【20】 クルテア・デ・アルジェシュ

 シビウの街を出発し、クルテア・デ・アルジェシュへ向けて車を走らせる。農村地帯を抜けたあとは、川に沿って曲がりくねった山道をひた走っている。新緑がまぶしく、川の水は美しく澄んでいる。渓流の眺めはどこか日本の山河にも似ている。しかし、見上げれば高い切り立った岩山が聳え立ち、ここが大陸なのだと実感させられた。車の窓を開けて走れば、森の香りを乗せた気持ちの良い風が吹き抜けてゆく。


「クルテア・デ・アルジェシュは小さな町だよ、田舎だから驚くかもしれないね」

 ハンドルを握るエリックは体調が戻ってきたようだ。

「エリックはアルジェシュの近くの村出身なんだよね」

「そうなんだ、エリックの故郷を見てみたいわ」

 何もない田舎だよ、とエリックは笑う。今はブカレストのアパートに住んでいるらしい。


「ポエナリ城のページ、まだ読んでなかったよね」

 月の光がなければすり切れたページを読むことができない。フネドワラ城から何事もなく帰っていたら、夜はレストランで打ち上げでもして本をゆっくり読もうという流れになっていただろうに。

「今夜、月が出るまでまで待たないとね」

 シュテファンが天気予報を調べている。今夜も晴れの予報だった。

「ポエナリ城はどんなところ?」

「山の上に築かれた要塞だよ。ブランやフネドワラのようなお城というより廃墟だね」

「山の上…登山になるの?」

 登山の用意などしていないし、体力にはあまり自信がない。亜希は心配そうな表情を浮かべる。

「大丈夫、観光地としてある程度整備されているし、階段を上るんだよ」

 シュテファンの言葉に亜希は安堵した。

「1500段あるけどね!」

「えっ…マジか…」

 絶句する亜希にエリックとシュテファンが笑っている。しかも、この時期はクマが出るかもしれないという。ドラキュラ公にゆかりの深い地であり、行きたい想いは強いが試練になりそうだ。


 山道を上がり下がりして、やっと農村地帯が開けてきた。丘陵地帯に畑が広がっている。遠くで羊が草を食んでいるのが見えた。シビウから約2時間半のドライブでクルテア・デ・アルジェシュの街に到着した。今日宿泊する小さなホテルに車を駐車して、ランチを食べにレストランへ向かう。天気も良く、風も心地よいのでオープンテラスの席についた。

「小さな町だから、歩いて散策ができるよ。ポエナリ城までここから車で30分だから、町をちょっと散策した後に行ってみよう」


 のどかで、のんびりとした空気が流れている。昨日の出来事がまるで遠い悪夢のようだ。料理が運ばれてきた。具だくさんの野菜スープにチキンのグリル、添え物はポテトフライ。バスケットに入ったパン。飲み物はいつものレモネードにした。この店のはよく冷えていた。チキンは素焼きに塩コショウがかけられたシンプルなものだ。香ばしい匂いが食欲をそそる。食事が楽しめるのはやはり幸せなことだ。


 腹ごなしに町の古い教会を訪ねた。レストランから歩いて10分もかからない場所にあった。街の入口のロータリーに銅像が建っている。

「この町は13世紀のワラキア公国の首都だったんです。これはワラキアの王、バサラブ1世の像だよ」

 剣を左手に抱え、王冠を被った男性の像だ。台座の銘にバサラブ1世と刻まれている。エリックがロータリーのすぐ側にある古い教会へ案内してくれた。黒い屋根にレンガの文様がユニークな小さな教会だ。芝生はきれいに刈られて花壇には色鮮やかな花が咲いている。


 教会の中は壁に柱に一面のフレスコ画が描かれていた。シビウの正教会よりも狭いが、素朴で味わいがある。祭壇の手前、入って右手に石棺が置いてある。

「これは王家の墓です」

 パネルを見れば14世紀の王の墓のようだった。教会のまわりにはレンガと石を積み上げた遺跡があった。レンガには蔦が絡みついている。特に説明のパネルもないが、おそらく王宮の跡ではないかとエリックが言っていた。


「この町にはもう一つ美しい教会があります」

 バサラブ1世像のロータリーから先ほどランチをしたレストランも通り過ぎ、徒歩15分ほどで白亜の教会が見えてきた。

「わあ、すごく綺麗」

 白い大理石で作られた小さな正教会だ。青空に壮麗な白い建物がよく映えている。壁面の緻密な彫刻が見事で、亜希は思わずため息を漏らす。顔を見上げたまま、感嘆するばかりだ。 塔には斜めのラインで天に突き抜けるような装飾が入っており、意匠をこらしたデザインになっている。


「ここは16世紀に建てられた修道院で、マノレ親方の伝説があります」

 この修道院はマノレ親方によって建てられた。マノレは世界一美しい修道院を建てるようワラキアの当時の支配者に命じられた。しかし、工事はうまくいかず修道院の建設は進まない。せっかく建てた修道院が一夜にして崩れてしまう。そんな中でマノレは夢を見た。明日、最初に現れた女性を犠牲にすれば呪いは解けるという。翌朝そこに現れたのはマノレの妻だった。彼は妻を壁に塗り込めて修道院は無事に完成した。そんな話をエリックが教えてくれた。


「日本でも人柱の話はあるけど、海外にもあるのね」

 悲しい伝説だ。自分の愛する人を犠牲にしてまで神を讃える建物を作る必要があったのか。今の感覚では考えられないが、当時はそうしなければ支配者に殺されていたのかもしれない。その後、マノレは完成した修道院よりも美しい建物を建てることを恐れた支配者により殺害されたという。

「入ってみましょう」

 エリックに促されて修道院の中へ入る。中もまた豪華絢爛、金色をベースにした装飾やフレスコ画で彩られていた。人々の祈りの声が響いている。ここにも王家の墓があった。今は小さな田舎町でもかつては立派なワラキアの首都だったのだ。正面には聖母やキリストのイコンが描かれている金のイコノスタシスがある。エリックとシュテファンは小さく十字を切っていた。


 教会の外にマノレ親方の泉があった。

「彼は支配者によって、建設中の修道院の上に取り残されました」

「木で作った翼で飛んだけど、大工仲間ともども誰も助からなかったんだ」

 シュテファンも知っている、有名な伝説のようだ。そして木の翼とは。蝋で翼を作ったイカロスは太陽を目指して飛んだが、マノレは修道院からそのまま落ちたのではないだろうか。民間伝承とはそういった想像もつかない発想が登場する。

「この泉が彼が落ちた場所だよ」

 泉の水は涙のためかしょっぱいという。亜希はそれを試す気にはならなかった。


「ポエナリ城へ行きましょう」

 ホテルの駐車場から車を出して、クルテア・デ・アルジェシュを抜け北へ向かう。山間の農村を走り抜ける途中、おじいさんにひかれた牛の行列や荷物を積んだ馬車とすれ違った。

「この辺りではまだ馬車を使っているんだよ」

 驚く亜希にエリックが苦笑しながら言った。道は舗装さているし、車も通っているが、まだ馬車を使っているとは驚きだった。そんなのどかな風景もまたいい。

「エリック、故郷の村には寄ってみないの?」

「そうだね、じゃあ少しだけ」

「ぜひ行ってみたいわ」


 田舎町だったクルテア・デ・アルジェシュよりも田舎の農村だった。木で作られた素朴な家、庭には大きな木。裏には畑が広がっている。車を降りて家のポーチへ向かう。鶏がこここ、とその辺を歩き回っている。大きな黒い犬がポーチで昼寝をしていた。

「おばあちゃん、いる?」

 エリックが木の扉をノックして大きな声を張り上げた。しばらくして大柄な老婦人が出てきた。

「おお、よく帰ってきたなあ、そちらは友達かい?」

 老婦人の満面の笑みにつられてシュテファンと亜希も笑顔を返した。早くあがって、と熱烈に歓迎された。亜希はふくよかな老婦人にハグをされて照れ臭かった。テーブルにつくと、カップに絞ったばかりのオレンジジュースを注いでくれた。まさに100%オレンジ果汁、しぼりたての自然な甘さとほのかな渋みがフレッシュで美味しい。


「元気だった?」

 ルーマニア語でエリックが何を言っているのかわからないが、久しぶりの再会で老婦人は喜んでいるようだった。家は平屋で、木を組んだだけのログハウスのようなシンプルな造りだった。この辺の農村は

未だにこのような家が多いそうだ。壁には老婦人が作ったのだろうか、美しい刺繍細工が飾られている。キッチンから良い匂いが漂ってきた。

「彼女は私のおばあちゃんで、ずっとこの村に住んでいるんです」

「あの刺繍もおばんちゃんが作ったの?」

「そう、趣味でね。時々アルジェシュのバザーに出しているそうだけど、人気らしいよ」

 畑で果物や花を育てて自給自足の生活をしているという。周囲には酪農の家もあるので物々交換で困ることはないらしい。老婦人は久々に帰ってきた孫と若いお客さんが尋ねてきたことで、とても嬉しそうだった。民謡のような鼻歌が聞こえてきた。


「ここはアレフ村といって、ポエナリ城の真下にある村だよ」

 もう近くまで来ているということか。

「アレフ村はドラキュラ公にまつわる伝説があるよね」

 シュテファンの言葉に、亜希は興味を示した。ポエナリ城が包囲されたとき、ドラキュラ公は城の地下からアレフ村に通じる秘密の通路を使って逃げ出した。そのとき、彼の小さな息子が手から離れて置き去りになってしまった。その子はアレフ村の者に助けられ、大事に育てられた。ドラキュラ公が再び公位についたとき、村の人間に感謝の意を表し褒章を与えたという。

「それじゃ、この村にはドラキュラ公の子孫が?」

「今となっては分からないけどね」

 エリックは笑っていた。


「さあ、食べて」

 老婦人が鮮やかな絵皿に美味しそうな巻きクレープを作ってきてくれた。

「わあ、おいしそう!」

 皿の上にはオレンジやブドウなどの果物もふんだんに盛られている。焼き立てのクレープは自家製のブルーベリージャムが入っており、思わず目を細めた。

「おいしい」

「懐かしい味だよ」

 シュテファンもエリックも嬉しそうだ。老婦人はエリックに彼の友人についていろいろ尋ねているようだ。

「アキは恋人なのかって聞いてる」

 シュテファンがそこだけ訳してくれた。亜希は少し困った顔をした。彼は良い人だが、そういう意識をしたことはない。エリックも違うよ、とやんわり答えているようだった。


 楽しい時間ののち、老婦人に別れを告げてポエナリ城へ向かう。帰り際にも亜希は気に入られたのか、大柄な老婦人にぎゅっとハグをされ、美しい刺繍のハンカチを土産に持たせてくれた。またいつでも来てね、と言ってくれたらしい。田舎での心温まる歓迎に胸が熱くなった。

 5分ほど車を走らせると、山の上にポエナリ城の姿が見えてきた。

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