第9話 インドネシア

 三日後、準備の整ったクロウリーは、ジャカルタに向け出航していた。ジャカルタ。雑多な大都市。ジャカルタの空は灰色に曇り、湿度が高く、四月だというのに蒸し暑かった。ここはイスラム教の国だ。クロウリーは、事前に調べてきたジャカルタの四つ星ホテルにチェックインし、ホテルのロビーでアイスレモンティーを飲んでリラックスしながら、旅のガイドを見て目的地までどう行くかを調べた。イスティクラル・モスク。かの魔術師が伝えた名称は間違えるまでも無く、東南アジア最大のモスクであり、観光名所でもあった。

 ホテルからは、タクシーを使用することにした。先進国のヨーロッパと違い、バイクや人力車が行き交うジャカルタの路上を移動するには、タクシー以外考えられなかった。ホテルから二十分ほどタクシーで行くと、イスティクラル・モスクの威容が見えてきた。瀟洒な噴水を中央に構えた森林公園の向こうに、巨大で現代的な白亜の建築物が見えてきた。約十二万人が収容できるという。クロウリーは受付を通り抜け、広大な大広間に入った。

 建物の外見も巨大だったが、広間に入ると、なおさら空間の巨大さに圧倒された。午後二時であり、訪問者は少ないようだが、二百メートル程前方の正面の壁に向かい、信者らが思い思いの位置で礼拝をしていた。彼らは一畳ほどの絨毯を持参し、一心不乱に五体投地し、なにやら祈りの言葉を唱えていた。ルックス・エ・テネブリエ(ルックス大師)は、このモスクに来れば為すべきことが見つかる、と言っていた。クロウリーはどうして良いか分からぬながらも、モスクの後方で佇んでいた。

 不意に、大音量の放送が始まりだした。コーランの祈りだ。信者たちは放送に合わせて、コーランを詠唱している。クロウリーはキリスト教徒なので、コーランの祈りなど分からないが、厳粛な気持ちに打たれ、座って荘厳に響く信者の詠唱に耳を傾けていた。詠唱が続く中、思考停止状態を彷徨っていると、ふと肩を誰かに叩かれたのに気付いて、振り返った。そこには、アラブ系の浅黒い肌の男性が、瞳をキラキラ輝かせ、口元には笑みを浮かべて立っていた。大師(※一)にも匹敵するオーラを、その男は持っていた。大師なのかもしれない。ともかく、興味を抱かせる人物だ。

「あなたは?」クロウリーは尋ねた。

「私は、運命の案内人です」

「運命の案内人?」

「そう。あなたは、このジャカルタに、何かを探しに来た。そうでしょう?」

「・・・探しにというか・・・、私はとにかく、使命感を持ってこの都市に来ました。何をすべきかというのは、あまり定かでは無いのです」

「・・・あなたは夢の旅人だ。夢の啓示を受けている。そうでないと、そのような発言はしないものです」

「確かに、私はアストラル界で啓示を受けました。ご存知ですか?」

アラブ人は微笑んで言った。

「もちろん、私も、そちらの世界とこの物質界を行き来しているのです。私は、あなたに一つの問いを投げかけに来ました。それに答えるのが、あなたの試練となります」アラブ人は滑らかな声音で答えた。クロウリーは、このアラブ人がアストラル界というものを知っていることに驚いた。また、ルックス大師が言っていた試練の一つが、早くも稼働し出したと知った。それにしても、答えるべき問とは何だろう?

「・・・質問とは?」

「あなたは、人種間の資質の相違をどう考えますか?この世界には、人種差別がはびこっています。あなたは、人種の優劣を認めますか?」

クロウリーはしばし沈思黙考した。彼が生きていた十九世紀は、人種差別は現実のものとして残っていた。アングロサクソンが産業革命以後の世界を支配し、黒人達はアメリカでは奴隷扱いされていたのだ。しかし、クロウリーが知る魔術の世界では、黒人・アフリカの霊的文化や、ヴードゥー教は強力な黒魔術として認知されていた。それらの霊力は、西欧社会に代表される、白人たちが生み出した精神世界、魔術の世界に遜色無かった。東洋人に至っては、仏陀を初め、チベットの超人達等、その強力な霊力と伝統の古さは、白人社会をも凌駕している部分も多いように思えた。そこで、クロウリーは答えた。

「・・・ここ二千五百年程度の人類の文明では、白人社会が優勢であり、白人が優れているかのような幻想を抱く者が多いですが・・・。しかし、数万年単位で見れば、人種の優劣は測れません。肉体的特徴、文化的特徴が人種による違いがあるのは周知の事実ですが、私は本質的に人種に優劣は無いと考えます」

「・・・優等生的な答えだ。多くの者は、それで満足するであろう。だが、秘教の世界では、人種には新・旧があるのも事実だ。優劣ではないが、発生した順序が違う。・・・当然、消滅していく順序も違うという訳だ」

「・・・人種は、同時発生した訳では無いのですね。そう言えば確かにその通りだ。確か、黒人がアフリカで最初に旧人から新人に進化したんでしたっけ?」

「そうだ。その次にアトランティス大陸で、現在の東洋人の祖先が発現した。白人は、最新の人種という訳だ」

「・・・確かに、東洋の文明の古さは、白人文化を上回りますからね。そうすると、消滅の順序も、発生の順序通りという訳ですか?」

「・・・運命とは確定したものでは無い。それに、人種の興亡は秘教の領域であり、軽々しく断定は出来ない」

「・・・大変興味深いですね。私は、魔術の知識には精通していますが、秘教全般にはあまり詳しくありません」

「そうだ。それがそなたの課題だ。それが、そなたの試練だ。秘教の知識なくしては、黒魔術の世界に迷い込んでしまうじゃろう。そなたは、秘教を学ばねばならぬ」

・・・私がはるばるインドネシアまで来た目的とは、「秘教を学ばねばならぬ」という一事を知るためだったのか・・・。クロウリーは嘆息したが、今のクロウリーにそのことを納得させるのはこの導師しかいないことも、何となく納得できた。そのような問いかけでしか、導き出せない答えもあるのだ。クロウリーは、さらなる秘教を求めて旅を続けることにした。

 ルックス大師は、私が秘教の知識を得て戻ってくるのを待っておられるのだ。研鑽を積まねば。クロウリーは観光旅行を楽しんだ後、インドネシアを後にした。その後一旦、ロンドンの自宅マンションに戻り、彼は今までの魔術偏向とは違う、オカルト(秘教)の文献を、大英図書館に通い、また街の古本屋を渉猟しながら研究に努めた。

 その結果、今迄の西洋魔術の系譜とは違う、オカルトの源流として、北欧のルーン秘術に代表される秘教と、カルデア、エジプト、インドの古代秘教が主なものとしてクローズアップされて来た。彼は一度インドに赴くことにした。思い立ったが吉日だ。彼は、インドネシアからカルカッタ経由でセイロンに赴いた。紅茶を愛するイギリス人の一人として、クロウリーは当時イギリス領であったセイロンにも興味があった。

≪続く≫


【註解】

※一 大師…神智学やニューエイジ思想に登場する超自然的人物「マスター」の訳語。

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