第一夜「魔法つかいと御剣昴一郎」(Aパート)

 その日、鳥を見た。


 二十世紀も末のある年、まだ寒さの厳しい夜の出来事だった。


 ――何なんだ。

 いったい何なんだよ、あれは。


 その日その時、ぼくの頭を埋め尽くしていた思考は、ほぼその一つだけであったといっていい。 

 どうして、こんな場面に出くわすような間抜けな羽目になってしまったのだろうか。


 借り手のなくなり、長いこと放置されていた古い雑居ビルのフロアー。

 コンクリートがむき出しになった床。細かく亀裂の入った壁に、剥ぎ残された数年前の映画のポスター。

 どこか時間の流れから取り残されたような、ナーバスでアンニュイな気分になった10代が、10分かそこら、ちょっとした非日常感を満喫して一回で飽きるにはいいかもしれない。そんな場所。


 まあ、用もなく立ち入るのは感心されることでないにせよ、けして、猛獣の蠢くジャングルではないし、矢弾の飛び交う戦場でもない。


 けれど……現に目の前で繰り広げられている凄惨な光景は、まるで幼いころにうなされた悪夢そのもの、だった。


 右を見れば腕、左を見れば足。背けた目を打ちっぱなしの床に向ければそこはケチャップを盛大にぶちまけたよう。一面に飛び散り、おもちゃ箱をひっくり返したみたいにまき散らされた、生き物の残骸。


 いや、はっきり言ってしまおう。

 転がっているのは、人間の腕だ、その脇で白い骨を晒しているのは、人間の脚だ。

 そして無造作に捨て置かれ、まだ着衣の痕跡をとどめている白いものは人間の胴体だ。


 そしてその中心に立っているのは、異形のヒトガタ。


 二本の脚で立ち、二本の腕を持つ。人間と同じと言えるのはせいぜいそこまで。

 全身を覆う黒い殻、肩や背中といった箇所から四方八方に太い棘が伸び、胴体の上、頭が乗るべき場所には、あえて言うならある種の蜥蜴に似ているかもしれない造作の顔がついていた。


 要するにそれは化け物、――怪物なのである。


 そして、そいつはミートソースの海の中に蹲り、背中を丸めて、何か丸いものを抱え込み、二本の手の指先で器用にその内容物を口元へと運び、大きな顎を上下させて、――喰っていた。

 時折、舌鼓を打つようにぴちゃぴちゃと音がする。

 怪物だろうと何だろうと、既知のものであろうとあるまいと、生きて動いている以上、モノを喰うであろう。

 それは至極当然のこと。

 しかし今こうして目の前で咀嚼され嚥下されているそれは、数刻前までは生きてものを言っていたはずの人間だ。


 理論上の帰結として、――つまり。こいつは多分、ぼくも喰う。


 非常に、まずい。

 現代に生きる人喰いの化け物。

 こんな場面に居合わせて、こんなものに街中で出くわすようでは、いよいよぼくもこれまでだ。


 一体いつからぼくの住んでいる町は、こんなしろものが跋扈する魔界都市になり果てた。

 いや、――少し前から、妙な噂話を小耳にはさんではいた。


 思い出すのは、ほんの今朝がたのやり取りだった。


 朝、出がけに、いつものように廊下の奥の部屋に声をかける


「じゃあ、行ってきますね、ミツヒデさん」


 帰ってくるのは、


「おーう」


 という、どこまで本当に判っているのかどうか非常に疑わしい、おそらくはまだ布団の中で夢うつつにいるのであろうと思われる声。

 夕べも遅くまでどこかをふらついていたようだし、無理に叩き起こしても迷惑そうにぼんやりしているだけで、きちんと内容を飲み込んでくれると言う保証は一切ない。

 つまりは、真面目に相手をしようとするだけ時間の無駄なのである。


「朝ごはんはここに置いておきます。食べ終わったら流しに浸けといてくださいね。どこかに出かけるなら、ちゃんと戸締りしてってくださいよ」


 そこまで言い終えて、ぼくは言葉を停める。


「おまえねえ、子供じゃねえんだからお父さんその位は判ってるって」

「何だ、起きたんですか?ミツヒデさん」


 情報伝達したい相手が、自分から部屋を出てきたからである。

 無精ひげに覆われたあごを左手でぽりぽりとかき、大きな欠伸をしながら、そのひとはこともあろうにパステルピンクのパジャマ姿のままで、奥の部屋にある寝床から這い出てきた。


「まったく、おまえはお母さんかっつうの」


 ミツヒデさん。

 有名な戦国武将と同じ名前を持つ、ごく普通の成人男性。

 ぼくの10年近くの同居人であり――本人が言うとおり、戸籍上はぼくの義父ということになる。


「学校かぁ?毎日精が出るねえ」

「そりゃ、学費払ってもらってる以上、行かなきゃ損ですから」

「たまには休んでゆっくりしたらどうかね?外はいい天気だぞ?」

「それ、親の台詞じゃないですからね」


 なんて、おざなりに相手をしていると、ミツヒデさんは思い出したように、


「おう、そういえば昴一郎こういちろう。お前その、最近どうなんだよ?」


 と、尋ねた。

 何だそのわざとらしい、まるで世間一般の、息子とうまくコミュニケーションがとれないお父さんみたいな切り出し方は。

 最近どうなんだというのは、正直に言えばこちらが聞きたい事なのだが。


「……いやまあ、特に」


 そう言われれば、こちらだって、息子とうまくコミュニケーションが取れない父親を持った息子、らしい対応をせざるを得ない。


「特に。ってことはねえだろ?学校にはもう慣れたとか」

「いやあ…ぼくはもう今の学校に2年ちょっと通ってるんですけどね、慣れないですね」

「彼女ができたとか」

「できてたら何か言うと思いますよ、頼むから余計なことはしないでくださいねとか」

「おまえ……相変わらず言葉を選ばねえな、お父さんグサグサ来るよ」

 ミツヒデさんは胸に手をあてて背中を丸める。

 随分、大げさに痛がって見せるものだ。

 まあ、どうせ、芝居がかったアピールに過ぎない。


「ええ、嘘を吐くのが嫌いなもので」


 と言えば、

「ああそっか。それじゃあもてないよな、お前」

 なんて、人の神経を逆なでするような台詞を平気ではくのだから。


「それより、ミツヒデさんの方こそ最近はどうなんですか?」

「俺か?俺もまあ、いつも通りさ、大勢に影響はねえよ」

 それはそうであろう。

 何しろこのおじさんは、一日中仕事もせず、表をふらふらとうろついているか、家で寝ころがって小難しい本を読みふけっているか、そのどちらかだ。


 一応は義父なので弁護しておくと、これでも数年前までは、真っ当に会社勤めをしていた。

 それがある日突然、朝一向に起きてこず、昼近くなっても家にいるから、仕事はどうしたのか、具合でも悪いのかと問い質すと、

「ああ、あれはもう辞めた。しばらくやってみたが俺には合わねえみたいだな」

 なんてことを言いだした。

 最低でも十年近く勤めていたはずの働き先を、仮にも息子にほとんど何の相談もなく辞してきてしまったらしい。


 まあ相談されたからと言って当時小学校高学年だったぼくに何ができたわけでもないだろうが、さすがにあれは堪えた。

 来月からどうするのだ、あてはあるのかと尋ねれば、しばらく首を傾げてから、

「まあ心配するな、大丈夫だよ」

 と答えられた。

 何がまあだ。今間が空いたのはなんなんだ。

 ――ということは、さすがに口に出せず。 以来、ミツヒデさんは一日中どこかをふらついて夕方に帰ってくるか、一日中部屋で寝転がって本を読んでいるかという生活を、かれこれ5、6年続けている。


 しかし、結局のところどうしたわけか、月に一度、

「ほれ、これ今月の生活費な」

 と、それなりの金額を放り投げてくる。

 出所はと何度聞いてもはぐらかされる。

 どこかで犯罪にでも関与しているんではないかと真剣に心配になったことも一度や二度ではないが、早朝に官憲の手によって玄関が叩かれたことは今までないので、もうそれはあまり考えないことにした。

 その辺のことを考えていると、朝から疲労感に囚われ、今日一日を生きてゆくのが辛くなってしまう。

 気付けば、時間的にも、そろそろこういうお喋りをしている猶予はない。


「……じゃあ、そろそろ本当に行ってきますから」

 きびすを返そうとしたその時に、ミツヒデさんはいつものどこまで本気なのかわからない口調で告げた。

「あ、やっぱり行くの? まあその、アレだ。気をつけろよ」

「気を付ける? 何に」

「おまえ、テレビはちゃんと見といた方がいいぞ?」

 ミツヒデさんは、腕組みしながらそう言った。

 こいつ常識あんの? 我が息子ながら頭よえーな。みたいな顔だった。

「悪いですけどね、ぼくはミツヒデさんほど、見たい時に見たいだけテレビが見られるってわけではないんですよ。――それで、何に気をつけろ、ですって?」


魔法少女マホウショウジョ


「――魔法、少女?」

 実際の年齢はよく知らないが、割に若作りの見た目をしていてもさすがに40過ぎであろうおじさんの口から出るにしては、随分とメルヘンな単語だった。


 言うに事欠いて、魔法少女とは。

 流石にぼくの眉間にも皺が寄った。

「いやいや、マジよマジ、出たらしいんだよ、この間、この辺でさ」

「……テレビでやってたんですか、それ」

「ああ、ビルの上の、高いところ、なんかきらきら光る長いもの持って飛び回ってたってさ」

「それだけ?」

「それだけ」

 恥ずかしげもなくそんな与太を飛ばすのはどのチャンネルだ、今度解約してやろうか。

「魔法少女が出るようじゃ、この辺りも終わりだな、どっかに引っ越すか?」

「思いつきでそういうことを言わないでくれませんか、だいいち」

 先立つものはどうするんですか、と言いたい。さすがに本気ではないだろうが。


「いやいや、魔法少女だぞ?魔法少女」

 何が楽しいのか知らないが大はしゃぎのミツヒデさんに反比例して、ぼくの視線の温度がどんどん低下していくのが自分でもわかる。


「いまどき魔法少女って……」

「いたら面白いじゃないか。案外おまえなんかどっかでお近づきになるかもしれんぞ?」

「まあ……学校帰りのなぎなた部か弓道部の部員でしょ。いまどきそんなのがいたら、そりゃ何かの企業の広告塔でしょうよ、でもなけりゃ、それを伝える方がそういうものを存在させたいんだ」

「はは、確かに、若い女の子が棒っぽいなんか長いの持って高いとこ走りまわってりゃ、マスコミが何でも魔法少女にしちゃうかもな」


 ――まあ確かに。

 今日日、マスメディアの力をもってすれば、只の女の子を魔法少女にすることなど、造作もあるまい、あははは。


 などと言うことを考えていた自分が、ただ呪わしい。

 半日ほど後に、ぼくは心底そう思うことになる。


「ああそうだ、帰り途中に牛乳買ってきてくれ。ちゃんと低温殺菌のやつな」

「はいはい、牛乳ね」

 ついでのようにいうミツヒデさんにそう答えて、ぼくは自宅を後にした。

 しばらくこの住み慣れた場所には戻れなくなるだなんて、その時点では予想もせずに。


 一日の授業を終えて放課後。

 最寄駅のひとつ前で、電車を降りる。

 当然ながら何事もなく行きつけの牛乳屋で頼まれていたものを買い、当然ながら何事もなくスーパーで夕飯の材料をそろえた、その後の事だった。

 子供が遊ぶ時間はそろそろ過ぎ、周囲に人の気配の少なくなった小さな公園の脇の小道を歩いていて、ふと、視界の隅をよぎるものがあった。


 今何か、動いたような気がする。

 何とはなしに足を止め、振り返って数歩引き返してみる。

 視線の先――遊具の上に、小さな影。

 そこに止まっていたのは、真っ白な羽のカラスだった。

 黒色が薄い、程度のものではなく、純白と言っていい白。

 くちばしの先端から、広げた両翼、爪や尾羽に至るまで降ったばかりの雪のように見事に真っ白で、二つの眼だけがアルビノ種特有の赤い輝きを放っているのが鮮やかだった。


「――へえ」

 現にこうして目にしている通り、少数だが白いカラスというのは存在する。

 神様の使いとまでは思わないが、中中に貴重な体験である。

 ので、適切な距離を保ち、しばしじっと眺めることにする。

 カラスはくりくりと首を回して周囲を見わたし、思い出したかのように時折嘴で羽をつくろっていた。

 こうしてみると結構可愛らしい。話の種にはなるかもしれない。


 魔法少女にはあわなかったが、変わったカラスを見た。

 こういうのでいいのだ。

 あんまり特別な事なんてあると、足元をすくわれるし、痛い目を見るだけだ。

 このカラスにしたって、どこかに飛び去ってしまえば、もう時間も遅い、再び姿を見ることはないだろう。

 使い捨てカメラでも持っていればよかったが、今更どこかで買っても戻ってくるころにはもうここには居まい。

 せいぜい良く眺めておくか。そう思った時、カラスの顔が偶さか、こちらを向いた。

 視線が合う。

 ああ、逃げてしまうかもしれないな……と思ったところ、白いカラスは、こちらに向けて、


「――クァッ」


 と、町の雑踏の中でも妙によく通る声で、一声鳴いた。


 どこか、小馬鹿にしたような鳴き声と目つきである、多分被害妄想だろうけど。

「いつまで見ているのかね」

 とでも、言われた気がする。

 確かに、もう頃合いだろう。珍しかろうが綺麗だろうが野生動物だ。

 あまりいつまでもじろじろと見ているのは向こうもいい気分ではあるまい。


「ごめんね、じろじろ見て悪かった」


 口の中で小さくつぶやいて、ぼくはその場を立ち去ろうとした、――けれど

 ひゅんっ!

 カラスに向けて、石が投げつけられた。

 さすがに敏捷なものでカラスはすばやく羽ばたいて空にのがれ、同じ場所に、また舞い降りた。

 ――カラスはおとなしい鳥なのだ、通常は、人間が近づいただけでもどこかに飛んで行ってしまう。


 向うからすれば人間は自分の数倍のサイズの巨獣だ。

 なら、それを曲げてそこに留まっているとすれば、何か、よほどそこに大切なものがあるのか、或いは、移動する必要を感じていないかだ。

 実際、当たりはしなかったし。

 後ろの方から、不規則な足音と、呂律のまわらない怒声が響き渡っていた。

 振り返れば、スーツ姿の男性が二人。

 まだ夕方だが、既にだいぶお酒を召されているらしく、顔は紅潮し、紫煙をふかしながら、歩いていた。


 年代に関しては特に触れないが、特に片方は何かよほど腹に据えかねることがあったのか、めったやたらに手に持った棒切れでその辺を引っ叩きながら、呂律のまわらない大声で目に映るものを片端から罵倒していた。

 もう片方はまだしも酔いが浅いようだが、その雰囲気と勢いに便乗するのが楽しくなってしまっているらしく、そうだその通りだとそれを煽ることしきりである。

 そんな中で、お二人にはぼくが見ていたカラスの、ちょっと珍しい白い羽毛も気に食わなかったようだ。

 ぼくはきれいなものだと思って眺めていたのだが、世の中にはそう思って下さらない方もいるらしい。


「――ギャァッ!」

 抗議か、或いは警告のつもりなのか、カラスが甲高い声を上げる。まあ当然の権利だろう。

 その鳴き声を、二人連れの片割れは、馬鹿にされたと受け取ったか。

 さらに怒鳴り散らし、手に持っていた空き缶や、足元の石を投げつけ始める。


 怒ってもしょうがないだろうと思うんだが。

 まあ、当たりはしないにしても、件のカラスにとっては災難だと思う。

 できれば助けてやりたくはあるけど、さて、どうしたものか。

 事を荒立てずに収める方法なら、なくもない。

 そんな時、


「――やめて」


 囁くような声を、きいた。

 周囲の喧騒が、ふいに止んだ気がした。

 さほど大声ではない、なのに、聞かずにいられないような声。

 声の聞こえた方向に、向き直る。


 さっきまで、そこには誰もいなかった。


 誰もいなかった、はずなのだ、けれど。

 その子は静かに、ただそこに佇んでいた。

 ぼくの胸までくらいしかなさそうな小柄な背丈、か細い手足、腰の下までありそうな長い黒髪。

 どこかの制服だろうか?薄手のコート、その下の白いブラウスに映える赤いリボンタイと、紺色のプリーツスカート。


 その少女は、――とびきり、きれいだった。


 せいぜいのところ、高めに見積もっても12歳、学齢で言うと小学6年生か、中学の1年生くらいか。

 そんな年齢の子に対する表現には合わないかもしれないけれど、かわいいよりも、きれいな子、という表現が、真っ先に浮かぶ。


 黒目がちな瞳や、ふっくらした頬は確かに年恰好相応の可愛らしいと言えるものなのだが、綺麗に切りそろえられた滑らかな髪と夕暮れの日差しを艶めかしく反射する瞳の黒と、それに縁どられていっそう際立つ肌の白とで、全体にモノトーンの印象が残る中、きっと結ばれた赤い唇が、全体の印象を大人びたものへと変え、どことはなしに、背筋の伸びた、凛とした空気を纏っている。


 ぼくは、その子がただそこに居ることによって、彼女の持つ空気にのまれていたのかもしれない。

 だから黙ったまま、その子が二人連れと、カラスの留まった遊具の間に立ち、庇うように手を伸ばすのを、ただ見ていた。

 そして彼女は、カラスを背中に庇いながら、


「この子は、わたしの友達なの」


 と、付け加えた。

 意味合いとしては、飼っているか、もしくは普段からここで餌をやっているかしている。ということだろう。

 なら、彼女にはそれに対して抗議する権利があるし、危害を加えるのを止めるよう求めるのも正当な要求だ。一部の隙もなく正しい。


 ――けれど


「ひどいことはしないで」

 そういう彼女に、二人連れの男性は声を荒げ、口々に、罵声を浴びせて怒鳴り散らし始めた。

 舌がうまく回っていないせいで、よく聞き取れないのだが、どうも彼らなりに正義の行いとして、世の中の不正をたださん、という志のもとの行いらしい。

 正義の行いのつもりでやっているなら、理屈は通るまい。

 聞いていれば随分ひどいことを言っている。


「この子が、何かあなた達に迷惑をかけましたか?」


 女の子が、たじろぎもせず、静かな、諭すようなと言っていい口調でそう問い質す。

 最初に受けた印象は、あくまでも真面目で大人しそうな娘。というものだったのだけど、その年齢と雰囲気にしてはなかなかに肝が据わっているというのか。

 口調も表情も落ち着いて静かなもので、まったく物怖じした様子も見えない。


「そうだったらわたしがお詫びしますが、そうでないなら、そんなことはしないでほしいんです」

 淡々と、黒髪の少女はあくまで冷静に、そう訴えている。

 対して、男性たちの方はといえば、もう咎められたことに対してですらなく、自分が腹を立てているということ自体に対して頭に血を登らせているようで、女の子の可愛らしい容姿も、大人びて落ち着いた声音と口調も、却って怒りを煽ってしまっているようだった。


 ただ、これはどう見ても、男性たちの方が分が悪い。

 可愛がっている動物に、知らない人たちが訳の分からないことをわめきながら石を投げつけているのだ。

 怒るだろう。


 ちなみに、ここまでぼくが二人連れの紳士の発言の内容に触れていないのは、何故かというと。

 実を言うとほとんど聞いてなかったからである。

 正確には、聞いてはいたのだけど端から反対側の耳に素通りしている。

 だって、そういう思考体系自体に興味がないし。

 それが間違っていようが正しかろうがどうでもいいことだ。

 と、思っていたのだが、その時だった。


 二人連れの片方。その酔いが甚だしい方が、大きく声を張り上げた。


「普通と、他のと違うのはなあ…生きてちゃいけねえんだよお!いるだけで迷惑なんだよお!」


 ……うわあ。

 ちょっと驚いた。

 現実にも存在するんだ、そういうこと口に出して言う人。

 今日び、不良マンガで主人公にかっこ悪くやっつけられる為だけに出てくる生活指導の先生だって言わないと思うのだが


「カラスのくせに白いなんてぇ…おかしいだろぉ!ぶっころしてやらなきゃ、有害なんだよぉ!」

「――っ」

 女の子の顔が、さっと青ざめた。

 それは本当に一瞬だけのことで、すぐにそれまでのクールで楚々とした面差しにもどったのだけど。

 ただぼくは、その子の、その表情を、見てしまった。

 悲しそうにこわばり、小さく唇を噛んだ、その表情を。


「そう――ですか」


 そう言って口をつぐみ、目を伏せるのを。

 それを見て、ぼくは何を感じたわけでもないが、彼女から目をそらし、白いカラスに、それからに男性に目を向けた。

 酩酊状態の彼は、女の子が口をつぐんだのを、自分の正義が立証されたと理解したか、勝ち誇ったように歯をむき出し、鼻息を荒くして誇らしげに笑っていた。

 いやな顔だなと思った。


 後になってから思うのだが、きっとその時のぼくはどうかしていたのだ。

 そうでなければ、その行動に説明がつかない。


「――やめて!」

 女の子の制止も聞かずに、男性ふたりの片割れ、酔いの深い方は、見せつけるようにもう一度足元から大きめの石を拾い上げ、大きく振りかぶって、投げ放した。

 ――がつん。

 投石が、ぼくの額を打っていた。

 予想はしていたが、――物凄く、痛い。

 投げられた石は、女の子でもカラスでもなく、間に入ったぼくに命中していた。

 感じたままを、口にする。


「……痛い」


 額をぬぐった、その掌に、べっとりと赤いのがついていた。

 道理で、痛いと思った。


 しまった。


 まただ。


 なんてことだ。


 またやってしまった。


 ああ、目の前の二人連れがドン引きしている。

 引きつった顔して後ずさりしているから間違いない。

 後ろを見れば、カラスの飼い主の女の子が、きょとんと、伏していた眼を見開いていた。

 何だ君、そういう顔してると結構幼く見えるんじゃないか。


「…えーと、どうでしょう、もうこの辺で、お開きということにしませんか?」


 こうなったら仕方がない。極力友好的に、そう言ってみる。

 うん、今ぼく、かなりにこやかに言えてると思うのだが。


「あー、そのー、何が言いたいかっていうと、もうやめません?っていいますか…こういうの、あんまり良くないですって。ほら、カラスの一羽くらい白くたって、きれいで、かわいいもんじゃないですか?悪いことしてるわけじゃないんだし、いるだけで迷惑とか有害とか、そんなことはないでしょ?」


 予想していた通りに、彼らは今度は標的をぼくに切り換え、大声を浴びせ始めた。

 相変わらず聞き取りづらいけど、何やら、よけいなことをすると痛い目に遭うぞ…、とぼくのことを心配してくれているらしい。


「いやあ……ほら、ぼくもう今、痛い目にあっちゃってるし、だから心配してもらわなくても、ねえ? 見てくださいよこれ、何か、結構血も出ちゃったしさ、これ、たぶん痕になっちゃうと思うんですよ?」

 大体この辺まで言ったあたりで、酔いの浅い方の顔が引きつってくる。

 よし、もうひと押し。


「だから……これでご容赦願えないですかねえ……? これ以上やられたら、ぼく、死んじゃうし……そうしたら、あなた方とか、あなた方の家族にご迷惑がかかっちゃうと思うんですよ……そういうの……本当に申し訳ないんで…」


 まあ、さすがに少しは頭を冷やしてくれたみたいで。

 言い終えるころには、片方は未だに憤懣やるかたないと言う様子ではあるものの、まだしも酔いの浅かった方が、射殺さんばかりの眼をぼくに向ける相棒をなだめつつ、唾を吐きかけながらその場を後にしてくれた。


「ふう。……あー良かった……判ってもらえた」


 やっぱり話し合えば通じないことなんてないのだ。

 人間って素晴らしい!


 去り際には、最近のガキは逆恨みして後で何をしてくるかわからない……とか、そういうことを仰っていたな。

 嫌だなあ、そんな怖いことするわけがないのに。

 ぼくにできることと言えば、精々のところ顔を覚えておいて今後どこかで見かけた時には自分からその場を離れ、いらないリスクを回避する。くらいだ。

 まあその手の風評と悪名のおかげでこの場を切り抜けられたと思えば、それで良しとしなくてはならないだろうけど。


 ああ、もう何もかも面倒くさい。早く帰ろう。

 もしミツヒデさんが家にいて、もし機嫌が良ければ手当位はしてくれるかもしれない。


「あ、痛てて…」

 呻きながら、その場を去ろうとしたとき、だった。


「あの」


 服の袖を、後ろから掴まれた。

 振り返れば――


「……、ありがとうございました」


 さっきの女の子が、ぼくの袖を掴んでいる。

 肩の上には、件の白いカラスが行儀よく乗って、赤い瞳を僕にむけている。

「傷の手当てをさせてもらっても、構いませんか?」


 ……まだいたんだこの子。すっかり忘れてた。

「大丈夫、ですか……? ……痛みますか?」

 ベンチに座ったぼくの前にちょこんと立ち、――名前を知らないので便宜上心の中でカラス子ちゃんと呼んでやることにした――彼女が、公園の給水器で湿してきたハンカチをぼくの額に当て、傷を冷やしている。


 日暮れ時の公園で、面識のない、かわいらしい小学生の女の子と二人きり。

 あんまり人には見られたくない姿である。


 固辞した、どうかそんなことはやめてくれと懇願したのだが、カラス子ちゃんはけして譲ってくれず、思いのほかに強い力で僕の手を握り、給水器までぼくを引きずってゆくと、掌を器に水を汲んでぼくの額に滲んだ血を洗い流したり、持っていた鞄の中から出した絆創膏をきれいに貼ったりと、妙に手際よく処置を行うと、それからずっとこうして甲斐甲斐しくぼくに寄り添っている。


「……ん……よかった……。擦りむいてるだけみたい」


 その間、ぼくはカラス子ちゃんの顔をぼんやり眺めていた。

 身動きできなくて他にすることがないからそうしているだけであってけして他意はないのだが。


 こうして間近で見ると、本当にきれいな子だ。

 顔立ちが整っているだけでなく、立ち居振舞いになんとも言えない気品みたいなものがある。

 身に付けているものもよく見ればしっかりした仕立ての品だし、結構いい所のお嬢さんなのかもしれない。

 そうなると、こんな時間に伴もなしに独り歩きをしてると言うのが腑に落ちないけど。


「あの……もういいよ?」


 さすがに、何もしてないのにこんなかわいい子がここまでかしこまっているというのも心苦しい。

「……駄目……! 駄目です……まだこうして……冷やしていないと……」

「いや、抑えとくくらい、自分でできるから、という意味で」

「……あ」

 ようやく、自分がわけのわからん男子高校生にぴったり寄り添っているという妙な状況に気づいてくれたらしく、カラス子ちゃんは少し恥ずかしそうにぼくから身を離してくれた。


 そうしてぼくに正面から向き合うと、

「すみませんでした」

 と言うと、改めてぺこりと頭を下げた。


「あなたに、血を流させてしまいました」


 血を、流させた。

 確かに間違ってはいないが、何か表現が具体的で重い。


「吐き気がしたりはしませんか?寒気がするとか、目眩がするとか、そう言うことはありませんか?」

 カラス子ちゃんが、心配そうにぼくの顔を覗き込んだ。

 不意打ち気味に彼女の顔が目の前に広がって、どきりとしてしまう。

 どうもこの子、きれいではあるけど、不用心というか、それに合わせて思い込みが激しいというか、そういうところがあるみたいだ。

「いや、特に」

「では、お家に連絡は……」

「……それも、まあいいよ」

 脳裏に、あのおじさんの顔が浮かぶ。

 ちょっとは痕が残るかもしれない。

 さすがに気付きもするだろう。

 ただ、心配するかというと、それは微妙である。


「ははは!何だそりゃ、空からかわいい女の子でも降って来たか?生傷の絶えねえ人生送ってんなあ!」

 って、笑われるだろう。

 口調まで生っぽく想像できてしまうのが腹立たしい。


「君たちは、怪我してない?」

「はい、わたしも…この子も、…でも、あなたが」

 それなら、良かった。


 痛い目に遭うのも、苦しむのも、ぼくだけだったなら、それでいい。


「ああ……それから、ごめんね、謝っとく」

 そう告げると、カラス子ちゃんは不思議そうに首をかしげた。

「なぜ……そんなことを言うんですか?」

「途中まではぼく、何にもしないで見捨てるつもりだったからね。だから、やっぱりごめん」

「では……どうして」

「あの男の人たちが、頭に血を上らせて、直接君に危害を加えだす可能性があったから間に入ったけど、本当にそれだけ。君だけでもどうにかなったかもしれないし、今だって何か余計なことしたかもなって思ってるくらいだしさ……だから、君が怪我でもしたら嫌だなと思って、後のことはほんとうに、特に……」


 それがし、特に高尚な誇りとか崇高な信念とかを持ち合わせてはござらぬ故。


 たとえば、ミツヒデさんがああいう人たちに肩が当たった当たらないで殴られそうになっていたら。

 そりゃ一応助けようとはするだろうけれど、程度による。

 さっきの手が通用したのも、相手が所詮は酒で気が大きくなっただけの、損得で動くふつうの人間だったからだ。

 職業的な犯罪集団の構成員と一目でわかるような相手だったらさっきのやり方は通じないし、他のやり方を考えるだろう。

 まあ何にせよ状況次第だ。


「……まあ、君たちが怪我しなくてよかったよ」

 そう、強いて理由をあげるなら、ぼくはそう言う状況だったからそれに応じただけだ。

「そうだ、この鴉、きみが飼ってるんだろ?」

 そう言って、手を伸ばし、カラス子ちゃんの小さな肩に泊まっている、白いカラスをなでようとしてみる。

「ギャァッ!」

 甲高い声をあげ、カラスは嘴の先でぼくの手を払いのけた。

「……あっ……すみません。びゃくやはペット扱いは嫌うんです」

「びゃくやって言うんだ。…さすがに、簡単に触らせてはくれないか」


 生物としては全く正しいのだけど、ちょっと寂しくはあった。

 触ってみたかったのは確かだ。


「ほら、駄目だよ、このひとが助けてくれたんだから」

 カラス子ちゃんは、びゃくやを両手で挟んで肩から下し、膝の上に乗せると、仲のいいともだちにそうするように話しかけた。

「……んっ、ほら、じっとして…ね?」

 そして、びゃくやが暴れないように胸の前で抱えると、

「少しなら、触っても大丈夫ですよ。……ほら……ここ、なでてあげるとよろこぶんです」

 と、言った。

 せっかくの気遣いを無碍にするのも悪いので、飼い主の了解のもと、白い羽毛に触れさせてもらうことにする。

「へえ……見た目よりふわふわしてるんだな」

「はい、……びゃくやは、羽を手入れするのがすきなので……」

「あはは、かわいいかわいい」

 びゃくやが屈辱を耐え忍ぶような目をぼくに向けているが、遠慮なく撫で続けてみる。

 ふむ……どうもハシブトガラスでもハシボソガラスでもないようだが、こういうものなんだろうか

 そんな風にしながら、ふと手を止めて、言っておいた方がいいと思っていたことを口にした。


「今度から、ああいうときには、大人に頼んだ方がいいよ?」

 人情紙のごとしとは言うけれど、何事も限度というものがあるだろう。こんな子に「ペットが虐められているから助けてください」と面と向かって頼まれれば、たいていの人は、嫌とは言うまい。

 その場で積極的に助けてくれなくても、人が増えて、騒ぎが大きくなれば、ああいう人たちは空気を察して引き下がるだろう。


「確かに、それは考えませんでした」

「……約束してくれる?次はそうするって」

「はい。そう……ですね。なるべく、そうしてみます」

 そういって、彼女は少し笑った。何かさびしそうな笑顔だった。


「もしかして、いま、まだ結構落ち込んでる?」

「……少し」

「何か言われてたっけ?」

 その辺はちょうどあんまりよく聞いてなくてうろ覚えだ。

 ちょっと記憶をたどってみる。

「……えーと、少し可愛いからっていい気になってる。とか?」

 小学生相手に何を言ってると思うけど、少しどころではなく、これだけかわいい子だ。

 このくらいの年なら、それが原因で周囲と軋轢があったりするかもしれない。

「あ……それは別に……わたしはあまり可愛くないと思いますから、見当違いなこととしか……」


 この子がいうと嫌味にしか聞こえないのだが。

 この子の友達とか家族は、もしかして彼女よりもっと美人だったりするんだろうか?

 だったら一度お目にかかりたいものだけど。

「となると、……親や教師が甘やかすからこういう出来損ないになるんだ。だったっけ?」

 両親や担任の先生と仲が良かったり尊敬していたなら、そんなことは言われたくないだろう。

 というか、ぼくはどうしてこの子の心をえぐった言葉をわざわざ掘り返そうとしてるんだろう。

「わたしはその、学校には通っていませんし、それも……」

 ふむ。となると、やはりアレなんだろうか。


「……あんまり、気にしない方がいいよ」

 あの発言の何があそこまで彼女を傷つけ、あんな顔をさせたのかはわからない。

 ぼくこの子のことよく知らないし。

 ……不思議なペットをお供にした、かわいい小学生の女の子。


 朝方に聞いたヨタ話を思い出さないこともないが。


 よし……「家が獣医さん」。そういう設定で話をしよう、と思った。

「あんな風に言ってもらえたのは、少しうれしかったです」


 アルビノ種の、色素を欠いた生き物というのは、大体の場合、短命だ。

 それは、特徴的な白く美しい羽毛や毛皮が目立ちやすく外敵に攻撃される率が高いことや、その発生原因である染色体の変異に伴って、免疫機構が弱い場合があることが原因だ。


 大昔なら、まだ抗体のない遠方のウィルスのキャリアである可能性があるということもあったかもしれないから、通常と色が異なる生物を忌避するのは曲がりなりにも意味があったのかもしれない。 

 けれど、この二十世紀において、それも彼女が個人的に所有し保護下においている一個体にまでそれを適用するのは筋違いだろう。

 少なくとも、酔いにまかせて、こんな子供に吐きすてる言葉ではない。

 酒に酔えるほど齢をとっているならなおのこと。


 「厳しい現実を知ることも必要」?

 ――狗にでも食わせたら如何でしょうか。


「まあ、ほら、あの程度のことは誰でもいうだろうしさ」

「でも、あの時あの場所にいたのも、そう言ってくれたのも、貴方だけでしたから」

「そうだね、……どんな生き物でも、生まれた以上は、できるだけ、それを全うしたほうがいいんじゃないかな、くらいには思うけど」

 一応そう付け加えて言うと、


「それは、…周囲にとって害のある生き物でも、ですか?」

 真剣な顔で、カラス子ちゃんはそう問い返してきた。

 さすが獣医さんの娘(という設定)だけあって、どうも色々この年にして葛藤があるらしい。


「まあ、例えば、市民の安全のために殺されなければならない生き物がいたとして、だけど」

 生返事でも特に問題はなさそうだけど、ちょっと考えてから答えてみる。

「それは、殺される理由があるから殺されるだけだ。存在することが悪いわけじゃないし、その生き物が殺されないように抵抗することは、生き物としては当然じゃないかな?」

 ――少しは気休めになったろうか?


「……何だか……ちょっと気休めっぽいですね」


 そういって、カラス子ちゃんは苦笑いを見せた。

 それはそうだ、気休めで言ってるんだから。

 彼女の気が一時でも晴れてくれたならそれでいい。


「ところで、その、傷の具合は、如何ですか?まだ、痛みますよね?」

「……うん?そうだね…」

「飲み物とか、買ってきましょうか?」

 今度は、そんな風に気を使ってくれるカラス子ちゃん。

 お家でもこうやって、治療の手伝いとかしてるんだろうか?

 痛いには違いないが、しばらく冷やしておいたおかげで大分腫れは引いている。

 クールで表情も落ち着いてるけど、自分のせいでぼくが怪我をしたと罪悪感を持っているようだ。


 ぼくが額に傷を晒して目の前にいることでこの子が心苦しくおもってしまうなら。

 なら、ぼくがしてあげるべきは、ここから消えてあげる、いなくなってあげること。


 うん、この場を去る理由にはなるはずだ。

「いや、もう大丈夫だから。ぼくはこれで」

 ベンチから身を起こし、立ち上がろうとする。

「あ……わたしの名前は……」


 と、名乗ろうとするカラス子ちゃんを手で制する。


「あ、ストップ! そんな簡単に名前を教えたりしちゃ駄目だよ、ぼくが悪いやつだったらどうするの?」

「……あなたは、悪いひとなんかではありません」

「……んー……ダメ、それでもダメ」

 まあ、この子とも、どこかで再び顔を合わせることは二度とないだろう。

 この子にとって、御剣みつるぎ昴一郎こういちろうの名前は不必要な情報だ。


「ところで君は?帰り道、ひとりで大丈夫かな?」

 と問うと、彼女の肩の上で、びゃくやが不服気にぼくを見ていた。

「ああ、ごめんね、君がいたよな」

 こいつ、もしかして言葉がわかってるんだろうか?

「わたしは、迎えの車が近くまで来ていますから」


 おお。まさか運転手さんが迎えに来るような大手動物病院の御嬢さんとは。

 きっとレイモンドとかセバスチャンが迎えに来るのだ。

 まずい、お家の人に見られたら、こんな時間に二人きりで話をしていたというだけで見せしめに袋叩きに遭いかねないじゃないか。

 今度こそ本当に殺されてしまう。

 よし、早く逃げよう。

 と思った矢先、あることを思い出す。


「そうだ、これ」

 まだ冷たく湿った、彼女の白いハンカチに、今はぼくの血が赤く染みていた。

「……このハンカチ……後で洗って返したり、出来ないよ?」

「では、あなたに差し上げます。……どうぞ持っていてください」

「いいの?」

「びゃくやを助けてくれたお礼です。……それと」

 カラス子ちゃんは一歩ぼくに近づくと、その色の白い掌をのばし、ぼくの額にそっと触れた。


 少しひんやりした、きれいな手だった。


「……えーと。……なに?」

「何でもありません」

 そうしていたのはほんの一瞬で、彼女はまたクールな表情に戻ると、ぼくから身を離した。

「では、……どうか、お元気で」

 もう一度ぺこりとお辞儀をした彼女に別れを告げ、ぼくはその場から離れた。

 カラス子ちゃんは、しばらく僕を見送っていた。


 さてと。

 今日もまずは大過ない一日であった。


 世は事もなし。

 大きな喜びも、そのツケのようにあとからやってくる苦痛も、何もいらない。


 できれば人生最後の日にも、今日も楽しいことも悲しいこともなにもなくて良かった、ああ疲れた、このまま目が覚めませんようにと思って眠りにつく。そのまま二度と目を覚まさない。そういうのがいい。


 さっきまで一緒にいたカラス子ちゃんだって、不思議でかわいい子ではあったけど、まさか魔法少女なんてしろものではないだろう。棒っぽいものも持っていなかったし。


 第一、どう考えても、あの子に人知れず怪物と戦って町の平和を守るなんてことは到底できまい。

 手当してもらった恩がある以上おくびにも出せなかったが。

 そんなことを考えながら、家路についていた。

 そういえば、ぼくもなんだか結構いろいろ言われたっけ。

 たしか

「おまえみたいなやつが世の中を駄目にするんだおまえは社会の敵だおまえなんか世間が許すもんか」

 だったな。


「……そりゃ、世間が許さないんじゃなくて、あなたが許さないんでしょうが」


 どうも、ぼくは社会にとっての敵であるらしい。

 では、魔法少女に駆除してもらわなくては。

 社会の敵・御剣みつるぎ昴一郎こういちろう

 またパンチの効いた冗談だ。笑えないけど。

 仮定。―もしもぼくと世界が敵同士だったら。

 勝負にもならない。ぼくが一方的に捻り潰されて、何事もなかったようにただ一切が過ぎてゆくだけだ。


 少なくともぼくだったら、確実に勝つ方につく。

 だから、勝負にならない。


 これはミツヒデさんの受け売りだけど―社会は、強い。

 絶対的に強い。言ってみれば、無敵だ。

 例えどんな特別な力を持っていようが、どんなに特殊な性質の存在であろうが。

 それが異物、異分子である内は、絶対に勝てない。

 社会は勝ったり負けたりすらしないものだ。

 有益なものであれば「みんなの意思」に同化を強いられ、有害ならば排斥されて、結果として、それが社会のあるべき在り様だということになってしまう。

 もしその在り様を変えることを強いられるとしたら、それはその社会自体が変化を求めたからだ。


 もし怪物がいようが、魔法が使える女の子がいようが、社会に存在するならそれはすでに容認されているということだ。

 なら、その敵になりうるものといったら、異なる別の社会だけで。


「社会と、別の社会が利害をぶつけあって敵対したら、そりゃもうどっちが悪いとかじゃなくて、人類最大の愚行と誉れ高い〈アレ〉になっちまうよな?お前も嫌いだろ? 〈アレ〉」

 というのがミツヒデさんの言い草だった。

 社会は、世界は誰にも負けない。


 故に、――魔法少女に世界は救えない。


「…あれ?」

 ふと、違和感を覚え、額に手をやった。

「痛みが、引いてる」

 ガラスにうつる自分の姿を見れば、こんなにも短時間で驚くほどに、擦りむいた箇所にかさぶたができ、むず痒くなって擦ったその下には、真新しい皮膚が顔をのぞかせていた。

 カラス子ちゃんの献身的な看護の成果だろうか?まあ、それだったら悪くはないが。


 その時、だった。


 ――おおおおおお……ん。


 獣の声を、聴いた。

「……何、だ?」

 ――おおおおおお……ん。


 周囲を見渡しても、犬猫の一匹姿は見えず、けれど、遠くまで響き渡る獣の叫びが、何度も繰り返された。

 それなのに、道行く人たちは、特に驚いた様子もなく、平然とそれまで通りに歩き去ってゆく。


 ――動物の声?

 それも、野良犬程度ではない、荒々しい、猛獣のような叫び声。妙な不安を覚える。

 さて、どうするか。警察なりに通報するにしても、もう少し情報がなければ動いてもらえないだろう。

「あの、何か変な声、聞こえませんか?」

 売店で飲み物を買ってみるのにかこつけ、店員にそう尋ねてみるけど、怪訝な顔をされただけだった。

 ぼくにしか聞こえないということも、そうはないだろうと思うのだけど。

 変わった動物なんて、びゃくやで十分だったのに。


「……行ってみるか」

 予定を変更し、声のもとと思しき方に、足を向ける。

「……おかしいな、こんなに遠くだったか?」

 声の方向や、大きさを頼りに、歩き回ってはみたけれど、すぐ近くから聞こえたように思えたのに反して、駅の反対側まで歩いて、ようやく其処を見つけ出す。

 たどり着いたのは、表通りから少し離れた、シャッターが下りた店舗が並ぶ路地裏。

 数年前までは学習塾や、保険会社の営業所が入居していたのを微かに覚えている。古びた雑居ビル。

 鍵もかかっていない、開け放された門扉。

 その中へと、踏み込んでゆく。 


 そうして、そこでぼくは、出くわしたのだ。

 この、現代に生きる、人喰いの化け物に。

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