最後のまほろば -3-

 渉瑠センパイの手を取った瞬間――


 なぜか、強い既視感のようなものが頭の中を駆け巡った。

 私なんかの小さな弱々しい手ではなく、細くもがっしりとした男の人の手。 

 柔らかな暖かさを感じると同時に、私の体が力強く引き上げられる。


「ほら、行こう」


 優しげな声音でそう言って、渉瑠センパイは笑う。

 そして青々とした草原に囲まれた道を、私の手を引いて歩き始める。


 どこか、見覚えがあった。


 決して急な坂道ではない。山道になれていない私でも登りやすい、なだらかな細い道。照りつける真夏の日差し。涼しい風を体一杯に受けながら、私は渉瑠センパイに手を引かれて進んでいく。


 私たちの旅の終着点。


 渉瑠センパイが、私に見せてくれると言った最後の光景を、最後の〈まほろば〉を見るために。

 このあてなき旅で、本当にいろんな〈まほろば〉を見てきた。素敵な場所を見てきた。たった一ヶ月と少しだったけれど、お父さんと見てきた〈まほろば〉と同じくらい、本当に数え切れない場所を巡ってきた。


 足を進めるたび、胸が、記憶が、まるで見えない手に握られたように、ざわざわと痛みを帯びる。


 少し離れた場所に見える小高い丘に向けて、一歩、また一歩と近づいていくこの感覚。


 覚えがある。


 渉瑠センパイが握る私の手に、ほんのり暖かい優しさのような気持ちが広がる。私がしたお願いは、自分でもとんでもなく埒外なお願いだと理解している。それなのに渉瑠センパイは、渋る様子を見せながらも、夏休みすべてを使って私に付き合ってくれた。

 私が胸の内に隠していることがあることにも、きっと気がついているだろう。それでも不快に思った素振りも見せず、私をここまで連れてきてくれた、センパイの優しい手。気恥ずかしさもあって、俯いてしまう。


 今朝方少し雨で降っていたのか、草原を吹く涼しい風はどこか湿っぽく肌を揺らす。その感覚にさえ、覚えがあった。

 いつ、どこで私が覚えたものか。もやがかかったようで、よく思い出せない。

 いつまでも、あの日々が続くと思っていた。光り輝く虹色の思い出を作る日々が、もっともっと続くと思っていたのだ。それがあんなにも簡単に終わってしまうなんて、思いもしなかった。


 今でも、現実感なんてない。暗い気持ちに胸が締め付けられる。


 陰鬱とした感情が頭を広がると同時に。

 今見ているこの光景が、この感覚が、どこで体に刻まれたものか、徐々に、鮮明によみがえってきた。


 やがて、山頂にたどり着いた。


 頂に一歩踏み出すと同時に、山々という壁から解放された突風が全身を打った。降り注ぐ眩い陽光に、目を細くして腕でかばう。

 車で登り詰めた山のさらに上、小高い丘の頂上は、整備された展望スペースだった。周囲を木の杭で作られた柵で囲われ、全方位に世界が広がっている。展望スペースには、私たちの他に誰もいなかった。


 日差しに目が慣れないうちに、渉瑠センパイは私の手を引いて前方の景色が見渡せる場所まで導いてくれた。


「晴礼」


 渉瑠センパイが、私を呼ぶ。


「俺が見せられるのは、こんな景色だけだよ」


 私たちの旅にとって、始まりとも言える言葉。


「たとえ、この光景が、誰の、なんの役に立たないものだったとしても、世界はこれほどまでに素晴らしく、尊いものであふれている。〈まほろば〉が、広がっている」 


 太陽の光に徐々に慣れてきた視界が、徐々に色彩を帯びていく。



 晴れた光景に、時が止まった。



 眼界すべてに広がる世界。

 一面に、深々と緑色に染まった山々が広がっている。

 山々の中に周囲を街で囲まれた海……いや、大きな湖があった。湖と山の境界には、人々が生きる街が広がっている。

 そして緑と街と湖の向こう側には、わずかに雲がかかる、遙か遠くにあるにも関わらず圧倒的な壮観たる山、富士山が佇んでいた。


 神秘的な光景。まるで、美しい世界すべてをここに集めたのではないかと錯覚するほど、儚く尊い景色。


 言葉をなくしている私に、渉瑠センパイは口を開く。


「標高一六〇〇メートル。長野県岡谷市、塩尻市の間にかかる、国定公園、県立自然公園に指定されている山陵、【高ボッチ高原たかぼっちこうげん】」


 【高ボッチ高原】。


 その名前が、ふっと暖かく、心の中に落ちた。


「ここが、俺たちの、旅の終着点だ」


 どこか達成感を帯びた声で、だけどどこか寂しさも感じさせる声音で、渉瑠センパイは告げる。


「あれは海じゃなくて湖、諏訪湖だ。長野県のほぼ中央に位置する湖。それから、諏訪湖の向こうに見えるのが、ずっと遠くにはあるけど、日本最高峰の山、富士山だ。本当はすごい遠くにあるんだけど、びっくりするほど大きく見えるよな」


 いつも通り、〈まほろば〉の説明をしてくれながら、渉瑠センパイは笑った。


「『どうだ? 最高に綺麗な〈まほろば〉だろ?』」


 渉瑠センパイの言葉が、かつて私をここに連れて来てくれた人の言葉が、記憶の中で重なった。


「あ――」


 頬に、熱を帯びた雫が流れ落ちていった。

 渉瑠センパイが、目を丸くしている。


「ここ……です……」


 ようやく絞り出した私の声は、すっかり掠れてしまっていた。


「ここが……私が……お父さんに、最後に連れてきてもらった……〈まほろば〉です……っ」


 一度あふれ出すと、涙は留まることなく、流れ出した。


 日の出、大きな山、海じゃなくて、湖。

 日は昇っていたので、私が見た日の出の光景そのものではない。

 それでも、この場所は間違いなくそう。


 あのときは一回たりとも、一滴たりとも流れなかった。

 でも今は、いくら堪えようとしても、思い出とともにあふれた涙は止まることなく流れ出していく。


「ありがとうございます……渉瑠センパイ……っ」


 崩れ落ちそうになる私の肩を、渉瑠センパイがそっと抱き、支えてくれる。


 目の前の世界から、目を離すことができなかった。

 どこにいくにも、常に持ち歩いてきたボストンバッグを、胸に抱きしめる。


 お父さんが遠い記憶の彼方で連れてきてくれた〈まほろば〉。

 脳裏に消えるはずもないほど鮮烈に焼き付けられ、だけどいつからか薄れ掠れてうまく思い出せなかった〈まほろば〉。

 私が、大好きだった〈まほろば〉。

 私が、探していた気持ちがある〈まほろば〉。

 


 私が――に来たかった〈まほろば〉。

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