プールサイド、きらきら

月波結

プールサイド、きらきら

 いまは遠い高校時代の話だ。


 五・六時間目が続けて体育の時間なんてどうかしてる。

 運動会シーズンならまだしも、よりによってプールの授業だ。

 わたしは朝から南極でガタガタと震えているような、そんな気持ちだった。

「加奈ー、どうしたん?」

 美音ちゃんは一時間目の古典を終えてなお、辞書も片さず席に収まっているわたしの所に迎えに来た。彼女はわたしと違っていつも堂々としている。そう、肝が座っている、というやつだ。……そしてわたしはネズミの心臓だ。

「あのね、わたし今日ね……」

「『女子の日』?」

「……うん」

 美音ちゃんは心からわたしに同情をしているという顔で目を伏せた。まつ毛が、影を落とす。

「それはやだよね」

「うん」

「男子から休んでるの見え見えだもんなァ。あれさ、セクハラじゃない?」

「そ、そうかも」

「ぜーったいそうだよ。あの露出の多い競泳用水着もそうだって」

 確かに。確かにわたしたちはその頃、男女問わず競泳用水着を憎んでいた。ハイレグで背中の空きが異常に広い女子、いわゆるブーメランパンツの男子。

 男子も女子も、どちらもプールサイドにいる自分たちの姿を、向かいの異性に見られたくなかった。

 セクハラ、確かにそうかも。

 仕方なくその日は痛むお腹と腰を庇うように鬱々と過ごし、とうとうお昼休みを迎えてしまった。


 わたしたちのクラスは理系クラスで十二人しか女子がいなかった。それでも勢力は男子より強く、教室の真ん中に毎日、十二個の机を並べてお弁当を食べた。

「わたしさぁ、今日、『女子の日』なんだけど、誰かほかに休むひといる?」

「あ、わたしも」

「加奈ァ、よかった。ひとりだったらどうしようかと思った」

「プールの向こう岸にいる男子に『わたしは生理です』って言ってるようなものだもんね」

「きっと男子はさァ、風邪で休んだって生理だと思ってるよ」

 お弁当をつまみながら、わたしたちのボルテージはどんどん上がっていった。みんながみんな、頭に血が上ってきた。そうして乃亜ちゃんが爆発した。

「大体さ、補習ってなに? プールの補習が必須ってなによ」

「補習、やだよね。放課後だから水も冷たいし、なんでやらなくちゃいけないんだろう? 生理なんだから仕方ないじゃん」

「そうだよ、生理で休んで恥ずかしい思いしてさ、その後補習で『生理だったんです』って顔に書かれてるみたいにして泳がされるんだよ? ほんと、信じられない」

 うちの学校ではプールの授業を休むと、別の日に必ず補習を受けなければならなかった。簡単に言えば、その年に必修の泳法、たとえば一年生なら背泳ぎで何本か泳げばいいだけだった。でもそれはどう考えても、男子のそれとは意味が違う気がした。

 みんなの気持ちはシンクロした。

 そうだ、女子だけがペナルティのようなものを背負わされるのは間違ってる。

「うん」、誰もなにも言わなかったけれど気持ちはひとつだった。


「でもさ」

 美音ちゃんが少し大きめの声を出して、みんなの注目を引く。彼女の黒目は最初、少し上の方を見て、それから覚悟を決めたかのようにみんなに向き直った。

 みんなは耳をそば立たせて彼女の言葉を待った。

「でもさ、わたしも聞いたんだけどさ」

 美音ちゃんの言葉はいつもわたしたちを先導する。どうしたらいいのかわからない時、彼女が「大丈夫、大丈夫」と言えば大丈夫になってしまうくらいに。

「あのね、男子にも『男子の日』、みたいなのあるらしいよ」


 聞いたことがあっただろうか――?


「なんかさ、男子にも大変な日があってさ、その時はわたしも聞いただけだけど、なんか本当に大変なんだって。『女子の日』と同じくらい? とにかくもう大変なんだって」


 へ、へえ……?


「知らなかった」

「男子にもあるんだ」

「それってプールとは関係ないけど『ある』ってことだよね? 男子、ほとんど休まないもんね」

「まあ、きっとたぶん、そうなんじゃないの? わたしも聞いただけだからさァ」


 お弁当の中の、赤いタコさんウインナーを口に入れて想像してみる。とにかく大変な『男子の日』。保健体育で生理の仕組みは小中高とやったけど、『男子の日』について勉強したことはなかった。

『男子の日』……。

 大変ってどんなことなんだろう? それって、山崎くんにも木下くんにも当たり前に来るってことなんだよね? みんないつも普通の顔してるのに、そんなに耐え難い日があったなんて。

「なにが大変なんだろうねぇ?」

「女子よりってとこが余計わかんない」

「なんか、やらしくなーい?」

 誰かがケタケタ笑って、みんなも口元を押えてクスクス笑った。決してお上品だったわけではない。みんなお弁当が口の中に入っていたのだ。


 プールの前の昼休みはみんな支度で忙しい。なんだかんだ言っても真面目なんだ。言葉少なに水着に着替える。

「この前、B組で水着盗まれたってよ」

「嘘だァ!? 隣のクラスじゃん」

「まだ戻ってこないんだって」

 そんなの持って帰ってなににするのさ、と早口に誰かが喋る。競泳水着姿の女子、十人はプールサイドに集まる。真希ちゃんとわたしは半袖の体操服の下に青いジャージを履いて、プールのフェンスに寄りかかるようにして座った。

 先生が今日の説明をして号令をかける。この夏のうちに背泳ぎを二十五メートル泳げるようにならないと、その時も休んだ時と同じく補習を受けなければいけない。

 こんなところで座ってるわけにはいかないのに。わたしの背泳ぎはまだ完成していない。泳ぎ始めるとブクブクと沈んでいく。どうして一年生が背泳ぎなんだろう? 普通、クロールじゃないのかな?

「ねぇ、加奈」

「なに?」

 あのさ、と真希ちゃんはうつむきがちに小さくそう言った。しばらく、わたしは彼女の言葉の続きを待った。

「さっきの美音ちゃんの話、本当かな?」

「え? わかんないよ。わたし、兄弟もいないし、美音ちゃんが言うんだから本当なんじゃないの?」

 美音ちゃんにも兄弟、いないよね、と真希ちゃんは続けた。なんだか胸がもやもやした。美音ちゃんが知らない男子の秘密を真希ちゃんは知ってるのだろうか? 真希ちゃんには弟が――いる。

「本当だとしたらさ、ほら」

 真希ちゃんがそっと指さしたのはプールの向こう側、わたしたちと対称的な位置。そこには石巻くんが座っていた。

「石巻くん、もしかしたら、そういうこと?」

「え? プールに関係ないって言ってたじゃん」

「そうだっけ? あー、でも石巻、よく休んでるよね。あいつ、補習イヤじゃないのかな?」

「……美音ちゃんに聞いたんだけど、石巻くん、泳げないんだって。だからこの前のプールの時間、一時間、どこかに隠れてたって聞いたよ」

「マジで?」

「たぶん」

 プールサイドはお決まりの水色で、濡れても滑らないように表面がザラザラしていた。焼けるような日差しが否応なくわたしたちに降り注いで、直にコンクリートの上にあるお尻も足の裏もじりじりと焼けてしまいそうだった。


 暑い。


 いつもは入りたくないなぁと渋るプールの水が、みんなの手足の動きと共に飛沫を飛ばす。水面が、捉えきれない曲線を描いて跳躍する。光は乱反射してキラキラと不規則な動きで輝く。


「プール涼しそう」


 真希ちゃんがぽつりと呟いた。

 そう、だからカルキ臭くたってプールを完全に嫌うことはできないんだ。

 足先からそっと、目の前のちょっとぬるい水に入る想像をする。

 フェンス裏の桜の木の幹にアブラゼミが止まった。なぜわかったのか? 前置きもなくすごい音量で鳴き始めたから。

 ジー……。

 じっと動かない桜の木が色濃く影を落とす。

 ああ、そうだ。

 こうやって夏は少しずつ少しずつ、日が傾いて行き過ぎていくんだよなぁ。

 補習、涼しくなる前に済めばいいけど。

 とりあえずズキズキするお腹を庇うように丸くなって、岩盤浴のようにコンクリートで温まる。

 夏が、減っていく。


 二〇二〇年夏。

 そんなわたしも結婚をしてかわいい子供も授かった。夫は子供をかわいがりまくり、仕事から早く帰ると自分の人差し指を息子の手のひらに握らせた。今年の夏は暑くて、息子の白い首の後ろにあせもが出来始めている。

 そうだ、この子は男の子だ。

 あの日以来、あの話を聞いたことは無かったけど、いまなら冗談めかして話せるかもしれない。夫とわたしは気が置けない仲だ。

「あのね」

「どうした? 今日も小さくてかわいいなぁ」

「ちょっと聞きたいんだけどさぁ」

 わたしが声を潜めたので、夫はわたしを真正面に捉えた。なにを言われるんだろう、と緊張した顔をしている。

「『女子の日』ってあるでしょ? 高校の時に話題になったんだけどね」

「うん」

「あのー」

 決意が鈍る。決意するほどのことでもないのに。なぜかちょっと恥ずかしい。

「なんか、友だちが男子にも『男子の日』があるんだって言い出して。それが『女子の日』よりとにかく大変な日だって言ってたんだけど……あるの?」

 夫はいまにも笑い出しそうに目尻を下げた。ああ、ほらやっぱりこんなこと、言うんじゃなかった。アラサーにもなって都市伝説に惑わされるなんて。

 大体、いまさら夫のことで知らないことなんてほとんどないだろう。

「それってどんな日?」

「だからわかんないんだって。生理みたいなの、あのー、ないよね?」

 とうとう夫は吹き出した。ひとしきり笑った後、水を一口飲んで、続きを話した。

「ないよ、ない。それ誰に聞いたの?」

「え、高校の友だちの美音ちゃん。披露宴でスピーチしてくれた」

 ああ、顔は覚えてる、と彼は言った。

「生理みたいなの、ないよ。そんな大変な思いして子供を産むのは女の人でしょう? ありがとう、大変な思いしてこの子を産んでくれて」


 そこは確かにじーんと来るシーンだった。でもその一方、もうひとりのわたしはぶつぶつ呟いていた。


 ――ほら、『男子の日』なんてないんじゃん。


(了)

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