幕間―真の王

 吹きすさぶ風の音が強くなっているように思えた。それは死者の嘆きの声にも似ていた。島を囲む湖面は荒々しく波打ち、岸辺に括られたボートを打ち砕かんばかりに激しく揺らした。


 嵐が近づいていた。墨を流したような黒雲が空を流れてゆく。小さな修道院の中では松明が隙間風に煽られて不安定に揺らめいている。石畳に映る二つの影があった。


「あなたはこの正教会より破門されたはず、なぜここに来たのです」

 老いた男の声が静寂を破った。黒いローブを纏うその老人はこの修道院の司祭であった。その背は折れ曲がり、もう戻ることはない。木を削った杖をつくその姿は聖職者というよりもまるで悪魔の使いのようだ。その正面には黒い巻き毛の男が立っていた。その衣服も黒、静かに佇む姿はまるで闇に溶け込んでいるようだった。


「正教会だカトリックだというのはのちの人間が勝手に決めた派閥に過ぎない。祈る神は同じ、そうではないのか」

 男が口を開いた。低い声は感情を帯びていない。松明の光が壁に描かれた聖人を照らしているが、黒髪の男は闇の中から動こうとはしない。


「あなたは死んだ、と聞きました。その首は切り離され、遠くコンスタンティノープルの城門に晒されたのだと」

 闇の中で男が口の端を歪めて笑う。


「そしてそなたが首の無い遺体を埋葬した」

「そういうことになります」

 司祭は恭しく頭を垂れた。風の音が一際強くなり、木々がざわめく。


「不思議なことに、あなたの勝利の噂を聞きました。つい三日前に。二万のトルコ軍を龍の旗印の軍の黒い鎧の男が一人で殲滅したという話です」

「相違ない」

「その男は古の龍の力を手に入れたとか」

「そうだ、この力があればこの国の裏切りものの貴族ども、トルコの軍勢、そしてメフメトすらも俺にひれ伏す」

 闇の中で男の目が光る。その目は血のような赤い色をしていた。遠く雷鳴が轟いた。


「だが、俺はこの力を封じることにする」

 男は瞼を閉じた。

「それは何故ですすべての人間を操るその力があれば、あなたは神にもなれるやもしれない」

「およそ司祭の言葉ではないな」

 男はおかしそうに笑う。堅い石の床を歩く男の靴音が響く。男は祭壇の前に立ち、白い水晶の塊を置いた。


「思考を奪われた人間はどうなるか分かるか・・・それはただの死人だ。俺が作り出すのは死人の群れだ。思考するは生きること、何者もその権利を奪うことはできない。それがどんな人間であってもな」


「ヴラド・ドラキュラ・・・あなたこそ真の王にふさわしい」

 司祭は深く頭を垂れた。

「ワラキアはまもなくトルコに呑まれよう。苦難の日が続くであろうな。しかし、自分の意思で立ち上がらねば、真の平和を得ることはできない。俺は信じている、この国の人間の生きる力を」


 ヴラドは祭壇の水晶に手をかざした。水晶は深紅の光を帯びて輝き始める。ヴラドは水晶を手にして力を込めた。張り詰めた糸が切れるような音が響き、水晶は五つの欠片に砕けた。


「龍の力を宿した石だ。後世にこの力を必要とする者が現れるやもしれぬ。司祭よ、この石をお前に託す。そして、俺は眠ろう、古の龍とともに」


 ヴラドは水晶の欠片を司祭の手に委ねた。そして司祭に背を向け、修道院を出て行く。司祭は十字を切った。


「ほう、祈ってくれるのか、俺のために」

「祈る神は同じです」

 扉の外で稲妻が光り、司祭は戦いて目を閉じた。目を開けた時にはヴラドの姿はすでに無かった。司祭は天を見上げた。大きな翼を広げた赤い龍が分厚い雲を突き抜けて天高く昇るのを見た。


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