第21話 回想の渓谷(一)


 イェスイは我々に小さなぱおを用意するので、しばらくそこに泊まるよう勧めてくれた。ユングヴィの予定では、沙京さきょうに着くまで長い休息は取らないはずであった。だが、今は予定を変更し、クィスの復調のためならとどっしりと構えることになった。このぱおの主らしい、あの女性、イェスイはクィスを献身的に看病してくれ、またあの少年―イェスゲンと名乗った―も朝と夜は簡素ではあったが、食事を我々のために用意してくれた。


「かたっ……かったいな、これ……」


 佐成サセイはなにやらかりかりに固められた、薄い小皿状の白い乳製品にかじりついていた。かたい。ひたすらにかたい。


「親子、いや親子ではなかったか、だが二人では生活していくのも大変だろうに。こうも世話を焼かれてはあり難いを越えて申し訳ない」


 かたい乳製品をかじりながら、包の隅に寄りかかるように座っているユングヴィに話し掛けた。ユングヴィは難しそうな表情をしたまま黙ってうなずく。右手がくるくると編み込んだ金髪をいじっている。


「……どうかしたので? ずっと何やら考え込んでいるみたいだ」

「うん……いや、これからのことさ……」


 ユングヴィはまあこっちに来いと仕草で示す。言われるがままに近くに座るとすっと革袋を取り出した。少し酒臭い。


「なんだ、飲んでたのかい?」

「酒飲んでバカ騒ぎは得意じゃないんだけど、しんみり話すのは嫌いじゃないんだ。さ、佐成サセイ、君も」


 薄暗い夕方の包の中で、ユングヴィの少し赤らんだ白皙の頬が、緑色の長袍ローブとの対比ではっきりと浮かび上がる。

 

佐成サセイ、君は動物が好きなんだろう? ここは遊牧民の生活圏だけあって羊がたくさんいる。楽しいかい?」

「悪いが俺は羊とか犬とか、四足で歩く動物にはあまり興味がないんだ」

「へぇ、何に興味があるんだい? 鳥とか?」


 自分の中で魅かれる生き物とは何だろうか? 子供の頃に、蟹を飼ったことはある。脱皮直後に触り過ぎてハサミの形が歪んでしまい、大変申し訳なく思った。


「そうだな、鳥も悪くないが魚とか虫とか貝とか蟹とか……血が暖かくない連中かな?」


 その答えにユングヴィの表情が曇る。


「……ああ、そう。じゃあ人間もダメなのかい?」

「人間は二本足だが……そうだなぁ、じっくり見るには虫のがいいな」

「……」


 ユングヴィの表情がさらに曇った。佐成サセイは、きっと自分のことを変なやつだとでも思っているのだろう、と感じたが、それはいつものことだった。気にするほどのことではない。


「まあ、気を取り直して飲もうか」


 ユングヴィは、佐成サセイに何やら石質の杯を渡すと、暗い色合の液体をゆっくりと注いだ。つーんとした発酵製品の匂いとほのかな甘い匂いが感じられる。


「少し暗くなってきたね」


 ユングヴィは後ろにまとめ置きしている荷物から、さび付いた古い金属製の四角い壺を取り出す。不思議なことに、壺は上方だけでなく、水平方向にも四つの窓があり、そこから静かな銀色の光が漏れていた。


「なんだいこれ?」

「見たことないかな? 西のとある国で作られている照明器具だよ。星花灯せいかとうと言う。中に光る花のような形の結晶が入っているだろう? この結晶は日光を吸収して暗いところで光を放つ性質があるんだ」

「へぇ、そんな便利なものが……」


 壺ではなく、行灯あんどんの類だったようだ。たくでは蝋燭ろうそくを使うが、蝋燭ろうそくはそこまで安価ではない。そのため、一般的には植物油を灯明皿とうみょうざらという焼き物の小皿に注ぎ、芯に火をともしている。だが、この星花灯せいかとうはそれよりもずいぶん明るい。これがあれば夜間の書き物などもはかどることだろう。書物の虫を自認する者としてはぜひともたくに導入したいと思うと同時に、たくの外にも高度な技術や文明があるのではないか、と思わされる。華の地に生きる民にとっては、華の地の文明こそが至上のものと信じられていた。


「ユングヴィ、貴方は何のためにクィスを連れて来たんだ?」


 杯を傾け、ユングヴィが注いでくれた酒を少し口に含む。飲み込む時、懐かしい香りがのどの奥に広がる。不思議な酒だった。


「そうだなぁ、あの目は断れなかったからかなぁ」


 ユングヴィは佐成サセイが苦戦していたかったい乳製品をばりばりと食べていく。


「ダルコト渓谷って知ってるかい? この国の西の山岳地帯にある景色が美しい渓谷なんだ」

「うーん、古書に見る坦駒たんくの地のことかな……、それで?」


 ユングヴィは懐かしそうに語りだす。そして、その日はあたりがすっかり暗くなるまで、ユングヴィとクィスの出会いのことを語って聞かせてくれた。



   ◇



「へい、では旦那様はルームから来た商人で?」


 風に愛された谷に住む、風の民という呼称を持つアオルシ族、その村の一つへと続く野道の途中で出会った羊飼いの男が不審そうにこちらを見ていた。男は灰色のゆったりした長衣とすらりとした白いズボンを身に着け、頭部にはアオルシ族に特徴的な矢印の模様が金色の糸で刺繍された頭巾のような帽子があった。この部族では被りものの矢印の形が、氏族ごとに微妙に異なり、それが氏族の印章となっていた。この男の矢印は何やら魚のひれのような図が付属していた。


「ええ、その通りです。村長さんとか、この集落の責任者っていらっしゃいますか?」


 その日は晩秋の冷たい風が足元を駆け抜けていくよく晴れた日だった。この渓谷はほぼ南北に走っており、両側はほとんど樹木のない褐色が広がりつつある草原が、比喩ではなく麓から山頂まで続いている。東と南の方角には遠くに天を支えているのではないかと思うくらい高くそびえ立った山並みが威圧するかのようにそびえていた。山々の色は青灰色で、いずれの山もその頂上は白く雪を冠のように掲げている。まるで山の神の諸侯が居並び、下界を睥睨へいげいしているかのようだ。


「旦那様はあんまり見かけない顔だちをしてますな」


 羊飼いが良く日に焼けた顔でこちらをじろじろと見つめる。ユングヴィは笑顔で応じた。

 ここまで来るエルフは珍しいのだろう。とは言っても東方に旅をしたり、遠征したエルフの伝承はそれなりにエルフの世界では伝わってはいるのだが。


「まず、うちの親父に相談し、村長に取り継いでいただきます。それでよろしいで?」


 もう一度笑顔を作ってうなずいた。権力者や代表に挨拶をすることは、商人にとって必須だ。そして、そのために取り継いでもらうことは同じくらい大事だ。たいてい、どこの国や部族でも取次役とのやり取りがうまくいかないと権力者に会えない。場所によっては、無能な権力者よりもその取次の方が実質的な権力を持っていることもある。


「こっちに」


 男は一緒に羊の番をしていた少年に後を任せると、ユングヴィを案内すべく歩きだした。ついていけば良いのだろう。男と一緒に歩きながら、周囲を見渡す。所々岩盤が露出した草原で草を食む羊たち……いや、むしろ岩盤に必死にしがみついている草原とでも表現すべきだろう。それくらい、露出した岩が目立ち、ごつごつとした景観を作っていた。下方に見える谷の広くなった部分には、灰色の石でできた小屋がぽつぽつと散発的に建っている。あれがアオルシ族の家なのだろう。近くで見ると、木で梁を組み、壁として石が積まれていた。石の大きさは大小さまざまであり、拾ってきたものをそのまま積んでいるようだ。削ったり、形をそろえたりと言った加工はされていない。その上からコケのようなものを積んで屋根としている。コケにしては長く、一見草のようだが、近くで見るとやはりコケなのだろうといった質感だった。家屋の全体の形は長方形で、ここを旅するのが初めてでなければその貧相さに野宿の一時的な小屋なのかと思ってしまっていただろう。


「旅のお方、青い空の下よく参られた。」


 男の親父と言うのは、人懐っこいまんまるの瞳を持った男性だった。頬から顎にかけて短い髭が生えている。頭部の灰色の頭巾には、男と同じ、魚のひれのような模様の入った矢印が描かれていた。


「おなかは空いておられますか? どうぞどうぞ、どれでも安くします。旦那様は遠方から来られた友人ですからね、特別、特別な値段です!」


 ユングヴィは笑顔で応対しながらも内心うんざりしていた。いきなり物を売りつけてくる、商魂たくましいというべきだが、このような相手からこちらを「友人」呼ばわりしてくるのはたいていこちらを「金」と思っている者の言動だ。


 まぁ、こちらは旅をしながら商売しているのだから間違ってはいないけどね


 内心そう思いながら、男の話を聞く。


「この辺りの山は寒いでしょう。この外套を馬二頭とでいかがですか? この先の旅できっと旦那様を寒さから守ってくれます!」


 もちろん、この興味の持てない話が早く終わるようにと強く祈りながら。


「ここに来るのは初めてではないのです。寒さの対策は大丈夫ですよ。ご心配ありがとうございます。でも、これは美味しそうですね。そして、私は村長に会いたいのですが……」


 この辺りでクルットーと呼ばれるチーズのような乳製品だろう。日持ちはする。これを幾つか買うことにした。そして、代金を受け取ろうと男が伸ばした手の中に、その代金だけでなく、余分に銀貨を握らせる。そして、言い含めるように繰り返す。


「貴方が村長に会わせて下さるとお聞きしております。ご尽力、感謝しておりますよ」


 男は手のひらの中の銀貨を確認すると嬉しそうに瞳をぎらぎらと輝かせてうなずき、快諾してくれた。話が早くて助かる。以前北方で出くわした部族は、権力者に会うために、その親族に片っ端から贈り物をしないといけなかった。その時の出費に比べればうんと安い「仲介料」だ。そして、この谷で一番大きい家に案内された。入口には高級そうな織物が掲げられている。


「話はオラムから聞いた。青い空の下、良く参られた。御用は何かな、旅のお方」


 村長は立派な頬髭を持ち、アオルシ族の男性らしく灰色の長衣と白いズボンを身に着けていたが、さらにその上から薄手の緑と茶色の衣を重ね、灰色の頭巾には金色で優雅に描かれた矢印が二本刺繍されていた。



「はて、旅のお方、わしは貴方に会ったことがあるような気がする。その緑色の衣に金色の髪、確かに子供の頃見た。その人も遠くから来た商人だったが、さて、あれはわしが子供の頃のこと……貴方と同じ部族の方だったのだろうか……」


 村長は、後半は独り言のように語っていた。ユングヴィは「そんなことがあったのですか」と相槌を入れながら話を聞いていた。


 村長が子供の頃に見たという人物は、きっと自分のことだ。だが、それを説明しても理解されないだろうから、ただ話を聞いた。

 

 村長が落ち着いたころを見計らって商売の話をした。


「私はとある砂漠の中心部から持ってきた塩の板や北方で取れる琥珀、南方から入ってくる香辛料を売り歩いております」


 そして所々で仕入れた品をまた別の土地で売るのだ。もっとも、一人でやる商いなのであまり多くは売りさばけない。小さくて持ち運びやすく、そして高額で売れるものを見極めるのだ。とりあえず、塩は遊牧民の暮らしや家畜の養育に重要だ。近くに海や岩塩の産地がない場合、驚くほど高値になることもある。また、香辛料の中には防腐作用があるものもあり、この類は肉や魚を長期保存するために有用で、一部の地域では高額で売れる。琥珀は完全に自分の趣味で取り扱っていた。


「この塩はただの塩ではありません。ほら、まるで雪のように白いでしょう。家畜に与えれば、成長がずっと良くなります!」


 この地域では塩は良く売れる。人間だけでなく、家畜に取っても必須なのだ。動物も塩を取るために岩塩をなめたり、時には土をなめてわずかばかりの塩を摂る。餌や塩の質によって家畜の成長や肉質、ミルクの質は大きく変わる。大陸中央は遊牧民が多く、交易都市も多い。そのような環境で、遊牧民に塩を売り、贅沢品を都市で捌くのは有効だという実感と経験がある。そして、小規模商人がうまくやるコツは相場より少し安く売ることだ。そうすることでよく買ってもらえる上に、大量に流通させるわけではないので、他の大商人に目を付けられにくくなる。


 この商売を終えたら次はどこに行こう?


 ユングヴィは口では村長に売り込みを行いながらも、その心は既に遠くへ飛ぼうとしていた。

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