第2話 出生

 アイリーンが育ったのは、フィリピンセブ島西側の、バリリという小さな町だった。セブ島中心地のセブシティから、島を左右に分断する山脈を横切るかたちで、車で約五十分走った所の海沿いにそれはある。

 その町の取り柄は、海や山や川などの色彩豊かな自然がふんだんにあり、静かで安全ということだった。町の一番の産業は、サンダルやスニーカーといった履物作りが細々と行われているくらいで、町全体が素朴な雰囲気を滲ませている。

 アイリーンの家庭は貧しかったけれど、近所の家庭はどれも似たりよったりだった。一家の主がまともな職を持っている方が、少ないくらいだったからだ。

 フィリピンの田舎ともなれば商業も産業も中途半端で、身を寄せ合いながら細々と暮らすのが関の山なのだ。

 みんな、どうやって生計を立てているのか分からないような暮らぶりだった。そんな環境の中でアイリーンの家は、子供が学校に通えるだけましな方と言えた。それは金銭的な背景もさることながら、子供には教育が重要という認識が十分浸透せず、学校など行っても行かなくとも同じという雰囲気が各家庭にあることも関係していた。


「お姉ちゃん、待って!」

 弟ジミーのすがるような声に、アイリーンは立ち止まって後ろを振り返った。十メートル後方に同じように後ろを振り向く妹のアニー、更に二十メートル後方に弟のジミーが続いている。

 彼女を取り囲む山林の中に蝉の声が響き、辺りは湿った土の匂いが立ち込めていた。空気中の水分気化が周囲の熱を奪い、木の葉を揺らす風が涼しい。その風は、アイリーンの長い黒髪も揺らしている。

 ジミーが二人の姉に追いつこうと、所々に小岩が突き出る荒れた道で小走りになった。

 アイリーンが慌てて言う。

「急がないで。ここで待っているから、足元をしっかり見て歩くのよ」

 アイリーンは景色を眺めることに夢中になり、弟が置き去りになっていることに気付かなかったのだ。日本なら小学校一年生のジミーは、まだ幼さの残る七歳の弟だ。大人に成りかけたアイリーンと彼では、基本的な歩幅が違う。

 ジミーを待っていたアニーが彼の手を引き、二人がようやくアイリーンに追いついた。

「ごめんなさい。置いていくつもりはなかったのよ。今度はゆっくり歩いて散歩を楽しむわね。転ばないように気を付けて」

 アイリーンはまるで母親のように、弟をいたわる。

「ほんとに置いて行かないでよ。ここで一人になったら怖いんだから」

 ジミーは顔をしかめて、少しむくれた調子だった。

「分かったから、そんなに怒らないで」

 三人は近所の滝壺まで、水遊びに出掛けた帰りだった。家を出る時に、アイリーンは弟のマックにも声を掛けたけれど、既に十歳になる彼は兄妹と一緒の水遊びなど興味がないようだった。アイリーンにはアニーやマック、ジミーの他、更に二人の妹がいる。

 その滝壺は、かつて弁当持参で家族一緒にピクニックを楽しんだ場所だ。それがアイリーン家族の、一番のレジャーだった。弁当はごはんとおかずを小鍋ごと持ち込む質素なものでも、子供たちはいつも水遊びを楽しんだ。

 そのイベントも、いつの間にか開催されなくなっている。子供たちが大きくなるに連れ、日々の生活に追われて忙しくなってきたからだ。

 その日アイリーンは妹や弟を誘い、久しぶりに滝壺のある泉に行ってみようと思い立った。彼女はその道の景色を眺めながら、家族で楽しんだ頃の思い出に浸っていた。


 その夜、アニーとジミーは遊び疲れで夕食後すぐに眠った。十時を過ぎた頃には、他の妹や弟も木材とベニヤ板で作った手作りベッドの上に隙間なく並び、まるで市場に横たわる大魚のように眠っている。

 父親はまだ帰宅せず、家の中で起きているのはアイリーンと母親エレンの二人だけとなった。

 そうなるとエレンはいつも、長女のアイリーンに自分の貴重な体験や人生観について語る。

 その日エレンはアイリーンに、初めて父親レイとの出会いについて聞かせた。


 アイリーンは、レイ二十六歳とエレン二十二歳の長女として生まれた。

 その後アイリーンの下に、次女のアニー、長男のマック、次男のジミー、三女のカミル、そして四女のサリーが次々と生まれ、アイリーンの下に五人の妹と弟ができたとき、彼女は十四歳になっていた。

 六人兄弟というのは珍しいことでもなく、その界隈では子沢山の家庭が普通だった。

 父レイと母エレンは、元々セブシティ育ちだった。セブは観光地として、海外にもその名が知られている。

 セブはフィリピンの中で、マニラ・ダバオに次ぐ大都市だ。しかしそこは、東京のような近代都市ではない。夜が少し更ければ途端に人や車の量が減り、高層ビルディングが雨後の筍のように突き出ているエリアもない。人口が多いため大規模モールはいくつかあるけれど、下町の風情を残すエリアの多いシティだ。

 もちろん例外なくスラム街もある。観光地であるためか治安が穏やかなセブにあっても、夜になると地元人さえ近寄らない危険な場所がいくつか存在する。

 母親のエレンが育った場所も、貧しい人たちが集まるスクオッターエリア(違法占拠地区)にあった。エリアにはスラム文化、すなわちアウトローの雰囲気が横たわり、エリア外の侵入者には恐喝や強盗といった災難が普通に降り掛かる場所だ。

 エレンはそんな所で、評判の美人娘だった。言い寄る男たちが、家の前に数メートルの行列を作ることも珍しくないほどだった。その行列がますます評判を呼び、住居エリア外の男性までが、彼女を一目見ようと駆けつける。

 小顔の中に、長いまつ毛を持つアーモンド型の大きな目と筋の通った鼻。シャープな顎の線に囲まれた形の良いふっくらとした唇の右横には、彼女の魅力を引き立てる小さな黒子がある。そんな口元に笑みが宿ると、弓なりになる優しい目と相まって、彼女の美しさが一層際立つ。他人を突き放つ冷徹な美人というより、人を包み込む優しさを伺わせる美しさだ。

 彼女のそんな笑みに、その辺の男たちは簡単に彼女の虜になった。そしてエレンを口説こうと、男たちは彼女の家に駆けつける。

 フィリピンで、そのような光景は珍しくなかった。働くことに消極的なフィリピン人男性は、こと恋愛に関して、手間を惜しまず積極的になるのが普通だった。

 南国の民族らしく、そこには情熱的で熱しやすく冷めやすい男性が多い。日頃から楽しみが少なく自由になるお金も少ないとくれば、若い男が夢中になるのは女性のことに偏る。しかも根が単純で、多くの男が自分を積極的にアピールする。

 心根の優しいエレンは、そんな男性たちにどう対処すべきかいつも戸惑ったけれど、言いよる男たちを追い払う役目は母親が引き受けた。

「うちの子は忙しいんだ。いくら待っても無駄だよ。あの子は絶対に出てきやしないから、ほら、もう諦めて帰った帰った」

 母親は害虫を追い払うように、娘に言い寄る男たちを険しい顔で蹴散らした。その態度には、ドル箱の娘に変な虫が付いては困るという思惑がありありと透けて見えた。

「エレン、あんな男たちを自分に近付けたら駄目よ。見てごらん、みんなだらしない恰好をして、お金が無いって一目で分かる。あんな男とくっついたら、あんたは一生苦労するんだからね。あんたはもっと幸せになれる。最初から神様が味方してるんだから」

 母親は前を向いて男たちを蹴散らし、後ろ向いてエレンにそう言い聞かせた。母親の言う神様が味方しているというのは、もちろんエレンに備わった美貌のことだ。

 そんなふうに母親に言われるとエレンは戸惑うけれど、恋を知らない彼女は曖昧に頷くしかない。

 フィリピンの貧しい下層階級家庭が中流や上流に這い上がるには、娘をお金持ちと結婚させるのが手っ取り早い。だからエレンは両親の厳しい監視下で、箱入り同然に育てられていた。

 そんなエレンの身の上に、ある日不意をつく事件が起こった。エレンが久しぶりに親友と外食し、つい帰宅が夜遅くなった日のことだった。

 普段帰宅が遅くなることのない彼女も、その日は友人の誘いに乗り油断をしてしまった。

 ふと、時間が十時に差し掛かっていることに気付いたエレンが言った。

「もうこんな時間。きっとママに叱られるわ。もう帰らなくちゃ」

 レストランの中は十分ざわついて、まだ宵の口という雰囲気を残している。

「そう、残念ね。どうやって帰る? ジプニーでもこの時間は問題ないと思うけど、心配ならタクシー代を貸すわよ」

「ありがとう。でも大丈夫。帰りはジプニーを使うわ。私は取られる物を何も持っていないもの」エレンは両手を広げて、あどけなく笑った。

 乗り合いバスのジプニーは、深夜になると車内で強盗に出くわす危険を伴う。狙われるのは財布や携帯、女性の身に着けるアクセサリーだ。

 エレンが予想した通り、ジプニーでは何事もなかった。彼女は自宅近くの大通りで降車し、歩いてクエンコエリアの小さな路地に入った。彼女は高を括り父親に連絡せず、薄暗い路地を一人で自宅へ戻ろうとしたのだ。

 道には街灯など気の利いたものはない。周囲は窓のない家ばかりで、屋内から漏れ出る灯りもない。月明かりだけが頼りとなる暗い道だ。慣れない人なら不気味な余り、男性でさえ一人歩きを躊躇う場所だ。

 しかし彼女は、地元の人間は安全だと信じていた。実際に地元の人間は、同じ居住区の人間に手を出さない。もし近隣で悪さを働けば、大勢の住人から袋叩きに遭いエリアを追放されるからだ。

 迷路のような小道を進んでいると、彼女は前方に不穏な気配を感じた。しかしその期に及んでさえ彼女は、この居住区に住む自分は安全だと思い込んでいた。

 その気配は、男性四人の酔っ払いだった。大声で話をしながら千鳥足で歩く姿に、彼らが泥酔していることは一目瞭然だ。エレンが彼らをやり過ごすつもりでいると、二人が彼女の行く手を塞いだ。不意を突かれて驚く彼女の後ろへ、あとの二人がさっと回り込む。狭い道を塞ぐのは、大人二人で十分だった。

「おい、いい女が一人でこんな時間にどこ行くの? 俺たちと少し遊んでいこうよ」

 呂律の回らないふざけた口調だ。一人がそう言うと、残りの三人は奇声を上げ下品な笑いを飛ばした。

「家に帰るところなの、そこを通して」

 エレンは精一杯意地を張った。本当は怖くて仕方ない。

「いいじゃねえか、そんなに気取らなくても。夜は長いんだ。慌てて帰ることはねえよ」

 男たちは酔った勢いで、居住区に存在する暗黙のルールをすっかり無視している。

「お願いだから通して。どいてくれないと、大声を出すわよ」

「いいよ、出しても。どうせ誰も出てこないから。ここは夜中の騒ぎなんて、誰も気にしないだろ」

 エレンが詰め寄る男たちを割って通ろうとすると、脇の男が彼女の腕を掴んだ。そしてすぐに、別の男が後ろから彼女に抱き付いた。

 そうなると声は全く出なかった。彼女はまとわりつく男たちを必死に振りほどこうとしたけれど、非力な女性が男性四人に敵うはずもない。

 気付くとエレンの足は地面を離れ、四人の男に担がれていた。彼らは奇声を上げながら、エレンをどこかへ連れ込もうとしていた。エレンは助けを呼ぼうとしたけれど、誰かの手で口を塞がれている。手足の自由も奪われていた。

 恐怖が頂点に達したとき、後方から男性の声が暗闇を割くように響いた。

「おい、何をしているんだ」

 偶然通りかかった男性が、騒ぎに気付き走り寄って来たのだ。そして複数の男性が女性を襲っていることを知ると、男は酔っぱらいに飛び掛かった。不意をつかれた酔っぱらいはよろめき、エレンを地面に落とす。男は酔っ払いを睨み牽制しながら、彼女の手を取りすくい上げた。そして彼女を自分の後ろにかばい、四人組と対峙した。

「なんだよてめえは。邪魔すんじゃねえ。友だちを返してくれよ」

「君はこの人たちの友だちなのか?」

 強張った顔を左右に振るエレンの様子が、前方を見据える男の視界に入る。男はそれを確認し、更に酔っ払いを睨み付けた。

「友だちになったばかりだから、まだよく分かってねえんだよ」

 酔っぱらいの一人が詰め寄り、男の胸倉をつかんだ瞬間、突然うめき声をあげて地面にうずくまった。男の膝蹴りが、酔っぱらいの鳩尾みぞおちに決まったのだ。他の三人が怯んだ隙に、男はもう一人にも先制の蹴りを食らわし、それが脇腹にくい込んだ。瞬間、その男も地面にひれ伏す。残りの二人がやられた仲間を担ぎ起こす隙に、男はエレンの手を取り走り出した。

 四人組は怒鳴りながら二人を追い掛けたけれど、一分も走るとすぐに諦めた。もともと酔った勢いで悪さを働こうとしただけなのだ。泥酔する彼らが、逃げる二人に追いつけるはずもなかった。

 彼らから見えないところまで走った二人は路地に身を隠し、男は今来た道に四人組の影がないことを確認する。

「大丈夫? 怪我はない?」息を切らししゃがみ込むエレンに、男は腰を落としていたわるように尋ねた。

 灯りのない路地裏で、男はエレンの顔色を正確に読み取ることはできないけれど、彼女の気が動転しているのは確かだった。彼女は男の問いに数回頷くだけで、うまく声を出せなかったからだ。

 彼は周囲の気配に注意を払いながら、エレンが落ち着くのを静かに待った。

「どう? 少しは落ち着いた? このエリアで夜の一人歩きは危険だよ」

「ありがとう、これから気を付ける。本当に怖かった」

 エレンは、まだ息を切らしている。

「君の家まで送っていくよ。あの連中がまだその辺にいるかもしれない」

「ごめんなさい。お願いします」

 エレンは暗闇の中で、よく顔の見えない男にすがるように言った。

 二人は不気味な夜道を、静かに連れ立って歩いた。コンクリートと靴の擦れる音が辺りによく響くほど、道は閑散としている。酔っ払いを避けて少し遠回りし、無言でゆっくり歩いた。人の気配があると、さっきの酔っ払いではないかと二人の中に緊張が走る。ときどき月が雲の合間から顔を覗かせ、男の横顔が見えた。ウエーブの入った長髪に、高い鼻を持つ若者だ。

 家の前に到着すると、エレンが言った。

「今日は本当にありがとうございました。気が動転してあなたの名前と連絡先を聞いていなかったわ。教えて頂けませんか? 後できちんとお礼をしたいの」

「お礼なんて要らないよ。僕はレイ。クエンコで大工をしている。君の家を直す時には連絡してくれ。これも縁だからディスカウントする」


 エレンはそんな出来事を懐かしむように、遠い彼方を見つめる目をしてアイリーンに語り聞かせた。他の子供たちは、幸せそうな寝息を立てている。

「すごく怖かったのよ。でもね、パパと二人で歩いた夜道が、まるで二人だけの世界に迷い込んだみたいでとてもロマンティックだった。月明かりだけが頼りの道なのに、とても安心できたの。ただ、そんなときに営業なんてしなくてもいいのにね」

 そう言って、エレンはくすりと笑う。

「でもね、ママはそのとき、生まれて初めて男性に興味を持ったの。だってパパは、余計なことを何一つ話さなかったから。他の男性は訊いてもないことをいつまでも話すのよ。だからパパが、他の人と何かが違うと思ったの」

「それでどうなったの? おばあちゃんはパパのことを嫌いでしょう? それなのにどうして二人は結婚したの?」

 少し前まで睡魔の到来を感じていたアイリーンの目は、興味深い話のせいで冴えた。

「そうねえ、それからが大変よ。おばあちゃんは私を違う人と結婚させたかったから。でもね、私はそれがいいのかずっと分からなかった。お金持ちの人に何人も会わされたわ。みんな身なりがよくて言葉も丁寧だった。でもね、私はみんなの目がどうしても好きになれなかったの。話をするときの目よ。誠意や真剣さを感じさせない浅はかな目。それに時々、人を見下す感じがあった。何がどうかは分からないの。直感みたいなもの。だから相手を心から信用できなかった。でもパパは違うの。いつも一緒にいて安心できた。彼は正直で嘘を言わないから。そういうのはね、目を見たら分かるものなよの」

 彼女は、アイリーンに続きを語った。

 エレンは事件の翌夕、お礼を言うためレイの家を訪れた。

 彼女は近所の人に尋ねながら家と家の隙間を縫うように通り、迷路のような細い道の奥に彼の家を見つけた。その界隈では標準的な、小さく古い家だ。

 玄関脇の窓から声を掛けると、ドアを開けたレイはエレンを見て驚いた。

「あれ、昨夜の人? もう落ち着いた?」

 部屋の中に、彼の仕事仲間が集まっている。彼らは珍しい女性の来客に、一斉に視線を奪われた。

「ええ、おかげ様で。昨夜はありがとうございました。今日はお礼に、自分が料理したものを持ってきたんです。良かったら食べて欲しいと思って」

 彼女はレイの夕飯用に持参したアドボとシネガンスープを差し出す。

「そんな気を使わなくてもいいのに……」

 恐縮と照れでレイが上手にお礼を言えない中、仕事仲間の一人が「あれ? あんた、エレンさんじゃないの?」と叫んだ。

 エレンがそうだと答えると、仕事仲間がどやどやと玄関前に集まる。

 レイは豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした。

「ほら、あの美人で有名な……」

「ああ、どうりで綺麗な人だと思った」

 有名人の思いがけない来訪に、その場が盛り上がる。

「いやあ、これは噂以上だ。ところでどうしてレイのところに?」

 仲間内でも一番図々しいノエルが、ずけずけと彼女に訊いた。レイが昨夜の出来事をかいつまんで説明すると、別の男が言う。

「それはよかった」

 エレンが「本当に」と言うと、ノエルが言った。

「いやいや、あんたも良かったけどさ、酔っ払いも命拾いをしたんだ。だってエレンさんに乱暴を働いたとあっちゃ、その男たちはみんなに八つ裂きにされて、今日は間違いなく港で水死体だ」

 他の男たちも、口ぐちにその通りだと言い合って笑った。みんな職人らしく、がさつでありながら気のいい人たちだった。

 それをきっかけに、エレンは手作り料理を持って度々レイの家へ通うようになった。

 彼女はすぐに大工仲間と懇意になり、そこに華やかさを添えた。そしてレイとエレンは、周囲から恋人同士として認知されるようになる。

 多くの男を袖にしてきたエレンが自分に心を開いてくれたことは、レイを有頂天にさせた。

 エレンは、自分の美貌を鼻にかけることなく、礼儀をわきまえた気持ちの優しい女性だった。お金のないレイに我儘一つ言わず寄り添い、一緒に語り合うだけで幸せな顔をしてくれる。レイがそんな彼女に真剣な愛を抱くまで、時間はかからなかった。

 レイは自慢の恋人を、いつでも大切に扱った。そんな彼に、エレンも深く心を寄せる。

 しかしエレンの両親は、彼女がレイと付き合うことを、もちろん快く思わない。特にエレンの母親は眉間に皺を寄せ、レイに露骨にその感情をぶつけた。

「うちの娘はあんたのような人間と付き合う子じゃないんだよ。いい縁談だってあるんだから、さっさと諦めておくれ」

 そんな時、エレンは沈んだ顔で母親に抗議する。

「ママ、何てことを言うの。彼は優しくていい人よ。それに私の恩人なの。それはママもよく知っている筈よ。お願いだから、私の愛する人をそんなふうに言わないで」

 そんなエレンを押し退けて、レイは丁寧に言うのだ。

「彼女が自分にもったいないことは分かります。しかし僕らは愛し合っています。彼女をとても大切に思っています。どうか二人のことを認めてもらいたい」

 母親の悪態がレイに向けられる度に、エレンは心を痛めた。悪態をつかれるレイ本人よりも、エレンの方がそのことを憂いていた。

 レイは「そのうち分かってくれる」と言ってくれるけれど、二人が付き合い始めて一年経っても、母親の態度は一向に変わらない。

 エレンはレイの慰めの言葉に、自責の念を大きくした。いつも母親の言葉を堪え忍んでいるレイに、申し訳ない気持ちが積み重なる。

 そして二人は相談し、駆け落ち同然で結婚してしまったのだ。エレンが二十一歳、二人が付き合い始めて一年半が経過した頃だった。

 二人をそこまで後押ししたのは、エレンの中に宿ったレイの子供だった。


「こうしてあなたが生まれることになったのよ。あなたが私の身体に宿ったとき、ママはとても幸せだったわ」

 エレンは自分のお腹に掌をそっと添えて、アイリーンに言った。

「パパとママ、思い切ったことをしたのね。今の二人からは想像できないわ」

 そう言うアイリーンの顔は、好奇心に満ちている。

「そうね、二人はまだ若かったから。でもママに後悔はないわよ。ママはあなたたちを授かって、心から幸せだもの」

「私もママの子供に生まれて幸せよ」

「ありがとう、アイリーン。人の幸せは比べるものじゃないの。あなたや私がそう思うことができれば、それが一番良いことなのよ。さあ、そろそろあなたも寝なさい、明日も学校だから」

「分った。二人の話をありがとう。おやすみなさい」

 アイリーンが寝付くまで、エレンはいつも傍らで、彼女の髪を優しく撫で続ける。年長でいつも下の子を面倒見るアイリーンに、エレンは深く感謝し愛しく思っていた。柔らかく髪を撫でるその手には、エレンのアイリーンに対する、そんな深い愛情が込められていた。


 レイとエレンはそれまでの生活を、決して順風満帆に維持してきたわけではない。エレンにはそれからが苦労の連続だった。

 しかし、アイリーンに言った後悔はないという言葉に嘘はなかった。エレンはその生活から幸せを感じ、それを大切に守ってきたのだ。

 エレンの美貌でいくらでも条件の良い縁談が可能と思っていた彼女の両親は、突然の二人の結婚で当てが外れた。両親は、娘がどこかの金持ちと結婚してくれたら、自分たちの生活は安泰だと皮算用していたのだ。エレンならばそれが可能だと信じていた。母親は目論んでいた金の成る木をするりと奪ったレイを、どうしても許せなかった。

 結婚して子供ができれば両親は折れると踏んでいたレイとエレンの思惑もまた、見事に外れた。彼女の両親は娘を奪ったレイを、決して受け入れなかったのだ。そしてエレンは、そんな両親から疎遠になった。

 大工をしていたレイは、生まれてくる子供のために、日頃から仕事に精を出した。ときには現場を掛け持ちし、とにかく仕事に空きが出ないように心がけた。それは自分たちの結婚を、エレンの両親に認めて欲しい気持ちも手伝ってのことだった。出産費用を念頭に、レイは決して仕事の手を緩めなかった。

 エレンも、懸命に働くレイを家庭で支えた。エレンの体内に宿る赤ん坊の成長を喜び、お互いに相手をいたわる生活は、二人にとって幸せな時間だった。

 こうしてエレンは、六月十二日、セントルイス病院で無事女の子を出産する。約百年前のその日は、フィリピンが長いスペイン統治から解放されたフィリピンの独立記念日だった。

 記念すべき日に生まれた女の子は、アイリーンと名付けられた。

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