14:俺と彼女のとりとめのない話



 響花に今日帰る時間を連絡して三時間。俺はもくもくと仕事の書類と戦っていた。内容は、客先に提出するうちの会社の製品仕様書だ。


 エビデンスとなる証明計算式は、これで合っているだろう。他の数値も再三見直しはしたから、たぶん大丈夫だ。


 しかし、暑いなと額の汗をハンカチで拭う。空調の効いた社内ではあるが、キンキンに冷やしているわけでもない。


 特に初夏に入るこの時期は、暑さが本格的ではないからか、冷房が弱い。結果、ちょっと暑いぐらいで汗ばむことも多い。


 なんとなしに天気予報を見てみれば、連日27度前後でこの一週間雨マークだ。本格的な梅雨入りとは発表されていないものの、これでは湿気も上がって暑いはずである。


 会社の外はもっと暑くて、ジメっとしているのかと思うと、帰る気も失せるが、響花が待っているのでそうも言ってられない。


 そう言えば時間的にもう上がらないと響花に伝えた時間から遅れてしまう。ご飯を作る時間を俺の帰る時間に合わせてくれているようだから、遅れるのはどこか悪い気がした。


 と、なれば、だ。


 俺はささっとメールを先輩に送る。


「先輩。仕様書送ったのでチェック願えますか? 明日の朝でもいいので」


「ん? おお、了解」


 隣の席にいる先輩に伝えて、パソコンの電源を落とす。


 先輩と上司にチェックして貰えれば、どこかミスがあっても大丈夫だろう。


「お? 帰るの? 最近早いね」


 嫌みというわけでもなく、ほがらかに先輩はいう。


「あー……そうですかね?」


「もしかして……コレ?」


 先輩は小指をつきたてて見せる。俺が言うのもなんだが古い表現だなとは思う。


「違いますよ。ただ単に、早く帰りたくなっただけです」


 作り笑いを浮かべて、「お先に失礼します」と俺はそうそうに話を切り上げて、その場を後にする。


 どうにもああいう揶揄は苦手だ。上手いことノれない。


 ノリを合わせた方が社交的には良いのかもしれないが……。


 不器用、なんだろうなとは思う。


 会社を出て、帰りの電車に乗る。いつもより冷たさの増した電車の冷房が、少し汗ばんだ体を冷やす。


 つり輪に掴まり、車窓に映った己の顔を見た。


 もう少し器用に生きられたら、楽だったのだろうか。


 それに応えるものは、誰もいなかった。

 



◇  ◇  ◇





「おかえりっ」


「ただいま」


 響花の声を聞くと、ようやく家についたという安堵感がある。


 ハンガーラックに上着を引っ掻けると机の上に珍しいものが広げてあった。


 ノートと教科書だ。


「あー、ごめんね。直ぐに片付けるね」


 俺の視線の先に気がついたのか、響花がノートと教科書を閉じ、部屋の片隅に置く。


「いや、構わないが……しかし、懐かしいな」


 数学Ⅱと書かれた表紙は、俺が知っている表紙のデザインではなかった。


「ちょっと見てみても良いか?」


「え? いいけど……面白くないよ?」


「まあそりゃそうだろうけども」


 パラパラとめくってみる。まだ習いたてなのだろう。紙質はまだ新しく、最初の数ページにしかマーキングがなされていない。


 あー……案外解る。というか数Ⅱってこんな中身だったっけ? もっと難しいことをやってた記憶がある。ああ、でも微分・積分とかは難しかったな。今でも苦手だ。


「光太郎さん、解るの?」


「なんとなくは。解るというより、覚えているというか、仕事でも使ってるところがあるというか」


 つーか、


「解るの? って失礼だなおい」


「ありゃ。ごめんなさい」


 響花はペロリと舌を出して謝る。


「だって昔お父さんやお母さんに勉強教えてもらおうと思ったら「大人はもうそんなもの必要ないの」って言って教えてくれなかったんだもん」


「それ単純に忘れただけだろ……」


「光太郎さんは大丈夫なの?」


「あー……まあ、数学なら一部仕事でも使ってるから、なんとなく……といっても電卓とエクセルの関数頼りだから、解けって言われても困るんだがな」


「なにそれー」


 呆れたように響花は半目で俺を見た。


「仕事はテストじゃないからな。わからないことは調べりゃ良い。数学の公式なんて調べりゃ出てくるし、数字を代入すれば答えも出てくる」


「うっわ、ずっるー」


「そうとも。大人はずるいのさ。まあ……見ればなんとなく思い出せるし、学んだことは無駄にはならなかったかな」


「ふぅん……学校で習ったことなんて、社会に出て使わないと思ってた」


「そいつは仕事によるだろうな」


「仕事かぁ……よくわかんないなぁ……」


 そうぼやいて、響花はキッチンに向かっていった。

 

 


◇  ◇  ◇





 晩飯はミートソースのパスタとサラダだった。少々量が物足りない気もしたが、作ってもらっている身で文句は言えない。


 食器を流しに置いてきた響花に、俺はそう言えばと口を開く。


「そいや長島って高二だったんだな」


「え? 今さら?」


 響花は眉をひそめる。それに俺は、いやまあ、などと曖昧に返しながら首に手を当て、


「まともに歳も聞いてなかったなって」


「本当は中学生だったり、ましてや小学生だったりしたらどうするの? そんな子を家に連れ込むなんて……このロリコン!」


「あ? 勝手に転がり込んでおいて何言ってんだテメェ」


「ごめんなさい、調子乗りました」


 ひと睨みすると、響花は竦み上がってすぐに平伏した。


 表情はケロリとしているので、たいして反省してないだろう。


「で、いくつなんだよ」


「十七だよっ。あ、学生証見る?」


 ○○高等学校 普通科 二年


 知らない高校だ。いや、そもそも地元ではないし、東京なんていくらでも学校があるのだから余程の有名高校でもない限り知るわけがない。


 あ、学生証に住所も書いてある。都民か。


「ん? 高二で十七って事は、もう誕生日過ぎたのか」


「そうだよー? 私、牡牛座だもん」


「あー……それっぽい」


「……絶対いい意味で言ってないでしょ、ソレ」


「そんなことはない」


 なんか無謀な感じがそれっぽいなどとは言えない。


「もしかして誕プレくれるの!? いやぁ、ありがとうー」


「この間ゲーム買ったからチャラな」


「ぶー」


 可愛く口を膨らませても、無い袖は振れぬ。


 しかしそんな表情も一瞬の事で、響花は「そういえば」と話を区切ると、


「光太郎さんっていくつなの?」


「俺か? 俺は、三十四だが」


「え……?」


 信じられないという目を向けてきた。


「四十代じゃなかったんだ……」


 本気で言っているその言葉に、俺は焦りを覚える。


「まてまてまて。俺、そんなに老けて見えるのか?」


「うん」


 即答──。


「少なくとも、三十代には見えないよね。私のお父さんより老けてると思ったもん。あ、私のお父さんは三十九だったよ」


「そう、か。そうかー……」


 何が老けて見えるんだ。同年代より多い白髪か? 肌質か? 雰囲気か?


「光太郎さんはねぇ。なんか白髪多いし、目尻に皺あるし、なんかいつも憂鬱なオーラを出してるし」


 ──全部。


「あ、でもでも、私は嫌いじゃないよ? ほ、ほらダンディーさが増していいんじゃないかな?」


 俺を見て慌てて響花はフォローする。


「お前はいい子だねぇ……半分くらいお前の言葉でダメージ受けたけど」


「うんうん。後半の言葉、余計だね?」


 もう、と彼女はひとつため息をつくと、


「それで光太郎さんの星座は?」


「さそり座だ。十一月三日生まれ」


「へぇ……あ、文化の日だ。文化人? さそり座の人ってちょっと珍しいかも?」


「そうか?」


「体感だけどね」


 俺としてはさそり座がわりとメジャー感があるが、それは有名な歌があるからだろうか。今の十代には……伝わらんだろうなぁ。


「ふんふん。十一月三日かー……メモっておこ」


 響花はスマホを取りだし、何かをメモっていく。


「別に祝うとか考えなくていいぞ。三十も過ぎると歳を重ねる喜びより、悲しさの方が大きくなってくる」


 そう言うと、響花は何か考えるように天井をあおぐ。しかし、それも一瞬で、ちょっと困ったように微笑むと、小首をかしげて上目使いで俺を見た。


「誰かに何かを祝ってもらうって、悲しいことじゃないと思うな。だから──そんな寂しいこと言わないでよ」


 そして、彼女はにっこりと微笑む。


「楽しみにしてて、誕生日。盛大に祝うから」


「いや、別に盛大でなくても……」


 誰かに何かを祝ってもらう、か。祝うことはあっても、祝われることは成人以降あっただろうか。


 数回のまばたきの間考えてみても、思い当たらなかった。


「まあ、期待せずに楽しみしとくよ」


 それまでの間、この関係が続いているはずもない。


 たぶん、その日は来ないのだろうなと、俺は達観したつもりになって、諦めの気持ちを抱いていた。


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