第5幕

 舞台は西原永護男爵邸二階、洋室の大広間。

 天井中央にはシャンデリアが懸けられており、室内の壁面下方には暖炉が備え付けられている。その他、煤けて埃にまみれた燭台や、毛並みの崩れた鹿の剥製などの品々が廃れたままに置かれている。

 日時は昭和三年十一月三日午後九時過ぎ。本来ありふれた晩秋の一夜となるべきこの夜は、到来した低気圧によって篠突く雨・鳴神・大風をもたらされ、まことに稀有な一夜となっている。

 屋敷内では、玲子が開催を画策した舞踏会がいよいよ開かれようとしている。篠突く雨の音は室内に響き、稲光は時折カーテンを透かして光る。外を吹きすさぶ大風は、窓や戸を騒々しく軋ませている。

 大広間中央奥には、舶来の椅子に腰掛けている盛装の西原永護が正面を向いてひとり静かに舞踏客の到来を待っている。今宵に限っては疾患の具合もいささかの小康を得ていると見え、重篤人然とした弱弱しさはうかがわれない。腰掛けている様は、まさに厳然として軍人らしい。

 ここで、大広間の外、洋館二階の廊下を、西原夫妻・黒田母子・黒田倫子・青木俊昭が、それぞれ燕尾服やローブ・デコルテをまとってペアでやって来る。

 舞踏のために組んだペアは、西原永司・瑠璃子夫妻で一組、黒田玲子・頼宗母子で一組、青木俊昭・西原倫子で一組である。


【登場人物】

※第四幕と同じ登場人物、それに加え下記

◆若き日の西原永護海軍大尉

◆若き日の姉小路侯爵令嬢雪子

◆明治期鹿鳴館の舞踏客大勢

◆明治期鹿鳴館の軍楽隊


●第一場●


玲子 〈(舞台中央前方へと歩んで)それでは皆様、よろしいでしょうか?今宵開かれておりますのは、明治大帝の天長節を祝し奉るための夜会でございます。先程の晩餐会に続いて、これより舞踏会を始めることと致しましょう。ほら、皆様、新橋のステーションから舞踏客を乗せて参ります人力車が黒門をくぐって、車寄せへとつける轣轆たる音が聞こえて参りますでしょう?皆様待ち焦がれていらっしゃった舞踏会の始まりですわ。往時はどうであったか分かりませんが、今宵はまずはウィンナワルツから参りましょう〉


【黒田頼宗が蓄音機にレコードをセッティングし終えると、ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツ『ウィーンの森の物語』が大広間に流れる。ワルツの一定の拍子が繰り返されるうちに、皆上手く合わせて舞踏を始める。舞踏の組は、西原永司・瑠璃子夫妻、黒田玲子・頼宗母子、青木俊昭・西原倫子の三組である。しばらくの後、曲の終焉とともに小休止となる】


【ワルツやみ、一同舞踏を中断する。各々服装を整えたり、葡萄酒を嗜んだり、卓上の洋菓子や水菓子をつまみながら休息している】


玲子 〈さて、一曲目のワルツが終わりましたところで。今宵は実際に明治の御世を翔るように生きたお爺様へ捧げる夜でもございますのよ。ここで、お爺様の快癒を祈り、皆様、何か一言お掛け下さいまし(ト西原永司を促す)〉

永司 〈ああ、分かった・・・(ト西原老翁に近寄って何やら言いやる)〉


【その後、西原瑠璃子、西原倫子、黒田玲子、黒田頼宗、青木俊昭の順番で、同様に西原老翁に言葉を掛けるが、老翁の反応は一切ない】


【一同しばし時を持て余す。西原永司・瑠璃子夫妻は終始もの憂い表情を崩さない。西原倫子は自らの許婚である青木俊昭と並んで立っているが、青木への応対は上の空であり、黒田玲子と一緒にいる黒田頼宗の方ばかりを見ている】


【玲子、新しいレコードをセッティングする。たちまち大広間にはマズルカが流れる。一同は、先のワルツと同じ組合せにて舞踏する】


【マズルカが最高潮へと達しようとする、まさにその刹那、雷鳴轟き館内は停電に見舞われる。停電にもかかわらず、レコードのマズルカはやむことがない。先の小休止で誰かが雨の入らない程度に開けた窓からは突風が入り、風はカーテンを押し上げて大広間を駆けめぐる。一同踊りを中断したようであるが、暗闇のために姿を確認することはできない】


【暗闇の中、各々の声だけが響く】


玲子 〈あら、停電ですわ。こんな時に、何と便ないことでございましょう〉

永司 〈本当だ。この雨と風と雷とで電線が切れてしまったのかもしれん〉

瑠璃子 〈何か、明かりとなるものを代わりに〉

倫子 〈たしか、蝋燭がどこかにありましたような〉

青木 〈皆さん、足もとにお気をつけ下さい〉

頼宗 〈ああ、そうだ、煙草と一緒に燐寸も下に置いてきてしまったんだ〉


【闇の中で一同がやがやとして、落ち着きがない。そのうちに沈黙】


【闇の中、椅子に座っていた西原老翁が立ち上がろうとする素振りを見せる。その姿は闇から浮かび上がるようであって、観客にはっきりと見えるようになる。しかし、立ち上がることはできずに、椅子へと崩れる。この動作を何度か繰り返す。結局、座ったままで何か言葉を口にしようとするが、全く言葉にならない。そのうちに舞台上のフォーカスは西原老翁を離れる。すると、今度は暗がりから若き日の西原永護海軍大尉と姉小路侯爵令嬢が第一幕と同じ満艦飾の衣装をまとって登場する】


若き日の永護 〈み、見える、たしかに目の前に見えるぞ。ここは、あの日の鹿鳴館なのか?そうだ、あの夜、ここで雪子に出会ったのだ。あの夜の鹿鳴館から始まった、いや、始まってしまった・・・。どなたか、姉小路侯爵家のご令嬢をご存知ありませんか?姉小路雪子様はどこにいらっしゃる?

(しばらく探した後、黙ってうつむいている雪子を正面に見すえて)

雪子、ありがとう。あなたのお気持ちはまことに嬉しい。けれども、僕は君と一緒に行くことはできない。僕には既に所帯があり、このことは、あなたもご承知でいらっしゃったはず。共に生きるべきではないのです。許して欲しい。あなたには、私と出会った頃から、せっかくの華冑同士の縁談話があるではありませんか?ふ、そんなことを、ちょっと小耳に挟みましたよ(ト儚げにつぶやく)

あなたは無垢そのものであるのだから、堂々とお受け下さい。きっと、それがあなたにとっても最良であるはずだ。

(次いで、言葉をわざと荒げて)

もういいから、君は君自身の幸せの道を行け。僕も僕自身の道を行く〉


【永司の言葉のあいだ中、雪子は黙っている。少時あって、雪子は顔を上げて西原を仰ぎ、泣き出しそうな顔をしてから何も言わずに早足で去る。後ろ姿を悲しく見送っていた西原もやがて舞台より消える】


【西原老翁、気息奄々として椅子にぐったりともたれる。停電の最中でも流れ続けていたマズルカはここでやむ。西原老翁は今や全身の生気が抜けて、寝ているのか死んでいるのかさえ判別がつかない】


【玲子とおぼしき人影が闇の中でもレコードを取り替える動作をする】


玲子 〈皆さん、ご覧になりましたか?闇の中、お爺様の近くにおりましたわたくしには、たしかに見えましたわ。お爺様が、何かをおっしゃろうと必死で口を動かしていらっしゃいました。きっと、今宵の舞踏会を歓んでいらっしゃるのですわ。サァサァ、停電が終わり次第、続きを始めることと致しましょう。皆さん、ご用意はよろしいですか?〉


●第二場●


【唐突に停電が復旧する。大広間の装飾が、いつの間にか、第一幕における鹿鳴館大舞踏場の装飾に様変わりしている。さらには、それまで一家の者しかいなかった舞台に、第一幕での登場人物が舞踏客として勢揃いしている。ただし、若き日の西原永司と姉小路雪子は除く。それぞれ服装は、燕尾服やローブ・デコルテ、パニエつきのドレス、仏蘭西紋緞子の衣をまとっている。一同を始め、舞台上の紳士淑女が、停電の復旧とほとんど同時に、場内に流れるカドリールに合わせて踊り出す。まるで、第一幕の冒頭部分が再度繰り返されているかのような光景。ここからは、舞踏曲の演奏はレコードではなく、第一幕と同じ軍楽隊によるものに替わる。舞踏の組合せが西原倫子と黒田頼宗のペアとなっており、それぞれと組んでいた黒田玲子と青木俊昭もペアとなっている】


【舞踏客が入り乱れてカドリールを踊る中、同じく踊りに夢中になっている西原夫妻ペアと黒田玲子・青木俊昭ペア双方の目を盗み、駆け落ちの密約を交わしていた西原倫子と黒田頼宗が大勢の舞踏客に紛れてその場から立ち去る。これには青木俊昭以外は誰も気づかない】


【カドリールが終わる。青木俊昭がおもむろに西原老翁へと近付く。その後、二言三言声を掛けるが西原老翁の反応はない。次いで青木は、西原老翁の脈を取り、口や鼻に自らの手をかざして呼吸を確かめる。この時には西原老翁はすでに往生を遂げている。一連の行為やそれ以後の行動もすべて、青木は無表情で淡淡と行う。西原老翁の死を確認した青木は、西原夫妻や玲子に知らせることもなく、静かにその場から立ち去る】


玲子 〈瑠璃子さん、申し訳ないのですけれど、レコードをお取り替えになってきては下さらないかしら。音曲は、あなたのお好みにお任せ致しますわ〉

瑠璃子 〈え、ええ。よろしいですけれど、何分、舞踏会にはどのようなオーケストラが好もしいのかもわかりかねますので〉

玲子 〈あの棚に往時の交響曲ばかり取り揃えてございますから、何でも、お手に取られたものでよろしうございますわ〉

瑠璃子 〈ええ、分かりました〉


【瑠璃子が、蓄音機と戸棚とを行き来して、まごつきながら作業していると、突如、軍楽隊による生演奏の『アンネン・ポルカ』が始まる】


玲子 〈あら、次の曲が始まってしまいましたわ。瑠璃子さんは、ちょっと間に合いそうにもございませんね。永司さん、ここは一つ、わたくしと一緒に踊っては頂けませんかしら?〉

永司 〈え、ええ、こちらこそ喜んで(ト本心では気が進まない)〉


【西原永司、黒田玲子は大勢の舞踏客に混じってポルカを踊る。この二人の舞踏は奇しくも、鹿鳴館に咲き誇る好対の花のよう】


【ポルカ全盛のところで、玲子は隠し持っていたピストルを取り出して至近距離から永司の胸を撃つ。銃声が轟いた刹那、大勢の舞踏客や軍楽隊は凍り付く。ポルカはやんでしまう。しかし、代わりに、先程瑠璃子がレコードをセッティングした蓄音機から、チャイコフスキー作曲『交響曲第六番[悲愴]』第四楽章が流れだす。瑠璃子は唖然としながら、大広間の脇からおもむろに舞台前方へと進み出る。西原永司は胸に銃弾を受けて出血しながら、断末魔の呻きを発して瑠璃子のもとへ戻ろうとするが、途中で倒れる】


玲子 〈(拳銃を永護・瑠璃子・自らの頸部へと向けながら)動かないで。これ以上動いたら、本当に撃ちますわよ。ご安心遊ばせ。お爺様を殺すようなことは致しませんわ。こんな人間は、殺すにも値しませんのよ〉

瑠璃子 〈(腰を抜かし)・・・・・・〉

玲子 〈(舞踏客を見渡して)頼宗、早くお逃げなさい。頼宗、聞こえているの?サァ、一刻も早く〉


【瑠璃子、その場にへたりこんでいながらも、わずかばかり落ち着きを取り戻したと見え、近くにあった卓に手を伸ばし、バスケットから果物ナイフを取って掴む】


【瑠璃子は玲子が一瞬見せた隙をついて、果物ナイフを手に玲子へと突進する。瑠璃子が玲子との距離を半分ほど詰めた瞬間、今までで最も大きい雷鳴が轟いて、場内は再度停電に見舞われる】


【闇の中に一発の銃声が無味乾燥な一瞬の音楽を奏でる。その後は、『交響曲第六番[悲愴]』第四楽章の旋律だけが舞台に流れ続ける】


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【戯曲】鹿鳴館(ろくめいかん) 紀瀬川 沙 @Kisegawa

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