エピローグ:俺と彼女の部屋




「お前さぁ……だから資料に時間かけすぎ」


「すいません」


 上司の呆れるような視線の先で、俺はとぼけるように視線をそらした。


 上司に先方に提出する資料の最終チェックをお願いしに来たが、そこまで遅い時間と言うわけでもない。まだ定時前だ。


 昔より早い。偉いぞ俺。なんて誰かみたく、一人奮起してみる。


「あとさぁ……ここのページ直して欲しいんだけど。前にも言ったじゃん、この書き方だとダメだって。このページ全部いらなくない?」


 資料のページを指し示されながらダメだしをされる。


「はい。すいません」


 パソコンの画面に映っている資料のページを見る。突っ込まれるような所だなとは思っていたところだ。


「しかし、先方の要求を考えるとそのページは必要です」


 今一度、上司に今回資料を出すことになった経緯を話す。


「うーん……なら、いっかぁー!? よし、わかった。これで出して」


「了解です。ありがとうございます」


 ホッと胸をなで下ろす。


 自分の席に戻って、メールをひとつしたためる。そのあといくつかのメールの応答と、明日の準備をして、俺はパソコンを閉じた。


「あれ? センパイもう帰るんですか?」


「ああ。ってお前もじゃん」


 既に帰り支度をし終わった元神田さんが、バッグを手にとって立ち上がっていた。


「ふふっ、私、これから旦那とご飯なんで。お先でーす」


 ヒラヒラと振った左手の薬指には指輪がきらめいていた。


 神田さん──今は高山さんになった彼女の背を見送って俺もバッグを手に持つ。


「それじゃ、お先に失礼します」


 まだ残っている同僚に声をかけて、俺はデスクを離れた。


 会社を出て、日が落ちているのにまだまだ明るい東京の街に踏み出す。夜の街へ飲みへ繰り出すサラリーマンたちを尻目に、俺は駅に足早に歩を進める。


 ふと空を見上げた。いつか見た星の海は、やはりここからでは見えない。けれど、西の空に金星だけがやけに輝いて見えた。


 人の流れにのって電車に乗り、いつものように吊り輪に体重を預ける。


「ふぅ…………」


 重いため息が出た。頭も体も重く、疲労感を感じる。


 車窓に映った自分の顔が目に入った。


 朝に整えた髪は少し崩れてきているし、目尻には疲れが見える。黒に染め直した髪には白髪が再び見えてきていて、俺は眉をしかめた。


 それでも──それでも、何時かよりは電車の中が明るく感じる。


 でもそれはきっと気のせいで、電車の灯りはいつも一定だし、乗る人たちの顔ぶれが劇的に変わったわけではない。


 ただ俺の視界が少しだけ、ほんの少しだけ開いただけなのかもしれない。


 そんなことをぼんやりと考えていると電車のアナウンスが到着駅を告げる。


 降りる人たちの人混みに紛れてホームに立ち、再び流れにのって改札を抜ける。


 相変わらず仕事帰りや塾帰りの人たちで、それなりに行き交う人たちがいる。


 新宿から電車で数十分。変わらず、俺はこの街に住んでいる。けれどそう遠くないうちに、長く住んでいたこの場所を去るだろう。


 そう思うと少し感慨深くロータリーを見渡してしまう。


 もうあのホームレスの姿はない。彼もどこかに去ったのか、たまたま居ないだけなのか。もしかしたらその姿は俺が見た幻覚で、はじめから居なかったのかもしれない。


 けれど、脳裏に残ったその姿は今もまだ俺の心の片隅に残っている。


 俺にできることと言えば、その姿にならないよう頑張っていくことだけだ。


 俺のためだけではない。


 少しでも俺を必要としてくれている人たちのために、だ。


 そう言うことを俺は情けないながらも、ようやくわかってきた気がする。


 いつもの踏み切りで電車が過ぎるのを待つ。


 風を生んで走る電車に、道端に咲いた花がその風を受けて淡く揺らめいた。


 遮断桿が上がり、俺は踏み切りを越えて家路につく。


 吹いた風がどこからか、桜の花びらを運んできた。もう冬も過ぎ、春が色濃くなってきた。


 でも直ぐに梅雨の季節を迎え、また暑い季節が巡ってくるだろう。


 ──あれから、三年か。


 彼女が隠れようとして失敗した電柱を通りすぎ、見慣れた二階建てのアパートが見えてくる。八畳ワンルームの二人で住むには少し狭い、俺の家だ。


 錆が浮き始めた階段を登り、一番奥の部屋に立ち、鍵を開ける。


 カチャリと音をたてて玄関のドアを開け──




「あっ」


 醤油と出汁の匂いと、聞き慣れた声が聞こえた。


「おかえりなさい。光太郎さん」


 あの頃より伸びた綺麗な黒髪をなびかせて、やっぱりあの頃より大人になった彼女が微笑みを向ける。


「ああ──」


 なんだかホッとして、俺もつい顔が緩んだ。


「ただいま、響花」


 俺と彼女の部屋は、今も、在り続けている。





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