【36】 スナゴヴ修道院

「アキ、そろそろブカレストに到着しますよ」

 エリックの声に亜希は目を覚ました。スチャバからブカレストへの短い飛行時間に熟睡してしまったようだ。エリックと目が合った。夢で見たヴラドことドラキュラ公の顔が一瞬重なった。亜希の驚いた顔にエリックも驚いている。

「どうしたの、アキ?」

「あの・・・また夢を・・・ドラキュラ公が龍の力を使う夢を見たわ」


 ヘンリ・コリアンダ空港に駐車していたエリックのBMWに乗り込み、空港近くのホテルへ向かう。その道中に亜希は夢の話をした。

「ドラキュラ公は手にした龍の力を使いこなしてトルコ軍に勝ったんだ」

 エリックも背中から龍が出せるんじゃないかとシュテファンが興奮している。エリックは苦笑している。

「しかし、興味深い話ですね・・・彼は一度戦死しても龍の力で蘇ったということでしょうか」

「日本で見た夢と繋がった気がするわ。ドラキュラ公が一度トルコ兵によって殺されたのを見た」

「でも、歴史上ではドラキュラ公の死後、ワラキアはオスマントルコに占領されてしまったよ」

 シュテファンが不思議そうに訊ねる。

「龍の力を使えば、世界だって手に入れられそうなのに・・・でも、彼の顔はトルコの大軍に勝利しても嬉しそうではなかった。それがとても印象的だったわ」

「彼がその力を封印した訳がわかってきたような気がしますね」


 ホテルの駐車場にBMWを停める。庭にプールがあるような豪華なホテルだった。都会に戻ってきたという実感が否応なしに湧いた。シャンデリアが吊られた広いロビーでチェックインを済ませる。部屋に荷物を置いてすぐにレストランへ食事をしに行くことにした。車で10分ほどの場所、空港線の大通り沿いに白い壁のレストランがあった。ライトアップされたオープンテラスの席に着く。天井は葡萄棚になっていた。

「いつも素敵な店を選んでくれてありがとう」

 亜希は冷えたレモネードを飲みながらエリックにお礼を言った。

「お客さんには美味しいものを食べて帰ってもらいたいからね。それも大事な旅の思い出でしょう」

「あなたは素晴らしいガイドだったわ」

 ブカレストの空港へ迎えに来てくれた本来のガイド、ミハイの気さくな顔を思い出した。彼はもう別のお客さんをワーゲンに乗せて観光地巡りをしているだろう。


 テーブルにはルーマニア名物が並んだ。野菜スープにサルマーレ、ミテティ、ママリガ。亜希はルーマニア料理の名前をいつの間にか覚えていることに気がついた。デザートのパパナシはシュテファンとシェアしてもらった。

「ルーマニア料理、美味しかったなあ」

 亜希はしみじみ呟いた。まだ旅は終わってないよ、とシュテファンが笑っている。分かっているけど空港のある街に戻ってきたことは、旅の終わりが近づいていること。亜希は寂しい気分になった。


 ホテルに戻り、プールの見えるテラスで龍の紋章の本を開いた。最後は湖に浮かぶ修道院の絵だ。

「スナゴヴ修道院はドラキュラ公の墓があるとされています。彼はブカレスト郊外でトルコとの戦いで戦死しました。死体には首が無かったと言われています」

「えっ、首が・・・日本の武将のように首を持っていかれたのかな」

「そう、首級はメフメトのいるコンスタンティノープルの城門にかけられたそうです。有名な串刺し公は死んだという証明にね」

 亜希はエリックの言葉に含みがあると感じた。首が無い死体の埋葬、遠く離れたコンスタンティノープルでは見たことも無い男の首を晒し、これが串刺し公だと宣言する。このときドラキュラ公は本当に殺害されたのだろうか。

「スナゴヴ修道院の章には修道院の歴史が書かれていますね。ヴラドの父はスナゴヴに修道院のための広い土地を寄進しています。またラドゥもこの近くの村に寄進していたようです」

「スナゴヴはドラキュラ公の一族と関わりが強い場所なのね」


「さあ、月の光で最後の謎かけを読みましょう」

 エリックが片目のレンズを取り出す。雲間から輝く月が顔を出した。龍の紋章の本、修道院の章の掠れたページにレンズをかざした。シュテファンが浮き出た文字を真剣な表情で読み始める。

「・・・龍の眠る修道院の鐘に示された地図を辿れ そこに我は眠る」

 シュテファンが顔を上げた。エリックと亜希、3人で顔を見合わせる。

「龍はドラキュラ公、修道院はスナゴヴに間違いないよね」

 答えは簡単、とシュテファンがはしゃぐように言う。

「スナゴヴ修道院の鐘楼に行けばわかるのね」

 亜希も笑顔でエリックの顔を見た。しかし、エリックは腕組みをして考え込んでいる。

「エリック、どうしたの?」

「スカゴヴには鐘楼は無いんだよ・・・」

 その言葉にテーブルの空気が一気に重くなった。


 翌朝、ホテルのレストランのビュッフェの朝食を囲みながら、とりあえずスナゴヴ修道院へ行ってみようということになった。亜希はヨーグルトに山盛りのフルーツを乗せたものをもくもくと食べている。日本に帰ったらこの濃厚なヨーグルトはなかなか食べられない。

 エリックの車でスナゴヴ修道院へ向かう。

「スナゴヴ修道院は湖に浮かぶ島にあります。昔はボートで渡っていたんですよ」

「今はどうやって渡るの?」

「今は立派な橋ができました。歩いて渡れますよ」

 スナゴヴはブカレストから薬40キロほど北に位置する。首都は近いもののこの周辺は田舎で、ポプラ並木の道が真っ直ぐに伸び、左右は広大な畑が広がっている。平屋の並ぶ住宅街を抜けて湖のほとりに車を停めた。


 看板に“ヴラド3世の墓”と書いてある。長い旅路の最後にドラキュラ公の墓へやってきた。感慨深く、胸に熱いものがこみ上げてきて亜希の目に思わず涙がにじんだ。2人に気付かれないようそっと手の平で拭った。

 橋を渡りながら、この周辺は高級リゾートなのだとエリックが教えてくれた。なるほど周辺にはきれいなコテージがたくさん並んでいる。湖にボートを出して遊んでいる姿もあった。湖は朝の光にキラキラと輝いて美しい景観を見せている。100メートルほどの橋を渡った先の小島はさながら小さな森のようだった。木々の間の小道を抜けると煉瓦造りのアーチの門が姿を現した。アーチの先には3つの尖塔を持つ正教会の修道院が見える。壁は明るい色のレンガで組まれ、三層の半円を組み合わせた柱や窓の装飾は正教会らしさを際立たせていた。意外とこじんまりしているというのが亜希の印象だった。


「中へ入ってみましょう」

 エリックについて十字架の彫刻のある木製のドアを開けて足を踏み入れる。薄暗い修道院の内部は鮮やかなフレスコ画の聖人たちで埋め尽くされていた。細長い明かり取りの窓から入る自然光とシャンデリアの仄かな明かりに照らされ、幻想的な雰囲気に包まれている。狭い室内の一角にドラキュラ公の資料が展示してあった。有名な赤い帽子の肖像画、串刺しの場面を書いた版画や、歴史を語る文献など。

 亜希はこの有名な肖像画よりも、夢で見るドラキュラ公の方がずいぶんハンサムだと思い、苦笑した。正面の太い柱の間、祭壇の手前にドラキュラ公の小さなパネルが置かれていた。足元には絨毯を切り抜いて床に埋め込まれた四角い石がある。

「ここが彼の遺骨があったとされる場所です」

 亜希は思わず飛び退いた。知らずに踏んでしまうところだった。

「ここには動物の骨と当時の男性ものの衣服の破片だけが残っていたそうだよ」

 亜希はその場にしゃがんでドラキュラ公に仏式で手を合わせた。この旅が無事に終わりますように。ドラキュラ公に頼むのもおかしな話だが、今は彼にすがりたい気分だった。


 修道院の外に出て尖塔を眺めてみる。

「あのどれかが鐘楼じゃないのかな?」

 シュテファンがいろんな角度から尖塔を見ているが、どうも違うようだ。

「鐘楼なら鐘を見えるようにしておくよね・・・わっ」

 足元に鶏がやってきて亜希は思わず驚いて声を上げた。3人が修道院を見上げている様子がおかしかったのか、黒い服を着た修道士が声をかけてきた。胸には十字架を下げている。


「何か探していますか?」

「ええ、お尋ねしたいのですが、スナゴヴ修道院には鐘楼がありますか?」

「いいえ」

 亜希はルーマニア語がわからないが、修道士が否定の言葉を口にした雰囲気は感じ取った。

「ずっと昔には鐘楼があったそうです」

「えっ」

 エリックとシュテファンが驚きの声を上げる。亜希は2人の顔を見比べてどちらか通訳して欲しいと目で訴えた。

「昔は鐘楼があったんだって」

 シュテファンが空気を読んで同時通訳をしてくれた。

「激しい嵐の夜に、大きな雷が落ち、鐘楼は根元から折れて湖に沈みました。今でも風の強い日には湖の底から鐘の音が聞こえてくるといいます」

「鐘は湖の底ってこと・・・?」

 亜希は呆然とする。シュテファンも頭を抱えている。まさかここに来てダイビングをすることになるのだろうか。修道士はよい一日を、と言って立ち去った。

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