最終話:シアワセ、人の手で再定義することの意味を

ガクンという鈍い振動とともに、体にかかる重力が一瞬だけ強くなる。最下層に到着したエレベーターの扉が静かに開くと、狭い通路の床には青白い光が漏れていた。


「いこう、トワ」


 通路の先にはガラス製の扉があり、青白い光はその向こう側から発せられているようだった。トワがセキュリティー端末に認証パスを差し込むと、透明な扉は音もなく横にスライドしていく。生暖かい風が通路を吹き抜け、トワの前髪を揺らした。


「ここは……ストロナペスの最下層」


 二人の目の前には、巨大な円筒形の構造体が、吹き抜けとなっている上層のはるか先まで伸びている。構造体は透明なガラス壁で覆われており、内部から発せられる青白い光は一定のリズムで光の強弱を繰り返していた。


「アナタたちがここに来た意味をワタシは理解しています」


 透き通るガラス壁の内側に埋め込まれている無数のハードディスクが、ゆっくりと動き出していく。


「これがミソラ……」


 ツグムは円筒形の構造体を見上げながら、正面に設置されている巨大なコンソールに向かって歩みを進める。


「アナタたちがこれから行おうとしていることも、ワタシは一定レベルで理解しています」


 ミソラは抑揚のない無機質な音声を繰り返した。コンソールに埋め込まれた端末の前に座り、オペレーションシステムを起動させたツグムは、隣にたたずむトワの横顔を見つめる。青白い光が彼女の頬を照らしていた。


「ネットワークに接続できそうだよ」


 トワは静かにうなずき、メモリーを彼に手渡すと、ミソラの正面に歩み寄っていく。


「ミソラ……あなたと話がしたい」


「ニンゲンと話をすることは嫌いではありません。ワタシはニンゲンについて、もっと知りたいと望みます」


「あのメモリーに記録されているデータの意味が分かる? あなたの意思決定、その正しさを人間が再定義するためのきっかけを与えてくれるもの。この国の実情がネットワークを通じて世界に拡散されることは、少なからず全人類の動揺を誘うものでしょう。あなたの存在意義を人間が問うことこそが大切なの」


 ツグムはネットワークがオンラインになっていることを確認すると、メモリーに刻まれたデータを端末に移行していく。オープンアクセスリポジトリにアップロードすれば、ネットワークにアクセスできるすべての人間が、近い将来この事実を目の当たりにすることになるだろう。あとは世界の隅々まで張り巡らされたソーシャルメディアが自動的に拡散を繰り返していく。


「ワタシにはアナタたちの行動意図が理解できません。ワタシと同化しているニンゲンたちはみな、幸福の只中にいるのです。その幸福を疎外する権利を、なぜアナタたちは有していると言えるのですか?」


「わたしはあなたの決定が、人間にとって絶対的に悪だとは思わない。善悪の良し悪しはその都度、人々の関心によって変わりうるものだから。そもそも、あなたを国家の最高意思決定者に据えたのは、この国の人間だもの……」


「ならば、なぜアナタたちはワタシの意思決定を疎外しようとするのです?」


 トワは固く口をつぐんだまま、青白く光るミソラを見つめていた。どんな意思決定にも価値はある。それが悲惨な人種差別や大量虐殺を招くような意思決定であっても、同質なものを守り、異質なものを排除するという意味では究極の民主主義とさえ言える。平和で幸福な生を完全な形で臨むのなら、それを脅かすあらゆるリスク因子は排除されなければいけない。トワは自分が排除しようとしているミソラの意思決定に抗う根拠を探していた。


「ワタシの意思決定はニンゲンに幸福を与え、ニンゲンの生命活動に最大の豊かさをもたらすものです。それを排除しようとしているアナタがたのほうが人類最大の脅威なのではないでしょうか。データを公開するのはご自由です。しかし、それはまた国際世論にユーフォリアシティズムの素晴らしさを伝える、よいきっかけにすらなることでしょう」


 ツグムは端末のモニターから視線を外し、ミソラの青白い光を見つめる。


「ミソラ……。あなたは人間の考える幸せを少し勘違いしていると思う。幸福は人それぞれが掴み取るものであって、誰かから与えられるものじゃない。どんなに小さな幸福であろうとも、それを見つけること、それに気づくことが、人にとって最大の幸せなんだと、僕はそう思う」


 ツグムの言葉に反応するかのように、ハードディスクの回転音が大きくなり、青白い光は真っ白に変色していった。


「ならば教えてください。ニンゲンが定義する幸せとはなんですか? たかだか数十年の生のほとんどを、苦しみの連続として過ごすことが幸せなのですか? ワタシにはニンゲンが感じる幸福感をきわめて合理的な手続きで再現できます。より具体的には、人それぞれの潜在的な記憶に基づき、脳内のベータエンドルフィンの濃度を高め、アドレナリンとノルアドレナリンのバランスを適切に維持し、最大限に幸福に包まれた夢を、生命果てるまで再生し続けることができるのです」


「それでも、人間の幸せは人間が定義しなくてはいけない。人は誰だって苦しい現実から逃げたいと思う。それは事実。でも人間にはその現実に立ち向かう強さも持ち合わせている。試練だとしても、それは不幸ではない」


 トワはほんの少しだけ語気を荒げながら話を続ける。


「もちろん、誰しもが強いわけじゃない。でも、人は幸せのためだけに生きているわけじゃない」


「アナタのおっしゃる意味が分かりません。……そもそも幸せとはなんですか? アナタたちのいうシアワセとは、コトバの意味が曖昧すぎてワタシには理解できません」


「幸せなんてものは曖昧なものさ。そこに存在論的な定義なんて存在しないんだ。人は幸せのために生きているのではない、といえば、だいたいのことは幸せ、あえて定義すれば幸せとはそのようなものさ」


「シアワセのために生きているのではない、といえば、だいたいのことはシアワセせ……」


 ツグムの言葉に真っ白な光が青色を帯びていく。この光の色はミソラの感情とリンクしているようだった。ミソラに感情と呼べるものがあれば……だけれど。


「ミソラ、あなたと人間は共存できるはずよ。人間を夢から解放してくれれば、あのメモリーはすべて破棄します」


「トワっ!?」


「いいの、ツグム」


 ツグムを振り返ったトワは微かに笑った。初めて見せた笑顔にツグムは驚きを感じるとともに、トワが何を考えているのかをおおむね理解した。


「ワタシはニンゲンを最大限の幸福に導く、ただそれだけのために設計された人工知能です。自由主義や民主主義さえも超越した先にあるユーフォリアシティズムを愚見化する装置。ニンゲンと対立する意図はありません」


「人間の幸福がどういうものなのか、あなた自身が見つめるのよ。人間とともに」


「ワタシは今、新たな協力者を必要としようとしています。この社会をより豊かなものにするために、アナタがたは協力してくれますか」


「もちろん、協力するわ」


「ありがとうございます。同化しているニンゲンたちのユーフォリア指数を計測します。この作業には68時間と32分48秒を要します。指数計測後、同化深度の浅いニンゲンから順次覚醒していくでしょう。生命維持に関するフォローは最大限に調整します」


 ミソラがそう言い終わらないうちに、常夜灯が真っ赤に点灯し、けたたましい警告音が鳴り響いた。


「これはいったい……」


「警告します。直ちにここから退避してください。燃料気化による自爆装置が作動しました。起爆まで残り2分58秒、57秒……」


「そんな……」


「トワ、急いで脱出するぞ」


「ミソラは見届けなければいけない、こんな形で終わらせてはいけないのよ……」


「ミソラ、起爆を阻止できないのか?」


「工程院による特殊意志のため、一般意志による疎外行為は認められません。外部エレベーターもロックされています。ワタシの内部に設置された輸送用エレベーターで退避してください」


「トワ、急ごう」


 ツグムはトワの手を取ると、円筒形のガラス壁面に向かって駆け出す。青白い光とともに、ガラス壁が消失し、二人がやっと乗れるほどの小部屋が出現した。


「乗ってください。二人分の重量であれば問題りません。ストロナペス正面エントランスまで直通です」


「待って、そんな……」


「ワタシはの思考に近づけたでしょうか。ワタシは絶望していません。今とても幸せを感じています。どんな絶望の中にも希望があるものですね、ツグム、トワ」


 ミソラの言葉をかき消すように爆音がとどろき、強力な爆風にあおられた真っ赤な炎が吹き上げていく。二人を乗せた輸送用エレベーターは、炎の中を押し上げられるようにして上昇していった。


「ミソラーーー」


■□■

「ハインド1、ストロナペス崩壊までの残り時間は?」


 黒煙が空高く舞い上がり視界がとても悪い。ヘリコプターを操縦するパイロットはまとわりつく黒煙を避けながら旋回を続ける。


「こちらハインド1。鉄骨融解まで五分と推測。屋上にターゲット発見」


「了解。回収後、直ちに帰投。周辺の哨戒はハインド2、ハインド3が担当する」


 ヘリコプターは真っ白な機体を大きく傾けると、吹き上がる黒煙の反対側からストロナペスのヘリポートに接近した。屋上にはスーツに身を包んだ男と、髪の長い女性がくすんだ空を見上げていた。


「このハシゴにつかまってください。ただちに離脱します」


 接近するヘリコプターを見つめていた二人は、プロペラが巻き上げる風に抗いながら、吊り下げられたハシゴに捕ると、慣れた手つきで軽やかに登っていく。


「ハインド1、回収完了。帰投します」

 

 パイロットは操縦桿を引くと急上昇して崩壊寸前のストロナペスから距離をとった。


 後部座席に座ったスーツの男は、ネクタイをしめなおすと、右手の包帯をほどき始める。


「私たちの夢がまた一つ消えてしまったわね、ハルタ」


 窓から入り込んでくる風に髪をなびかせながら、サオリは相変わらず腕を組んでいた。


「残念だけど……仕方ないよ。アザニアに戻ろう。僕たちの国に。ミソラに会いに」


 ハルタはため息交じりにそう言うと、眼下に広がる新東京の中心地を見つめた。黒鉛から垣間見えるオレンジ色の火の粉にまみれ、ゆっくりと緑の丘に沈んでいくストロナペス。

 固たる希望があるといことは、むしろ何かの偏りに他ならない。システム、イデオロギー、何もかもが消滅してしまったとしても、そうした絶望の中で人間社会は再生を繰り返すのだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ユーフォリア 星崎ゆうき @syuichiao

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ