02:俺と彼女と冷えた手




 肩を落としながら今日も俺は夜の道を行く。頭の中でぐるぐると回っているのは仕事の事だ。この進み具合ではその後自分が苦しむ姿が容易に想像できる。もう少し効率のいいやり方は無いだろうかと考えを巡らせるがいいアイデアは浮かんでこなかった。


 時間はとうに夜の十時を回っていた。暫くこの時間ぐらいまで頑張らないと今進めてる仕事は予定通り回らないだろう。その事に辟易し、自然とため息がこぼれる。


 コンビニで弁当を買い、いつものように踏切で電車を待つ。


 風が吹いた。踏切の端に添えられた花束がどこか寂しそうに風に揺れる。その花束の回りにはお菓子も添えられており、ここで誰かが亡くなったのだろうと気づかせるには十分だった。


 ふと、脳裏に黒髪の少女を思い浮かべ、しかしそうではないはずだと首を振る。ここに花束が添えられたのは昨日のことで、彼女とは今朝別れたばかりだ。


 初夏も間近な春の終わりには珍しく風が冷たい。季節の変わり目は気温の温度差が激しく年々堪えるようになってきた。


 少しジャケットを手繰り寄せながら待っていると、視界の端に電車の明りが映る。


 昨日俺は電車が来る前に飛び出ようとして──しかし止められた。何故あんなことをしようとしたのか自分でもよくわからないが一言でいえば──疲れていたのだろう。それはおそらく仕事だけではなく、この人生そのものに、だ。状況はたいして変わらないはずなのに、昨日のような衝動が起きないのは止められた故か。


 我ながら適当だなと通り過ぎる電車の風圧にため息を飲ませる。


 今日あの少女は居ない。次あの衝動が起きた時が自分の命日なのかもしれない。いずれにしろまだ俺は生きているし、死ぬ運命にはないらしい。


 ……なんて。


 痛い思考だなと自分でも思う。こんなのだから、中二病みたいな思考が抜けない頭だから仕事も上手くいかないのだ。


 何時になったら俺は大人になれるのか。


 そんな答えのない迷路から脱せぬまま、俺はアパートの階段を登る。


「…………────」


 夜のアパートの通路はぼんやりとした明りで照らされ辛うじて夜闇を払拭しているような場所だった。そんな薄明るい通路の奥、俺の部屋の前で一人の少女が座り込んでいる。体育座りをしながら俯き、膝の上に乗せた腕に顔を埋めていた。


 一体何時からこうしていたのか──。


 見覚えのある制服は紛れもなく今朝別れを告げたはずの少女だ。


 近づき、見下ろすがピクリともしない。


「……パンツ、見えるぞ」


 スカートを押さえていないせいで薄暗い廊下でもそれぐらいは見えてしまう。見覚えのある薄緑色の下着だった。


「ん……?」


 声をかけてようやく少女は反応した。寝ていたのか焦点の合わない瞳が俺を捉え、足元から顔までゆっくりと見上げてくる。俺の視線と合った途端、少女は安心したように笑った。


「寝ちゃってた。おじさん遅いんだもん」


「……って言われても仕事だしな」


 少女がスカートをパタパタと叩きながら立ち上がる。


「忙しーんだねぇ」


 言いながら少女は上着のポケットから何かを差し出してきた。


 ──それは俺が少女にくれたはずの一万円だ。


「返すね。何もしてないのに貰えないし」


「…………お前、まさかそのためにずっとここに居たのか?」


「あー、うん。まあね」


 と、少女は照れ臭そうに笑った。


 こんな肌寒い日にずっと一人でここで待ってたのか……?


「お前なぁ……今日じゃなくても別な日に返しにくればいいだろ」


「あ! そっかぁ……」


 少女はその手があったかと目を丸くすると、今度は苦笑いを浮かべた。


 コロコロと表情の変るやつだなと思う。


「私、馬鹿だからそんな事考えもしなかったよ──ともかく、これ返すね」


 一万円を押し付けるように突き返される。


「……じゃあ、迷惑だろうし私行くね。泊めてくれてありがとう」


 少女は寂しそうに笑うと俺の横を通り過ぎ、去ろうとする。


「……………………っ」


 ────────思わず、


「──おじさん?」


 ─────少女の手を掴んでいた。その手は氷のように冷え切っていた。


「……金もないのにどこに行く気だ?」


「あー、うーん……」


 少女は顎に人差し指を当て少し考え、


「まあ、また適当なおじさんに声かければ今度こそ誰か買ってくれるんじゃないかな?」


「じゃあ──」


 ほとんど衝動的に出た言葉だった。


「俺が買う」

 


 

 

 

 薄暗い蛍光灯の下で少女の顔が見る見るうちに真っ赤になっていく。


「な、ちょ……えっ?」


 ダメだと思った。この手を離して少女を行かせたら、多分この少女は不幸になる。


 ただの通行人同士であればこの少女の行く末など気にもしなかったのに。


 多分この手を離してしまったら俺はこの先、時折この少女を思い出してはこう思うだろう。


 あの後どうなっただろうか、と。それは棘のように刺さって残り、思い出しては俺を苛ませるものだ。


 それはずっと……恐らく永久に──。


 そう、だから──結局俺は自分の心の負担を軽くしたいがために手を差し伸ばしたに過ぎない。


 だから──これは偽善だ。


 でも、それでいい。


「あの……その……やさしくしてください、ね?」


 真っ赤になって俯く少女に俺は苦笑する。


「そんな初心な態度じゃ、金なんて貰えずヤり捨てされるだけだぞ」


「えぇっ!?」


「それに、俺は買うとは言ったがヤるとは言ってないからな」


「はぁ!? ナニそ──クシュ……!」


 少女は声を上げようとしてくしゃみに阻まれる。やはり相当冷えているようだ。


 少女の鼻をすする音を聞きながら俺は部屋の鍵を開け、ドアを開ける。


「とりあえずまず風呂に入って体温めな」


「うー……」


 少女は釈然としない表情をしていたが、素直に家の中に入っていった。





「コーヒーでいいか? コーヒーか水しかないが」


「ああ、うん。じゃあコーヒーでいいよ」


 ケトルでお湯を沸かし形の違うマグカップにインスタントコーヒーの粉と砂糖を目分量で適当に入れる。


 彼女用のコーヒーは自分のより砂糖多めにした。


 少女を風呂に入れ、寝間着替わりのTシャツを着させて座ってもらっている。


 キッチンの背後の脱衣所からは、シャンプーの匂いに混じってなんだか甘い匂いがしてきて、同じシャンプーを使っているはずなのになぜ甘い匂いになるのか、不思議に思う。


「おじさんはさー」


「あー?」


「一人暮らし? 彼女とか居ないの?」


「居るように見えるか?」


「えー? 全然」


 ケトルでお湯が沸いた。


 マグカップに注いでスプーンでかき混ぜ、それを持って部屋に戻り少女の対面に座る。


「ほれ」


「ありがとっ──もしかして怒ってる? なんか目付き悪いけど……」


「もともとこういう目付きだよ」


 再び出そうになるため息をコーヒーと共に飲み下す。


「ん……美味し」


 少女は両手でマグカップを持って口を付けると、なんだか安心したかのようにほほ笑んだ。


「お前さんは──あー……」


 今更その事に気が付いた。


「そういえば名前聞いてなかったな」


「そっか。そうだね──私、長島響花ながしまきょうか。響花でいいよ」


「俺は北条光太郎ほうじょうこうたろう……よろしく長島」


「……響花でいいって言ったのに」


 響花はちょっと唇を尖らせて再びカップに口をつける。


「…………」


「………………」


 しばらく沈黙の時間が流れた。


 響花はコーヒーを飲みながらちらちらと俺の方を伺っている。


「ねぇ……光太郎──さんはなんで死のうと思ったの?」


 その言葉に俺は眉根を寄せる。きっと苦虫を噛み潰したような表情をしたと思う。


「────わからん」


 俺は隠す気はなかった。俺は確かにあの時自ら死のうとするような行動をとってしまっていたはずだ。ほとんど衝動のような感情で、本当に自殺するときはあれやこれや考えられないのだと思った。


「強いていれば……」


 コーヒーに視線を落とす。コーヒーの暗い水面に何かあるわけでもないのに、何かを探す様にじっと見つめてしまう。あの時の感情を思い出そうとし、しかし当然ながらコーヒーを見つめてもそれを思い出すことは無かった。


「────疲れていたのだろうな。仕事にも、生きることにも」


 言って、苦笑する。


「って未来ある若者にあんまりネガティブな事をいうもんじゃないか」


「う、ううん」


「いずれにしろたいした理由じゃないさ。誰かが死んだわけでも、なにかを失ったわけでもない。本当にただ……疲れてただけだ」


 つまらない理由だと自分で思う。


 本当に死を選ぶ人であればもっと尤もらしい理由があるのではないか。何かに絶望し、苦しんでその選択をしたのではないか。少なくとも目の前の少女はそのように悩んで決断したのではないだろうか。


 だからか自分の理由があまりにも拙すぎて、彼女に自殺の理由を聞くのはなんだか憚られた。


「長島は……家出か?」


「へ? あー、うん。そう。家出」


 響花は俺と同じようにコーヒーに視線を落とすと少し寂しげに目を細めた。


「一人で家にいるのが辛くってさ。思いきって飛び出してみたは良いけど、結局どうしていいかわからなくて……。でも家に帰るのも嫌で……」


 少女が息を吸う。その音はちょっと震えていて泣きそうな表情がそこにはある。


「私が死のうとしたのも多分光太郎さんが考えてるほど深い理由じゃないよ。私はただ────寂しかっただけ。誰にも必要とされてないんだって思ったら、生きてる意味あるのかなって思っちゃっただけ」


「…………」


 響花に視線を向けながら俺はコーヒーに口をつける。先ほどより苦みが増したような、そんな味が口の中に広がる。


「友達とかもいるけど……皆にとって私はどこまで大切な存在なんだろうってごちゃごちゃ考えちゃって。でも友達ってそこまで重い存在じゃないじゃん?」


「まあ……そうかもな」


「家族みたいな仲の友達は居ないからさ」


「だから、もういいやーって……か?」


 そう言うと響花は苦笑した。


「ね? 馬鹿みたいでしょ?」


「──そうか? そんなこと言ったら俺だって馬鹿みたいな理由だろ」


「……そっか」

 

 再び二人に沈黙が降りる。


 上手い慰めの言葉が出てこなくて、誤魔化すようにコーヒーに口をつける。こう言うときなにか人生の後輩を導いてあげられるような言葉をかけられるのが大人なんだろう。


 しかし、なにかを言おうとしては口を閉ざす。


 まだ若いんだからそのうち良いことあるとか、お前を大切にしてくれるやつが現れるよとか、頭に浮かぶ言葉がどれもこれも違うような気がした。もどかしくなってコーヒーを持つ手に力がこもる。


 そんな俺を見ながら、何故か響花はクスリと笑った。


「ねぇおじさん……お願いがあるんだけど」


「なんだ」


「暫く泊めさせてくれませんか?」


 コーヒーを置いて少女は上目遣いに見てくる。眉尻の下がった表情は自信がなさげで、昨日見せていたテンションはそこにはない。少しだけ弱さを見せた少女は年齢以上に弱く見えて、随分と儚げに見えてしまう。


「…………」


「…………」


 俺は少女をねめつけるようにじっと見る。


 彼女が本当のことを言っているという保証はない。先ほど言ったことだって全部嘘かもしれない。俺が無害なヘタレな男だと知って利用したいだけかもしれない。


 けど少女は黙ったまま俺の視線を受け止め、緊張した面持ちで俺の言葉を待っている。


 ──拒否するのは簡単だ。リスクもない。家出少女なのだからなんだったら警察に突き出してしまえばいい。


 そうしてしまえば俺の生活は元通りだ。


 そう、元通りだ。仕事に行って、仕事して、家に帰るだけの何の色もない生活に元通りだ。


 元の、地獄のような日々に戻ってしまう。


 けれど──この部屋に再び招き入れた時点で拒否するなんて選択肢はなかったのだ。


「…………ったく、しょうがねぇなぁ」


 俺は自分が詐欺に合うタイプだなと思った。


 結局のところ、俺も何か変化を求めている。何かが変わるかもしれないという期待を抱いている。


 俺も、彼女もこの選択で傷ついてしまうかもしれない。それでも、何かが変わることを願った。


「炊事、洗濯、掃除すること。これが条件。これが守れるなら住んでよし!」


 そう言うと響花の顔が花開くようにぱぁっと笑顔になる。


 そのまま対面に座っていた俺の所まで近づくと、飛びついて抱き着いてきた。


「やったぁ! おじさんありがとう!」


 咄嗟のことに俺は踏ん張れず抱き着かれた勢いのまま床に倒れこむ。


 風呂上がりの少女の匂いがふわりと漂い、女の子特有の柔らかさが胸板に当たる。それだけの事に年甲斐もなくドキリとしてしまう。


「えへへ。これからよろしくね光太郎さん」


 俺を押し倒した響花が笑顔で言い──次の瞬間にはきょとんとした顔になる。


「……光太郎さん顔赤いよ?」


「やかましい」


「泊めてくれるお礼に……い、いいんだよ? お、おじさんとなら、その、シても……」


「どもりながらマセたこと言ってんじゃねぇ」


 響花の頭を軽く小突いて俺はするりと下から抜け出し、タオルと下着を手に取る。


「風呂入ってくる。長島はもう寝とけ」


「はーい」


 背中にその声を受けながら、洗面所に入り、視線を下に持っていく。


 ……流石に勃つわ。


 これからの生活が思いやられるようだった。



※  ※  ※ 



 ありゃ、逃げられてしまった。


 なんだか盛大なため息が聞こえた気もするが、直ぐにシャワーの音が聞こえてきた。


 しかし男の人に抱きついたのは初めてだったけど、思った以上にゴツゴツしてるんだなぁと思った。


 お父さんもあんな感じだったっけ、と思い出そうとするが最後に抱きついたのなんて小学校低学年ぐらいだったからよく覚えていない。


 年頃の女の子なんてそんなものだと思うが、もう少し親孝行すればよかったと思わなくはない。


 部屋の中をぐるりと見渡す。


 私の知らない部屋。


 私の知らない匂い。


 私の知らない景色。


 不安じゃないといえば嘘になる。


 でも──やっぱりあの昏い目がどうしても頭から離れない。


 どうにかしたいと思うのは傲慢だろうか。


 それとも今の私にとっては逃げなのだろうか。


 それに答えを出せる人は誰もいない。


「ん……」


 立ち上がると少し頭が重い気がした。そのままベッドにフラフラと倒れ込む。


 昨日ぶりの匂いは、やっぱりどこか安心する匂いな気がした。


 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る