秘剣

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秘剣


板戸を全て閉め切った道場の中、蝋燭の灯りだけが、二人の剣士を照らし出していた。言葉を発したのは、僅かな明かりの中でもその光を美しく反射する長い黒髪をした女剣士。放たれた言葉に、唇を噛み締め、眼光を鋭くし、腰を落としたのは、対峙している男剣士。  


得物は木剣。


男剣士は太刀を構えつつ、腰に挿した小太刀の使い所を探る。

秘剣。その多くは、一撃必殺。真剣での立会いにおける秘剣とは、文字通り密かなる剣。一度目にした者は、必ず死する運命にあり、秘剣を振るう者は、目にした者を必ず殺さなければならない運命にある。


女剣士が間合いを詰める。闇に溶けたかのように姿が消える。ひゅっと風を切る音が、男剣士の体に迫る。


男剣士は風鳴りを受けるように太刀を振り、木剣独特のかんという音を響かせる。


「教えた剣はどうしたの? そんなんじゃ、使う前に死ぬよ」


死ぬよ、という言葉が男の動きを一瞬鈍らせる。


再び、風が鳴る。


どすっという低い音が鳴り、男は、鳩尾に木剣の切っ先を感じた。


全ての板戸が開かれると、天空高くに上がっている真円の月の光が、道場の中を青白く染めた。


「幸之介、言葉はただの言葉に過ぎないのだよ。それを、どうして、そう、いつまでもいつまでも」


言葉を掛けられても、幸之介は、正座をしたまま月明かりの中で黙っていた。


「お前の理由は分かっている。だが、剣の道を志し、あまつさえ、母上の仇を討つべく鍛錬しているのに……。そのままでは、みすみす殺される為に剣の鍛錬をしている様なものだ」


漸く、幸之介は返事をする。その顔は、笑顔である。


「お師匠様。すいません。私は、どうも、その、心が弱くて。もしかしたら、あの時、母上を失い、この左腕を肩から斬り落とされた時に、心の中にある何かも斬られてしまっているのかも知れません。ですが、私は、諦めません。この秘剣……。必ず己が物としてみせます」


幸之介は、言い終えると、腰に挿していた小太刀を壊れ物でも扱う様に優しく抜き、そっと膝の上に置いた。


「全くあんたって子は。その笑顔に私はいつも丸め込まれる。仇討ちなんて、あんたには向かないんだよ。どうして、分からないの」


お師匠様と呼ばれている女剣士は、立ち合いの時とは逆に、笑顔の幸之介に優しく打たれていた。

                2


女剣士は、居酒屋の片隅で酒を飲んでいた。机を挟んだ向かいの椅子には、一目見て役人と分かる格好と、油断のない鋭い目をした侍が一人座っている。


「お夕。幸坊はどんな按配だ? 仇は、すぐにこの町を出ちまうだろう。このまま黙っているのか?」


お夕は、ぐいっとお猪口の酒を一気に煽った。

「あ~、もう。分かってる。分かってるわよ。だけど、今話した所で幸之介は必ず斬られる。あの子が斬られたら、私……」


空になったお猪口に酒を注ぎながら、お夕は、視線を机の斜め下に落とす。その目は、涙で潤んでいる。


「天才女剣士のお夕様ともあろう御方が。幸坊の事となると、雨水の雫の垂れた音にもおどおどしている町娘だな。まあ、俺の仕入れた情報は、確かに伝えたからな」


侍は、呆れた顔を残して席を立った。情報料のつもりなのか、勘定は払っていかなかった。


お夕は、酒を飲み続ける。彼女は、この界隈でも知られるほどの酒豪であった。


おまけに……。酔うと手が付けられなくなる。


女だてらに剣を握っている。それは、理不尽な悪意に晒されるには充分な理由だった。素面の時は己の主張を殺し、我慢はしているが、酒を飲んでいると、我慢が利かなくなる。


居酒屋の店主、咲衛門は、お夕の目付きが妖しくなって来るのを見定めると道場にいるであろう、幸之介を呼ぶ為に、女中を使いに出した。


早く幸之介が来るようにと願っている咲衛門の心配をよそに、新しく店に入ってきた浪人風の二人組みが、お夕の身なりを見て何かしらを案じたのか、真っ直ぐにお夕の席に近付いて行く。


京の都が倒幕、佐幕で彩られてこのかた、この町にも怪しげな連中が流れて来るようになった。今、店内に入って来た二人組みも、この界隈では見慣れない人相をしていた。


「へい、いらっしゃいませ。何にしましょうか?」


咲衛門は、素早く二人とお夕の間に入る。もちろん、お夕の身を案じての行動ではない。店の中を壊されては困るのだ。前回は、店の中にある全ての机を真っ二つに割れたのだ。それも、刀を抜いてではなく、素手で。


お夕は、決して人前では刀を抜かなかった。素面のお夕に咲衛門は一度、聞いてみたのだが、返ってきた答えは、もう、人は斬りたくないという物だった。


刀を抜けば、どちらかが死ぬ。刀とは、そいう物なのだぞ、とお夕は、その後、散々に酒を飲んでしつこく話していった。


二人組みの片割れが、むっとした表情をして言う。


「店主、悪いがどいてくれ。我らはそこの奇異な格好をしている御仁と、酒を飲みたいのだ」


言葉を発していない一人は、にやにやといやらしい笑みを顔に浮かべた。


咲衛門は、お夕に今の言葉が聞こえていないのを祈りつつ、恐る恐る後ろのお夕に視線を向けた。


咲衛門は、瞬時に先程よりも更に素早く身を動かした。居酒屋の店主にしておくには勿体無い程の身ごなしである。


ひゅんっと、風が鳴る。


酒の入ったままの二合徳利が、矢の様な勢いで、にやにやと笑っていた男の額に命中した。


「うっ、うわ。な、何しやがる」


額を押さえて痛みを堪えている男の横で、もう一人の男が吠える。


お夕が立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。


「ほほほほ。何か、ありまして。私はただ、お酒を渡そうとしただけです。受け損なうとは、本当に立派なお侍様ですこと」


額を押さえていた男の手が刀の柄に掛かろうとする。


お夕の体が弾かれ様に加速した。咲衛門が息を飲む暇もないうちに、お夕の右手が、刀を抜こうとしていた男の刀の柄を掴んだ。


「なっ」


刀を抜こうとしていた男は、驚愕の表情を浮かべる。


「よして下さいな。そんな物を抜けば、こちらも抜かなければいけなくなります。私はね……。人を斬るのは嫌いになったのです」


お夕が艶っぽい息を吐きながら言う。


二人組みは、無言のままどちらともなく踵を返すと、負け犬の様にしょんぼりとした背中を見せて店外に向かった。


「咲衛門。今日の勘定はなしよね。私がいなかったら、この店、大変だった思うの」


お夕は、そそくさと席に戻る。もちろん、おかわりの徳利の注文も忘れてはいない。


咲衛門は、厨房に酒を取りに行きながら、溜息を吐いた。


厨房で料理をしていた女中が同情しますという様な視線を咲衛門に向ける。


「お夕ちゃんも悪い子じゃないんだがなぁ」


咲衛門の小さな声が、厨房にしんみりと広がった。



店に居座ったお夕が、三本目の徳利を空けた頃、入り口の引き戸が開き、幸之介が入って来た。


幸之介の元に誰よりも早く駆け寄ったのは、他の誰でもない店主の咲衛門だった。


「幸之介さん、遅い。どうしてもっと早く来ないのですか」


咲衛門は、身振り手振りをまじえて、お夕絡みの悶着の顛末を幸之介に語り出す。


幸之介は、またですか、と申し訳なさそうな顔をして咲衛門のすでに愚痴になってしまっていた言葉を頷きながら聞いていた。


何時終わるとも知れない咲衛門の愚痴を、遮る様に、お夕が大きな声を上げた。


「帰る。幸之介、帰るよ」


足早にお夕は幸之介に近付くと、手を引いて店から出て行った。


咲衛門は、開け放たれた戸の外を並んで歩いて行く二人を見送ると、お夕の座っていた席を片付けに行く。


毎度の話なのだが、そこにはちゃんと、飲み代以上の代金が置かれていた。


「お夕ちゃんも、あれに女らしさが加わればもっと良い女になるのだがなぁ。幸之介さんが相手だと、あのぐらいじゃないと駄目なのかも知れんが……」


咲衛門は、再び二人の姿が消えて行った方角を見遣りながら、一人、ぼそりと呟いていた。


お夕の道場は町外れに位置しているので、道程で人とすれ違うなどというのは滅多になかった。


畑と川に挟まれた道は真っ暗で、幸之介が持参してきた提灯の灯りだけが、ぼんやりと心細く行く先を照らしている。


「お師匠様。毎度の話ですが、その、お酒の癖の悪さはどうにかならないのですか」


幸之介が、別段、怒っている風でもなくやんわりと気遣いをみせながらお夕に問う。


お夕は、幸之介の言葉を聞いて、突然、足を止める。


「幸之介。剣術をやっている以外の時は、私を何て呼べと言いましたっけ?」


提灯の灯りに浮かび上がっているお夕の顔は、笑顔であった。笑顔ではあったが、幸之介は、その笑顔の質が、普通の笑顔と違っているとすぐに気付いた。


「はっ。これは、申し訳ございません。お夕と呼べと言われてましたね。でも、何というか、お師匠様の方が、呼びやすいというか、人柄に合っているというか……」


幸之介はぼそぼそと言い訳をする。


「もういい。そうやって、私を女として見てくれてないんだ。剣術を教える変わり者の女としてしか思ってないんだ」


お夕は、不貞腐れて立ち止まったまま、足を進めようとしない。


「ああ。剣術なんて物をやっていたから、こんな風になったんだわ。いっそう、刀なんて捨ててしまいたい」


お夕はその場で大小二本の差料を抜くと、川に向かって投げようとする。


慌てた幸之介は、お夕を抱く様な格好で止めに入った。


「お夕さん、やめて下さい。今日は、どうしたのです? 何時もなら、ここまで無茶な行いはしないではないですか。何かあったのですか?」


幸之介は、お夕の様子が何時もとは違うのに気が付いた。言葉を発してから自分の仇討ち絡みではないかと思い当たった。


幸之介は、仇が、この町に戻って来ているのを知っていた。知ったのは、数日前だが、お夕には、その話はしていなかった。できれば秘密裏に、仇討ちを済ませてしまおうと考えていた。


お夕は、幸之介の言葉を聞いて、急に思い詰めた様な顔付きになった。その顔に幸之介は見覚えがあった。


幸之介とお夕が出会ってしばらくの頃、お夕が昔の話を聞いて欲しいと言った時に、今の様などこか悲しげな、世の中の全てを諦めている様な、こんな顔をしていた。


「お夕さん。そんな顔をしないで下さい。貴方のそんな顔を見ると、とても悲しい気持ちになる。それに……、その理由が私にあると思うと、申し訳なくて」


お夕は幸之介の言葉を聞いて、すぐに意味を理解した。


提灯の朧な光が、お夕の瞳の中で薄赤く揺れる。感情の抑圧された瞳は、ただの鏡の様で、幸之介に言葉を継ぐのを躊躇わせる。


「幸之介、知っていたの? 御父上が帰って来ているのを。知っていて、私に黙っていたの?」


お夕はいけないと思いながらも、迸る感情の潮に逆らう術を放棄していた。


今から二年前、幸之介に出会う一年前、お夕は京にいた。


京で何をしていたのか……。 


それは、お夕の剣技の冴えが今でも失われていないという事実が物語っている。


彼女は、人斬りをしていた。


今ほど、大っぴらに京が血煙に染まっていなかったその頃は、暗殺が横行していた。彼女は雇われれば、倒幕も佐幕もない。己の剣技に磨きをかけるという理由、ただそれだけで人を斬って斬って、斬り捲くった。人斬りを始めて半年で、刀の中子が血の為に腐るほどだった。


彼女は、あまりにも考えなしに人を斬り過ぎた。彼女の行為の代償は巡り巡って、自身の身に降りかかって来る。


どれほど、情け容赦なく人を斬っていながらも、自身の命は惜しかった。命を狙われ始めてからの日々は、言語に絶する酷い物だった。


夜討ち朝駆けは当たり前。彼女と接触していた人間達も、彼女の味方だと思われた瞬間から命を狙われ、その結果として、誰一人、生き残った者はいなかった。彼女は、孤独になった。そして、そこまで至って初めて、人斬りの因果を感じた。斬って斬られる世界にいる自分に絶望を覚えた。


何もかもが破綻していく生活の中から彼女は逃げ出した。


皮肉にも、新撰組や見廻組の登場が彼女の逃走を助ける羽目になった。


秩序の維持を盾に京の都全体が、闘争の渦の中に投じられたのだ。一人の人斬りを追っている暇など、最早、誰にもなくなっていた。


お夕は、この町に流れて来て、道場を持ち、幸之介に出会い安住を得た……。得たと思っていた……。幸之介が、剣術を学ぶ理由を話した時、遠からずこの様な日が来るのは分かっていた筈だった。


だが、現実にその日が訪れ様としている今、お夕は、我が身に染み付いた血の香が、呪いの様に匂い立つのを感ぜずにはいられなかった。


お夕は、泣き出していた。何もかも全ての物が嫌になって、子供の様な心持だけになって、ただただ涙を流していた。


「お夕さん。ごめん。話さなかったのは、貴方を巻き込みたくなかったからなんだ。私が剣を持って相手の所に行けば、貴方は必ず一緒に来てしまう。そうなったら、私の腕だ、貴方は人を斬らざるを得なくなる。私は、斬らなければならない相手がいる。懸命に考えた結果が、貴方に黙って、仇討ちをするという答えだったんだ」


幸之介はお夕を抱く手に力を込めて訴える様に言った。


お夕は、幸之介の腕を振り解く。お夕の拒絶に幸之介は、驚いて体を硬くする。


「幸之介。貴方は何も分かっていない。そんな理屈が通用する程、この世の中は甘くなんてないの。貴方の剣は、私の剣なの。貴方が殺した相手は、私が殺した相手なの」 


お夕は、ふらふらとした危うい足取りで、一歩二歩と後ろに下がる。


幸之介はお夕を追う様に足を踏み出す。


「お夕さん……。分かっては、もらえませんか? 私は、貴方が好きです。貴方を傷付けたくなくて、貴方に心配をかけてたくなくて……。でも、それでも、私は、斬らなければならない相手がいるのです」


お夕が、ぐっと顔を幸之介の方に向けた。


「幸之介。卑怯です。こんな時に私を好きだなんて。こんな時に私を女にしようとするなんて。幸之介。私を愛していても、仇討ちをすると言うのですね?」


幸之介は、沈痛な顔をしながら、静かに頷いた。


「分かったわ。幸之介」


幸之介は、お夕の言葉に安堵を感じて、表情を緩めた。


「幸之介。抜きなさい。どうしても仇討ちをしたいと言うなら、私を斬ってからにしなさい」


再び、幸之介は驚愕に囚われる。自分とお夕の関係が……、今まで、一緒にいた全ての時が崩壊して行く。


「お、お夕さん?」


幸之介が言いかけている間にお夕は刀を抜いた。


幸之介は、目の前で起っている出来事が、信じられなかった。そして、それよりも何よりもお夕に刀を向けるなんてできなかった。


「お夕さん」


幸之介は心の奥底から全身全霊を込めて叫んだ。


お夕の体が闇に溶ける。


次の瞬間、右袈裟に剣閃が走る。


間一髪で幸之介は、身をかわす。


かわしはしたが、着物が斬られ、その下には、赤い一筋の細い線が引かれた。


「お夕さん」


幸之介は、苦しげに呻いた。


「幸之介。これが、剣の世界なんだ。これが、斬り合いなんだ。剣を抜けば、残る物は、怒り、恐怖、悲しみと生への執着。抜きなさい幸之介。私は、もう、全てを剣の心に委ねている。貴方が抜かなくても私は貴方を殺す」


殺される……。


幸之介の心に幼い頃の恐怖が蘇る。


仇である父親が、母を斬り捨てる。母を屠った凶刃は、泣き叫んでいる幸之介の体から、左腕を奪い去る。


恐慌をきたした幸之介は、無様な叫び声を上げた。


「うわぁぁぁぁぁ」


お夕の振るう刀が、幸之介を襲う。


幸之介は、腹部に激痛を感じ、意識を失った。



目が覚めると、道場の離れにある自室で寝ていた。咲衛門が枕元に座っていて、すぐに声をかけてくる。


「や、目が覚めましたな。全く、話を聞いた時は、本当に驚いたのなんのって。一体、何をやってるんですか、貴方達は」


幸之介は、自身のおかれている状況を、続いて始まった咲衛門の愚痴の中で聞いた。


咲衛門は、無抵抗の幸之介を相手に好きなだけ愚痴ると、膝を叩いて立ち上がった。


「さて、と。私は、店に戻りますかな。お夕ちゃんには、幸之介さんの目が覚めたと伝えておきます。お夕ちゃんがここに来るか来ないかは分かりませんがな。はてさてなっと」


咲衛門は、人の恋路は~、などと、不思議な節で歌を歌いながら去って行った。


幸之介の体をお夕が巻いてくれたという包帯が包んでいた。きっちりと巻かれている包帯を手で摩ると、昨晩の遣り取りが目に浮かんで来る。


自分は何をやっているのか? 自分はこれからどうすれば良いのか? 幸之介の心は、今にも雨と雷鳴とを噴出しそうな暗澹たる空模様をしていた。


咲衛門は、店に戻ると何時もの席で酒を煽っていたお夕に幸之介の具合を伝えた。


「そう。目が覚めたの。はぁ~あ。どうして、あんな風にしちゃったのかな。ねえ、咲衛門。これから、どうすれば良いと思う?」


女らしい相談をして来るお夕に咲衛門は一瞬、からかう好機と思ったが、若き日の様々な経験が思い出されると、優しい気持ちになってしまった。


「お夕ちゃん。人ってのは、どんなに距離が近くても決して交わらない所があるもんだ。みな、それぞれの事情とか、生活とか、色々な物を背負っているだろう? その中から生まれてくる考えの違いってのは、それぞれの事情によって見方を変えれば、どれも全部が正しいとは思わんかね? 考えの違う者同士は、どちらかが折れるか、別れ別れの道を行くか、その二つしかないのではないかと私は思う」


咲衛門は、その先に用意してあった答えには敢えて触れなかった。若き日に自分が悩んで手に入れた答えは、自分で得たからこそ価値があったのだ。安易にそれを若人に与えては大事な物を見落としかねない。咲衛門は、それ以上何も言わずに無言のまま厨房に向かった。


厨房に戻ると、二人の女中が、手を止めて咲衛門に尊敬の目を向けて来る。急に、自分の言っていた内容に恥ずかしさを覚えた咲衛門は誤魔化す様に、人の恋路は~、とまた、不思議な節の歌を歌ってしまうのであった。


辺りが夕日に彩られ始め、咲衛門の店が、繁盛する頃合になって、昨日、お夕に絡んだ二人の男達が再び姿を現した。


咲衛門は、溜息を大きく一つ吐くと声をかける。


「へい、いらっしゃいませ。今日は、何に致しますか?」


男達は、いきなり咲衛門を突き飛ばすと、お夕に向って言った。


「おい。昨日は世話になったな。我らの先生が貴様に会いたいと言っておる。御同道願いたい」


お夕は、ぐびりとお猪口を煽ると、鋭い視線を二人に浴びせながら口を開く。


「会いたいと言うのなら、そちらから出向くのが礼儀ではないか?」


二人の男は、お夕の視線を受けた瞬間、怯えた表情を見せたが、一歩も引く気はないらしく、二人ともが同時に刀の柄に手をかける。


「今日は、昨日のようにはいかんぞ」


二人の男は、決死の形相を浮かべていた。


「もう~。分かったわよ。行けばいんでしょ。行けば」


お夕は、多めの勘定を机の上に置くと立ち上がった。


「咲衛門。大丈夫? ちょっと、行って来るわ」


出て行こうとする三人に向かって咄嗟に咲衛門が声をかけた。


「ど、どちらまで行かれるのです?」


二人連れの一人が、にやりと笑ってから低い声で言った。


「町外れの廃寺だ。あそこなら後始末が楽だろ」


三人の背中が、夕日の中に溶けて行く。咲衛門は、幸之介に知らせるべく駆け足で店を後にした。


5 


お夕は、久しぶりに緊張を味わっていた。


廃寺で、待っていた男は、凄まじい殺気を纏っている。


そして、それとは別に、悲壮な思いに駆られてもいた。運命とは、如何に残酷な物であるのかと、思わずにはいられなかった。


相手の名は、狩野幸心。己の名前の一文字を与えた息子の母親を斬り、更にその子の腕を斬り落とした男。


「なかなか使えるようだな。ちょうど良い。京に行く前の契機付けだ。派手に、散ってくれ」


たったそれだけの言葉が、始まりの合図だった。


幸心は、吐き出す言葉や殺気からは想像できない程、洗練された動作で刀を抜く。


「ふふふ。私にとってもちょうど良い。幸之介の仇だが、私がもらう」


お夕は敢えて幸之介の名前を口にした。死合に道はない。どんな手を使っても斬られればそこで終わりなのだ。


「幸之介? そいつは、片腕の幸之介か?」


幸心は、憎らしい程に落ち着きながら聞き返してくる。


隙はない。少しでも動揺が見えたのなら、そこで終わらせられたのに……。


卑剣。


お夕は、己の手の中で最も信頼している剣技の名前をそう文字で書く。秘剣とは、本来そういう物だと考えている。生への執着のみに、最後の望みをかける戦いでは、生き残る事が全ての物より優先される。言葉を投げかけ相手の油断を誘う。卑怯な手だが、お夕はこの手が得意だった。


相手がお夕の言葉に乗って来たのは、収穫だった。


どうやってここから隙を作るか。


お夕は、刀の柄に手をかけながら、間合いを計りつつ思考を巡らせていた。


「貴様、居合いか?」


幸心は、刀を抜かないお夕に問いかける。


「そうだったら、どうする?」


誘いをかける。相手の太刀筋を見るのも、駆け引きのうちだ。勿論、かわせなければ、そこで終わりなのだが……。


「参る」


幸心は、鞘をお夕に向かって投げつけると同時に真っ向から斬り下げる。豪快な太刀筋は、凄まじい威力と速度を持って、お夕を襲う。


お夕は、体を左に裁いて鞘と刃をかわすと、間合いを詰めて、柄頭で鳩尾を狙う。


だが、懐に入る前に幸心の刀は地面に弾かれた様な動きで返されると、下方からお夕を再び襲う。


がちりと下方から打ち込まれた一撃を鉄拵の鞘が受け止める。


鞘と刀身を合わせてお互いの動きを封じながら、次の切欠を探る。


「卑怯な手を使う」


お夕が、口を開く。


「何を言う。貴様こそ、そんな鞘で刀を受け止めて。刀を折ろうとしたな」


如何に膂力の差があるとしても、斬り上げを上から押さえられては、分が悪い。


幸心は、刃が綻ぶのも構わずに鞘を擦りながら突きを放つ。


お夕は体を開き、かわず。


二人が同時に後方に飛び退く。


「ちっ、刀をよこせ」 


幸心は、自ら傷めた刀を正眼に構えながら、連れに向かって怒鳴る。 


「見かけ倒しだったか……」


お夕は、吐き捨てる様に言うと、間合いを詰める。幸心の刀は、斬れ味が落ちているのだ。かする位なら、問題はない。 


不意に横合いから、幸心の仲間の一人が斬りかかって来た。


仲間がいるのは先刻承知。お夕は、難なく男の初太刀をかわす。かわした勢いを回転運動に乗せて、鞘に入ったままの刀を振るう。


男の胴を一閃する。手応えは充分だった。男は苦しそうに呻くと体をよろけさす。


「くっ、な、何をしてる」


お夕が呻く。


完全に隙を衝かれていた。ここまでやるとは……。卑剣などと言っている自分にもできないな……、お夕は冷静に考えていた。


「こいつらは、俺の道具と一緒だ。本望だと思うぜ」


幸心が、仲間の背中を貫通してお夕の右太股に突き刺さった刀を手放しながら言う。


お夕は、痛みも構わずに刀を引き抜くと、右足を引き摺りながら、体勢を整え、じりじりと幸心から間合いを離す。


「その傷じゃ、もう駄目だな。安心しろ。綺麗に殺してやる」


お夕は、奥歯を噛み締める。かなりの深手だがこれからが本番だと自らを鼓舞する。


「何を言っている。仇はもらうと言っただろう」


幸心は、悠々と刀を交換すると素早くお夕に詰め寄る。


「これで、終わりにしてやる」


大上段から、お夕目掛けて幸心の刀が振り下ろされた。



幸之介は片足を引き摺りながら後ろに下がるお夕の姿を見初めると、足を止めずに抜刀し二人の間に飛び込んだ。


ぎぃんと金属同士の当たる音が鳴り、幸心の一撃を受け流す。片腕の幸之介は、相手の打ち込みをまともには受けない。刀身を傾け、力を逸らすやり方で受け太刀をする。


「お師匠様。大丈夫ですか?」


切っ先と目線を幸心に向けたまま、背中越しにお夕に声をかける。


「幸之介……」


お夕の声は弱々しい。


「ほう。お前、幸之介か? 随分と大きくなったじゃないか。全く、人の死合に手を出すとは、無粋に育ったもんだ」


幸心が構えをとりながら言う。


「お父上。お久しぶりです。私の想像していた邂逅とは、全く違った物になってしまいましたが、仕方がない。母上の仇、とらせてもらいます」


幸之介は落ち着いた様子で言い終えると、突きを放つ。


幸心は、体裁きだけで、突きをかわす。


「お前、父親に刀を向けて、何も思わないのか?」


幸心はにやにやと笑う。


幸之介は、無言のまま突いた刀を横薙ぎに振るう。


「なんだ。もう口も利きたくないってのか?母親を殺して、片腕を斬った男は父親じゃないか」


幸之介の動きが止まる。呼吸が荒くなる。


「う、あ、あぁぁぁぁ」


幸之介は狂乱し刀を無茶苦茶に振り回し始める。


「おお。なんだよ。がっかりさせるな。まあ、良い。母親の所に送ってやる」


幸心が乱刃をものともせずに間合いを詰める。


「幸之介」


お夕は叫んだ。だが、声は届かない。


お夕は、幸之介に近付く。右足が利かないが、そんな物に構ってはいられない。


幸之介の背中に辿り着くと、そのまま倒れる様にして体を当てる。


「幸之介。幸之介。落ち着きなさい。頼むから、落ち着いて」


お夕は、幸之介に寄りかかる様にして、足の負担を軽くすると、腕を伸ばして幸之介の小太刀を抜いた。


「二人揃って死ぬんだな」


幸心の刀が閃光となる。


「お夕さん?」


自分を取り戻した幸之介が言う。


「幸之介、受けろ!」


お夕の裂帛の気合が籠もった叫びが上がる。


幸之介の刀は間一髪で幸心の刀を受け止めた。


「幸之介、許せ。仇はもらう」


お夕は、幸之介にしか聞こえない程度の声で囁いた。


金属の留め金が外れる小さな音。


小太刀のこじりが、中に収められている刃に押されて落下する。


火薬の炸裂する音。


びゅんっと風が鳴る。


刃が肉に刺さる鈍い音。



「くっ、何だ? その、小太刀は?」


胸に刀身を突き刺された幸心が、苦悶と驚愕の表情を浮かべて言う。


「ヒケンだ」


幸之介が、答える。幸之介の腕が上がる。 


幸心の首が、宙に舞った。



「これは、お珍しい。お一人ですか?」


咲衛門が慇懃無礼に声をかけて来る。


幸之介は、お夕の先に行けと言う言葉に即されて、待ち合わせ場所である先衛門の店の扉を開いていた。同じ道場に住んでいるのに……、と幸之介は反論したが、お夕は耳を貸そうとしない。仕方無しに幸之介は、先に道場を後にしていた。


「こんにちは、咲衛門さん。お夕さんは、後から来ます」


幸之介は酒を嗜まない。咲衛門の店に来る時は、十中八九、お夕の迎えの時だった。


「そうですか。あれから、お二人の仲はどうなってるんです?」


咲衛門はにやにやと笑っている。


幸之介は、こういう大人のからかいに全くの無頓着で、冷静に応対をしてしまう。


「何を言ってるんですか。何もある訳ないでしょう」


咲衛門は、つまらなそうにさいですか、と返事をするとそそくさと厨房に入って行く。


「よう、幸坊」


続いて声をかけて来たのは、鋭い目付きをしたこの町の役人。


「こんにちは、藤原さん。この前は、本当にお世話になりました」


藤原と呼ばれた男は、礼には及ばないと返事をすると、声を上げて笑う。


「礼をするならあの男に言った方が良い。全ての罪を被って晒し首になったんだからな」


幸之介とお夕が、幸心を斬り倒した後、残っていた幸心の仲間の一人が、藤原の機転で全ての悪の権化とされた。


即刻打ち首となった男は、町の目抜き通りの一角に今も首だけとなって晒されていた。


「それで、今日は、どこに行くのです?」


咲衛門が厨房から顔だけを出して、二人の間に割って入る。


「母のお墓参りです。お夕さんとの事を報告に」


咲衛門と藤原がにこにこと笑う。


仇を討ってから一ヶ月。幸之介とお夕は、連れ添って生きようと決めていた。


開いていた入り口に、人影が刺す。


「幸之介、待った?」


お夕が姿を現す。


咲衛門と藤原が、お夕の姿を見て息を飲んだ。


二人同時に言う。


「お夕ちゃん、どうしたの?」


「お夕、どうした?」


幸之介が振り向く。


「お、お夕さん。どうしたんですか?」


お夕の額に青筋が浮かんだ。


「どいつもこいつも……。人が、女の格好をしているのが、そんなにおかしいか!」


いよいよ、怒りの形相を現していくお夕を前に男三人はたじろぐ。


「幸之介さん、ささ、何か、言ってあげないと」


咲衛門が一抜けする。


「そ、そうだぞ、幸坊。気の利いた言葉の一つも言わないと男が廃るってもんだ」


藤原が二抜け。


「幸之介! 行くよ」


お夕が、幸之介の腕を引っ手繰る様にして掴む。


「はい」


二人は並んで店の戸口を抜けて行く。


「お夕さん、その、あの時は、刀を抜かせてしまって……」


幸之介は今日、この日になって、漸くその言葉を口にできた。


「バカ。大切な人を守るなら、私は何だってするわ……」


お夕は、優しく言うが、その顔は相変わらず不機嫌そうである。


「あ、あの、お夕さん?」


幸之介は、動揺を露にして聞く。


「少しは、気の利いた言葉も言いなさいよ」


お夕は、ふんっと横を向く。


「あ、着物、とても似合ってます」


「そういう大切な言葉は、一番先に言いなさい。この朴念仁」


そう言いながらも、お夕は頬をほんのりと赤く染めながら、幸せそうに微笑んだ。


            

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秘剣 @itatata

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