第8話 呑む姉


 姉の帰りは遅かった。

 帰ってくるなり服を脱ぎ散らかし、アルコールが代謝される臭い(おえっ)をまき散らして、シャワーを浴びている。

 女って生き物が裏で何やっているのか、毎日露骨に見せつけられてはたまったもんじゃないけど、まぁ、仕方ない。


 息を止めて、服を洗濯するものとハンガーに掛けるものに分ける。ブラジャーも、姉のものでは色気を感じるはずもない。

 洗濯機に服と洗剤を放り込み、スイッチを入れる。ハンガーに掛けた服には消臭スプレー。そのまま放り出されているよりは、ニオイが少なくなる。


 一息ついて、机に戻る。

 机の上のテキストを見る。数1てぇのは、なんでこんなにワケの判らん式ばかりが並ぶのか、思わずため息が出る。大体、えんえん因数分解する目的が解らん。


 姉がシャワーを終えて、歯を磨いている。一応、嗅覚の敏感な弟に気を使ってくれているみたいだ。

 歯磨きが終わったらしいので、振り返りもせず聞く。

 「おねえ、今日はどっちの男だい?」

 「うーん、判っているくせに」

 「まぁね」

 帰って来た姉についていたにおいは、いつものフレンチの店のにおい。アルコールはワイン、赤。となれば、姉の本命の男。

 ここのところ、二人の男を掛け持ちしているけど、本命じゃない方の比重がどんどん増しているかな。


 背後で冷蔵庫が開閉した。

 「飲む?」

 姉が聞く。俺は首を横に振った。

 実は、俺自身、アルコールを飲んだことがないではない。アルコールが少しでも体に入ると、嗅覚が普通の人間並みに低下してくれることを発見して、ありがたいとさえ思っている。


 においから判ることを普段は判らない振りをして、たまに手品を使うように効果的に見せる。これも俺の処世術だった。まったく判らない振りをしていると、「他の人には良い匂いでも、俺にとっては悪臭」という時に逃げられないからだ。

 相手のプライベートに踏み込まないって振りを見せるのは重要なことだし、逆に、一目置かれる快感ってのもあるしな。

 「におい」「臭い」「匂い」「香り」「薫り」を厳密に使わないと、女子がいきなり怒りだしたり、泣き出したりすることも学ばされている。男子でも、表情に出さなくても翌日から話してくれなくなる。「クサい?」なんて言っちゃったら、もうオシマイだ。

 これでも気を使っているんだよ、いろいろと。


 それでさ、そんなこんなでさ、この擬態も、やっぱり疲れる時がある。嗅覚を麻痺させたい時もある。

 姉は、それを理解してくれている。

 とはいえ……、飲むのが卑怯な気がするのも事実。そして、体が翌朝までに分解しきれる量以下にしておかないと、自分自身の血管を流れるアルコール残滓の激臭にのたうち回ることになるのも事実。本当に世の中、うまく行かないもんだ。

 まぁ、それがあるから、アルコールという救いに頼らず、いや、頼れずにいるんだけれども。


 姉はソファの上でとぐろを巻いて、ビールの500ml缶を開けると一気にあおる。

 横目で見ていると、いつもながら、喉から胃に落とすような、いい飲みっぷりだ。

 前は、こんな飲み方をしなかったような気がする。


 「で、どうよ?」

 視線を数1のテキストに戻して、姉に聞く。

 「どうよって、彼のこと?」

 「そりゃ、嫁入り前の娘が遊び歩ってりゃ、保護者としちゃ心配ですから」

 「だれが保護者じゃ。……バレてんでしょ。大概のことは」

 姉はそう言うと、残りのビールを一気に空けた。

 「……優しい人よ。責任感もある。でも、普通の人だし、繊細な人。今なら、傷つけずに戻れるけど、そろそろどうするか正念場ね」

 空き缶をもてあそびながら言う。うーん、よくは判らないが、姉も判断を迫られているらしい。


 体ごと姉の方に向き直る。

 「姉さんが好きなら、いいんじゃない?」

 逆に姉は、俺から視線を逸らす。

 「そういう訳にも行かないなー。『好きな相手』と『ずっと上手くいく相手』は別。『頼りがいのある相手』もね。臆病かもしれないけれど、もうね、人と別れて泣くのは嫌。自分でなんとかできる範囲は、なんとかしたいしね」

 最後は、小さな声だった。

 姉が姉なりに考えているのであれば、俺に言えることは何もない。

 「ん、解った。あとで、気が向いたら状況を教えて」

 「教えてって言ったって、その前に嗅ぎ当てるでしょ?」

 「あ、まぁね」

 そして、お互い無言になった。


 両親が死んだ時、姉は高校生だった。なのに、葬儀の手配や保険も含めた全ての手続きをした。そして、葬式やすべての手続きが終わって、親戚もいなくなって、初めて姉が泣くのを俺は見ている。

 その時、中学生だった俺は、涙のにおいのする姉の横に座っていることしかできなかった。そして、姉は俺より勉強ができたのに、担任の教師や俺もが勧めた大学進学を断り、地元の中堅の会社で働いている。


 姉が頑張ってくれたのは、俺のためだったことを今は理解している。

 俺の嗅覚の鋭さは、いつも諸刃の剣だった。

 昔は、鼻をかすめた悪臭に吐くなんてことも日常茶飯事だったし、飯の作り手が母や姉以外に変わると食えないのも当たり前だった。食材から、それを触った人の手のにおい、皿を洗った洗剤のにおいまで嗅いでいるのだから、当然のこと。皿の上のトマトを収穫した農家の人が、タバコを吸うかどうかまで判かってしまうのだ。

 だから、外食も限られた数軒でしかできなかった。今でこそ、その数軒では、俺の嗅覚を自分の料理へ挑戦と受け止めて素晴らしいものを作ってくれる。逆に、新メニューの試食を頼まれることもある。でも、そうなるまでには、やはり長い時間がかかったのだ。


 だから、中学生の頃の俺が、遠地の親戚に引き取られたりしたら……。餓死まで追い込まれていたかもしれない。多分、親戚の方でも面倒見切れないという話になっただろう。


 姉は、一人で葬儀の手配などのすべてを仕切り、それを実績として姉弟二人の独立した生活を確保した。そして、保険で当面の生活に困らないのに、近所や親戚のそれ以上の口さがない噂や干渉、保険金目当ての接触を封じるために働きに出た。その決断を、今の俺は理解している。

 俺はあと一年と少しで、その時の姉の歳になる。それまでに俺は、姉のように判断できるようになれるのだろうか?

 その姉の男関係なんだから、姉なりの判断があるのだろう。

 俺には解らないけれど。


 俺は、姉が空き缶を置くのを見て、切り出した。

 「ねー、悪いんだけど、ICレコーダー貸してくれない?」

 「なんでぇー?」

 さりげなく頼んだつもりだけれど、まぁ、話の内容がさりげなくないから、姉は案の定、探りを入れて来た。

 「文化祭の準備でメモ代わりに使いたい。委員にされちゃった」

 嘘が信じてもらえたかは判らないけれど、姉はバッグからICレコーダーを取り出して放ってよこした。


 姉のバッグはブラックホールだ。一度使ったものは、再びリクエストされるまで出てくる事はない。だから、バッグに入らないような大物は別として、たいていはこちらが使いたい時は姉に請求する事になる。

 一度などは小型とはいえ、六角レンチセットが出て来て仰天した事もある。姉よ、その工具を毎日持ち歩く必然が、あんたにはあるのか?


 「電池の確認は、そっちでしといてよ」

 「ん」

 電池の確認……。姉が、使う時のことを心配しているのは、目的があまりよろしくないことに気がついたからというのは、気のまわし過ぎだろうか?


 姉は大きく伸びをすると、とろんとした目でこちらを見た。

 「もう寝るわ。

 あと、覚えときなさい。身を守るときはね、仲間と情報を共有すること。敵を理解しようとしすぎないこと。撤退時期を誤らないこと。これは、落としどころを想定しとくことと同じよ。あんたの場合、最低ラインでこの三つね。

 あとは、相手が異性なら、取り込むことも選択肢になるよね」

 言うだけ言うと、酔っているだろう割りにはしっかりした足取りで、自分の部屋に行ってしまった。


 俺は、まぁ、なんというか、びっくりして反応もできないまま姉を見送った。そして、女性の洞察力ていうのに敬意を表して、言われたとおりにすることにしようと思った。

 後になって、姉がなぜそんなことを言ったのか、俺は思い知らされる事になるけれど。

 でも、この時は、無邪気にこう思った。サトシといい、姉といい、俺には見えないものが見えているようだ、と。


 俺は、そのまま考え込んでしまった。敵を理解しようとしすぎないこと、撤退時期を誤らないこと。これは難しい。もしも、武藤さんが異常な人格なのだとして、行きがかりで俺を無邪気に傷つけるとか、積極的に俺の寝首を眈々と狙い続けているという、どちらにしてもヤバい状況になるとしても、俺は彼女を理解したいのだから。


 昨日までは、こんな感情はなかった。俺は、彼女の手の平の上で踊らされているのか。

 俺は、サトシの言う通り、だし巻き一切れで骨を抜かれてしまったのだろうか。


 それでも……。

 俺には、武藤さんがまともにしか見えない。

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