳥は美しい声で鳴く。今日のように鳥の直下にいるときは、びっくりするほど大きな声に聞こえるが、普段遠くから聞こえてくるその鳴き声は、まるで天使が歌っているようである。

 初めて鳥を見たときは恐ろしかったが、あの鳥が人間を食べるということは無く、いつも優雅に飛んでいる。尾羽が美しく伸びており、日の光に照らされると色が変化する。滅多に落とさないが、羽根が拾えるときは幸運だ。まるで宝物を見つけたような気持ちになる。

 川の上流は行くなと言われていたが、鳥の歌声を聞きながら上機嫌で歩いているうちに、随分と上ってしまっていた。気がついたときには、視界に巨大なザリガニがいた。背筋から血の気が引き総毛立つ。つむじから一直線に電撃が走った。

 あんな巨体が、いつのまに出現したのかわからなかった。これが魔物かと思うほど、威圧感があった。

 目が合った。

 ゴクリ、とつばを飲み込む喉が鳴る。

 やけに視界が眩しくて、心臓の音がうるさかった。

 実際のところ、ザリガニが僕を見ているかどうかはわからないが、僕とザリガニとの間に、不穏な緊張感が生まれたのを感じた。

 体が痺れて動かない。こめかみを汗が流れた。そのまま、力を振り絞ってゆっくり後ずさったが、ザリガニは僕の動きに合わせて近付いてきた。襲うつもりなのかはわからない。ただ、彼ら特有のゆっくりとした動作で、はさみを動かしながら僕の方に近付いてきた。

 はさみの動きも不気味だった。唐突に振り上げたと思いきや、特に何もしない。

 ザリガニは、まるで立ち上がるみたいに体を起こした。両のはさみは、天高く突き上げられ、その大きさは僕など軽々と押し潰してしまえるほどの体躯だった。

 ーー威嚇だ。

 僕は大声を上げて、体の痺れを解いた。意を決して振り返り、川から離れて森の中へ走った。森の中なら、追ってこないと思ったからだ。しかし、後方から木々をなぎ倒すような音が聞こえる。振り返ると、ザリガニは緩慢な動きだが、確実に僕を追ってきていた。ザリガニのはさみは簡単に樹を伐採した。図鑑によると、ザリガニのはさみは筋肉が詰まっており、とてつもない力を持っているという。普通の小さいザリガニでさえ、人間の指を切り落とす程度の力があるらしい。巨大ザリガニなら、僕の体くらいわけなく真っ二つにするだろう。

 それでも、あの緩慢な速度なら逃げ切れるだろうと高をくくっていた。

 ザリガニが樹をはさむ。メリメリメリ、という音がして樹が倒れる。それが次の樹に引っかかり、ザリガニの体当たりで倒れる。下手に動くと樹に押しつぶされそうだ。さらに切り倒した樹が僕の行く手を阻んだ。

 ゆっくり、ザリガニが迫ってくる。目がギョロギョロ動いている。感情の無い表情が、僕の胴体を真っ二つにしようと迫ってくる。もうだめかも知れない、と思ったら突然恐怖が襲ってきた。今まで、体は恐怖に震えていたが、思考に実感が無かった。まだ、何とかなると思っていたのだと思う。それが、もう追い詰められた段階になって初めて、脳髄に死という恐怖が沸き起こってきたのだ。

 恐怖というのもは、まるで目の前に唐突に現れたブラックホールに吸い込まれたように感じる。本物のブラックホールを見たことは無いが、SF小説で読んだことがある。超高密度の質量を持った、強い重力の場である。いかなる物質や粒子や波も、そこから抜け出ることは出来ないため、無限に広がる黒い穴と呼ばれているのである。

 今、僕の意識はまるでブラックホールに飲み込まれたみたいに、死という恐怖から抜け出すことが出来ないでいる。体中の筋肉も収縮してしまった。

 まだ人生のなんたるかなど知らず、この世界のことも解明できぬまま無残な死を遂げる。残された祖父には申し訳ないが、これが僕の運命だったのだ。

 諦めかけたとき、ザリガニの体が当たって、僕を閉じ込めていた樹がずれた。それによって、小さな僕一人がなんとか這い進んで行けるだけの隙間ができた。すぐさまそこに飛び込む。ザリガニはそこには入ってこられないようだった。さらに、自身で切り倒した樹に阻まれ、進むことも難航している。はさみを振り回して、だだをこねる子供のようだ。

 僕は匍匐前進で進んだ。あと少しで抜け出せる。先程まで死を覚悟していたのに、今は全身に生命力が満ちていた。まだ、死ねない。生きたいという生存本能が、体から溢れている。

 樹の隙間から出口に手を伸ばした時だった。不安定だった樹が崩れ、僕の足の上に落ちた。

 折れた、と思った。なぜなら足が動かなくなってしまったからだ。不思議と痛みは無かった。必死に足を抜こうとしたとき、僕の上に影が落ちた。見上げると、ザリガニのはさみだった。

 九死に一生を得た、と思った直後にこれだ。神様は残酷だ。こんな最期なら、希望を持たせないでほしかった。

 今度ばかりはもう駄目だ。深く息を吐き、目を閉じる。果たして、僕はこのザリガニに食べられてしまうのかと覚悟した。そして、ゆっくりと数を数える。このカウントが十か、百になって目を開いたら、そこは天国だろうか、それともまた別の場所だろうか。

 遠くから、獣の唸り声が聞こえた。

「あっ」

 僕は声を上げた。聞き覚えのある声だったからだ。目を開けると、怒りに顔をゆがめた狼の群れがあった。その狼たちは、僕たちがよく餌をあげている群れだった。リーダの頭は胴体から二つ出ており、そのどちらも独立した思考がある。ギリシア神話のケルベロスのようだったが、頭は三つではなく二つだ。片方の頭にだけ餌をあげ続けると、頭同士で喧嘩することもあった。

 リーダが雄叫びを上げると、狼がザリガニの飛びかかる。だが、ザリガニの外殻は堅く、ダメージは無いようだった。続いて飛びかかる。ザリガニははさみを振り回した。それでも、果敢に飛びかかって行く狼。

 丁度、飛びかかった狼にはさみが当たった。そのまま、ザリガニははさみを閉じる。もがく暇も無いまま、あっさりと狼は真っ二つになった。その血しぶきが僕の顔にまで飛んできた。

 僕は叫んだ。

 その後のことはわからない。気がついたら、狼もザリガニも消えていた。見ると、ザリガニのはさみがそこに落ちていた。

 真っ二つになった狼の体はどこにも無かったから、連れて帰ったのだろう。自分の体を見下ろしてみるが、幸運なことに五体満足でそこにあった。

「大丈夫か」

 おじさんの声が聞こえた瞬間、僕は声を上げて泣き出した。安心したからだろうか、恐怖が今更襲ってきたからだろうか、とにかく色んな感情が爆発したみたいに泣きじゃくった。

 おじさんはザリガニも狼もみていないそうだった。

「全然大丈夫じゃ無い」

 ようやく泣き止んだ頃には、おじさんが樹をどけてくれて、僕はそこから抜け出すことができた。

「大きなザリガニと戦ったんだ」

 帰りの道中、泣き腫らした目で、僕は得意げに言った。

「大ザリガニねえ」

 おじさんが笑った。そして、意地悪そうな顔で彼が指さした先の樹には、テーブルみたいに大きなキノコが生えていた。

「大変だ、大キノコが出たぞ」

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