44:流れ星のせいにして



「よう」


 光太郎さんは私に気がつくと、夜空を見上げてた視線を私に向けて、まるで学校の友達に会ったときみたいな声をくれた。


「よう」


 私も似たような声を返しながら、光太郎さんの横に並ぶ。


「……悪かったな」


「え?」


「やかましいな親戚とご近所さんで。面倒だったろ?」


「ううん。そんなことないよ」


 光太郎さんの申し訳なさそうな声に、私は笑って首を横に振る。


「私、親戚付き合いとかしたことなかったからさ。なんか新鮮だった」


「そか。そう言ってくれると助かる」


 光太郎さんは背の低い石橋の縁に腰かけると、再び夜空を見上げた。


 私もつられて顔を上げる。空を見上げる。そこでようやく、私は気づく。


「わぁ──」


 感嘆の声が漏れた。


 見上げた空は、星の海が広がっていた。チカチカと瞬く星は無数という言葉が似合うほどに空に散らばり、私の視界に飛び込んでくる。


「凄い──」


 単純な言葉が漏れる。でも、それ以外の言葉は思い当たらなかった。


「俺の住んでるとこじゃあ、明るすぎてこんなに星は見えねぇからなぁ」


 確かにそうだ。見えるのは一番星の金星か、夏の大三角形、北極星ぐらいで、北斗七星さえ見えやしない。


 もちろん、星の数ほど……なんて比喩されるぐらい星の数が多いのは知識では知っていた。でも星なんてろくに見えないものだと思っていたし。テレビで見るような満点の星空なんてリゾート地や海外でしか見ることがないものだと思っていた。


 だから、私にとって数多の星々を見上げることは初めてのことだった。


 星に大小の差があることを、初めて知る。


 星の輝きに差に、初めて気がつく。


 星座がきちんと存在することを、プラネタリウム以外で初めて見る。


 光太郎さんと同じ視線の先の星を見たくて、私はもう一歩だけ光太郎さんに近づく。そうすると、自然と腕が触れ合い、互いの手が触れた。


 少しかさついたその指に、絡めるように私は手を重ねる。光太郎さんが驚いて私を見るが、私はいたずらっぽい微笑みだけを返した。ため息にも似た息をついて、光太郎さんは再び星空に視線を戻す。


「光ちゃん、こうして夜空見上げるの好きだよね」


「そうか?」


 目線だけが一瞬私に落ちて、しかしすぐに光太郎さんは星に目を向ける。


「──ああ、そうかもしれないな」


 まるで初めて気がついたかのように、光太郎さんはポツリと言葉を漏らした。


 ちょっとそれが意外で、なんだか気になってしまう。


「なんで? あ、もしかして子供の頃の夢は宇宙飛行士とか?」


「夢……夢かぁ……」


 光太郎さんはちょっとだけ困ったかのように、苦い笑いを浮かべ、星の海を眺める目を細めた。


「──夢なんてなかったなぁ……」


「え? ホント?」


「そりゃ、ガキの頃はスポーツ選手になりたいとか、芸能人になりたいとか不相応な夢見てたことはあったが……それはなんか違うだろ」


 なんというか、と前置きをし、


「生きる目標みたいなもの、かな。そういうの、ろくに無いまま漠然と生きてたように思える」


「………………」


 そんなことないと言おうとして──


「……っ」


 失敗する。なにか言えるほど私は光太郎さんの過去に詳しくなければ、長く生きているわけでもない。その事が、歯がゆく感じる。


「なんとなくで大学に行って、なんとなくで就職して……色んな事を甘く考えてたんだろうな」


 自嘲するように、光太郎さんが鼻を鳴らした。


「いざ社会に出てみたら、毎日仕事することに、生きるのに必死で、何か目指す余裕もなくなって……」


 細くなる言葉のあと、光太郎さんは繋いでない反対側の自分の手に視線をおとした。


「その結果がこれだ」


 その視線は手のひらを見ているわけではない。もっと遠くの、それこそ自らの人生を見つめているようだった。


「何をするべきかも、何が正しいかもわからず──ただただなんとなくで生きてきた。俺には誇るべきものも目指すものもない。ただ生き長えてきただけの、そんな何もない人間だ」




※  ※  ※




 俺は懺悔にも似た言葉を吐き、目をつむる。目をつむれば、暗闇がある。星のわずかな光しかないこの夜闇の中では、より一層暗闇が濃く感じる。


 なんとなくで生きて、行き着いた先がこの暗闇だった。かつて居た場所は遠く、ぼんやりと光っていて、しかしその場所に戻ることは出来なかった。


 地元という戻る場所はある。


 親や友達という存在も居る。


 けれど、彼らに甘えられるほど、もう子供ではなかった。そんな時代はとうの昔に過ぎ去っていた。


 彼らから離れた先が、なんの希望もない場所だったとしても──ひとりで何とかして生きていくしかなかった。


 別に、何もしなかったというわけではない。


 趣味を見つけようとした。色んな遊びをした。好きな人を見つけようとした。


 夢中になれる何かを──光を探した。


 けれど、それらの全ては俺になんの光も残さなかった。


 目を開き、星空を見る。


 あの星々みたいなものだ。


 光はあって、それに焦がれて──しかし、手を伸ばしても届くことはない。


 いつしか俺は、疲れはてて手を伸ばすこともやめてしまった。


 こうして、何もない虚ろな人間だけが残った。


「…………光太郎さんは──」


 そんな──俺の手を、彼女は強く、強く握りしめた。


 震えるほどに強く握られた手に、俺はハッとなって響花に視線を向ける。


 目尻に涙を溜め込んだ、なんだか悔しそうな表情が俺を見上げていた。


「光太郎さんは、何もなくないよ」


「響花……?」


「だって光太郎さんは今まで必死に生きてきたじゃん! そんなの当たり前かもしれないけれど、私はそれは凄いことだと思う。誇っていいと思う! 例え誰かに何を言われたとしても、何を思われたとしても──光太郎さんが頑張って今日まで生きてたことを否定は出来ないじゃん!」


 貯まった涙が頬を伝って落ちていく。


「私知ってるよ! お仕事大変なのに無理して早く帰って着たり、夜うなされてたり、自分の事で手一杯なくせに私の事気遣ってくれるの!」


 自分の事ではないのに、まるで自分の事みたいに彼女は何かに憤っていた。


「今を必死に生きてることを否定するなんて、そんなの悲しすぎるよ!」


「響花…………」


 嗚呼──。


 誰かにこんなに強い感情を──強い想いを向けられたのは何時ぶりだろうか。その記憶は遥か彼方で、すぐには思い出せそうにない。


 だからか、そんな響花が少し眩しくて、目を細める。


「お前が泣くコトなんてないだろ」


「だって、なんか悔しいんだもん……!」


 響花が自身のこぼれる涙をぬぐう。


「俺は自分で死のうとした奴だぞ」


「でも、生きてる」


「それは、お前が助けてくれたからで──」


「……私が何かしなくても、きっと光太郎さんは死ねなかったよ」


「そうか……?」


「そうだよ。だって──でなきゃ、光太郎さんはきっと私より会うより先に死んじゃってる。生きるのを諦めちゃってると思う」


「…………」


 何故だか、その言葉を俺は否定できなかった。ああ、そうかもしれないなと、妙に納得がいってしまった。


 だからこそ死に損ねている俺は、だらだらとこのまま生き続けるのだろうとも。


「三ヶ月。たった三ヶ月しか一緒に暮らしてないけど……わかるよ、それぐらい。だって──」


 響花の唇が震えている。


「誰よりも近くで今の光太郎さんを見続けてたんだもん」


 再び響花の目から涙が溢れる。


 今度は俺がその涙を指で拭った。


 少しだけ響花が驚いたように目を開く。


「そうか──」


 口に出した納得の言葉は、自分でも驚くほど優しい声色をしていた。


「響花がそう言うのなら、それが正しいんだろうな」


 俺は愚かな男だ。ここまで言われて初めて、ようやく気がついた。


 見上げているだけの星は、こんなにも、こんなにも近くに在ったのだと────。


「……? あ……っ」


 ──ふと、俺の響花の間を光が舞った。


 宙に浮き、淡く、瞬くように点滅するその光は──


「蛍?」


 気がつけば、俺たちを囲むようにして蛍の光が飛んでいた。眼下の小川には、川縁に生えた草に蛍たちがイルミネーションのように光を瞬かせている。


 手を伸ばせば届く位置で、光がたゆたっていた。


「綺麗……私、蛍って始めてみたかも」


「珍しい。この時期じゃ見かけることなんてないのに」


「そうなの?」


「お盆時期じゃ見たことはなかったかな」


「そっか。じゃあ、私たちはラッキーだ」


 先ほどの涙が嘘だったかのように、彼女は笑う。


 その笑顔がひときわ輝いて見えたのは、星と蛍の光の中だからか──


 彼女はきっと俺のようにはならないだろう。暗い闇の中ではなく、光の下を歩けるだろう。


 だって彼女はかわいいし、明るいし、気配りも出来るし、度胸もあるし、若いし、すぐに彼氏も出来て、結婚だって順当にできるだろう。




 だから……。




 だから──、




 だからこそ────




「手離したくなくなるんだ」


 握った手に力がこもる。彼女の細い指をよりいっそう感じる。


 蛍に視線をとられていた響花が、俺を見る。その表情は呆然としていて、何を言われたのか気がついてないようだった。


「光太郎さん……?」


 その大きな瞳に写る俺はどんな顔をしているだろうか。


 多分、ものすごく赤面しているのだということだけはわかる。


 何度か声を出そうとして、しかしどう言っていいのかわからず口を開いては閉じてを繰り返す。


「俺は──」


 そうやって辛うじて絞るように出した声は震えていた。


 それでも、俺は言葉を続ける。


「お前の作ってくれるご飯が好きだ。お前が帰りを待っていてくれているのが好きだ。お前の「おかえり」って出迎えてくれるのが好きだ。お前の声が好きだ。お前の黒い髪が好きだ。お前の笑顔が好きだ。お前が────」


 息を、吸う。


「響花が──」


 響花の大きく開いた目を見つめる。


「────好きだ」




 気がつけば、俺より強く響花は俺の手を握りしめていた。


 響花は俺と握った手を自分の額に持ってくると、俺から顔を隠すようにして、少しうつむき、しかし確かに聞こえる声で──


「うん」


 と、うなずいた。


 そうやって響花は、額から俺の体温を感じるようにしながら、それ以上口を開かなかった。


「…………」


「…………」


 その沈黙に耐えられなくなったのは俺の方だった。今さらのように心臓が早鐘をうち、年甲斐もないと自分で情けなくなる。


「な、なあ響花」


「なぁに?」


「……顔、見せてくれないか?」


「やーだよ。だって、今すっごくだらしない顔してるもん」


 ぐりぐりと、押し付けるように響花は俺の手に額を擦り付ける。


 その声色は上機嫌で、嫌がっているわけではないと気づく。


「じゃ、じゃあ……まあ、そのまま聞いて欲しいんだけど」


「んー?」


「できれば──できればでいいんだが。これからもずっと俺と一緒にいてくれないか。俺は、響花が待ってる家に帰りたい。これからも響花の「おかえり」を聞いて生きていきたい」


「…………なんか、プロポーズみたい」


「みたいというか……してるんだよ。プロポーズ」


「──────は?」


 がばりと、響花が伏せていた顔をあげた。闇夜でもわかるくらい、その顔は真っ赤になっている。くりっとした大きな目が、さらに大きく見開いて、信じられないものを見るように茫然と俺を見上げる。


「ば、ばばばば──バカじゃないの!?」


「ああ、馬鹿だよ」


「そういうのはもっと順序とか、場所とか……そう、なんかもっと色々あるんじゃない!?」


「順序って、例えばどういうのだよ?」


「それは……えっと……ちゃんとお付き合いをして、年月かけて、夜景の見えるホテルのレストランでとか……」


 発想が凡庸でなんか古いなぁと思ったが、口には出さなかった。


「そもそも色々すっ飛ばして同棲してるだろ」


「それは……そうなんだけどさぁ!」


 響花は真っ赤な顔で「うー」と唸りながらそっぽを向いてしまった。


 でも、手は握ったままで離れる気配がない。


 これは──


「…………響花」


「……なに?」


 表情こそどこか不満げを装っているが、声色には表れていなかった。


「嫌か?」


「っ……!」


 響花が慌てたように俺の顔を見て──


「そういうこと聞くの、卑怯だよ……」


 しかし、俺と視線が合うと、逃げ場を探すように視線をさ迷わせ──結局、うつむいてしまった。


 髪の毛から覗く耳が真っ赤なのを見るからに、単純に照れているだけなんだろう。へそを曲げたときの反応じゃないことぐらい、俺だってわかっているつもりだ。それぐらい、響花のことを見てきたつもりだ。


「どうしたらいい?」


 努めて、優しい声色でその真っ赤な耳に向かってささやく。響花の肩がピクリと震え、視線だけで一瞬俺を見て……すぐに顔を逸らした。


 顔はそっぽを向いたままポツリと、


「き、キスもしてないのにプロポーズは受けられない、かな」


 そんな強がりをいう。


 そう、強がりだ。そんな真っ赤な顔で、恥ずかしそうにして、それでもなにかを期待した目をされたら、強がりだってわかってしまう。


「──わかった」


 それでも俺は真面目に頷き、


「へ? ──あっ」


 握っていた手を引いて、響花を俺のほうに引っ張る。そうすると体制を崩した響花が俺にもたれ掛かる形になり、真っ赤になったまま戻らない顔が俺のほうを向く。


「本当に嫌なら逃げろよ?」


 俺の視線に彼女はピクリと反応する。


「──うん」


 顔を上げ、響花が返事をする。上気した頬と、潤んだ瞳が夜闇の中でもはっきりと分かる。返事のように、彼女の手が再び俺の手を強く握り返す。


 俺はゆっくりと顔を近づけ──


 響花が受け止めるように目を閉じた。


 互いの息が、それぞれの唇に当たって散る。


 その息を追うように俺は響花の唇に自らの唇を重ねた。


「んっ…………」


 響花の喉が軽く鳴る。


 俺のガサついた唇とは対照的な、小さく柔らかい唇だった。


 僅か二秒か、三秒の唇を重ねるだけの軽い口づけ。


 唇を離すと、少し名残惜しそうな響花の表情が目の前にある。


「……物足りなかったか?」


「そ、そそんなわけないでしょ!?」


 苦笑しながらそう言うと、響花は赤い顔をさらに赤くさせてそっぽを向いた。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。


「あ!」


 顔を背けた響花が、何かに気がついたかのように空を見上げ、星空を指差す。


「光太郎さん! 今、流れ星!」


「え? ってもう見えねぇよ」


 流れ星なんて本当に一瞬で消え去ってしまう。響花が見つけて声をかけたときには、片鱗すらも見えなかった。


「──光太郎さんは、流れ星になんてお願いする?」


「そういうのは流れてるときに三回願わないとダメなんじゃないか?」


「細かいことはいーの!」


 少しはしゃいだ声で彼女は俺に視線を戻す。


「私はね────」




 繋いでいた手がほどかれる。




 もう、大丈夫だとでも言うかのように──。




 彼女は後ろ手に組み、はにかみながら────、




「光太郎さんともっとずっと、一緒にいられますようにってお願いするかな」




 蛍の光と、




 星の光と、




 再び流れて消えていく星を背にして、




 俺のプロポーズに応えてくれた響花はどこか幻想的で──とても綺麗だった。


「じゃあ、俺と願いは一緒だ」


 胸がじわりと熱くなる。そういう感情があったんだってことを、久しぶりに思い出す。


 そんな感情を最後に覚えたのは──いや、感傷に浸るのはよそう。そんなものは後でいい。


 今はただ、彼女と同じ時を過ごそう。


「そうだ。競争するか? どっちが先に次の流れ星見つけられるか」


「えー。それ何時になるかわからないじゃん」


 クスクスと笑いながらも、響花は空を見上げる。


「ま、別にいっか」


 二人で見上げた星空は、どこか輝きを増しているように見えた。


 俺の部屋にいるときのように他愛のない話をしながら、俺たちは寄り添って、気が済むまで星を見上げていた。





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