鉛の薫る夏

深恵 遊子

第1話

 高校最後のインターハイは中止になると噂が流れた。

 今年の初めには思いもしなかった。毎年部で恒例となっている初詣をしていたときには「今年こそ全国に」なんて能天気に思っていた。しかし、流行っている病の影響でそうなるのではないか、そんな話はだんだんと真実味を帯びていった。

 二〇二〇年の初めから拡がり始めたその病は瞬く間に全国で蔓延してしまったのだ。まだ片田舎でしかないこのあたりは平気だが東京の方では大変なことになっているとテレビで見た。

 いや、でも。

 このあたりももうそろそろだめかもな。ニュースは連日その話題で持ちきりだし、つい昨日だって県内で新規感染者が出たらしい。市内で出るのも時間の問題だろう。もうすぐ全てを諦めさせられることが始まてしまうと心のどこかで予感していた。

 いつから諦めるのが得意になってしまったのだったか。今の僕にはわからないでいた。



 タァンと鋭い音が鳴り響いた。そして、少し遅れ弾丸から鼓膜へ振動が衝き抜けていく。

 十メートル先の紙標的に描かれた黒点の中、遠目には中心から下に大きくズレた弾痕。

 一年でインターハイに出場したのはいいのだけれど、その後からどうにも調子が上がらなかった。そうして県大会ですら棒にもかからないまま俺は三年の春を迎えた。

 俺は小学生の頃からライフル射撃競技の選手だった。

 ライフル射撃の選手と聞いて一般の人がする顔は不思議そうな顔だ。そんなものに大会があるのかと言わなくても書いてあるようなそんな顔だ。

 ライフル射撃と一口に言っても色々な種類がある。思うに多くの人が想像するのはボアライフルと呼ばれる火薬式の銃での競技だろう。

「ライフル射撃をやっています」なんて自己紹介すると必ず「クレー射撃みたいなやつですか?」と言われるから間違いない。

 だが、期待に沿えなくて申し訳ないがそもそも日本の現行の法律上クレー射撃なんてものをやるのは無理である。何せ高校生は火薬の入った銃を撃てないのだから。

 俺も今年誕生日を迎えれば十八なのだからきっと日ラ、日本ライフル協会からの推薦があればそれも適うのだろう。だけど、現在進行形の今はまだ十七。日本では十七の年少者に火薬中が撃てる法律はしていないのだ。

 俺がやっているのはエアライフル十メートル立射六十発。圧縮空気を利用した銃で十メートル先の動かない標的を狙い撃つ競技だ。

 始まりは親父に連れられて山奥にある警察学校、その敷地内の射撃場に訪れたことだ。あの衝撃は今でも覚えている。音が弾けるたびに独特の緊張感が場を支配した。静寂と轟音の切り替わりなど誰も気にしないように米粒よりも小さな標的を誰もが険しい目で眺める。

 そんな場所に小さな俺が憧れるまでそう時間はかからなかった。

 小学生までは安全なビームライフル競技を、中学生から年少射撃資格者をとってエアライフルに転向。そして、その年のうちに射撃エリートの資格を取ってジュニアオリンピックでの入賞。中学生の終わりには優勝も果たした。

 のに、これだ。

 一年の夏以来、大きな大会では候補になることすらできていなかった。


「——あ、北原きたはら先輩。探しましたよ」


 ガラガラという音と共に突然の声。驚きで胸を締め付けるような鬱屈が一瞬にして消え去っていく。

 射撃場に入ってきたのは栗毛の少女。場にそぐわない紺のブレザーを見ると練習のわけではあるまい。


深堀ふかほり、一年も明日からの休みの説明とか終わったのか?」

「ええ、先ほど。それで先生が北原先輩を呼んで来いって」


 こいつは梅野うめのの奴の差し金だったか。やりづらいんだよな、あの先生。苦笑いしながら射撃台にライフルを置き、安全レバーとセーフティフラグを確認する。


「ところで北原先輩、まだ去年のつもりでいるんですか?」


 俺を見上げて深堀は揶揄うようにニヤニヤと笑う。対して俺は首を捻るしかできない。


「先輩は勉強地獄の受験生! 私だってもう二年生ですよ。自覚がなかったりしないですよね」


 ああ、そういうことか。


「いや、まさか。お前と喋ってると一年と喋ってるって感覚が抜けないだけだ」

「先輩、もしかしてそれって嫌味?」


 何気無しの言葉で深堀はじっとりとした視線を突き刺してくる。「俺の中で学年が上がった感じがしない」とそのままの意味のつもりだ。

 ……そっか、こいつ背が一四〇センチを切ってることをやたら気にしてたな。隣を歩くと「猫背になってください」とか「先輩、今から足切り落としませんか?」とかうるさいのなんのって。

 定期を忘れてバスに乗ると小学生料金にされるなんて珍しくないらしい。きっといろんな人にそういう扱いを受けてきたのだろう。

 だから、今の言葉も小さいことへの揶揄で受け取ったのだろう。


なんもない。別に小さいとかも思ってないから」

「うわ! ついに言いましたね先輩。そんな言葉が出てくるってことは小さいって思ってるんじゃないですか!」

「それで反応するのか!? 口が滑っただけだから! 悪かったって!」


 近づいてくるなりフカーッと唸った彼女の頭を俺は右手で抑えた。しばらくして深堀は後ろに一度大きくタタラを踏むなりキッと俺を睨みつけた。こういうところがこいつはよくわからん。

 練習を続けるという気分でもなくなってきたな。射撃用のコートをパイプ椅子にかけて背の部分に体重を預ける。まだ一時間も撃ってないのにインナーには汗が滲んでいた。


「調子が出ませんか?」


 探るように声をかける深堀の目線の先には紙標的。八発撃って一発も中心を抉らない無様な結果を晒している。


「まあな。これじゃエアライフルを持ち始めた頃の方がよっぽど上手かったくらいだ」

「そうですか?」

「デカい大会とか毎年のように出れてたのが、今じゃこれだし」


 警察学校の射撃場にはまだ定期的に通って指導を受けて、ナショナルチームの方に相談をしたこともある。これ以上何をすればよかったのか。もはや何もわからない。


「そんなことないですよ」


 その声は降るように飛んできた。

 何がわかる。

 言葉が怒りと共に込み上がった。積み重ねた修練が俺を下手にしていく。事実としてそれを突きつけられるその気持ちがお前にわかるのか。

 息を吸って顔を上げる。怒りを声にしてぶつけるはずだった。でも、どうしたことか消え去ってしまう。

 顔を上げた先にいたのは悲しそうに笑う女の子。寂しそうで、辛そうで、何もかもが入り混じった。

 水をこぼすように彼女は口を開く。


「射座に立つ先輩に今より迷いがなかっただけですから」


 なぜか初めて見た表情なのに「どこかでいつか見た顔だな」と懐かしい気持ちが込み上げてくる。

 何も言わず深堀は身を翻すと射撃場を去っていった。俺はパイプ椅子に体重を預け、ただ天井を見上げるばかり。



 内線がピロロと鳴った。職員室の梅野からだ。県射撃協会の松井まついさんから「今年の高総体は全部中止だろう」と電話がきたらしい。

 だから、三年は引退したつもりでいろ。抜け抜けとそう言われた。


「……そっか」


 もつれた糸を切った時のような苦い感触が胸の中に広がっていく。


「本当にこの練習で高校最後になるんだな」


 呟く言葉は誰も聞かない。

 壁には先輩方の華々しい記録が貼り付けられて、その中に俺が載った新聞記事も貼られている。

 県高総体でファイナル五位入賞。塗り替えて卒業するつもりでいたのに、最後のチャンスも失われてしまった。

 自分をわらって目を逸らす。ふと同じ記事の中に見覚えのある名前を見た。


「深堀?」


 名前を探して本当にその名前があることを確認する。いや、下の名前はあつしで男の名前だ。県高総体でファイナル一位入賞した選手だった。


「勘違い、か?」


 でも、その奇妙な繋がりに思い出した。頭に響くのは前日練習の射座から抜け出した俺にその選手がかけた言葉だ。


『あんまり焦りすぎるなって。体がフラフラ揺れちまってるぞ』


 図星だった。

 その日は体幹がなぜか定まらなくて、銃が大きくぶれ続けた。他人にも指摘されたことに動揺して、崩れる調子を止められなくなった。

 本射では時間が早く進んでいるかのようにも感じて目が霞んだ。焦って心臓がいつもより激しく動く。

 結果はトータル五六四・二点。『こんなんじゃ入賞に掠めることも』と奥歯を強く噛みしめた。

 そんな俺の耳に『競技終了、残り五分ファイブ・ミニッツ』の声が飛び込んできたのだ。

 まだ誰か撃ってるのか。

 会場を見回すと一人だけいた。昨日の男だった。

 応援席では母親らしき人と小さな女の子だけが見守っている。残り五分であと一シリーズ、十発も残っていた。何かトラブルでもあったのか。あるいは集中で時間が分からなくなったのか。

 終わる前に撃ち切ろうと射撃も乱れていき、その点数は下がっていく。


『——射撃終了しました』


 終わってみれば彼の総点数は六〇六・九点。して、ファイナリストの最低点数も六〇六・九点。しかし、最後のシーズンに不味くなったことでファイナル出場ならずとなった。

 ああ、そうだ。思い出した。

 俺はその時に見たのだ。

 射座を出て唇を噛み締める青年のそば、何かショックを受けたような少女の顔。

 アドバイスを受けた恩をどうやっても返したくて俺はそこに近づいて、あの時見た表情が先の深堀に浮かんでいた。

 胸の奥がうずく。俺は尻に敷いていたコートの上着を着直してグローブをつける。

 そして、もう一度ライフルを構え直した。

 心が凪ぐ。左腕は腰の骨に、銃身を左手の拳に乗せ息を吐いた。やがてスコープの中、リアサイトとフロントサイトが重なって。息が止まる。

 引鉄ひきがねの遊びは既に終わった。刹那、紙標的に描かれた黒点すぐ下で銃先が止まる。指にはわずかな力。


 ——タァン。


 結果は見ずともわかった。

 俺はずっと慎重になりすぎていたのだ。インターハイの時みたいにはなりたくないと。

 その俺はもういなかった。



「——一〇・九テンポイントナイン!」


 大きな声。

 銃を置く俺の後ろに深堀が立っていた。バイザーまでつけてフル装備だ。

 悪戯が成功したように笑う彼女に俺の顔は引きつる。こいつは俺が驚いて誤射したらどうするつもりだ。


「サボり魔のお前が練習しようなんて珍しい」

「気まぐれです。先輩との練習は最後になりそうなので記念にと」

「お前、それ知ってたのか」


「ええ、実は」と照れ笑いする深堀が射座に入りライフルを手早く組み上げる。


「先輩、最後ついでに聞いてもいいですか?」

「なんだ」

「初めて会った時のこと、覚えてますか?」

「俺が一年の時のインターハイだろ」

「ありゃ、覚えてましたか。——じゃあ、約束も?」


 その言葉に俺は戸惑う。


「約束?」

「ええ、約束です。覚えてないんですか?」


 覚えてない。

 白黒する俺に深堀は笑った。


「じゃあ、私が約束しますよ」


 泣きそうな顔で笑っている。


「私が先輩の代わりに全国優勝してきます。だから、先輩は私の応援に来てください」


 かつての俺がそこにいた。

 忘れていた。

 俺からした約束なのに。

 スランプで挫けてそんな約束は欠片も覚えていなかった。俺はこんな顔で深堀兄妹と約束したはずなのだ。

 思い出して、余計に悔しくなった。なんだそれ、もっと早く知れたらよかった。努力でなんとかできる去年の高総体の前に。……そんなこと叶うわけもないけれど。


「その代わり。次のインターハイが終わったら私に対する子供扱いやめてください」


 初めましての頃からずっとそうなんですから。深堀は愛おしむようにそう言った。

 ああ、そうだ。

 果たせなかった約束があった。今度の約束こそと今噛み締めた。

 だから願わくば、鉛がくゆる夏を。来年はこの後輩が俺と同じ気持ちにならぬよう。



 そして、俺の夏は終わった。

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鉛の薫る夏 深恵 遊子 @toubun76

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