第3話 生い立ち

 レイとエレンの間にアイリーンが生まれ、ますます二人に幸せな生活が期待された矢先、突然レイの仕事が減り始めた。

 フィリピンはセブシティという大きな街でさえ、家を新築する人が少なく仕事の機会を得るのが難しい。レイは仕事を求めようと駆けずり回ったけれど、その年は希にみる不況がフィリピンを襲っていた。そして経済基盤がもともと弱いフィリピンの不況は、いとも簡単に彼から仕事を奪った。

 レイはエレンと生まれた子供のために、パジャック(サイドカー付き自転車)をレンタルしパジャックドライバーを始めた。しかしこの仕事は、重労働の割に一回の運賃収入が五ペソ(十円)足らずと、まるで割に合わない。彼は効率の悪さに嫌気がさして、それを辞めてしまう。

 いよいよ生活が困窮したレイとエレンは、セブシティの家を引き払うことにした。レイの両親がバリリに残した家に、引っ越すことを決めたのだ。お金の乏しい状態でセブシティに住み続けるには、どうしても治安の悪い場所に限られる。これは家族の安全と生活環境を考慮した、レイの選択であった。

 レイの仕事が途絶えたせいで、エレンは親戚を訪ね歩きお金を借りた。そうしなければ、アイリーンのミルク代もままならない状況になっていたのだ。そして生活費を稼ぐため、エレンは知る限りのつてを辿り、ようやく仕事を得ることができた。

 彼女は朝早く港で魚を仕入れ、それを市場で売る仕事を始めたのだ。それが終わるとメイドの仕事をした。いつも背中にアイリーンを背負っていた。得るお金が少なくても、それは貴重な現金収入となった。

 彼女がメイドとして働いたのは、セブシティでビジネスを成功させた男が、自分の母親と家族のために用意したバリリの家であった。

 そこには既に、主人の妹がメイドとして入っていたけれど、その妹は厄介なことをすべてエレンに任せ、自分はいつも母親との世間話やテレビ観賞にふけっていた。彼女は自分が楽をするために新たなメイドを雇うよう画策したのだから、本人が仕事をしないのは当然だった。

 結果的にエレンは、いつも二人分の仕事をこなすことになる。それを主の母親や妻は見て見ぬ振りをし、エレンの重労働は果てしなく続いた。

 レイは自分が働かずとも何とかなることが分かってくると、次第にエレンに甘えるようになった。

 こうなると悪循環だ。エレンががんばらなければ、家族の生活はたちどころに息詰まる。結局エレンががんばり、それを見てレイは気を緩める。

 レイの周りには、同じように仕事を持たない仲間が大勢いた。そんな男連中は暇を持て余し、いつもつるんでいた。

 彼らは朝から集まり、賭けトランプをするのが日課になっていた。昼の暑い時間は散会し、屋内や日蔭で昼寝をする。そして夕方涼しくなる頃、再び集まり出す。夜に酒が入れば話は盛り上がり、宴会が終了するのは十一時を過ぎることも珍しくない。宴会テーブルは吊り下げられた裸電球に照らされ、騒いで楽しむ彼らのぎらついた目が、毎日闇夜に浮かび上がる。

 そのような光景が、町中の至るところに見られた。つまり町中の多くの男たちが、生活の糧を追わず惰性の日々を送っているということだ。それでも生活がなんとか成り立つのは、ほとんどが女性の頑張りによるものだった。

 しかし、レイは妻や子供たちに暴力を振るう悪い人間ではないし、家族をいたわる気持ちも持っていた。決して際立つ不良ではないのだ。家族を養うという点で、その責任を果たす能力は不足していても、普通の優しい夫や父親であった。

 他の家庭の働かない夫が札付きかと言えば、実はレイと同じように、みんな普通の男たちだった。そして家計を女性が支えている。よって、このような状態が一般的な家庭の姿と言えなくもないところに、フィリピンの抱える大きな問題があるのかもしれない。

 みんなが同じだから、レイは家族を上手く養えないことにあまり罪悪感を持っていなかった。レイやその仲間たちは、どうせ働く場所がないという言い訳を繰り返し、働かないのではなく働けないという理屈で、自分たちの生活態度を正当化していた。真剣に仕事を探せば、安い賃金の肉体労働はあったはずだ。しかし、長年そのような生活習慣が染み付いてしまうと、人は効率の良い儲け話でない限り、重い腰を上げる気になれなくなってしまうようだ。

 エレンの親戚たちは、よい縁談も夢ではなかった彼女の様子に、世間知らずが貧乏くじを引いたと言ったけれど、エレン本人はそのような中傷に耳を貸さなかった。彼女はいつも、愛する夫と子供が明るく元気でいることに感謝し、それだけで幸せを感じることのできる女性だった。彼女は、夫のレイが自分や子供に愛情を持って接してくれるなら、自分は家族のためにがんばれると思っていたのだ。

 そしてその思いの通りエレンは、アイリーンの下に五人の妹や弟ができるまで、寝食を忘れて働き続けた。常に小さな子供を抱えながらのことだから、その苦労は並大抵ではない。しかし生活がどうにかなったのは、安定したメイドの仕事があったからで、重労働の家事仕事は大変でも、エレンは働く場があるのは幸せな事だと思っていた。

 ところが十三年もメイドで働いた家は、主のビジネスの雲行きが怪しくなると、意図も簡単に解雇となった。例の主の妹が、自分の身を守るために画策した結果だった。

 エレンはすぐに自分をメイドで雇ってくれる家を探したけれど、その界隈で余裕のある家庭は元々珍しかった。仮にあっても、既に親族がメイドで入り込んでいて、足を棒にして大きな家を尋ねても、新しい奉公先を得ることはできなかった。小さな子供を抱える彼女に終日オフィスへ詰める仕事は無理であったし、そもそもそのような勤め口は皆無に近い。

 エレンが困り果てている頃、近所に一軒の家が建築された。その辺りでは珍しく周囲をフェンスで囲った大きな家で、家の主はまだ若い女性だと噂に聞こえた。

 エレンは早速、その家の扉を叩くことにした。悩んでいるだけでは何事も前に進まないことを、彼女は肌身で知っている。彼女はそれまで、そうやって子供たちを育ててきた。何事も諦めてしまえば、事態は硬直するばかりとなる。

 その家を訪ねてみると、応対に出たのは二十歳半ばの、勝気な印象を持つ女性だった。

「あなたがこの家のご主人ですか?」

 相手が怪訝そうに「そうよ」と言うのを確認し、彼女は言葉を繋げた。

「実はお宅で、メイドを雇うつもりがないかと思い訪ねたのですが」

 女主は意表をついたお願いに目を瞬かせ、口元を結び小さな唸り声を出した。

「ごめんなさい。うちにはたくさん若い女の子がいるから、メイドは間に合っているの。それにここは、メイドを雇うような大層な家でもないの」

 女主は玄関から家の中に目配せをする。エレンにも、家の中に数人の娘たちの姿が見えた。一人は、アイリーンと同じ年頃のようだった。

「そうですか、それでは仕方ないですね。夜分に済みませんでした」

 肩を落としたエレンの中に、疲労感が渦巻いた。これから子供たちを、どうやって食べさせていけばよいのか。背水の陣で臨んだことだけに、その落胆は大きかった。

 しかし、諦めて帰ろうとしたエレンの背中に、「待って」と声が掛かった。

「何か事情があるの? まあ、この辺は事情のある人だらけだけど、もし良ければ、働きたい理由を聞かせてくれないかしら」

 エレンにとって、思いがけない言葉だった。

「良ければ家の中に入ってくれない」

 リビングに通され、エレンがソファに腰を降ろすと、外から見えていた女の子が冷たいお茶を出してくれた。子供たちはダイニングの椅子に腰かけ、みんなでテレビを見ている。家具や家電製品の様子から、エレンにはその家の暮らしが、随分恵まれたものに映った。

「彼女は私の姪で、メリアンよ。他の子供たちもみんな兄の子供。私は独身で、子供は一人もいないの。それで、早速あなたの事情を聞いていいかしら」

 女主が気さくに問い掛ける。エレンは少し緊張しながら、正直に実情を語った。

「私には子供が六人います。下がまだ三歳と五歳で、上の子が学校に行く間は子供と一緒にいられる仕事を探しています。一番上の子は十四歳の女の子です。学費もかかるようになってきましたが、恥ずかしながら主人の稼ぎで賄うのは厳しくて、私が働かなければなりません。先日まであるお宅でメイドをしていたのですが、ご主人のビジネスが不調という理由で突然解雇されました。それで次の仕事を探しているんです。私は今、朝早く魚売りもしています。それと裁縫が得意なので、お子さんたちの服の修繕や新調もできます」

「ご主人は、何の仕事をしているのかしら?」

「以前はセブシティで大工をしていました。だからその手の技術を持っています。でも街で仕事がなくなり主人の親が残してくれた家に引っ越したのですが、ここでも仕事があるわけではありません。ここに越してきたのは、安全な生活環境を得るためだったんです」

「つまり、現在ご主人はほとんど仕事をしていない」

「ええ、そうです。でも、とても優しくていい人なんです。仕事さえあれば真面目に働く人です」

「まあ、思った通りにいかないというのはよくある話ね。自分の兄も似たようなものだから、話はよく分かるわよ。ちょっと待ってくれる? 私の一存では決められないの」

 彼女はその場で誰かに電話をした。エレンの事情を簡単に説明し、メイドを雇うことで相手の了承を得ようとしている。しばらくやり取りが交わされ、女主は礼を言って電話を切った。

 彼女は、それまでの気難しい顔を笑顔に変え、それをエレンに向けた。

「あなたにメイドをお願いをするわ。最初は様子見で働いてもらうけど、問題がなければずっといてくれて構わない。我が家もあなたと同じように、これだけ子供が揃っているの。一番上のメリアンが十二歳だから、あなたの年長の娘より二つ下ね。最近越してきたばかりだから、子供たちの友だちになってくれると嬉しいわ。私はセブシティにアパートを借りていて、この家を留守にすることも多いの。だから母親と甥や姪の面倒をみてくれると助かる。それに、動ける大人がいるとやっぱり安心だから」

 女主人は「正直言うと、あの子たちの父親、つまり私の兄はさっぱり当てにならないのよ」と付け足して笑った。

 こうしてエレンは、ようやく家族の食い扶持を見つけたのだ。エレンのあまりに落胆した様子で、女主の気が変わったのが幸いした。

 魚売りとメイドの仕事をこなしても、エレンが一日に得られる賃金は日本円にして五百円程度だった。そこから家族の食費と夫の酒代やタバコ代まで賄わなければならないため、エレンは裁縫の仕事も積極的に引き受けた。誰でも一着や二着は、お気に入りの大切な服を持っている。そのサイズ直しや修繕をし、一着あたり百円を稼いだ。中には一着につき二時間から三時間かかるものがある。時給に換算すると割の悪い仕事でも、彼女は仕事の選り好みをしなかった。割が悪くとも、零よりは良い。

 幸い新しくメイドに入った家は、幼い子供を抱える彼女に好意的だった。

 女主人は「サラリーが少ない分、あなたの家の食事もここでまかなっていいわよ」と言ってくれたし、それ以外にも子供たちのためにと、度々お菓子や米や肉などの食べ物を持たせてくれる。

 子供たちに貰うお菓子は、日本のチョコレートやイギリスのクッキーが含まれ、珍しいそれらはエレンの子供たちに好評だった。

 生活費が苦しい時には積極的に賃金を前払いしてくれ、女主人はいつも彼女の生活を考慮してくれる。エレンはその恩に報いようと、そこで懸命に誠実に働いた。

 生活費を切り詰める方策の一つとして、エレンは家の周辺の空き地を利用した家庭菜園もしていた。そこで、家族の食べるナス、キャベツ、ニンジン、大根、トマトなどの野菜を作ることができた。野菜の管理は主に子供たちの仕事で、夕食時には子供が畑に走りその日に食べる野菜を収穫した。その野菜は、メイドで世話になっている家にもよく運ばれた。

 土壌が肥えているフィリピンで、野菜の出来栄えは果物と同様に悪くなかった。この野菜に加え新しくメイドで働く家から持ち帰る惣菜で、アイリーンの家の食卓は以前より随分充実した。

 しかし、ようやく一息ついたように思えても、辛うじて命を繋ぐ生活であることに変わりない。このような生活は、まるで海岸の砂でこつこつと山を積み上げていくようなものなのだ。ようやく山が少し積み上がると、波がそれをさらってしまう。ほとんど平になったところに、また砂をかき集めて山を築く。大きな波が押し寄せると、窪みができることもある。窪んだらそこへ砂を入れ、平らにしてからまた山を積み上げる。いつ終わるか分らない作業を、根気よく続ける生活だ。

 しかしエレンは、元気で生きていけることに喜びを見出し、不平不満を言わずに淡々と日々をこなした。手を休めたら、たちまち六人の子供たちがお腹を空かせて騒ぎ出す。彼女は子供たちに、ひもじい想いだけはさせたくなかった。そして自分を幸せにしてくれる子供たちの笑顔を、ずっと見続けたいと心から願っていた。

 エレンは、子供たちの心の教育も大切に考えていた。そのため彼女は、毎日曜日、子供たちを連れて教会へ礼拝に行った。

 教会は彼女の家から、徒歩十五分。粗末な家や建物が居並ぶ中で、教会も同様に小さかった。

 年に数回は、セブシティの大教会に子供たちを伴って行った。セブの教会は、普段通うそれとは比べ物にならないほど大きく、荘厳な雰囲気を持っている。

 街中の二千坪程度の土地に、天に向かってそびえ立つバロック様式の歴史ある建物は、クリスチャンでなくても中に入るだけで神聖な気分に包み込まれる。

 内部の高い天井付近には贅沢なステンドグラスの窓が並び、そこを通して入る太陽の光が厳粛な空気を一層澄んだものにした。建物の中で粛々と進む儀式の中、神父の声が反響を伴い礼拝堂の中に響き渡る。誰もが真剣な祈りを捧げ、我も欲もない無の世界に入り込み、安らぎの境地に浸るのだ。

 神に祈る時、両手を組んで目を閉じているエレンの心の声は、家族が健康に生きていられることへの感謝を表していた。それだけが、エレンのかけがいのない全てなのだ。

 エレンは子供たちにも、寝る家があり、食べるものがあり、健康であることを神に感謝しなさいと言いきかせた。子供たちは毎日寝る前に、ベッドの上でそれを言わされる。最初は訳も分からず言わされているだけであっても、毎日繰り返せば、それが自分と同化し偽りのない感謝の気持ちに変わる。

 この感謝を通し、エレンは子供たちに、人間としての大切なことを学んでもらいたいと願った。こうして子供たちは、就寝前には自然に神に祈りを捧げるようになった。そして子供たちに、常に神は自分たちを見守っているという意識が染み付いた。アイリーンの身体にも、そうした教えが根付いている。

 自然に囲まれたバリリには、子供たちの遊ぶ場所がたくさんあった。そんな自然の遊び場に、兄妹揃って遊びに出掛けた。どこへ行くにも何をするにも、いつも一緒だった。

 長女のアイリーンは、次々と生まれた妹や弟の面倒を良く見た。どこかへ出掛ける時は、いつも彼女が小さいカミルやサリーの手を引いた。

 家の中でも、下の子の着替えやシャワーやご飯を食べさせることまで、普通は母親がすることをアイリーンが代わりに行った。そのことで彼女は、母親のエレンを助けようとしていたのだ。

 下の子の面倒を見るのは、アイリーンだけではない。四女のサリーがシャワールームから飛び出すと、三女のカミルがサリーの体にタオルをかけ次女のアニーが体を拭くために駆け寄ってくるという具合に、常に上の子が下の子の面倒をみるのが当たり前だった。

 弟はそうした手伝いをあまりしないけれど、一旦外にでると、外敵から妹や姉を守るのが彼らの役割だった。近所の悪ガキがカミルやサリーをいじめるものなら、二人の兄が体を張って妹を守った。相手が自分より一回り以上身体が大きくても、彼らは果敢に相手に挑む。長男のマックが一人で敵わなければ、次男のジミーが加勢した。二人がかりは卑怯だと言われようがそんなことは構わない。目的は姉妹を守ることで、それが達せられれば過程や手法はどうでも良い。家の中で、いつの間にかこうした兄妹の役割分担が自然とあった。

 アイリーンは、我儘の許されない、質素な生活環境の中で大人になった。

 もちろん彼女は、人並みの子供のように、裕福な家庭の子供が不自由なく暮らしている姿に羨望の念を抱くこともある。

 しかし彼女は、それを口に出して言うことはできなかった。それを言い出せば、両親を悲しい気持ちにさせることをアイリーンは知っていたからだ。

 エレンはそんなアイリーンのストレスを、しっかり受け止めていた。だから妹や弟が寝静まると、エレンは一番苦労の多いアイリーンに寄り添い、彼女の髪を優しく撫でて話してくれるのだ。

「ママはあなたたちに囲まれてとっても幸せ。あなたは一番にできた子供だから、ママはあなたにとても感謝している。だからママは、いつでも幸せを感じているの。感謝の気持ちは自分を幸せにできるものなのよ。人の幸せは比べるものじゃないの。それを人と比べたら、そのとき幸せは逃げてしまう。でも感謝の気持ちを持てば幸せになれる。あなたや私が幸せを感じることができれば、それが一番良いことなのよ」

 シャワーを終えたエレンから、いつも石鹸の香りが漂ってきた。その匂いに包まれて眠りにつくのが、アイリーンは好きだった。

 アイリーンは、この小さな幸せが、いつまでも続くと信じて疑わなかった。

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