第20話 クィスの不調(後)

「だから! もう大丈夫って言ってるじゃない!」


 クィスがその灰色の長袍ローブを振り乱し、乱暴に佐成サセイの静止を振り切る。何本もの腕輪や藍い小石を通した腕飾りがぶつかり、クィスの細い体が動くたびにじゃらじゃらと音を立てる。


「XXX!」


 おまけに意味は分からないが、おそらくは罵倒ばとうまでついてきた。


「クィス! よしなさい! お前はまだ回復していないのだから」


 ユングヴィが珍しく大きな声をあげる。クィスはなお不満そうだったが、ユングヴィの指示には抗弁しようとしなかった。


「一人で行こうとするんじゃない。私と同じ馬に乗りなさい」

「私は……XXX……」

「いいから、いいね?」

「……はい」


 クィスをユングヴィの馬に乗せるために荷物を再配分し、出発する。佐成サセイがいつものように隊列の最後尾へと戻る。しばらく行くと、ユングヴィが馬から降り、何やら難しい顔をし始めた。何をしているのかと見てみると、懐から取り出したらしい木簡と周囲の景色を交互に見つめている。赤茶けた峠道の先は、開けた緑色の原野になっている。水があるのだろうか、さらにその奥では灰色がった緑の斑点は、次第に新緑の絨毯へと変わり、さらに若々しい木が時折姿を見せるようになった。


「ユングヴィ、どうしたんだい?」

「以前、この道を来た時、この辺りに村があった。そこで休憩を取りたい」

「どのあたりだい?」


 ユングヴィが峠道の先を指さす。


「この峠道の先、過去の記録によれば川筋が広がっているあたりだ」

「よし、俺がひとっ走り見て来よう! そちらはクィスとゆっくり来てくれ」

「分かった。泊まれそうな家があれば聞いておいてくれ」

「ああ、ではまた後で!」


 ユングヴィに言い放つが早いか佐成サセイは馬首をめぐらせた。駆け出そうとしたその刹那、ぐったりしたクィスの青い眼と視線があった気がした。


「ゆっくり来てくれ!」


 もう一度ユングヴィに言い放ち、馬を走らせる。景色がはねていくように自分の後方へと滑っていく。ここ最近はゆっくりと旅していただけに駆ける馬の速度が懐かしかった。それほど速度は出していないつもりだが、まるで自分と馬が空気を切り裂いて駆け抜けていくようだ。


 ふと、軍にいた頃を思い出す。多くの書物を読み、軍の指揮官、あるいは占領地域の行政官となることを夢見たあの日。だが、戦いの現場はそんな佐成サセイの幼い夢物語に一遍の価値も現実性も与えてはくれなかった。

 

 指示通りに動かない部下、いや、自分が人を動かせるような指示を出せなかったのだろう。


 書物通りには展開しない敵の動き、いや、自分が敵の動きを的確に観察できなかったのだろう。

 

 具体的な指示を出さない上司、いや、自分は指示の具現化をはかるべき立場ではなかったか……


 恐らくは詩作であろうとも、農事であろうとも、何事も多くの経験から学び、臨機応変に対処できなければ書物の知識など無意味なのであろう。本当の天才ならば経験せずとも、知識と思考で乗り越えることもできるのだろうか。そんな存在に憧れた時もあったが、自分がそうではないことを実感するまでにさして多くの時間は要しなかった。


「大したことはなかったのだな、俺は……」


 風に向かって声を出す。どうせ誰にも聞こえはしない。そこまで感傷に浸かって頭をぶんぶんと振った。今すべきことはこれではない。景色の変化に注意を払い、ユングヴィが言う川筋を探す。遠くからは新緑の絨毯にしか見えなかったが、近づくと緩やかな高低差がある。一つ、目に着いたなだらかな丘のような地形に登ってみた。高いところから周囲を見るためである。


「あれか」


 目指す川筋はすぐに見つかった。それほど離れていない丘の裏に、陽光を受けて銀色に輝く流れが見える。川はその下流の方で、緩やかに広がり、細い幾つかの流れに分岐している。ユングヴィが言う通りなら、目的の村はあの辺りにあるはずだ。良く目を凝らしてみると枝分かれした流れを見下ろせる位置に、緑の草原の一部を押しのけるように白い建物と、茶色くくすんだ何かの構造が見える。おそらく、あれがそうなのだろう。早速、馬を走らせ、白い建物へと向かおうと高みから駆け下りる。


「もし、どこへ行く? たくの者か?」


 急に声をかけられた。


 驚いて振り向くと、黒い馬に乗った一人の少年がいた。どことなく落ち着いてはいるが、疲れた目をしている。黒い筒袖・詰襟の上着に、黒いズボンをはき、腕と足の部分には赤い菱形の模様が入っており鮮やかだ。体にぴっちりと合う遊牧民の様式の衣類だ。服の上から分かるその体つきはやや丸みを帯びてはいるが、筋肉質なしなやかさを持ち、まだ大人の体になっていないことを感じさせた。衣類の形状はクィスが街で着るものと良く似ていたが、それに加えて小さな円筒形の黒い帽子をかぶり、黒く長い髪を後ろで一つに束ねている。顔だちはたくでも良く見るような卵のような顔に、よく日に焼けており、それほど高くはない鼻をしていた。もし、農村や街で見かければ異民族とは思わないだろう。だが、その意志の強さを感じる瞳は、我々のような黒褐色ではなく草原のような緑色をしていた。


「どこへ行かれるのか? たくの者、か?」


 少年は呼びかけをこちらが聞き逃したと判断したのか、同じことをもう一度はっきりと話した。少年の年の割には落ち着き、しっとりとした声だった。


「私はセイ佐成サセイ、旅の者だ。その通り、たくの民だ。この辺りに休める村がないか、探している」

「村? この辺りに?」

 

 馬上の少年は眉をひそめた。話しながら少年を良く観察する。服装からして、反乱を起こしているかく族の者ではない。かく族は別名赤色の部族とも呼ばれる。赤色に染め上げた上着やズボンを身に付けているためだ。北方に勢力を持つという西月氏さいげっしはあまり見たことがないが、髪の色が淡く、肌も白いと聞く。その衣服から遊牧民だと思うのだが、他にこの辺りにいるとしたら……


「君は伊塞いさいの民か?」


 その問いかけに、草色の瞳をした遊牧民の少年は、こくりとうなずく。伊塞いさいとは、かつてたくに反抗した遊牧民の名だ。たく英宗えいそうの時代に撃破され、帝国領内に分散移住させられた。その移住地の一つが、確かこの辺りだった。


「そうだろうな。たくの民は我々をそう呼ぶ。ところで……」


 少年はそれよりも言いたいことがあるようだった。


「この辺りに村はない。一番近くてあの川の向こう、歩いてなら一日以上はかかるだろう」

「え!?」


 思わず間抜けな声を出してしまった。まさか、本当にないのだろうか。こんなはなずじゃないのに。

 佐成サセイは自分たちが馬利克まりくに向かう隊商であること、ユングヴィから聞いた村のこと、仲間が体調を崩して休めるところを探していることをこの少年に話した。本当にユングヴィが見た村はないのか、何かの間違いではないのか、他に代替となるような場所はないか、矢継ぎ早に少年に問いかけた。


「そうは言われても村などない……そういえば、向こうに建物の土台みたいなものが少しある。それが貴方の親方の言う村だったのでは?」


 ユングヴィが見た村は今はなくなっているということか。


「ところで、貴方方が商人なら物々交換できないか? 野菜が欲しい」


 我々の事情を聞き届けた少年は、少年の方の事情を初めて口にした。


「野菜か……ユングヴィに、こちらの親方に聞いてみよう……」


 確か、阿勒あろくうりや豆を買った気はする。あと何かあるだろうか。


「ありがとう」

「だが、待ってくれ。その村の跡のようなものを確認したい」


 村があるにせよ、ないにせよ、自分の仕事は果たしたかった。


「そんなに遠くはない。案内しよう。あと、その、体調を崩した子のために休む場所が欲しいなら我々のユルトに寄ると良い」


 ユルトとは遊牧民特有の移動式住居のことで、せんと木材や骨で組み立てられる。ゲルとかぱおと呼ばれることもあり、緑色の草原に白や装飾されたぱおが散在する景色は、遊牧民の世界特有のものといって良い。この少年の厚意に感謝し、案内されるままについていった。


「そちらから声をかけてきたが、たくの言葉がしゃべれるのか?」

 

 少年の話す言葉があまりにも自然だったので聞いてみた。


「しゃべれるも何も、生まれも育ちもこの国だ。そちらとは生活の仕方は違うかもしれないが、な」


 少年に案内された先は、川筋の一つを下に見ることのできる、やや高台になっている原っぱだった。確かに石で組まれた基礎や倒壊して腐敗したのであろう木材の慣れの果て、そして機能の分からない、さび付いた小さな金属片が残されていた。これでは人が済まなくなって一年、二年ではないだろう。


 「確かにこれは……」


 少年は佐成サセイが満足するのを待つかのように、何も言わず、馬上で遠くを見つめていた。風が舞い、少年の黒い髪がさらさらと散る。


「ありがとう、状況は理解したよ」

「そうか、ではここへ病人や親方を連れて来い。ユルトに案内しよう」


 急いで馬首を返し、ユングヴィのもとへ駆けた。事情を説明し、皆で少年のぱおを訪れる。


「伯母上、客人だ」


 少年が入口から声をかけると、少年と同じような黒づくめの服装をした小柄な女性が顔を出した。


「あら、旅のお方? あらあら、いらっしゃい、飲み物でもいかがです?」


 歳は二十代後半から三十代くらいだろうか。肌の様子に苦労の跡が見えるが、その目元は若々しく、少年と同じ草色の瞳は爛々らんらんと輝いている。先ほどの少年と言い、この部族の人々は黒地に赤という対比がはっきりした衣装を着るせいか、すらっとした印象を受ける。女性は人懐っこい笑顔を浮かべて我々を包の中へと招き入れてくれた。


「伯母上、こちらの方々、病人がいるそうだ。診てやってくれないか?」

「あら、その女の子? じゃあこちらへ……」


 こちらが事情を話す前に、少年から女性へと話をつける。この少年、表情の変化に乏しいが親切だ。女性はクィスを寝台に寝かせてその襟元を緩め、自身は調理台らしきもので何やら料理だか調合だかを始めた。佐成サセイとユングヴィも包の内部へ入る。床材はないのだろうか、足元からせんの重々しくも、柔らかい感触が伝わってくる。


「そう、クィスちゃんって言うのね。かわいい名前しているじゃない。私はね、イェスイ。今、元気が出るように特別な飲み物を作ってあげるわね」

「XXX……」


 イェスイと名乗った女性の呼びかけに、クィスは上の空なのか、何やら聞きとれないことばかり呟いていた。ユングヴィはそんなクィスを心配そうに横目で見ながら、少年から何やら焼き菓子のようなものと白い飲み物を勧められる。


「草原の民は客人を大事にする。良く参られた。せめてくつろいでくれ……ああ、あの女の子のことはしばらく伯母上に任せておくといい」


 ユングヴィが白い液体に口をつけ、微かに眉をひそめる。少年はそんなユングヴィの様子をじっと見ていた。


酪漿らくしょうかな……すっぱい……」


 佐成サセイもためらってはいたが、意を決して謎の白い液体に口をつけてみた。とろりとした液体がのどへの流れ込み、その酸味に思わずむせる。牛乳から乾酪チーズだか、乳餅カッテージチーズだかを作るときの上澄みだという。


「失礼だが、貴殿はアイアルルの民か?」


 少年がユングヴィに話し掛ける。


「ええ、そうでしょうね。草原の民は私たちをそう呼ぶことが多いです」


 どうやら、ユングヴィは肯定しているらしい。


「なんだいアイアルルって?」

「元々はヤールルって言います。我々の……そうですね、首領のことだと思ってください。その地方の殿さまと言えばよいかな? この方々は、我々が殿さまに率いられているのを見てそう命名したのでしょう……多分」


 ユングヴィがそう説明すると、後はこの少年に幾つも質問を投げかける。今年の草は良いのか、いつもこの辺りで遊牧しているのか、家畜の子の育ち具合はどうだ、街に出ることはあるのか、等。草原世界の世間話とはこういうものなのだろうか。二人の様子をぼーっと見ていると、ふと少年と目が合ってしまった。少年の草色の瞳が静かにこちらを見返す。クィスと違い、この少年の目元にはあまり感情が出ない。まるで冬のいだ日の湖面のようだ。


「なあ、貴方方はなぜ白亜仙はくあせん、アイアルルの民のことを知っているのだ? 交易をしたことがあるのか?」


 少年の目線に耐え切れず、思わず適当なことを聞いてしまった。


「我々の昔話に出てくる。祖父から聞いた話だ。昔、まだ我々がこの国に住まず、はるか西方、砂漠の彼方の草原に住んでいた頃、侵攻してきた部族と戦った。敵の部族は人口も多く、強かった。その時、同盟していた国より援軍として送られてきたのがアイアルルの民だ。アイアルルの戦士は皆、金色の髪に尖った耳を持ち、肌が白く、死を恐れずに戦い、恐ろしく強かった。アイアルルの民が参加した戦いはすべて勝利した。彼らの活躍のおかげで我々は敵を打ち破ることができたのだ」


 少年は淡々と話していたが、先ほどまでの口調に比べてどことなく楽しそうだった。


「すごいなユングヴィ。君の民は最強なんじゃないか?」

「んー、どうだろうね。その同盟していた国とはどこのことですか?」


 ユングヴィはこちらへの返答も曖昧に、少年に質問をした。だが、少年は頭を横に振った。


「すまない、客人。祖父から聞いたはずだが、国名は聞いたことがない。確か西の方の国だったとは思うが、記憶に自信がない」


 そこへイェスイがやって来た。その顔は先ほど同様、人懐っこそうな表情を浮かべている。自然に話題は中断され、私とユングヴィの視線がそちらに向かう。


「クィスはどうですか?」


 待ちきれない様子で、ユングヴィはイェスイに尋ねる。


「病気とかではないと思うわ。疲れね。ちゃんと宿で休んだ? 見たところこの子は旅に慣れた体つきではないようね」

「いや、このところ無理をさせてしまったかもしれない」


 ユングヴィの言葉は短かったが、響きが重い。その後、ユングヴィとイェスイの間でクィスに関するやり取りが行われた。イェスイが言うには暑さだけでなく、疲労の影響も大きいとのことで、胃腸も弱っているとのことだった。また、足にマメと爪の割れも見られたことから、せめてそれらが治るまで数日休んでいってはどうかとの話であった。


「わかりました。クィスのこと、どうぞよろしくお願いします」


 ユングヴィはイェスイに頭を下げると、こちらに今後の打ち合わせをしようと仕草で示してきた。ちらりとぱおの奥を見る。寝台の上に寝かされたクィスを静かに眠っているように見えた。

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