11:俺と彼女と月の影



「蒸し暑ぅい……」


 晩飯も食べ終わって風呂から上がると、先に風呂からあがった響花が溶けたアイスのようにぐったりとしていた。


「窓開けるか」


 カラカラと音をたてて窓を開ける。目の前はアパートの駐車場なのもあって、住宅との間はそれなりに空いているお陰で閉塞感はない。


「光太郎さん、あんまり風入ってこないよー」


「あー……玄関の方も少し開けるか」


 幸いこの部屋は門部屋なおかげで、玄関から誰かに部屋を覗かれると言うこともない。玄関のドアを少しだけ空け、靴を挟んで勝手に閉まるのを防ぐ。


 通り道ができたとたん、風が自然と通り抜けた。


「涼しいー」


 響花は窓際にぺたんと座り込んで風を浴びていた。セミロングの黒髪が風でふわりと浮くように流れ、その髪の柔らかさに少しだけ感動する。


 昔から不思議に思っているが、女の子の髪はどうしてあんなに柔らかそうなのか。


 響花は少しだけそうやって風に当たると、更に涼しさを求めてか、自らの艶やかな髪を首筋のところで括ると後頭部のところで大きめの髪止めで一纏めに留めて見せた。


 うなじが見える形でアップにした髪型は、ポニーテールとはまた少し違った形で新鮮だ。


「あんまり風に当たりすぎると湯冷めするぞ」


「湯冷めよりこの涼しさの方が大切ぅ」


 また風邪引いても知らないぞと心の中でため息をつきながら、俺も響花の隣に座り、空けた窓から夜空を見上げる。


「月が出ているな」


 満月だ。月明かりが煌々と夜空を照らし、家々の屋根を夜闇の中に浮かび上がらせている。


「満月なんて見たの久々かも」


「そうか?」


 天気の良い月は毎月のように見ているが……と思い、俺と少女の生活スタイルが違うことに気づく。


「意外だな。もっと夜遊びとかしてるのかと思ってた」


「私、そんな悪い子じゃありませんー」


 響花は頬をぷくっと膨らませると、体育座りに座り直し俺を睨んだ。


「良い子は知らないおじさんの家に居候しないもんだ」


「う……な、なにその言ってやったってドヤ顔。むかつくー」


 言葉のトーン的にそれほど怒っていないようだった。それでも響花はプイッと顔を逸らして拗ねて見せる。


 子供みたいな反応だなと思いながらも、そういえばまだ子供だったなと思い直す。


「そうだ! こんなに月明かりあるなら電気消してみよ」


 そう言うと、響花はリモコンでシーリングライトのスイッチを切る。暗くなった部屋に月明かりだけが光源として差し込み、八畳の空間をほのかに照らした。


「何か飲むか?」


 酒はないがこれは月見だな、と俺は腰をあげた。

 



※  ※  ※ 




「え? う、うん。ありがと」


 タイミング的になんだか戸惑いのある返事をしてしまった。ちょうど私も何か飲み物でも取ってこようと考えていたからだ。


 光太郎さんは冷蔵庫を開けると、作りおきしていた麦茶をコップに注ぎ持ってきてくれた。


「ほれ」


「ありがと」


 私はコップを受けとると一気に麦茶を飲み干し、


「ぷっはー!」


 清々しい笑顔と共に顎を拭った。


「オヤジかよ」


「おじさんはこういうのやらなかったよね」


 二日ほど前にコンビニ行った後、部屋で飲んでいたが、なんというか普通にジュースを飲んでいるようだった。


「実際ビール飲んでもそんなん滅多にやらん」


「えー」


 そうなの? CMみたいに大人の人はみんなビールを飲んだ後は清々しい笑顔になるものなんじゃないだろうか。


 意外そうな表情をした私を光太郎さんは呆れたように半目で見る。


 そんなおじさんはコップの上の方を指先だけでつまむように持ち、チビりと麦茶に口をつけた。


 なんだか、その飲み方がお父さんがお酒を飲んでいる姿に被って、少しだけ胸の奥がチクリと痛む。それを隠すように私は光太郎さんに喋りかけた。


「お酒じゃないから、なんかカッコつかないね」


「カッコつくつかないで酒はのまねぇよ」


 つまらなそうに言うその言葉に私はなんだか虚を付かれる。


 光太郎さんはもう一口麦茶を飲み、コップを床に置いた。


「辛かったり、悲しかったり、落ち込んだり、もちろん楽しくなったときに気分を上げたくて飲むもんだ」


 もちろん、毎回じゃないけどなと補足し、床に置いたコップを指先で弄ぶ。


「歳を取るとな、酒でも入れないと感情がうまく発散できなくなるんだ」


「そうなの?」


「そうなんだよ」


 光太郎さんは苦笑すると月を仰ぎ見る。


「俺がお前くらいの歳の頃なんて、そんなことなかったんだけどなぁ」


 それはどこか寂しそうな目をしていた。


 月を見上げる瞳はたぶん月なんて見てなくて、今ではない過去を見ている。


 なんだろう? もやっとする。


 その瞳に既視感があった。


 だが、その正体にすぐに気づく。いつか踏切で見た光太郎さんの目に似ているのだ。


 何もかもを全て諦めたような、そんな目だ。あの頃はもう戻ってこない。今の自分には縁がない。そんな事を考えていそうな瞳。


 再びその目を前にして私は、嫌だなと直感的に感じた。嫌いな目だ。間違っている、とも感じた。


 どうにかしたいと思う。しかし、どうすればいいの? という迷いもあった。


「……どうした?」


 心の中でうーんと唸っていると、光太郎さんが私の視線に気がついたのか、月から視線を外し私を見てくれた。


 光太郎さんが私を見る時の目は、だいたいが呆れた瞳をしている。けど、ご飯を作った時は感謝をしている瞳をしてくれるし、掃除したところが綺麗になっていればそれに感激した目をしてくれる。


 光太郎さんとここ一週間以上暮らしていてわかったのは、光太郎さんは感情表現が下手だ。けど決して表現しないわけではないのだ。目とその先の視線を追えばなんとなくだがその感情が理解ができる。


 なんだか国語のテストの点数が上がりそうだと、どうでも良いことを考えてしまう。


 ともあれ、今私の事を見ている目は何の感情もない瞳だった。


 過去も、今も、未来も、私すら見ていない昏いくらい瞳だ。


 どうにかしたい。いや、どうにかしなければならない。


 そう思ったときには体が自然と動いていた。


「長島?」


 私は静かに立ち上がると、月から隠すように、胡座をかいているおじさんの正面に立つ。そのままおじさんの足を跨ぐようにして膝立ちになると、おじさんの肩を掴んだ。


「ちょ、ちょっと待て長島!? お前いったいナニをしようとしている!?」


 私の月影の下で、光太郎さんが焦る。暑さから来るものではない汗を浮かべ、珍しく頬が紅潮しているのを見る。


 何時もは背格好の関係で私が見上げることが多いけど、今は逆だ。私を見上げる光太郎さんの瞳には私しか写っていない。


 私しか見ていないということに少し優越感を感じるが──、


 そうじゃないよね。


 これでは何の解決にもならない。


 こう、ではない。


 ではどうすべきか。


「光太郎さん」


 目を見て、名を呼ぶ。部屋の中に不思議と私の声が響いた。


「な、なんだ」


 ごくりと喉が鳴る音が私の方まで聞こえてくる。見つめる瞳には戸惑いと、緊張の色が見えた。


「あの……ね?」


 息を吸い、一呼吸置く。


 開け放たれた窓から湿気のある、しかし涼しい風が舞い込み私の髪を揺らした。シャンプーの香りがほんのりと漂い、その匂いを自覚すると同時に光太郎さんが何故か力むのを感じた。


 それを抑えるように肩に置いた手に力を込める。


 そうして私は口を開いた。

 



※  ※  ※ 




 なんだこれは。何を言われようとしているんだ。


 良い歳をしたおっさんが女子高生に迫られ、あまつさえ何か大事なことを言うかのように真剣な眼差しで見つめられている。


 月明かりを背にわずかな逆行に浮かぶ少女の姿と、風に乗って香る彼女の匂いはどこか現実のものとは思えず、雰囲気に呑まれそうになる。


 流されたらダメだと、俺と彼女はただの家主と居候の関係であり、止めなければならない。しかし、加速する心拍数は何かを期待していて、この流れを止められそうにない。


 そんな俺の迷いなど露知らず、彼女は口を開き──、


「デート、しませんか?」


 と言った。


「────────デート?」


 響花からの言葉を飲み込んで理解するのに酷く時間がかかった。


「うん」


 素直に頷く響花に、俺も素直に応答する。


「いや、まあ……いいけど」


 ん? と内心首をかしげる。なんだか自分が思った方向とは違う流れだ。


 歯車が噛み合ってないというか、息が合ってないと言うか……。ペン貸してと言ったら鉛筆渡されたときのような、牛丼を頼んだら牛カルビ丼を出されたみたいな、微妙な食い違いを感じる。


 そんな微妙な俺の表情を読み取ったのか、響花がどうしたのと言いたげに首をかしげた。


「いや、なんつーか」


 気まずくなって目を逸らす。


 だんだん自分がどれだけ恥ずかしい思い違いをしていたのか分かってきて、変な汗が浮かんできた。


「告られるのかと思った」


「………………へ?」


 ああああと頭の中で「あ」という文字だけが何百、何千字も流れていく。


 恥ずかしい。無茶苦茶恥ずかしい。


 良い歳してすげぇドキドキした。人生初告白とか年甲斐もなく青いことを考えてしまった。


 穴があったら入りたい。いっそ殺して欲しい。


「ふふ……」


 クスクスと笑い声が聞こえてきた。ちらりと横目で見れば、響花が抑えきれない感じで喉を鳴らしている。


「光太郎さん……なんだか可愛いね」


「な──っ」


 恥ずかしさや怒りより先に、絶句する。


「お前、おっさんに向かって可愛いは無いだろ可愛いは……」


 眉を潜めて絞り出した声は呻くような響きだった。


 かっこいいと誉められて喜ぶ女性は居ても、可愛いと言われて喜ぶ男はそんなに居ないのだ。


 いやまあ、うちの部長は飲み会の場で若い女性社員に可愛い可愛い言われて鼻の下を伸ばしてたこともあったような事もあったが、あれは単純に若い子に構って貰えて嬉しかっただけだろう。


 そんな俺の内心とは裏腹に、響花は俺の顔を見てにこにこと楽しんでいる。


「そっかー……光太郎さんは私に告られたかったんだ?」


 からかうようなその声に俺は半目で見返す。


 畜生、こいつ性格悪くねぇか?


「ち・が・う。雰囲気バッチリに決めて言うからだ。勘違いするだろうが」


「あー、私のせいにしたーっ」


 実際そうだろという言葉を飲み込む。これ以上この話をしても押し問答になるか、俺の墓穴が深くなるだけでろくな進展をしない事は明白だった。こんな俺が不利な話は、別な方向に持っていくに限る。


「デートつっても何処に行きたいんだよ? っていうか何処か行きたいなら一人で行けよ」


 取引先の相手というわけでもなく社交辞令的に響花のデートに応える必要はない。少々突き放した言い方をしつつ、俺はその誘いを断った。


 ──つもりだった。


 響花はひとつ首を横に振ると、


「違う違う。私が行きたいデートじゃなくて。光太郎さんが行きたいデート」


「は?」


 俺が、行きたいデート?


「一人でいくより二人で行った方が楽しいよ? 一緒にいこうよっ! どこか行きたいところ、ない?」


 俺の目の前で、彼女はにっこりと笑った。

 

 

 

 

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