第五章

第25話 蛇の口裂け①

「さて、残るは雀村先生か……」

 翌日の早朝、胃もたれが残る体を何とか起こす。『白い大蛇』が憑いていると思われる人間はあと雀村先生だけ。

「だけど、どうやって会えばいいんだろう?」

 雀村先生の場合、打ち合わせや原稿の受け渡しは全て先生の自宅で行われているらしい。なので、雀村先生はほとんど出版社に出入りしないのだそうだ。

 華我子さんの時のように、出版社の出入り口で待つという方法は取れない。

「かといって、編集の人達に住所を聞いても教えてくれないだろうな……」

 個人情報保護により、住所などの情報の取り扱いは厳重になっている。同じ出版社で連載している作家だからといって、誰も教えてくれないだろう。

 どうしようかと考えていると、携帯が鳴った。

「はい、もしもし」

『米田さん?里山です!』

里山編集長はとても慌てていた。嫌な予感がする。

「どうかしましたか?」

『それが……』

 里山編集長は戸惑いながらも僕に伝えた。

『今度は、蝶野さんが病院に運ばれました』


 病院に駆け付けると、里山編集長が男性、おそらく蝶野さんの担当編集者と思われる人と何かを話していた。その近くの椅子には年配の女性が座って泣いている。さらに傍には見知った刑事が二人いた。橋田刑事と山下だ。

「編集長」

「米田さん!」

 僕は里山編集長に駆け寄った。

「蝶野さんの容態は?」

「先程手術が終わったところです。お医者様の説明では、手術は成功したとのことでした。とりあえず、一命は取り留めたとのことです」

「良かった」

「ですが、とても危険な状態には変わりません。一命は取り留めましたが、これから容態がどうなるのかは分からないそうです。もしかしたら、ずっと意識が戻らないということもありえると」

「そんな……」

「それにたとえ、意識が戻ったとしても元の生活に戻れるという保証はないとのことです。小説を書くことは……もうできないかもしれません」

 ガンと頭を殴られたかのような強い衝撃を受けた。喫茶店で一緒にケーキを食べた時に見た蝶野さんの笑顔が頭の中に蘇る。

「うっ、うっ……」

 直ぐ近くで女性のすすり泣く声が聞こえた。目を向けると、年配の女性が泣いていた。

 女性は椅子から立ち上がり、僕にペコリと頭を下げる。

「蝶野聡子の母です」

この人が蝶野さんのお母さんか。

「小説家の米田です。娘さんとは何度かお話をしたことがあります」

 軽い自己紹介を済ませ、僕は尋ねた。

「一体、何があったんですか?」

「うっ…うっ……」

 蝶野さんのお母さんは再び嗚咽を漏らして、涙を流す。

「里山さん、米田さん。よろしければこちらへ」

 橋田刑事は蝶野さんのお母さんと担当編集者を山下に任せ、僕と里山編集長を移動させた。

「蝶野さんが病院に運ばれた理由は、重度の熱傷によるものです」

「熱傷?」

「蝶野さんは体中に重度の熱傷を負いました。正直助かったのは奇跡としか言えません」

「全身に熱傷……火事でもあったんですか?」

 熱傷と聞いて僕は真っ先に火事を思い浮かべた。だけど、橋田刑事は首を横に振る。

「いえ、違います。蝶野さんの熱傷は硫酸のようなものを全身に浴びたことが原因である可能性が高いそうです」

「硫酸?」

「そうです。蝶野さんの熱傷は硫酸のような強い酸性の物質を全身に浴びたために負ったものだと、手術を担当したお医者様は言っていました」

「なんでそんなものを……」

「それは、分かりません。蝶野さんの家をいくら探しても硫酸の入った瓶などは見つかりませんでした。となれば可能性として考えられるのは……」

「誰かに掛けられた?」

「そうです」

 橋田刑事は手帳を開き、ペンを持つ。

「米田さん。大変失礼ですが、午前三時ごろ何をされていましたか?」

「……アリバイの確認ですか?」

「はい、そうです。どうかご協力を」

 午前三時。おそらくその時間が、蝶野さんが被害に遭った時間なのだろう。

 橋田刑事の目は明らかに僕を疑っていた。

「午前三時頃ですと……家で寝ていました」

「それを証明できる人は?」

「いません。一人暮らしですので、知ってるでしょう?」

「はい。でしたら、就寝される前は何をしていましたか?」

「焼き肉屋で食事をしていました。二人で」

「どなたとですか?」

「華我子先生です」

「華我子?……ああ、あの方ですか」

「ご存じなんですか?」と聞くと、橋田刑事はほんの少しだけ顔をしかめた。

「ええ、根津の事件の時、彼女にも事情聴取しました。最初は全く話さず、やっと話したかと思えば、かなり高圧的な態度で……失礼、関係なかったですね」

 橋田刑事はゴホンと咳払いをする。どうやら橋田刑事は華我子さんのことが苦手らしい。

「二人で焼き肉を食べていたんですね?」

「そうです」

「それは、どこの焼き肉屋ですか?あと、何時から何時までいましたか?」

「『ヤマタ』という焼き肉屋です。行ったのは確か午後六時前で……帰ったのは八時過ぎだったと思います」

「どんな話を?」

「小説に関する話とか……ですね」

 華我子さんの家に誘われたけど断ったことなどは省略した。

「そうですか」

 橋田刑事は僕の話を素早くメモに書きとめた。

「ところで、米田さんは前に蝶野さんと食事に出かけられていますよね。そこではどんな話を?」

 もう、僕と蝶野さんが食事をしたことを知っているのか。調査の速さに驚く。

 いや、違う。これは蝶野さんが被害に遭ってから調べたんじゃない。前もって僕の周りを調査していたのだろう。尾行でもしていたとか?

「仕事のことなどです」

「仕事のこと……ですか」

「何か?」

「お二人を目撃した店員の証言では、蝶野さんは泣いていたと言っていますが?」

 ああ、そうだった。蝶野さんは伊那後先生のことで泣いたのだった。

「蝶野さんは伊那後先生のことで苦しんでいました。自分のせいで伊那後先生は死んだかもしれないと」

「蝶野さんのせい?」

「伊那後先生が死ぬ前、蝶野さんは伊那後先生と会っていたそうです。もし、その時自分が何かしていれば伊那後先生は死なずに済んだのに、と自分を責めていました。僕はそれを慰めただけです」

「……そうですか」

 橋田刑事はまたもやペンを素早く動かし、手帳に記す。

 おそらく、すごく仕事ができる人なのだろう。そういえば、喫茶店で話した時、蝶野さんは『仕事がバリバリできそうな女性』の友人ができたと言っていた。

 その女性の友人は、蝶野さんの今の状態を知っているのだろうか?

「ところで……」

 橋田刑事はチラリと僕に視線を向ける。

「前にも言いましたが、根津博義、伊那後秋吉さん、灰塚正人さん。最近米田さんと話をしたり、関わった人間が三人亡くなっています。そして、今度は米田さんと数日前に話した蝶野聡子さんが重体となりました。このことについて、どう思われますか?」

「どう……とは?」

「何か警察に話していないことなどはありませんか?」

 ドキリと心臓が跳ねた。だけど、アヤカシについて話すことはできない。言っても信じてもらえないどころか、ますます疑いを深めることになるかもしれないからだ。

「いいえ、ありません」

「本当ですか?」

「はい」

 不可思議な事件が何度も起こり、その被害者全員が最近僕と話したり、関わったりしている。誰でも僕を疑いたくなるだろう。気持ちは分かる。気分は良くないが。

「あの、よろしいでしょうか?」

 その時、里山編集長が手を上げ、口を挟んだ。

「先程から聞いていますと、米田さんが事件に関わっていると思われているようですが、何か証拠でもあるんでしょうか?」

「いえ、そのようなものは何も……」

「でしたら、まるで尋問のような質問は止めていただいてもよろしいでしょうか?米田さんはうちの大切な作家です。米田さんもここに呼ぶようにと指示されて、お呼びしましたが、尋問を受けさせるためとは聞いていません。証拠もないのにこれ以上何か言うのであれば、こちらも弁護士を雇い、警察に対して正式に抗議させていただきます」

 里山編集長は、庇うように僕の前に立った。里山編集長と橋田刑事。二人の女性は、まるでハブとマングースのように睨み合う。

 あまりの迫力に僕は何も言うことができなかった。

「分かりました」

 橋田刑事は軽く嘆息する。そして、僕に頭を下げた。

「大変失礼いたしました。不愉快な思いをさせてしまい申し訳ありません。米田先生」

「い、いえ、僕は気にしていませんから……」

「寛容な心をお持ちですね。では、我々はこの辺で……」

 橋田刑事はそのまま、山下を連れ、引き上げようとする。しかし、途中で止まり振り返った。

「そうそう、蝶野聡子さんですが、発見された時、こう呟いていたそうですよ。『ヘビが……ヘビが……』と」

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