【21】 ポエナリ城

「あれがポエナリ城です」

 カーブ手前の赤い屋根のレストランの駐車場にBMWを停めて、川に沿って歩けば山の上に茶色い城壁が見えた。目立つ色のルーマニア国旗がたなびいていなければ、最初はどこに城があるのかわからなかった。川沿いの駐車スペースにポエナリ城と書かれたドラキュラ公の有名な肖像画がついた看板が立っている。そこにクマ注意とも書いてある。


「あのう、クマ、出るんですよね…」

 亜希がエリックに不安そうな顔で尋ねる。

「さっきレストランで聞いてみたけど、人間の子供くらいの大きさらしい。よほどでなければ人間は襲わないらしいですよ」

 その人間の子供くらいの小さいのの親はでかいんじゃないか、よほどのことが起きれば人間を襲うんじゃないかと亜希は悶々とした。しかし、見れば短パンにTシャツのラフな服装のカップルが手を繋いでポエナリ城への道を進んでいく。


「観光を禁止しているわけではないようですね。登りましょうか」

 エリックに苦々しい表情を向けながらも亜希は観念して、山上の砦への道を踏み出した。時刻は午後3時。気怠い日差しが木々の隙間から大地へ降り注ぐ。砦への門を通り、前方へ進むと50メートルほどで山上の砦へと続く石の階段が出てきた。石段は山に沿ってジグザグに続いている。


「はあ~これは大変だ」

 途中の看板にはポエナリ城の歴史と、ドラキュラ伝説、そしてこの階段は1480段と書いてあった。白樺が青々と茂り、涼しい木陰をつくる。時折吹き抜ける風は心地良いが、階段を上るとなれば、汗が滴り落ちてくる。亜希がかなりへこたれてしまったので、途中のベンチで休憩をとることにした。


「アキ、大丈夫?」

 シュテファンは軽く息が上がっているがまだ20代、元気そうだ。エリックも汗をぬぐいながら、適度な有酸素運動が気持ち良いという爽やかな顔をしている。

「私はフィールドワークも好きで、田舎の村をよく歩きます。足は強いんですよ」

「私はデスクワークで、ほとんど動かないわ」

 亜希はミネラルウォーターを取り出して一気飲みをした。全然冷えていないが、暑さのせいで水は甘露のように美味しく感じた。そろそろ代謝が落ちて、食べたものがそのまま肉についてしまう年だし、運動しないといけないのは分かっているが、思うだけで全くできていない。


「ポエナリ城にはこんな伝説があります」

 エリックが語り始めた。この城は13世紀初頭に建てられ、15世紀になってドラキュラ公が手を加えて居城としたという。あるとき、ドラキュラ公は地主貴族を招いて宴を催した。ワインに肉、果物と豪華な食事が長いテーブルに並び、貴族たちは大騒ぎをして飲み、歌い、楽しんだ。

 宴の最中にドラキュラ公は貴族たちに尋ねた。「お前たちはこれまで何人の王に仕えてきたのか」と。3人、5人、多いものは10名以上の王に仕えたと胸を張って答えた。「お前たちのようなものがこの国を亡ぼすのだ」ドラキュラ公は言い放つと、一定数以上の王に仕えた経歴のある貴族たちを捉えた。彼らは宴に出席した豪華な衣装そのまま、山上の砦の建設に連行され、死ぬまで過酷な環境で働かされる羽目になったという。その中には、ドラキュラ公の父と兄を殺害する手引きをした者も含まれていた。彼は復讐を果たしたのだ。


「ドラキュラ公は利己的な貴族たちの手によって、歴代のワラキア王の首が挿げ替えられるのを見てきたのでしょう」

 恐ろしい話だ。彼の妄執のために城の建設でどれほどの貴族が命を落としたのだろう。亜希は整備された階段でへこたれている場合ではないという気分になった。

「その数500名にのぼるといわれています」

 

 亜希は息を大きく吐いて立ち上がった。「よし、頑張って行きます!」

 エリックとシュテファンはスローペースの亜希に合わせて後ろからついてきてくれた。何度も折り返す階段もやっと終わりが見えてきた。吊り橋の向こうに赤茶色のレンガの壁が見える。手前にはギロチン台や串刺しのマネキンなどホラーな演出が用意されていた。観光客を喜ばせるものだろう。傾斜の急な階段を上れば、ポエナリ城の全貌が見えてきた。


「あ~やった、ついた!」

 亜希は大きく伸びをして深呼吸した。

「頑張ったね、アキ」

 シュテファンが褒めてくれたのが嬉しかった。ポエナリ城は地上1階部分と、下の方にいくつかの部屋の跡が残っている程度で、まさに廃墟だった。それでも、崖に突き出す城壁は保存状態が非常に良く、隙間なく積み上げられたレンガがしっかりと残っている。


 双璧のレンガの通路を進む。2メートルほどの高さが残っている。城壁の先端部分からの眺めは雄大で、思わず感嘆のため息をついた。ここは本当に山の頂上だ。ここまで城の資材を運ぶのは相当な苦難だったに違いない。地上から見えていた城壁部分は崖下まで石とレンガがびっしりと積まれ、建設時の苦労が偲ばれる。少し身を乗り出してみれば、切り立つ崖に城壁が聳え立つのがわかる。


「この下を流れるのがアルジェシュ川です」

 エリックが指さして教えてくれた。道路に沿うように山間に小さな川が流れている。

「この川にも伝説があります」

 それはドラキュラ公の妃の話だった。トルコ軍が城下に攻めてきたとき、妃は絶望してこの城の天守から川へ身を投げたのだという。結局、城は落とされることはなく、公は息子を連れて地下道を使い、アレフ村へ逃れた。

「妃はドラキュラ公を信じることができなかった、この城は悲しみに満ちていますね」

 エリックはしみじみと語った。今、目下に流れる川はずいぶん狭く、小さいが、かつては大きな川だったのかもしれない。今のこの城から身を投げたら木の枝に引っかかってしまうだろう。そういえば、昔見たコッポラの映画「吸血鬼ドラキュラ」では妃が身を投げるシーンがあった。この伝説がモデルに違いない。


 新緑の輝きが満ちている山は美しく、この城の血なまぐさい伝説を掻き消してくれる。亜希はレンガの壁に触れてみた。ドラキュラ公がここにはいたのだ。彼が見た景色は今も変わらないだろうか、亜希は遠くの山を眺めながら想いを馳せた。

ポエナリ城は200メートルも歩けば突き当たりに到達するほどの広さで、地下部分も手すりのある通路から覗き込めば、見渡して終わる程度だった。

「ここに何があるのか、今夜ヒントを読んでみましょう」


 日が陰ってきた。下山してアルジェシュの街へ戻ることにする。街についたのは午後5時だ。夕日が遠くの山に沈もうとしている。食事まで少し休憩しようということになり、昼間のレストランで夜7時に待ち合わせをした。汗だくだった亜希はシャワーを浴び、ベッドに寝転がった。ポエナリ城への登山でふくらはぎがプルプル痙攣している。温かいベッドが気持ちよく、まどろんでいるうちにいつの間にか眠りについていた。

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