エピローグ

 旅ってなんですか?


 バカみたいにあてもなく旅をしていると、時折そんなに質問をされる。俺にとって、その問いに対する答えは決まっていた。


 日課である愛車プリウスの掃除をしながら、ふと考える。

 最初に出てくる答えはやっぱり、なにかを探すためだ。旅とは、今自分がいる世界から、違う世界へ、なにかを探すための手段の一つである。


 だが、決して誰かにそう答えたことはないが、もう一つある。

 それが、不安だ。


 家で無為な生活を送ること。休日なにもせず過ごすこと。生きる時間に、なんの意味も見いだせないこと。そんな生き方を、俺みたいな人間がしていいはずがないと思っていた。限られた時間の中で、なにかをしなければ。なんでもいいのだけど、なにかしなければ。進歩が与えてくれた命と、もっともっと遠くまで行くべきだから。


 胸の内に渦巻く黒い恐怖と不安から、俺は旅をしていた。旅をせざるを得なかった、というのもあるのだと思う。

 それはきっと、これからも変わらない。俺の本質として、意味もない時間を過ごすことは元より好きではない。あいつの命とともに、もっと旅をしてみたいというのは、俺自身の願いでもある。


 だけど、今日、そしてこれからの旅は、そういうのとはなにかが違う。


 最後の窓を磨き終え、体を起こしてプリウスを見やる。


 旅をする目的は探すこと。行ったことがない場所。まだ見ぬ輝かしい景色。旅の途中で出会った多くの人々。

 探し、見つけるだけではない。旅のあと、たしかに自分の世界に変化が生じる。景色が変わる。

 俺が今回の旅で見つけたものは単純で明瞭な事柄。あいつと一緒に旅をしていると、不安とは異なる感情が胸の内に広がっていた。

 それはきっと、楽しいという気持ち。旅をしたいという気持ちは、以前からあったもの。それでも今は、楽しい旅に早く行きたい。そう思えるようになった。


 ふっと、小さく笑みが漏れる。


 同時に、カシャリと音がした。


 デジャブにも似た感覚。

 音がした方に視線を向けると、やはりそこには誰の姿もない。ゆっくりと下に視線がスライドしていく。


 車庫のすぐ外、地面に腹ばいになりカメラを構えた変人がいた。


「……お前、いつか通報されるぞ」


「はっ! 私としたことが珍しくやってしまいました!」


 珍しくじゃねぇよいつもだよ。


 私服姿で地面に這いつくばってカメラを向けていた晴礼は、土埃を払いながら立ち上がる。


 以前のような大きな荷物ない。少し大きめのトートバッグを持っているだけだ。晴礼の父親の遺骨は、先日、予定より少し遅れて納骨を終えたと聞いている。ずっと晴礼のお父さんを守っていた青いボストンバッグはもう必要ない。


「いやー、渉瑠センパイがまたいい笑顔を浮かべていたので、つい撮ってしまいました」


「そういえばお前、まだ写真続けてるんだな」


 親父さんのことが終わっても、いつもどこにもカメラを持ち歩き、人目もはばからずカシャカシャやっている。もう返事がない父親のスマホ宛に送ることこそしていないが、それでも晴礼が撮っている写真は以前にも増して膨大だ。


 晴礼は手の中のカメラを大事そうに抱えて笑う。


「やっぱり私、写真撮るの、好きなんですよね。だからこれからも、写真は続けようと思ってます。お父さんに見てもらうんじゃなくて、自分で見るためとか、誰かに見てもらうために」


「……そうか」


 思わず、俺も笑ってしまった。


 再びカメラを向けられ、シャッターが切られる。


「センパイ、最近本当に自然と笑うようになりましたよね」


「まあ、夏休みの旅ではいろいろ笑わされたしな。晴礼の奇行とか奇天烈っぷりとかに」


「むうー、またそういうこと言うー」


 口を風船のように膨らませながら不満を露わにする晴礼。


「これからの旅では、私がセンパイを目いっぱい笑いますからね」


 一体、俺のなにを笑うつもりなのか。本当に謎である。


 とはいえ、無事に二人揃って実力テストを突破できたのは喜ぶべきことだ。夏休みに問題を起こしていたのに、早速次の休みからまた旅に出るとは大した度胸だと赤磐先生を初めとした教員からお小言をもらっている。だが、そんなことを気にする俺たちではない。でも先生たち、迷惑掛けてごめんなさい。


 プリウスに俺の荷物と、それから晴礼の荷物を積み込む。夏休み中一緒に旅をしていた晴礼も、すっかり慣れた様子でてきぱきと準備を手伝ってくれた。


「あっ、そういえばセンパイ」


 不意に、トランクの前で並んで準備をしていると、準備の手を止めることなく、何気なく晴礼が口を開いた。


「私、まだセンパイからファーストキスのおつり返してもらってないですよね?」


「……あ、ああ、そうだな」


 忘れていたわけではないが、馬鹿げた出来事が間に入ってしまったせいで、話題にする上がることがなかった思い出。俺なら触れることさえためらう地雷を、晴礼は前振りなしにあるとわかっているのに華麗に踏み抜く。


 晴礼は準備の手を止めないまま素知らぬ顔で、固まっている俺に言う。


「あのとき、もう最後に見たかった〈まほろば〉も見つかったから、死ぬならいっそファーストキスあげてもいいと思って、やっちゃったんですよねー」


「……」


「帰り道にしたお礼の話もそうですけど、もう死ぬつもりだったから、最後のお礼として、センパイになら初体験あげてもいいなと思ってたんですよ」


「……」


「センパイ、本当に無欲ですよね。私が旅の途中にあんなに誘惑したのに全然手も出さないなんて。私のファーストキスやら初体験を全部もらい損ねるところでしたよ? 初体験はまだですけど」


「……お前、今度そんなこと考えたら、マジではっ倒すからな」


 突然すぎる続けざまのカミングアウトに言い様もない怒りがわき上がってくる。


 晴礼は楽しげにおなかを抱えて笑う。


「あははは! そこでそれを言えるのが、さすが渉瑠センパイですよね。安心してください。もうそんなこと、考えませんよ」


「なら、いいけど」


 大体において、進歩のことでさえ手一杯の俺に、さらなる重荷を背負わせようとは一体どんな仕打ちだろうか。さすがの俺もハートブレイクするぞ。


「あ、でもおつりはしっかり返してくださいね」


 自らの唇に人差し指を当てながら、晴礼はウインクしてみせる。


 きょとんと、俺は呆けてしまう。続いて、さあっと顔が形容しがたい熱を帯びる。

 努めて動揺を悟られないように、小さく笑う。


「押し売りとはいえ、おつりはきっちり返してやるよ。長い時間かけてな」


 言いながら、恥ずかしさを押さえて指でピンと晴礼の額を弾く。


 晴礼は額に手を当てて目をぱちぱちとさせたが、途端にこれ以上ないほど顔を真っ赤にする。隠しきれるはずもない紅潮した頬に自分では気がつくはずもなく、しかし努めて平静の笑みを取り繕った。


「それじゃあ、待ってます」


 ほどなくして、旅に出るための準備は終わった。

 二人で揃って忘れ物がないかを確認する。


「さあ、これから忙しいぞ」


「そうなんですか?」


「ああ、とりあえずこれから山陰に行く前に、湊川さんにプレゼント渡しに行くだろ?」


「はい。ちゃんと持ってきてますよ」


 神戸まで送り届けた小さなランナーの優勝祝い。俺も晴礼も、もうプレゼントは用意している。


「それから来週は三重県だ。渚の機嫌がまだ悪いからどうにかしてくれって、大地から泣き付かれた」


「そ、それはセンパイが悪いんじゃ……」


 もっとも渚の機嫌を取るのは難しい。現地でまた肉でも突きながら、晴礼が旅でなにをしようとしていたかを暴露して話の論点をずらすつもりだ。一人で抱え込むには話が大きいので、大地と渚も巻き込んでやる。


「あとは、まあ先のことだけど、千波さんから父さんを温泉に連れてこいって催促が入ってるから、せっかくだから晴礼と、晴礼の叔母さんたちも一緒にどうかと思ってな」


「あ、それは叔母さんや叔父さんも喜ぶと思いますっ」


 今回の件で、父さんも晴礼の叔母さんたちと一度話をしておきたいと言っていた。もう一度くらい、俺と晴礼はきちんと怒られておくべきだろう。あー、憂鬱だ。


「まだまだ、やりたいことも、やらないといけないことも、いっぱいあるよ」


 行き当たりばったりだった旅。ただ自分の気が向くまま、車を走らせ渡っていた旅。この夏の旅をきっかけに、俺の旅は、確実に変わり始めていた。

 素晴らしい景色を探す旅が、旅をするこの場所そのものが、素敵な場所へと変わっていく。


「さて、それじゃあ――」


「渉瑠センパイ」


 意気揚々と声を上げた俺の言葉を遮り、プリウスに目を向けたまま晴礼が呼ぶ。


「今の私たちの関係って、なんなんですかね」


「関係、とは?」


「だって、センパイ言ってたじゃないですか。彼氏彼女でもないのに、二人きりで旅をするなんておかしいって」


 夏休みの旅が始まった日、俺が言ったことを晴礼が反芻する。


「だからこそあったのが、期間限定の彼氏彼女の関係。でもそれって、旅を終えるまで、〈まほろば〉を見つけるまで、でしたよね?」


「そうだったな」


「だったら、今の私たちの関係って、なんなんですか?」


 やや照れたように赤みを差す顔が、少し下の位置からこちらを見上げている。

 待ってますと言った割に、すぐに答えを求めてきた。


 俺は笑い、言葉を探す。答えはとっくに決まっている。

 だけど今の俺たちに好きだとか付き合ってくれとか、そんなありきたりな言葉はふさわしくないと思った。


 俺は、年下のクラスメイトへと、手を差し伸べる。

 あの日と、同じように。

 虚を突かれたように、晴礼が目を丸くする。


 手をつなぐこと。

 それは俺にとって、特別なことだ。

 命を救ってくれた進歩から、最後に渡されたバトン。

 それを、今度は俺がつないでいくのだと。


 さしあたっては、今回の旅でお互いの想いを知った相手へと。


 やがて、晴礼は嬉しそうに笑い、そっと俺の手を握り返した。


「晴礼、俺がお前を、このあてなき旅に連れていく。これからもずっと、どこまでも、一緒に行ってほしい」


「はい、渉瑠センパイ。私からも、お願いします。私を、私の行きたい〈まほろば〉に連れていってください。センパイと一緒に、もっともっと、どこまでも」


 あの日輝く世界で交わした約束を、俺たち二人の約束を、もう一度。

 旅は終わり、世界は変わった。


 晴礼と訪れる場所が、晴礼と交わす言葉が、晴礼とともにする時間が、それらすべてが、俺にとっての〈まほろば〉になっている。



 だから――



 旅の終わりは、きっと〈まほろば〉に似ている。

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